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「なあ、あかねちゃん」
 学校からの帰り道、『お好み焼き うっちゃん』へ向かう途中、右京が口を開いた。それまで二人ともずっと無言で、あたしはちらほらと見え始めた、小さな草花――フキ、ノゲシ、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ナズナにハコベ、ノボロギクにカラスノエンドウ――を見つけては、もうすぐ春がくるのだなあ、と可憐な姿を探していた。
「今日は、やめとこか?」
 振り返ると右京は、俯いて足を止めていた。「今日は…店が忙しくなんねん。団体さんの予約が入ってな。聞いたこともない、どっかちっさな会社らしくてな、新年度会なんやって。そない大きなトコやないみたいやけど、これを期に毎度行事毎に、なにかとうちの店、つこてもらえるようなったらええなあ、思うねん。常連のお客さんは今でもおるし、まあまあやっとるけど、ここらで大口の客、掴んどきたいとこやったし、ちょうどええタイミングできはったから…。今日は店に専念したい」
「そうなの。よかったわね、右京」
 商売の話となると途端、目の色がさっと変わり、それまでいかに、顔を寄せ合い肌を重ねあちこちをまさぐり合って、濃密な空気にむせび酔っていたとしても――ぱちんと指が鳴らされ、暗示が解けたように――商売人の顔に戻る右京。そういう右京の性質を知り抜いている小夏さんは、始めの頃、睦み合っているさなか、時折故意に部屋をノックした。「右京さま、お取り込みのところ失礼します。ご予約の件、メニュー等について相談したいとの、お客様からのお電話で。私にはわかりかねる内容ですので、代わっていただけますか」
 それだから、右京とあたしとを引き離したいのかと思えば、あたしが帰途に着こうというとき、小夏さんは笑顔であたしを見送る。「あかねさまがお越しになると右京様、いつもとてもお幸せそうなお顔をされるんです。今日は野暮を入れてしまいましたけれど、お許しください」
 野暮って。右京を慕う小夏さんは、どういう心境で、どういう意味でその言葉を使ったのだろう。じっと小夏さんを見るだけのあたしに、小夏さんは「あっ」と何かを思い出したように、手を打った。「そういえば、マフラーのプレゼント、ありがとうございました。とてもハイカラな柄で、私にはもったいないような…」小夏さんがはにかむ。「とても嬉しかったです。大切にしますね」
「え?右京が小夏さんにプレゼントしたマフラーのこと?」
 小夏さんが少し不思議そうな顔をする。「ええ。右京さまがお渡しくださいましたけど、右京さまとあかねさま、お二人で私にプレゼントしてくださったのでしょう?右京さまがそう言ってましたけど」
 なるほど、と思う。さすがお人好しの右京。あたしはただ、お釣り銭が細かくならないよう、小銭を出しただけなのに。たったそれだけで、あたしと右京。二人連盟のプレゼントということにしてくれたのか。あたしはただ、罪悪感からたった数百円の小銭を出した、ただそれだけだったのに。右京を利用して欲しい指輪を手に入れた、結局のところ、そんな狡い真似をしたことになってしまったのではないかと。
「違うわ。それは右京が、小夏さんが喜んでくれたらって、小夏さんのためだけに選んで、右京一人で買ったものよ」
 小夏さんを喜ばせようと口をついて出た言葉のうち、偽りがあったと、言葉にしてしまったあとに気がついた。右京が、小夏さんのためだけに。違う。最初は乱馬のためだった。そうだ。右京だってたいがい、酷い。自分を慕ってくれる男に、その好意を嘲笑うかのように、好きだった男への恋心、その残骸、燃えかすのようなものを押しつけて、それをプレゼントだと、ありがたく受け取れ、と。そういう風に考えることだって出来る。あたしが右京にしていることと、どう違う?
 小夏さんが怪訝な面持ちになり、「マフラーを選んでくださるとき、あかねさまも右京さまとご一緒にいらしたんでしょう?」
「ええ、それはまあ…」
「よくわかりませんが、でも、こんな私へのプレゼントを選んでくださった、そのお気持ちだけでも、とても嬉しいです。ありがとうございます」小夏さんがぺこりと頭を下げる。こんなに素直に右京を恋い慕う、純粋な小夏さんを、右京とグルになって騙しているようで、初めて小夏さんに申し訳なく感じた。小夏さんのいる部屋のすぐ隣で、これまで幾度も右京とおっぱいを吸い合ったことはあったのだけれど。
「あかねさまのご都合がよろしければ、また明日もお立ち寄りくださいね」
 その言葉を受けて、どんな表情をすべきだろう、と戸惑う必要を感じる間もなく、小夏さんがにこっと笑うので、あたしもへらっと笑い返す。そうすると右京がぱたぱたと店の奥から出てきて「毎度慌ただしくて堪忍ね。あかねちゃん、気ぃつけて帰り。最近なんや物騒やから。うちが送ってったげたいとこやけど、店うっちゃるわけにはいかんねん。小夏、あかねちゃんちまで送ってったってや」と言うから、いつも丁重にお断りをして店を後にする。少し長い、さよならの挨拶パターン例、その一。
 右京はそれだから、店のこととなれば、すっと立ち戻ってケジメをつける。放課後の予習復習がルーティンとなってから時折、団体さんが入ったとか商店街の振興組合の会合だとか、今日のようにお勉強会を中止することがあった。
 俯いたままの右京を、下から覗き込む。怯えるように視線をこちらに向けると、右京はすぐに視線を外した。「ほんまのとこ、学校終わてようやくあかねちゃんと二人きりなれる時間、奪われると、あかねちゃん禁断症状出て、うち毎回、あかんことになんねん」
 無理にひねり出したように笑ってみせる右京は、覗き込んでいたあたしを見ようとはしなかった。
「…そーいうこと言うの、初めてね」
「えっ?」右京が振り返る。
「右京が商売とあたしを天秤にかけるようなこと言うの。初めてな気がするわ」
 右京は一瞬ひるんだように下唇を噛んだ。そしてにっこりと笑う。
「あかねちゃんが、そない可愛いこと言ってくれるんも、初めてやね」右京の手があたしの頬に触れる。右京の細い指は冷たい。「天秤てそれ、嫉妬してくれとるん?」
 そやろ?と囁く右京の吐息があたしの唇をかすめる。そしてゆっくりと重なる。柔らかく。リップを塗ったばかりのせいで、まるで名残惜しいとでも言うように、勝手にあたしの唇の皮が離れ際、少しだけ右京の唇を後追いする。
 しっとりとした両手であたしの頬を包み込む右京。ふわっと柔らかく。「あかねちゃんはほんま、かわええな」
 そう言う右京の瞳に、情欲の色は見られなかった。春の訪れを知らせる小さな草花が、霜の下で身を縮めていた。

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 儀式化していると、それだから、実のところ薄々気がついていたのかもしれない。儀式化だなんて。そもそも始まり自体が、ただの予行練習だったはずだ。ご指導ご鞭撻、どーもありがとーございました。とーっても勉強になりました。以上。それ以外に何の感想を持つべきなのだろう。
 他の感想。もし、加えるとすれば薄情なあたしには、ひとつだけある。安堵。真っ先にこの胸に浮かんだもの。偽りで塗り固められた虚飾に満ちた、退屈な猿芝居の中、偽りのないただ一つ。

 右京は切り出しにくそうに、俯いてしきりにストローでグラスの中の氷をかき混ぜた。からころからころ。氷はグラスの中で留まることを知らず、渦巻いている。
「これといった理由はないんやけど…」
 今日は自分の店ではなく、外に食べに行こうか、と右京が珍しい提案をしたから、違和感はあった。女の勘というものは、本当にあるのだなあ、と感心する。普段鈍い鈍い、と散々罵られている自分にすら、ちゃんとあったのだ、と、妙に誇らしいような気すらする。
 右京はストローの先端を指でつぶしてしまっていることに、気がついているのだろうか。ぐしゃり、とつぶされたストローでオレンジジュースを飲めば、ずずず、と汚い音がたちそうだ。右京はストローでくるくるグラスの中身を回転させたかと思うと、底をつつく。
「あかねちゃんが悪いんやない。あかねちゃんはなんも変わっとらん。うちが悪いんや」
 うちが悪い。あかねちゃんは悪くない。この二つのフレーズを、右京はさっきから繰り返している。いい加減こんなに繰り返されれば、この先に続けられる展開は、どんなに恋愛経験が乏しい人間でもわかるというものだろう。だから先へ進んで欲しいのだけれど、右京は長い前置きをまだ続けようとする。仕方がないから、あたしはそれにつき合う。あたしのグレープフルーツジュースは、もうとっくに飲み干されていて、残った氷とその氷の溶けた少しの水という、数倍にも味の薄められた、グレープフルーツ味なんだか水なんだか、のいっそ味なんかない方がマシだという液体を残すばかりだった。
「他に好きな人ができたわけちゃうねん。そんな人、うさんくさいの含めて一人もおらん」
 胡散臭いって。それは、好きかもしれない、とかそういう気配のある人、という意味だろうか。
「ただ…ただ、理由はわからんのやけど、突然…」
「突然、冷めたってこと?」
 それまで同じ場所をぐるぐると果てしなく周り続け、いつ終わるともしれぬ長演説を陰々滅々と続けそうだった右京が、がばっと顔をあげ、ぎょっとした顔をする。右京の独り善がりな自虐自己演出に、形ばかりはつき合わねば、あたしが悪役になりかねない、と我慢し続けていたが、もう、前置きには飽きた。右京は言葉に詰まって、驚いたような傷ついたような顔をする。いけない。ここであまり冷静に過ぎては、疑われてしまう。少しは怒るとか、悲しむとか、そういった演技をしなければならない。あたしは慌てて、口調を荒げてみせる。
「本当、突然よね。だって、昨日右京、あたしに言ったわよね。最近イライラしがちなのを治さなきゃって。あたしに嫌われるといけないからって」
 だめだ。どうにも冷静な語り口になってしまう。普段、乱馬に対峙しているときのような威勢のいい啖呵だったり、ネチネチとした嫌味だったりが、うまく発揮できない。普段乱馬に、かわいくねぇ、と散々に言われる、普段コンプレックスとして抱き、普段は治したい治さなければ、と思っている短所が、唯一必要な今、どうしても披露できない。でもまあ、これでおあいこだ。右京はこうして長々と自責の念を告白することに酔っていて、あたしが右京を泣いて責めれば、ありがちで退屈なメロドラマが完成し、右京は断腸の思いで恋人を振る主人公になることができる。そういうシナリオだ。そんなナルシシズムに完全につき合ってあげなくても、大した罪ではない。
 右京の目が、涙のようなもので潤む。ここまでお手軽三分クッキング的なメロドラマに浸りきれるなんて、すごい。素直に感心する。
「ごめんなさい…。その場を取り繕わな思て…」
 昨日、右京があたしに言ったこと。ちょっとばかり運動神経の秀でているくらいの一般の人間には太刀打ち出来なさそうな、複雑で、恐ろしく体力を消耗させそうなアスレチックを制覇していく、それを競い合うといった趣向のテレビ番組を二人で見ていたとき。あたしが何の気なしに、「これくらいなら、右京もあたしも、制限時間半分もきらないで、ゴール出来るんじゃない?」と言ったことがキッカケだった。お煎餅をぱりぱり齧りながら、ほとんど独り言のような感覚で。ぼうっとテレビを見るあたしに右京は「制限時間半分って、そら言い過ぎやろ」と、どこかつっかかるように返した。あたしも「そうね」で流せばよかったのだけれど、その右京の、あたしをどこか見下したかのような、また、挑むような物言いに少しカチンときて、「そうかなあ。出来ると思うんだけど」と反論した。ここ数日、右京がそういった態度を時折示していたのも、反論した理由の一つだったのかもしれない。それでも口調は、和らげていたはずだ。しかし右京は、そうは捉えなかったらしく、過剰かと思えるほどあたしにつっかかって、「絶対半分の時間なんて無理や!あかねちゃん、半分は言い過ぎやってわかっとるんやろ?なんとなく、適当に言っただけやろ、半分て。けど、言った手前、ムキになってるだけなんやろ?」
 ムキになっているのはどっちだ。
「どうしてそこまで…。あたし、そんなに酷いこと言ったかしら…」
 しゅん、と俯いてそう言うと、右京ははっとした面持ちになって、あたしを抱きしめた。
「あかねちゃん、堪忍。うち、最近情緒不安定みたいやねん」柔らかい動きで、右京はぎゅっと腕に力を入れた。包み込まれるぬくもりを感じる。
「ほんまにごめん。こんなんしとったら、いつかあかねちゃんに愛想尽かされてまうね…。ほんま、うちどうかしとる。最近イライラしとんねん、なんでやろ。生理くるんかな」
 本当にここ数日、右京は時折苛立ちを隠し切れていなかった。隠そう、という努力はそれなりに感じ取ることは出来たけれど。そして苛立ちをあたしに向けた後、すぐに決まって言うのは「あかねちゃんに嫌われんよう、治さないかんわ。ほんま、ごめんな、あかねちゃん」

 あたしは、やっぱり鈍いのだ。思い返してみれば、それがシグナルだったのだとすぐにわかるのに。
「取り繕うと思って、媚び売ったんだ?次の日に振る相手に」右京が俯くのを見て、あたしの胸に何かが灯る。「そりゃまーお優しいことね。ああそうか。お人好しだもんね、右京は。それとも単に、自分が嫌いな相手でも何だろーと、誰にも嫌われたくない、とかいう、八方美人なお調子者なだけなのかしら。まるで乱馬みたいね。好きな人ができたわけじゃないって、それ、ただ乱馬に戻りたいってだけじゃないの?」
 あたしも右京のメロドラマな性質を言えない。役割を振られれば、その場の雰囲気でどうとでも流される。あたしが乱馬を叱る、例の「弱いものいじめ」に他ならない、この台詞。怒っても、ましてや傷ついてなんて、まったく感じるところもないくせに、物語が転がり出せば、いくらでもアドリブは口をついて出る。
「それはほんまにちゃうねん。って言っても信じてもらえんと思うけど…。あかねちゃんが納得するように、思てくれたらええ。うちが乱ちゃん戻たて思てもろても、うちはかまへん。けど、それやとあかねちゃん傷つけてしまうやろ。実際、乱ちゃんに気持ち、戻たわけやないし」
 傷つく?これはまた、随分自惚れていらっしゃる。そこまで勘違いしてもらえたってことは、あたしの演技は見抜かれていなかったということだ。この、乱馬からもらった婚約指輪も、結局最後まで、右京は気がつかなかったのだ。
 よかった。本当に。よかった。これに尽きる。あたしは悪役になることもなく、悲劇のヒロインとして、同情される立場として、うまく右京と手が切れる。平和に乱馬の許嫁、ただそれだけに戻ることが出来る。
 右京は鼻声で続けた。「それに、うち、ほんまに自分でも驚いててん。あんまり突然やったから」
 右京の苛立ち始めた時期と、あたしへの気持ちが冷めた時期を結んでもいいとするのなら、確かに右京があたしに冷めたのは、ごく最近のことだ。「突然って、いつ?」
「はっきり…はわからんけど、一ヶ月も経ってへんよ。突然ぱっと消えてしもて、自分でもわけわからんねん」
 一ヶ月も経っていないのに、一ヶ月も経っていなければ、もしかすれば単なる気のせいかも知れないにも関わらず、こうしてすぐさま別れ話を切り出すとは、随分潔い。本当にそれほど短時間だったのだろうか?しかし、右京の態度を鑑みれば、確かにそのくらいであるような気はする。そうだとすれば、右京はひどく潔い。念のため、というように保身のための保留といった行動を選ばない、まったくもって清廉潔白な、ストイックな人間だということになる。吐き気がする。「ふうん。でも、その間も右京、あたしに好きだって言ってたわね」
 右京の鼻声が増す。「ほんまにごめん…。あんまり突然すぎて…。自分でも信じられんくて…。ついこの間まで、どんなときでもあかねちゃんのこと想って考えて、ほんまのほんまに、一瞬たりとも、店のことやっとるときでも、あかねちゃんが頭から消えるときなんてなくて。将来二人で一緒に暮らすんはどないしよか、そればっかり、真剣に考えとったのに…ほんまに突然ぱっと…跡形もなく…。言い訳やね、けど、ほんまに、そうやってん…。ごめんなさい」
 とんでもない。お礼を言いたいくらいだ。あまりに順調に事が進みすぎて、怖いくらい。好奇心を満たして、滅多にない経験を楽しむだけ楽しんで、傷つかず、修羅場にもならず、後々の問題も引き起こしそうになく、第三者に露見することもなさそうで。欲しかった指輪まで貢いでもらって。映画もカラオケも遊園地も水族館も、行ってみたいところへ、自腹をきることなく体験できた。その上であたしは、被害者の顔ができる。
「そう。それじゃ、仕方ないね。残念だけど」
 別れましょう、と口にする。明るく冗談めかして言う方がよかっただろうか。いい女ぶって。しかしそれでは、対応があんまり、大人過ぎる。普段のあたしの振る舞いでは、そんなことをすれば疑われてしまう。しかし、泣いて縋る演技が必要なのだとしても、そんなことをするのは、なんだか癪に障った。右京の求めるメロドラマに、完全にはのってあげたくない。
 右京が真っ赤な目を上げて「なんでそない、冷静なん?」と言った。思わずあたしは声を荒げる。
「じゃあなに?右京はあたしが怒り狂うか泣きわめくかして、追いかけて欲しいとでも言うの?その上で惨めな振られ女を振ってやりたいってわけ?それともあたしに責められることで、モテる女はつらいなあ、とか乱馬みたいなことを言いたいの?罪悪感に悩む悲劇のヒロインでもやりたいの?」
 右京は見るからに肩をおとして「ごめんなさい」と言った。右京の望むシナリオに、まんまとのせられてしまったことにだけ、少し腹が立った。でもそのおかげで、あたしは右京にぞっこん夢中なうちに振られた、可哀想な女になることができた。それだから明日からは、乱馬と正式に婚約しました、ということを公表することが許されるようになった。乱馬から貰った婚約指輪を自慢しても、その上で右京から貰った指輪を捨てずに指につけたままでも、右京に未練があって寂しさを埋めるために乱馬に甘えた、同情すべき女、という姿に不自然さはなくなった。そして一番の強敵、右京が乱馬を奪う不安に、もう悩むことはない。
 本当に、全てがうまくいきすぎて、怖いくらい。右京は涙を拭い鼻をかんで、店を出た。一緒に帰りたくない、とあたしが言うと、右京はジュース代に千円札を二枚置いていった。右京の飲んだオレンジジュースが九百円で、あたしのグレープフルーツジュースも九百円だった。お釣りの二百円が最後の儲けね、なんて。なびきお姉ちゃんだったら、たった二百円だなんて、とか、もっとうまく立ち回るのだろう、なんてことを思う。窓ガラスから外を覗けば、肩を落として、泣くのを堪えるように痛みに耐えるように、眉間に皺を寄せた右京が、駅の方角へと歩いていくのが見えた。

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「うっそお〜!いつの間に!」
「おい、おまえら、全然そんな素振りなかったじゃん!まじでどーなってんだよ!」
「うわーうわー!すごいっ!あっ。でも今回はホントのホント?」
「だよなー。前にも散々、祝言だなんだって、結局全部うやむやになってるもんなー」
「そうそう。だいたい乱馬、お前が素直にそんなことを俺たちに言うってこと自体が怪しいっ!」
「またなんか企んでんじゃねーの?」
 クラスでも仲のいい、ほんの数人にこそっと乱馬と婚約したことを告げると、あれよあれよという間に、クラスで婚約発表、記者会見といった態になり今に至る。黒板の前、教壇に乱馬と二人立たされて、あたしは恥ずかしくて俯く。あまりのことに、体中から湯気が出そうだ。乱馬は隣で叫んでいる。
「うっうるせー!どうでもいいだろっ!くだらねえ!」ニヤニヤ顔で囃し立てるクラスメイトに向かって口角泡を飛ばし、怒鳴り散らしていた乱馬が振り返る。顔は真っ赤。「あかねっ!おめーのせいで、こんな大騒ぎになっちまったじゃねーか!」
「なっ!なんであたしのせいなのよ!」負けじと真っ赤な顔で反論する。
「おめーのせいじゃなかったら誰のせいだってんだ!」乱馬が目を伏せ、ふっとため息をつくと、気障ったらしく前髪を手で梳く。「まー、このおれを一人占めしたいっていう、あかねの気持ちはよくわかるけどよ」
「罪な男だぜ、おれも。まったく…。モテる男はつらいぜ」とアホなことをぬかすので殴ってやろうかと拳を握りしめた瞬間、一人のクラスメイトの言葉で、お祭り騒ぎの教室が水を打ったように静まりかえった。「右京も、許嫁だったよね…?」
 クラスメイトの視線が、この騒ぎの中、一人静観していた右京へと一斉に集まる。右京は口をへの字に曲げ、睨めつけるように乱馬とあたしを見た。乱馬のごくりと生唾をのむ音が聞こえた。「あ、あのよ。ウっちゃん…」
「いや〜よかったやないかい!」にっこりと満面の笑みを浮かべる右京。がたり、と椅子を引いて立ち上がると、こちらにやって来る。深刻な面持ちで切り出そうと口を開いた乱馬は、右京に遮られて、間が抜けた顔になる。「へ?」
「おめでとう!ほんま、めでたいわ〜。よかったな、乱ちゃん、あかねちゃん!」笑顔を浮かべながら、祝福とばかりにバシバシ乱馬とあたしの背中を叩く右京に、クラスメイト全員が不信顔で戸惑っている。右京はクラスメイトの視線など意にも介さず、乱馬の脇腹を肘でぐりぐりと抉る。乱馬が「うぐっ」と呻く。
「しかし乱ちゃんも水くさいわ〜。いつの間にそないなっとったん?うちら、形ばかりの許嫁の前に、幼なじみやないの。うちにだけは教えてくれてもよかったんちゃう〜?」
 形ばかりの、の辺りに差し掛かると、右京は一呼吸置いた。ゆっくりと、声を少しだけ大きくして。けれど不自然ではなく。クラスメイト達が顔を見合わせている姿が、目に入る。
「そ、そうだよな〜。おれもばかだなあっ!おれとウっちゃんの仲なのになっ!」
 肝心の乱馬は、右京の強調に全く気がつく様子もなく、頭を掻いている。ほっと安堵した表情で。
「ほんまやで、乱ちゃん。いけずやわ〜」
 わはははは。大きな口を開け胸をはり、どこかぎこちなく笑う乱馬に、右京がつっこみ、無責任なクラスメイト達はほっと安堵したような、それでいて、期待した諍いが起こらなかったことに残念がっているような、妙にそわそわとした雰囲気で囃し立てる。「本当だぜ、乱馬。右京も許嫁だったんだから、そこははっきりしとくのが男のケジメってやつだろ〜」
 乱馬に男のケジメなんてものを期待すること自体、間違っている。
「あっ!そういえば指輪!」
 そうよそうよ、と女の子達が口々にきゃあきゃあ騒ぎ出す。男の子達は指輪、の示す意味が飲み込めず、きょとんとしている。「指輪って?」
「やだっ!婚約って言ったら、婚約指輪じゃないの!」
「そうよっ!女の子の永遠の夢よね〜。夜景をバックに、エンゲージリングと花束でプロポーズ!ロマンティックよね〜」
 うっとりとエンゲージリングへの夢を語る女の子の陰で、男の子達は「女のロマンっちゅーのは、金のことなんだよな〜結局…」とぼやいた。「でも、ほんと、どーしたんだ?指輪」
 クラスメートの一人がひょい、と顔を出してあたしの左手を覗き込む。「あかねはつけとらんじゃないか、指輪」
「こ、これはね…」学校にしてきたら没収されちゃうから、と言い訳をする前に、クラスメイト達は同情的な面持ちであたしを見た。
「そりゃそーだよなー。乱馬に指輪なんか買う甲斐性があるわけないよなあ」クラスメイト達がしたり顔で頷き合う。
「そうそう。年がら年中、修行だ!喧嘩だ!果たし合いだ!の、格闘バカに、婚約指輪なんて買う金があるはずがない」
「というよりもまず、婚約指輪なんて、乱馬の頭で思い浮かぶと思うか?」
「まったく思わん」
「あかね…かわいそう…」
 女子は目を潤ませ「でもとうとう乱馬くんと結ばれたんだもの。ファイトよ、あかね!」とあたしの手を取り、男子は「この甲斐性なしが!うまくやりやがって!この!」と乱馬を責め立てる。
「ちっちがうのよ!婚約指輪はね…」言いかけてはっとする。周囲を見渡すと、右京が教室から出て行くところだった。気配を消して去ろうとする右京に、不安を覚える。「あ、あたしちょっと野暮用が…」
「乱馬くんとの婚約より大切なものなんてあるのっ?あかね!」
「そうよそうよ!いったいぜんたい、なにがどうしてこうなったのか、微に入り細を穿って、詳し〜く教えてもらおうじゃない!」
 好奇の目を輝かせるクラスメイト達から逃げられない、と諦めかけたところで、教室の窓ガラスを割って侵入者が二人飛んで入ってきた。ワックスをかけたばかりの床に飛び散るガラスの欠片と、深紅の薔薇の花弁。
「どういうことあるか」
「わたくしも、ご説明願いたいですわ」
 助かった。今日ばかりは。矛先があたしに向かう前に、教室を抜け出す。右京に追いつこうと廊下を走りながら、壮絶な断末魔の悲鳴を背中で聞いた。

 右京は屋上にいた。屋上の柵にもたれ掛かり、頬杖をついている。長い髪が春一番の突風に浚われる。屋外から流れ込んでくる空気に煽られて、ドアが叩きつけられるようにして閉まる。ドアノブを最後まで慎重に握っていればよかった、と後悔する。
「…あかねちゃん?」振り向かずに右京が言う。「あかねちゃんやろ」
 断定した物言いに、じんわりとした恐怖を感じる。でも、いまさらだ。いまさら右京があたしに両天秤かけていたとは器用なことだとかなんとか、言おうが言うまいが、そこには恐れるほどの憎悪なんてありはしない。騙されたとか貢がされたとか、多少の恨み辛みがあったとしても、それくらい、大したことはない。右京はもう、あたしに執着していない。右京の脳裏には、もうあの映像なはい。乱馬の首に、巻かれたマフラーの。
「…うん。アタリ」
 芝居がかった弱々しい声で答える。上出来。右京の考えていることが、まだ把握できないのだから、猿芝居というだけではない。右京はあたしに狂人まがいの怨念は抱いていないはず。そう鼓舞してみても、やっぱりあたしは、怯えていた。
「教室、居づらかってん」
「うん」
 右京は振り向かない。硬質な声のトーンは変わらない。あたしは、両手の指をがっしりと絡み合わせ、握りしめた。右京が息を呑む音が聞こえた。すうっ。深呼吸のように、大きく。そして振り返る。右京の目は赤く腫れぼったかった。開きかけた唇を、また一文字に結んでしまう右京。
「…右京、もしかして…」
 あたしは、両肩にずしりと重みを感じる沈黙に耐えきれなくなって、口を開いた。今度は紛れもなく、あたしの声は震えていた。もしかして、の続きは何だろう。あたしはなんて続けるつもりなのだろう。震えのおさまらない唇を、なんとか上下重ねて結ぶ。俯くと頭のてっぺんから右京の吐息のような声がした。「あ…」
 顔を上げると、右京が泣く寸前、といった顔をしていた。上唇が下唇を巻き込んでいる。イくのを我慢しているときの右京の顔だなあ、なんて脈絡のないことを思い出す。
「ほんまに、ごめんなさい」
「え?」
「うちより、あかねちゃんのが居づらかってんな」
 最悪の展開とは違う様子に、思わず頬が緩む。うっかり「なんだ、よかった」と言いそうになる。微笑みかけてしまったことに、しまった、と思うも、右京は不審がる素振りもなく、メロドラマの独白を続けようとしていた。「なのに…うちのせいやのに…ほんまにごめん…」
 うちのせいやのに、か。安っぽいなあ。あんまり安っぽくて、苛立ちすら感じる。
「…そんなこと、謝られたって、もういいわよ」喜劇にのっかってしまう自分にも苛立つ。「もう、乱馬がいてくれるから。気にしなくていいわ」
 少し拗ねたように、当てこすってみる。我ながら、気色悪い。
 右京の顔が歪んだ。
「ごめん…ほんまごめん」
「ごめん、って。なにが?もういいの。もう別にいいのよ。乱馬は一生、あたしを守ってくれるって言ってくれたから」
 乱馬はそんなこと、言ってない。言ってほしかったのだろうか、あたしは。「…一生って、右京も言ったけど、乱馬は一度した約束は守るもの」
 うそうそ。乱馬なんてあんなにちゃらんぽらんで、した約束すら覚えていなかったりするじゃない。それくらい、右京にだってよく知られてるじゃない。
「…無理、してるんやね…」
 右京が俯いた。乱馬は約束を破らないという、どう考えても嘘の言い分が、右京には健気な強がり、と映ったようで、思わぬ演出効果が出たようだった。右京があたしを疑うことは、もう決してないだろう。罪悪感以外に、あたしに抱く感情は生まれないだろう。
「無理なんてしてないわ。乱馬がいてくれたもの」
「…そやな。なんたって乱ちゃんは、あかねちゃんの許嫁やもんな」
 右京のナルシシズムにつき合うのもこれが最後。なりきる右京のいかにもな振る舞いと、振り当てられたシナリオにつき合ってやることに、最後まで苛立ちを感じる。
「乱ちゃんがあかねちゃんの側におってくれるなら、大丈夫やね」右京が微笑む。「幸せんなれるわ」
「幸せ…?」あたしは腕を伸ばし、右京の腕を掴んだ。右京の笑顔が崩れる。右京がよろける。「…あかねちゃん?」
 右京の背中に両腕を回す。あばらが折れるんじゃないかという怪力で、ぎゅうぎゅうに締め上げる。右京が苦しそうに「うっ」と小さく漏らしたけれど、腕の力は緩めず、右京の胸元に顔を埋めた。お好み焼きと煙の匂い。およそ女の子らしくない、香ばしい香り。腕の中にある華奢な背中はしなやかで、柔らかく、温かい。
「あかねちゃん、大丈夫?」
 苛立ちは先にも増して募ってはいたが、最後の仕上げなのだから、盛大なメロドラマにつき合ってあげよう。さあ、感動のフィナーレを。
「大丈夫って!そんな…ことっ!」ここで天道あかね、感極まって、泣く。「知って、どうするのよ?大丈夫じゃないって、あたしが言ったって」しゃくりあげる。「そ、そんなことっ、し、知ったって、う、右京にはっ、な、何も、で、で、出来ないっでしょっ!」

 あとはただ、幼子のように大声で泣きわめくあたしを、右京も一緒になって泣きながら、抱きしめ返してくれて、「ごめん、ごめんなあ」と繰り返していた。それからあたしは、泣いて引き留めて悪かった、と右京に謝って――ここまでやったのだから、お昼に主婦が家事の合間、息抜きできる程度のメロドラマにはなったはずだ――屋上から追い払った。芝居とはいえ、高ぶった感情を収め込むには、多少時間が必要だったようで、屋上の風に吹かれて、すんすんやっていたら乱馬がきた。戸惑う乱馬に「なんでもない」と言ったけれど、あたしの真っ赤な目と未だぽろりと零れる涙に、乱馬は納得せず、「誰にやられた?シャンプー?小太刀か?」と乱馬が心配してくれた。だからあたしは「本当に、なんでもないってば」と言って、乱馬の背中に腕を回した。凄く緊張して凄く勇気が必要だったけれど、たぶん乱馬もそうだったんだと思う。下から覗く乱馬の耳たぶは真っ赤だった。不器用にあたしを抱きしめた乱馬の腕の中は、ごつごつしていて固かった。あたしが壊れやすいものであるかのように、乱馬は慎重にあたしの背中に腕を回したけれど、融通の利かないような、さほど不自然な体勢でもないのに居心地の悪いような、少し痛いような感じがした。男溺泉になんて、つからなければいいのにな。ずっと、男と女の間をいったりきたり。そうならいいのに。でも乱馬にそんなことを言うわけにはいかないから、乱馬の望みが絶たれてしまってはいけないから、いつの日か乱馬は男溺泉につかって、水に濡れても男の体のままでいられるようになるんだろう。

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 あたしの脳みそは今、目の前に広がる光景を正確に認識出来ているのだろうか?それともこれは、右京の作りだしたメロドラマの世界に、無意識のうちに熱中してしまったあたしが、知らず知らず、続編を求めて、その結果白昼夢を見ているだけなのだろうか。実はその筋書きは続いていて…。
「お久しぶりです。あかねさま。最近めっきりいらっしゃらないから、右京さまも寂しそうだったんですよ。来てくださって嬉しいです」小夏さんがにこり、と微笑む。「あいにく今日、右京さまはお体の調子がよくないみたいなんですけれど…」
 『お好み焼き うっちゃん』のカウンター席には乱馬。乱馬の首には鮮やかな、マルチストライプ柄のマフラー。もう春なのだから、マフラーをするなんて、まったく乱馬は季節感がない。しかし、もとは右京が乱馬用に吟味していたもの。確かに乱馬にはよく似合っている。
「小夏さん、あの…」
 カウンター奧には、ぐったりとした右京が、支柱にくくりつけられている。
「あかねさまのご都合がよろしければ、また明日もお立ち寄りくださいね」小夏さんはにこにこと嬉しそうに言う。「明日には右京さまのお加減も、よくなっているでしょうから」
 後退るときに乱馬の座っている椅子が、あたしの腕にあたり、その拍子にテーブルに載っていた乱馬の額がずり落ちた。

 乱馬は放課後、一緒に帰途につこうとしたあたしに言った。
「今日…ウっちゃんに、謝りに行こうと思ってよ。本当はクラスの奴らに騒ぎ立てられる前に、ウっちゃんにだけは、ケジメつけとかなきゃいけねえって思ってたんだけど…気が重くて先延ばしにしちまって。そしたら今日こんなんなっちまっただろ?いまさらって感じもするけど、ウっちゃんは幼馴染みだからな。あ、いいいい。あかねはついてくんな。これはおれとウっちゃんの問題だからよ。…家で待ってろ、あかね」
 今の時刻は、夕飯刻を大きく越えている。





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