好奇心は猫をも殺す




「あ。ちゃうちゃう。もっと下」
「ここ?」
「惜しいっ!そこちゃうねん〜」右京の『指導』は、今日も快活に始まる。
「う〜ん?ここ?これは?」
 戸惑いながら指を這わすと「ちゃうちゃう…って、ん〜。ソッチはええわ」
 右京の指がやんわりとあたしの手を払いのけ、あたしが包んでいた場所を、自身の右手で包み込む。温かく湿っていた場所から引きはがされたあたしの右手。途端に掌からぬくもりが失せていき、乾燥して寒い冬の日に加湿器の前、手をかざすときのような、あの心地よい温かさは消え去って、心地よさと引き替えに指先から掌へと広がる不快なべとつきが気になり出す。
 なんの役にもたてない自分が、いつも以上に無力に感じる瞬間。あたしは、こうやっていつも誰の何の役にも立てない。
 気を遣ったように右京が「あかねちゃん、うちのおっぱい舐めてくれへん?」と、あたしを誘導し、それがますますあたしを惨めにさせる。右京にしてもらっているように、あたしだって右京を気持ちよくしてあげたいのに、あたしではそれがうまくできない。
 右京のおっぱいを芸もなく、ただひたすらちゅうちゅう吸いながら、虚しさだけが胸にせまった。右京に指示されるままおっぱいを舐めるだけだったら、別に今、右京の相手をするのがあたしじゃなくてもいい。それ以前に、ニンゲンですらなくたっていいような気がする。
 誰かに導いて貰わないと、何も出来ない天道あかね。いつだって、何にだって中途半端で、今度は何かできるんじゃないか、何か役にたてるんじゃないかって、首をつっこんでは結局、誰かに助けてもらうはめになる。その助けてくれる『誰か』というのが大抵乱馬で、助けてもらったりするからこそ、今度こそはお返しをしなくては、と何かを始めるきっかけになるのもまた乱馬で。そしてまた結果的にはあたしが空回ったせいで、乱馬を出動させるハメになって。悪循環なのだ。
 尚かつその乱馬に好意を持っている身としては、『助けてもらう』ということを本来ならば、意図した結果と真逆になってしまった己のていたらくに羞恥を感ずべきところを、嬉しいと感じてしまい、そんな自分があさましく惨めで、ますますそれが屈辱感を増してしまい、ぐちゃぐちゃと複雑に(いや、実際はとても単純だけれど)自分への不甲斐なさが巡り巡って、自分とは対照的になんだかんだ結局なんでも出来てしまう乱馬に憎悪を向けることになる、という意味のない八つ当たりを繰り返してしまう。だって乱馬がいつも憎まれ口をたたくから、なんて言い訳をしてみるものの、本当のところは、乱馬が恩着せがましく口にする当てこすりだったり、それに乗じて付随する単純な悪口がまさに図星で、常に劣等感を抱いていることだからこそ、あたしは言葉につまってヒステリックに怒鳴り散らすばかり。乱馬の悪口に正当に反論できるような、優位にたてるような地位を築けない自分が情けなくて、乱馬に好意を持つ、ということそれ自体が弱味を握られたようで腹立たしい、などという本来恋する人間が感じるべきでないような考えにまで及んでしまうのだから、なんて醜く狭量な女なのだろう、と我ながら思う。
 そんな行き詰まりを解決するために、始まったはずのこのレッスンも、今では違うベクトルを差し始めている。
「あっ…あかねちゃん…」
 右京が切羽詰まった声であたしの名を呼ぶ。右京の右手は切なげに必死に上下している。
「右京…いきそうなの?」
「ん…」吐息混じりに右京が答える。「おっぱい…舐めてて…おねがい…」
 おっぱい。右京があたしに望むことは、いつもこれだけ。右京は目をきつく閉じ、一人だけで一人の世界に飛び立とうとしている。すべて真っ白に視界が覆われて、全てが無に帰す世界へ。あたしがおっぱいを舐めれば、そこへ到達する時間が少し早くなるだけで、おっぱいがその鍵になっているわけではない。右京の世界から既に、あたしは弾き出されている。
 あたしはまた、言われた通り素直に乳首を舌で転がしながら、せっせと舐め続ける。あっという間もなく右京の体がびくりと大きく揺れて背中が弓形に反らされた。
 あたしはぺたりと右京のおっぱいに手を添わせ、ちゅっと軽くくちづける。右京の平らなお腹がゆっくりと大きく上下している。あたしはテレビの近くにあるティッシュボックスを取りに、立ち上がった。
 ふう〜っと大きく息を吐き、右京が呼吸を整える。そして邪気のない笑みで「えへへっ。いっちゃった。ありがと、あかねちゃん。気持ちよかったで」と右京は言った。そしてあたしが間抜けに右京に向かって付きだし続けているティッシュボックスからティッシュを2、3枚引き抜き、脚の間を綺麗に拭く。「手、洗わなあかんね、あかねちゃん」
 今日のレッスンは終わった。あたしは右京の家を出る。そろそろ右京は店の支度をしなければならない時間だっだ。
 まだ夕方そこそこだというのにすっかり日の落ちて暗くなった帰り道、頬を掠める風は冷たく肌寒い。制服の上着を右京の家に忘れてきたことに気がついて後悔する。コオロギの鳴き声とどこかの家からかする味噌汁の匂い、そして屋台で売られる焼き芋といしや〜きいも〜という、間延びしたあの定番文句。そうか、もう秋なのだ。

----

「あかねちゃん、乱ちゃん喜ばす方法、二人で勉強せえへん?」
 夏休みが始まってすぐのことだったと思う。乱ちゃんの許嫁として、お互い、わかっとかんとあかんことやと思うねん。真面目な顔でそう切り出した右京が当時、一体何を考えていたのか、未だによくわからない。あの夏は、脳みそがとろけるかと思うほど暑い、猛暑だったから、右京の脳みそが暑さにやられていたせいなのかもしれない。
「乱馬を喜ばす方法?」
「うん。たぶん、あかねちゃんも知らんことや思うねん。う、うちかてもちろん知らんで!うちの身も心も全部乱ちゃんのもんや!他の男に捧げるつもりなんかあれへん。だから知っとるいうんも、ホンマ、おかしな話やねんな。けど、」
 けどなあ、と右京はそこから先、消え入りそうな声で言った。あたしは真っ赤な顔にかぼそい声でぼそぼそと続く言葉に耳を傾けるため、ぐっと右京に近付く。ぼんっと音が聞こえるかと思うほど、右京の真っ赤な顔はさらに真っ赤に――そうなることが可能であれば、という話だけれど――沸騰した。
 端的に言えば、『ソウイウコト』に備えて、二人でせっせとオベンキョしましょ。なぜかと言えば乱馬に不満不足をあらゆることにおいて、感じさせてはならないからで、それが許嫁としていずれ乱馬に嫁ぐ身としての務めである、と右京が思うからだった。衣食住。すべてにおいて、乱馬を満足させること。それが妻の務め。男は己の築いた家庭に不満や居心地の悪さを感じれば、不足を求め外へ繰り出しかねない。そして足らぬものを補うためだけだったはずの仮住まいの地が、定住の地に成り代わりかねない。そのためにも、そしてもちろん純粋な愛する人への奉仕の意でも、努力を怠るべからず。右京の言い分。「そりゃまあ、浮気のひとつふたつ、男の甲斐性やし、いちいちそれを咎めるつもりはあれへん。けど、その浮気の理由っちゅうもんが、うちに足らんもんがあって、そのせいやとしたら、その上その足らんもんをヨソ様が持ってはるとしたら、うちの女としての見栄いう前に、嫁として選んで迎えてくれはった乱ちゃんに申し訳たたんやんか」
 その理屈にあたしは納得しかねたし――仮にあたしに恋人と呼べるヒトがいて、それが乱馬であってもなくても、恋人の浮気を許すということをあたしには出来そうもないし、なおのこと、全面的にその非を己でかぶるなんて物分かりのいい女になることも、あたしにはどうしても出来そうにない、今既にそうあるように、ウジウジと悩みはするだろうけれど――だいたい、確かに右京とあたし。二人とも乱馬の許嫁ではあったけれど、そもそもライバルなはずで、そして、将来もし二人のどちらかが乱馬の隣りにいるとして、その隣りにいる人間は『どちらか』になってしまう。そして残された一人に、どちらかは、なってしまう。だから、あたし達はいがみ合うべき…とまではいかないまでも、こと乱馬に関して協力し合うというのは不自然な気がする。
 そんな考えを巡らせながら、あたしが右京にした意思表示は、戸惑った顔を向けて「でも…」と小さく反論の意を口にすること。右京はそんなあたしを見て、「あかねちゃんの気持ちもわかるで」と頷いた。右京を見上げたあたしは、きっと不審そうな顔をしていたのだろう。右京は慌てて言葉を紡いだ。
「そらなあ、うちらて、ほんまのとこ、一応ライバル同士やんか。自分で言い出しといてなんやけど、うちかてなんや妙な気ぃすんねん。けど、こないなこと、他の誰にも言われへんやん。ましてや男なんざ、本末転倒。裏切り行為になってまうやろ。っちゅーより、うち自身、何が起こても、乱ちゃん以外となんて死んでも嫌やわ」
 それはあかねちゃんも同じやろ、と右京が言う。あたしは頷く。だからといって先の右京の提案に納得できたわけではないのだけれど。
「ライバル同士でこないなことするんも話し合うんも、妙なんは確かや。けど、お互い、同じ立場てなことも確かや思わへん?」
 あたしはまた頷く。右京のペースは加速する。
「乱ちゃんが最終的にどう決断するんかはうちらにはわからん。わからんことは手出しでけへんし、手出しできるような駆け引きじみたことは、知らんとこでお互い勝手にやっとったらええねん。けど、お互い一人じゃどうにもなれへんことが共通しとって、それ協力し合うんは、うちとあかねちゃん。お互いにとって利になるんとちゃう?」
 商売人の目をする右京。利益。シンプルに考えてみよう、なにを目的とし何を得たいか。ひとまずは、その手段へ感じる違和だったり嫌悪だったり疑問だったりの雑念を除外して。そうすれば答えは自ずと出てくるはず。単純明快。
 あたしが頷くと、右京はにっこりと笑った。

----

 あたしは右京の説得に、最後まで納得していたわけではなかった。それなのになぜこうなったのか、といえば、長く停滞したせいで素直に恋心と判別できなくなってきていた、鬱屈した乱馬への想いや、右京を含め乱馬を取り囲む女達への嫉妬、彼女達への乱馬の態度。家族のお節介、クラスメイトの好奇な目。そういったものから解き放たれたい、という半ばやけっぱちの気持ちが後押しさせたのだと思う。
 そして好奇心。結局は他の何よりそれが、道徳観念だとか常識だとか、そういった色々なものを凌駕した。
"Curiosity killed the cat."
 好奇心は猫をも殺す。だけれど、9つの命をもった猫を殺すことが出来たとしても、好奇心を殺すことは容易ではない。
 乱馬に揶揄された凹凸の少ない体ではあれども、肉体は意思に関わらず勝手に女性へと変貌を遂げ始め、周囲の話題も色恋が多くなる。陰に隠れてこっそりとなされる秘密のお話。友人達の交わす会話に、興味なんてないってすました顔をしながら、そして時折、その下世話さに嫌悪を感じながらも、それでも好奇心は人並みに出てくるのだから不思議だ。
 そう。あたしだって右京と同じで、こんなこと、誰にも言えなかっただけ。本当はすごく知りたくてたまらなかった。
 けれど右京が言った通り、他の誰かで試すわけにはいかない。当たり前だ。
 だから普通、ヒトはそういったことを初めて体験するのは、好きな人とで、たいてい女の子はそのことについて何の知識もなく、突然その場に立たされる、ということになる。でもそれではやっぱり怖い。怖いから、知っておきたい。できれば、紙や映像といった媒体から得られる脳みそにつめこむ知識だけではなく、感覚として。それがわかるのなら、とても安心できる。けれどやっぱり実際にそんなことを誰かとするわけにはいかないから、だから。
――でもその相手が右京だったら、なんの問題もない。そうじゃない?
 あたしと右京で違うこと。それは、右京を駆り立てた主は乱馬への純粋な奉仕で、好奇心はそのオマケに過ぎないだろうということ。その比率。そして右京自ら、恥を忍び、ライバルであるはずのあたしに軽蔑される覚悟で打ち明けてくれたということ。
 あたしは、卑怯者だ。

「あかねちゃん…堪忍ね」
 申し訳なさそうに眉を寄せ、小声で右京が囁く。あたしはふるふると頭を振った。
 手なんて、繋ぎたいとも思ってない。そう口にしてみたら、右京はどんな顔をするだろう。そんなことを考えるのは、もう幾度目か数えることも出来ないほどの回数になるけれど、まだ一度も言葉にできたことはない。
 目の前を歩く男女のカップルが、歩きにくそうにべったりと腕を絡ませているのを、右京は羨望を混じらせながら、目を細めて眺めていた。
「このクソ暑い中、ベッタベタくっついてご苦労なこっちゃ」
 ふん、と鼻を鳴らし、右京はハンドバッグをがさごそと探った。携帯を取り出し、画面をスクロールさせる。「えーっと、うちらが観る回は十三時二十分からで、今が十二時五分前やろ…」
 右京がこれから観る予定の映画の情報を整理している隣り、あたしはきょろきょろと街中を歩く人々、その様子、ウィンドウに飾られた洋服、オシャレなカフェにレストラン。目に飛び込んでくるまばゆい世界に思いを馳せ、見渡した。
 電車で数駅か越えれば、休日の都会はこんなにも活気に満ちて、お洒落で。そこに住まう人達はまるで別世界で暮らす人間であるかのように装いも身のこなしもスマートで格好いい。
 ぴかぴかに磨きぬかれた木目の床の、けれどやはり古い道場で汗くさい胴着に身を包み、稽古にいそしむことを、普段は誇りにすら感じているのに、こうしてショッピングに映画に、と街へ出てくれば、そんな自分がどうしようもなく野暮ったい時代遅れの女に思えてならない。あたしと同じ年頃の女の子達は、あんなにも可愛くオシャレに着飾って、青春を謳歌している。青春を謳歌、だなんて言葉が出てくること自体、もう古くさい。
 まぶしい世界にどきどき胸が高鳴りながらも、少し憂鬱になって隣りに振り返る。右京はぶつぶつと独りごちながら、映画の前売りチケットと携帯電話の液晶とを見比べていた。健気に、先週のうち予め買っておいたチケットに印字された内容と、携帯に表示される映画館情報とを改めて確認し、それからおそらく映画の前の昼食をどこでとるべきか、映画館までの距離、食事の内容、店の雰囲気、値段、その他諸々のことを踏まえ捻出しようとしている。
 そんな右京の律儀さが、周囲の華やかで軽薄な雰囲気とを隔てている。隣りをすれ違った、露出した肌をこんがりと焼いた女の子の姿が目に入り、あたしは少しだけ、右京から離れて歩いた。
 すれ違った、イマドキという看板をつけて歩いているかのような女の子。黒のタンクトップとデニムのショートパンツ、高いヒールのサンダル。大きなサングラスに首からかかったクロムハーツのようなゴツゴツとした硬派なシルバーネックレスと、お揃いのリング。大きめのブランドバッグを肩から提げ、すれ違う瞬間鼻についたのは、夏になると女の子達が一様につける、画一的でチープなフルーティフローラル。
「お昼どないしよっか?あかねちゃん、何食べたい?」
「んー。あたしは何でもいいよ。右京は?」
 なんでもいい、と口にしながらも、内心ラーメンは店内の空気が油でむっとしていそうで嫌だし、せっかく街に出てきたのだから食券を買うような定食屋さんも嫌だし、今日の洋服は真っ白なパフスリーブに真っ白のスカートだから、カレー屋さんも洋服が汚れそうで嫌だし、まず椅子が汚れているかもしれないような、オシャレでないお店は行きたくない、なんてことを考えている。
 右京は唇に指を当て、眉間に皺を寄せていた。右京なら、同じ女の子の右京ならわかってくれるはず。
「そやねえ…。あかねちゃんが嫌でなければ、うち、今日はラーメン食べたい気分やねん」
 ヒトはソレを傲慢と呼ぶ。

「ま、間に合った…」
 ぜえはあ、と肩を上げ下げして、荒い呼吸を繰り返す。予告も終わりかけ、本編の始まるギリギリに滑り込んだ映画館内は、満席で、すみませんすみません、と既に席に着いている人達の膝に躓き躓き、小声で謝りながら、目的の席へ腰をかがめて進んでいく。
(間に合ってよかったわあ)
 ふうっと大きく息を吐き出すと、右京が小声で囁いてきた。そうね、と返すと、右京は汗と嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
 大きなスクリーンに映し出されるのはパンフォーカスされた、古びた洋館。そして切り替わる美人女優のアップにモノローグ。情緒溢れる思わせぶりな、短調の曲がバックに流れ始める。
 この夏、一番観たかった映画。この映画の予告がテレビで流れたとき、これだ、とぴんときた。矢も楯もたまらず観たい、と思わせてくれる映画というのは、案外少ない。友達と遊ぶのに、映画館へ月に何度も足を運んでいたとしても、それは少し暇つぶしの色を兼ねている時が多い。なんとなく。どこに遊びに行こうか。とりあえず映画でも観る?何を観ようか。今公開している映画ってなんだっけ?とりあえず、これを観てみようか。
 テレビ画面から映画予告が流れ去り、次のCMに移ると、あたしは隣りでお煎餅を齧っている乱馬を見た。乱馬はぎくっとしたような顔をして、あたしから顔をそむけた。へたくそな鼻歌まで歌い出す。
 あたしは溜息をついて、それもそうだ、と思う。派手な事件もアクションもない映画を乱馬と一緒に見に行ったところで、きっと乱馬は隣りで舟をこいでいるだけだ。感動し余韻に浸っているところを、無神経なイビキと「つまんねえ」「わかんねえ」「退屈」の三つで片づけられぶち壊されるのでは、たまらない。
 だから、右京と観よう、と決めた。どうせ大概の週末は右京と会うことになっていたから、都合もよかった。翌朝右京に、もうすぐ公開予定の映画を今度観に行こう、と持ちかけると、右京は喜んだ。すぐにこの映画の情報を集め始めた。そして前売りチケットが販売されるやいなや、すぐに買ってきてくれた。
「ええ、ええって。ほんま、気にせんといて。小夏を遣いにやらせたら、たまたまついでに、抽選に当たったとかなんやらで貰うてきただけやから」
 そう言って、お財布にかけたあたしの手を止めた。「あれでも一応男やったんなー、小夏もラブストーリーは興味ないらしいわ」
 放課後、乱馬と一緒に『お好み焼き うっちゃん』で右京ご自慢のお好み焼きをつついていると、小夏さんが「ええ〜〜っ!私が使いに頼まれて買った、あのチケット、なくしてしまわれたんですか?ご一緒したかったのに…」と右京に泣きながらつめよっているのを見た。右京はきまずそうな笑顔を一瞬、あたしに向けた。
「もうええやんか。なくなったもんはしゃーないやろ。」
 右京は小夏さんをうるさい、と袖にし、「乱ちゃん、もう一枚食べてき」と豚玉をさっと鉄板にひいた。じゅわっという音に、乱馬が「やりぃ」とニヤけながら指を鳴らす。
「だって!だって、珍しく右京様が私に、一緒に映画でも、と言ってくださったから…」
 小夏さんはシクシクと涙しながら、乱馬とあたしにお茶のお代わりを入れてくれた。「あっ!じゃあ、私、また買ってきます!今度は私のお給料から二枚、右京様の分も私が出しますから!」
 ぱあっと明るく輝かんばかりの笑顔になった小夏さんに、「何いっとるん。そんな金あったら家賃のひとつでも払い!」と右京がつっこむ。
「いーじゃねーか。小夏が払うって言ってんだから、うっちゃん。一回くらい映画一緒に観にいってやんなよ」
 脳天気な乱馬の言葉に、乱馬に惚れているはずの右京は「ほー。よう言うたな。ほんならうち、前から小夏と同じく居候の身の乱ちゃんに聞きたいことあってん」と、乱馬に流し目を向ける。乱馬はぎくりとたじろぐ。「な、なに?」
「そういえば乱ちゃん、あかねちゃんちに家賃払ったことあるん?」
 乱馬と二人家路に着くと、右京のいつもと違う、冷たい対応を乱馬はしきりに気にしていた。
「お好み焼き、二枚もタダで食ったのがいけなかったのかな〜」ひょいひょいっ。普通なら、暗くて覚束ないだろうフェンスの上を、乱馬は身軽に歩いていく。腕を組んで目まで閉じている顔が、一瞬街灯に照らされる。「でもうっちゃんが食えって勧めてくれたんだし…」

 ラブロマンスを一緒に見るのなら。
 恋人がいるのなら、恋人と一緒に観たいと思うのが、あるかなきかの微かな女心。ありきたりだとか、おまえのような粗暴な女がとか、たとえ誰かに嘲笑されても、ロマンチックな感情をロマンチックな関係なヒトと共有することは幸せだ。たとえ仮初めの姿でも、仮初めの幸福はそれなりに幸福だ。それに、仮初めではない幸福というものが、そもそも、あたしにはよくわからない。全ての出来事は全ての人々に役割が振られ、求められた役割を演じられることによって成り立っている。芝居はスクリーンの中だけに存在するのではなく、その逆なのではないか、と好きな映画を観るたびに思う。
 目の前に広がる大画面では、美しい音楽と美しい風景と美しい人達で紡がれる美しい物語が展開しようとしている。こんなにも完璧で美しい世界が、不完全で醜いこちら側の世界より劣っているとは思えない。周囲で日々繰り返される大根役者達による三文芝居の方が、よっぽど。
(あかねちゃん、な、な)
 画面から小声で囁く右京へ視線を移すと、右京は掌をひらひらと振って見せた。画面からの光で、右京の顔には強いコントラストが描かれている。
(映画館中でなら、手ぇ繋いでも、ええやんな?)
 差し出された手に指を絡ませると、右京はぎゅっと強く握り返してきた。映画の間中、絡めた指は緩んだり強く締め付けられたり、シーンごとに強弱された。その度にあたしは、隣に右京がいる、ということを思い出すことになり、もやもやとした黒い陰が心に浮かぶのを感じた。
「映画を見てるとき、話しかけられたり、邪魔されたり。あれ、すごくいやなのよね」
 大分前に、何の話の流れだったか、右京に言ったことがある。そのときは右京もしたり顔で「ああ〜わかるわかる。あれいややんな。こちとら画面集中しとるっちゅーねん。なんで横からちゃちゃいれるんかいな。じゃかーしいっちゅーねん。ほんまやめてほしいわ」と同意していた。「小夏がよーやんねん。鬱陶しい言うても、アイツ、聞く耳持たれへん」
 映画が終わり、エンドロールが流れ始めると、右京は「出よか」とまだ暗い中、席を立った。手は繋いだまま。「まだ暗いよって、周りもわかれへんもん」
 右京がぶん、と繋いだ手を振った。

 右京は、人中で手を繋いだり、腕を組んだり、といったことを嫌がる。腕を組むのならまだしも、女同士で手を繋げば、周囲から好奇の目で見られるに違いない、というのが右京の言い分だった。女の子同士、仲のいい友達なら、手を繋ぐことはそう変なことでもないと思うけど。内心そう思いながらも、口にしなかったのは、これといって、右京と手を繋ぎたい繋がなければならない、と思わないからだ。特に、そのことを右京が負い目に感じていることが察せられたから、尚のこと。右京を責めるようなことを言う必要はない。
 いつからだったか、はっきりとはわからない。体を重ねたキッカケならば、覚えているけれど。
 最初は、本当にただのお勉強会だった。お互いに都合のいい日時に人目を避けるように、こそこそと会う。どうやったら男の人の体は反応して、どうすれば喜ぶのだろう。
 こっそり買い求めた雑誌を眺めては、ああでもないこうでもない、と女二人で不毛な討論を交わす。女の身で男の体のあれこれだなんて、そんな答えなど、わかるはずがない。今度は違う雑誌やら映像やらを新たに、まるで学術書を読み解くかのように眉間に皺を寄せて真面目な顔をして。同じことを繰り返していた。そのうち、こんなことなら、一人でやっていても何も変わらない、という結論になって、じゃあもう解散しよか?と右京が疲れた顔で、溜息をついた。そうね、と頷き、二人で畳みに広げた雑誌を掻き集める。そして、最後に残った雑誌を片づけようと手をかけたとき、右京とあたしは、おそらく同時に、その見出しに目を走らせた。そして目が合う。
 女性同士、ということに興奮する男性もいるらしい。
 男の人の反応はわからないけど自分達のことならわかるはずだ、男性とするのとでは違うのだろうけれど、性的行為というものを自らの体で学習しておくのも、そのときに備えて、勉強になるかもしれない、とかなんとか。二人ともそういう類の雑誌ばかりに囲まれて、そのことばかりを考えていたから、たぶんもう、正常な感覚なんて麻痺していた。二人とも、恥じらうこともなく、一筋の光を見たような気になって、手を取り合って喜びさえした。だからといって、初めて体を重ねることになったときは、さすがに二人とも真っ青な顔をしていたけれど。やり方なんて、二人とも全然わからなくて、初めて服を脱ぎ合った後は、後はもう何をしていいのか戸惑うばかりで、結局もう一度服を着直して帰った。そういえば、キスすらしなかった。
 それからだんだん、買う雑誌が、変わっていった。あたしも調子に乗って「カーミラって雑誌、知ってる?もう廃刊になってはいるんだけど…」なんて持ちかけたりもした。
「あー!知っとる知っとる!知っとるよ!」
 右京はきらきらと目を輝かせた。ふっふっふっなんて不敵な笑い声すら漏らすものだから、訝しく思っていると、右京は後ろに回していた両手をさっと前に回し、あたしの鼻先に真っ赤な本を突きつけた。「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ〜ん!カーミラ4号さまのお出ましや〜!」
 雑誌の赤に勝るとも劣らぬ真っ赤な顔をして、右京は嬉しそうだった。
「廃刊した聞いて、始めはガックリきたんやけど、なんや絶版はしとらんらしいやん?も、それ聞いたら居ても立ってもおられんようなったわ!ほんで本屋さんで注文したんよ〜!ちょうど今日届いたところやねん。あかねちゃん、タイミング良すぎやわ〜!」
 うきうきと雑誌に頬ずりする右京に、ちょっぴりひいてしまう。
「う、嬉しそうね…」
「そっりゃ〜もうっ!あかねちゃんかて嬉しいやろ?や〜っとこれで、ほんまのやり方、わかるようになんねんな!色々試していこね」
 結局その雑誌は、右京やあたしが期待していたようなHow toブックというよりも、その他の内容の方が多く、それはそれで参考にはなったけれど、やっぱり右京はガックリと肩を落とすはめになった。酷く落胆する右京を慰めながら――でも、そんな本がなくても、あたし達はあたし達の方法でいけばいいんじゃない?今までだって悪くなかったでしょ?――右京の落胆ぶりに、焦燥感を抱いた。
 その頃にはもう、後にひくにひけなくなっていたのかもしれない。
 いつからか、右京はあたしにあからさまな愛情を示すようになった。乱馬とあたしが一緒にいると嫉妬する。当たり前だって?そうかしら。乱馬があたしを助けるか何かするために抱きかかえると、顔いっぱいに不服の色を広げた。だから当たり前じゃないか、ですって?そうかしら。乱馬があたしに「かわいくねえ」と言うと右京は、あたしが乱馬をお空のお星様にするのを見送りながら「もう一生帰ってこんでええのにな」と言った。右京の口の端は片方だけ挙がっていた。これでも当たり前だって、いうの?
 あたしは、右京の変化に気がつかなかった。こんなにはっきりとわかるようになるまで、いつからそうなったのか。全くわからない。
 あたしはいつだって、周りに流されて、役割を求められれば、それを嬉々として受け、大根役者の不器用な芝居ながら、頑張って演じようと生きてきた。あたしに振り分けてくれる役割があるのなら、それが嬉しかった。
 お父さんがあたしに道場を継いで欲しいと考えているように思ったから、稽古に精を出す。お母さんがいなくなってとても悲しくて、でも死ぬ、ということの意味がよくわからなくて、お母さんお母さん、とひたすら泣いて求めたけれど、あたしがそうすると、お父さんもかすみお姉ちゃんもなびきお姉ちゃんも、泣きそうな顔をするから、あたしが笑うとほっとした顔をしたから、「お母さんはどうして帰ってこないの?」と聞くことをやめた。東風先生があたしを妹として、そして出来ればかすみお姉ちゃんとの橋渡しとして望んでいたから、そう振る舞うよう努力した。許嫁だと突然妙な親子連れが現れたことも、反発しながら受け入れて。その常識はずれの許嫁が、たくさんの女の子を囲っていい気になっていることに、ヒステリーを起こす、この一連の日常も、なんとなく周りに流されて。周囲を見渡して、それに沿った脚本と即興とで与えられた役を頑張って演じる、出来損ないの役者。
 あたしはたぶん、いつも自分で考えようと決めようとしていない。自らの意思で決断を下して動いていると、これまでは思っていたけれど、それは違うのだと気がついた。気がつかされた。
 右京との関係。最初は、本当にただのお勉強会のはずで、体を重ねたことも、単なる予行練習のつもりだった。それは右京も同じだったはず。
 それでもこの言葉に表しようのない関係が始まったとき。あの手探りの時期。お互いを喜ばせようと、相手の反応を探ろうと、心にもなかった感情やら、心に微かに浮かんでいたとして、小さな事柄を人生におけるビッグバン的変革へと過大表現することによって、耳障りのよい言葉に変換して、そうして二人の絆を無から創りあげていく、虚構の時期。
 調子にのって、望まれているだろう役割を演じ合って、いつの間にか情の深い右京が、重なり合ったときの睦言だけでなく、それに真実の色をのせはじめて。
「うちらまだ高校生やから、こないなこと、誰に言っても許されへん」
 もはや毎日の習慣となった、放課後の右京の部屋。右京はあたしにお茶を差し出す。「乱ちゃんが一番許してくれへん気ぃする。自分の許嫁二人が二人ともおらなって、しかもその理由ちゅーんが、二人デキてまいました、なんてな」
 あんまりしょうもなくてかなわん、洒落にもならんわ、と右京が笑う。一体なんの話なの、と問いただすには、右京の目が真剣に過ぎて、そんなことを口にしたら最後、右京を果てしなく傷つけ、恥をかかすことになる予感がした。
 戸惑いながら、けれど頷くことも出来ず、右京の独白に耳を傾ける。
「でもうち、あかねちゃんのこと、真剣なんよ。当たり前や、真剣やなかったら、女相手なんて、それも乱ちゃんいう許嫁のおる子おなんて、わざわざこないじゃまくっさい相手選ばんっちゅーねん。切れるもんやったらとっくに切ってるっちゅーねん」
 入れてもらったばかりのお茶は熱いはずで、その湯飲みを包む指もまた熱さを感じるはずなのに、指先は右京の言葉が進むにつれ、ますます冷たくなっていくよう感じられた。
「けど、切られへんねん。ずっとずっと、あかねちゃんと一緒におりたい。そのためやったら、うち、何でも出来る気いする」
 右京が俯く。「ここまで想たの、あかねちゃんが初めてや、乱ちゃんかて、ここまでやなかった」
 あたしは堪えきれなくなって、湯飲みを落としてしまった。畳にうぐいす色の液体が広がったかと想うと、すうっと吸収されていく。茶の葉のかすが、湿った畳の上に残る。
「ごめ…」
 震える手で畳に布巾を当てると、右京が畳を拭くあたしの手に、その手をのせた。そっと。
「安心したって。うちがあかねちゃん、全力で守ったるわ」
 そうじゃない、と大声で叫べば、まだ間に合ったのだろうか。けれど右京の底の知れない強さと優しさ、情の深さを知っていて、そんなことをする勇気が、どうして持てただろう?

 波紋すら起こっていない感情を置いてけぼりに、交わされる会話は台詞ばかり高ぶり、ポーズだけは大恋愛。
 右京が将来、二人で暮らすための算段をし始める。あたしの家族に、乱馬に、どう説明するのか。許してもらえるまで、ご家族に頭下げ続ける覚悟はできている、けれど家族と右京との間、板挟みになり、あたしがそれによって傷つくようだったら、駆け落ちしてもいい、そうなったらまた屋台を引けば右京とあたし、二人なんとか食べていけるだろう、ああもしあたしが嫌でなければ、小夏も連れていってもいいかもしれない。
 あたしは熱っぽい右京の言葉に、適当に相槌を打ち、おそらく右京が望んでいるだろう素振りをした。好きだと言う。右京しか見ていないと言う。乱馬を好きであるように振る舞うのは、そう振る舞わなければ、突然の変わり様に怪しまれるから仕方なくそうしていると言う。右京はこの関係を他人に悟られないよう必死だったから、右京は乱馬に関して、それ以上何も問えなかった。不満そうではあったけれど。
 どこで幕引きをしたらいいのか、あたしにはわからなかった。というより、最初のうちは、右京の言葉を、真面目に捉えていなかった。一方で右京の計画がますます綿密に、微に入り細に入り練られていく。毛色の変わった火遊びを楽しむスリルとちょっとした選民意識のような優越感が、徐々にこれは冗談で済まないかもしれない、という恐怖に代わった。
 あたしは、こんなことになった今でも、乱馬と一緒に、天道道場を盛り立てていく将来しか、思い描くことが出来なかった。


次項→


≪戻る