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「あ。ちゃうちゃう。もっと下」
 あたしは右京に言われた通り素直に、中指だけ下の方へゆるゆる移動させた。人差し指は依然しつこく、突起をこすり続けさせる。愛らしい、ぷっくりとしたそれを、つんつん小鳥が啄むようにつついたり、円を描くようにこねくり回したり、微かに触れたか触れないかといった加減でやめたかと思えば、強く押しつけ、そしてまた、上下にこする。そうしながら中指はそろそろと核心へ近付いていく。
 ぴちゃっ。
 付けっぱなしのテレビから発せられるはずの音は、さっきまで二人で見ていたバラエティ番組。わいわいがやがや。どっと笑い。
 雑音の中に、ひとつ。またひとつ。絡み合う、粘り気のある、いやらしくてフケツな水音。それを聞くために、人差し指は固定位置を優しく撫でるだけにして、今度は中指に意識を集中させていく。
「ここ、どう?」
「ん…」
 右京の口から溜息と共に漏れる、くぐもった声。あたしの質問への返事、なのだろうか。
 眉間にきゅっと皺が寄り、上唇が下唇に覆い被さって、たぶん、上の前歯はくるっと下唇を巻き込んで、軽く噛んでいるのだろう。右京の両肩がびくり、と挙がる。
 ねえ右京、と鼻にかかった甘ったるい声を、右京の右耳に吹きかける。ふうっと生暖かい一息をプラスすることを忘れない。
 水音が少しずつ、大きくなる。静かな部屋が、その音だけで満たされるには、あともう少し。そして静かな部屋は、なお一層静かになる。今はまだ、最近人気のお笑い芸人の、間の抜けた声が気になる。
「ね?ここでいいの?」
 右京は身を捩る。返事の返ってこない右京に、もう返事を求めることは諦め、あたしは右京の左の乳首を舌で転がす。右京は左乳首の方が感じやすい。今まで散々、おっぱいを舐めて、おっぱいを舐めるだけしか芸のなかったあたしが、ようやく学んだこと。
 おっぱいを吸いながら、左手で空いているおっぱいを揉む。右手は下へと延ばし、中指と人差し指はそれぞれ異なったリズムをうつ。ああ、指がつりそう。不自然な体勢に首だって痛いし、体重のほとんどをかけている片膝もじんじん痺れてきている。早くいってほしい。それだけを願って、ひたすら指でかき混ぜる。右京の切れ長の瞳。黒目は天井のどこかを漂い、白目が多くを占めている。体がびくびく痙攣している。あともう一押し。右手の中指を引き抜き、薬指を添えてそっといれる。締め付けられる感覚がまだ緩いような気がする。突起を爪弾いていた人差し指で、そこをぐにゃりと押しつぶしてから、中指に添える。今度は三本。乳首を軽く噛む。前歯にひっかけて、そうっと引っ張る。左手で腰のラインをなぞる。やや広めの骨盤と、その上にあるやわらかな脂肪。太股から膝にかけて、きゅっと引き締まった、張りのある筋肉。じっとりとした汗。
 三本の指を、ねじ込む。

 右京に手を引かれて、洗面所へ向かった。右京が蛇口を強くひねり、勢いよく飛び出す水がシンクを跳ねる。液体石鹸のポンプを数回プッシュして、二人、手を重ね合いもつれ合わせながら互いの手を洗いっこして、どちらからともなく目を合わせ、微笑む。右京の顔が近付いてきて、ああキスするんだろうな、と目を閉じる。柔らかい唇が重ねられ離れていく。「ほんま可愛いなあ、あかねちゃん」
 そう言う右京の瞳を覗いてみる。熱を帯びたような、瞳は潤み、目尻は赤らんでいる。
「右京だって。すごく可愛い。ううん、可愛いっていうより、右京って美人なのよね」
 しげしげと右京と顔立ちを眺め、批評家のように、思ったことを口にする。右京は美人だ。それはずっと思っていた。乱馬を慕うライバル達はこぞって皆、美人だ。タイプはそれぞれ、違うけれど。その中でも右京は、楚々として凛としていて、筋が通っているような、これぞ和美人、といった態。シャンプー、右京、小太刀の三人のうち、乱馬を盗られてしまうんじゃないか、という不安。実を言えば、その一番は右京だった。姉御肌で結局お人好しで、料理上手なのは勿論、家事は一様にまんべんなくソツなくこなし、乱馬と幼馴染み、という美点を除いても。容姿だけでも、右京はおおよその日本の男の人が、一番「本命」に据えたがりそうな女性だと思っていた。シャンプーや小太刀のような、一目見ただけで魂が一瞬、全部持って行かれそうな、どぎつい派手さと華やかさはないけれど、いつまでもずっと見つめていたくなる、整った感じ。穏やかで落ち着く感じ。それでいて、どこか神秘的で汚せない感じ。それは、もしかしたら右京が普段、男装をしていたせいもあるのかもしれないけれど、だからといって、それが右京の魅力を損なうわけではない。長い時間をかけて、乱馬が真剣に品定めをするとしたら。乱馬が苦手としている小太刀はともかくとして、それはシャンプーでもあたしでもなく、右京を選ぶんじゃないか。あたしが乱馬だったら、きっとそうする。
「あかねちゃん、何いっとるん」右京は一瞬、目を丸くした。それからぼんっと音がしたかと思うほど、顔が真っ赤になる。「もう嫌やわ〜、ほんま〜。そらうちほど、ええ女そうおらんってうちかて知っとるしっ」
 あたしの背中をバンバンと、右京の怪力でもって何度も叩く。「い、いたいいたいいたいっ!」
「あ。手形ついてしもた…」
「もうっ」
 赤くなっちゃったじゃないの、と洗面所の鏡にうつった背中を見る。鏡の中に、申し訳なさそうに笑う右京と、首を捻って背中を向けるあたしが映っている。右京は美人だ。スタイルも、あたしよりずっといい。バストはあるし、ウェストも細い。でも、右京よりあたしの方が優れた点もある。こうして同じ鏡に映ればわかる。同じ鏡に並んで映ることで、初めて知った。あたしの方が、右京より顔が小さい。色が白い。腕が細い。体を重ねた後、お互いの手を洗いっこすることは慣例だ。そのとき、いつも、あたしは右京の顔に体とあたしの顔に体とを見比べていた。右京には悟られないようにこっそりと、批評家の目で互いの容姿を見比べて、劣等感に落ち込んだり優越感に浸ったりをしていた。右京の瞳に浮かんでいた、情欲の色とは違う、批評家の視線で。
 右京はとろん、と熱っぽい瞳を向けたまま言った。「この前のクリスマス、一緒に祝えんかったやろ?せっかくの一大イベントやったのに、こなしとらんなんて、心残りでしゃーないねん。そんでな、指輪……、お揃いにせえへん?うちが買うたる」
 店をやっているから貯金もそこそこあるし、クリスマスプレゼントもできなかった分、プレゼントさせてほしい、と右京は言った。
 あたしが右京のおっぱいを舐めるだけの女ではなくなった、初めての日。冬も深まった頃。家路は霜を踏み踏み、白い息を後ろになびかせる。

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「ねー右京、これ、すごく可愛いわよ」
「んー…。うち、こーいうん、ようわからんねん。でも、あかねちゃんがいい言うんなら、それでいいんとちゃう」
 ガラスケースに所狭しと並べられたジュエリーを、これも素敵、あれも素敵と目移りしながら眺め見る。華奢で繊細な細工の施された、リングにネックレス、ブレスレットにイヤリング、時計。時間を忘れて吸い込まれてしまう。黒地の上にゴールドのジュエリーが、いつまでも眺めてご覧なさい、というように魅惑する。鼻先がつくくらい近くまでガラスケースにへばりついて眺めているあたしを見かねた、ジュエリーショップの店員さんが、「よろしければお出ししますよ」とにこやかに笑った。
 デパートにある、お気に入りのジュエリーショップ。芸術品のように繊細な、ゴールドのミル打ち細工に透かし細工が得意の、どことなくアンティークな、クラシカルなラインのジュエリーブランド。石はひかえめで小さく用いられることが多くて、でもその使い方がとても効果的で、ダイヤやルビー、サファイヤにエメラルドといった、代表的な貴石以外の宝石を用いたジュエリーも劣らず美しい。実を言うと、いかにも、といった四大宝石のそれよりも、あたしはオパールの神秘的な乳白色、その下から覗く虹色に、より魅了される。モース硬度が低いから、取り扱いとお手入れには注意しなくてはならない、という点が、乱馬に言われずとも自覚している、このガサツな性格にとって、多分に難点ではあるのだけれど。けれど、ひとつとして同じ色・輝きのない、この神秘的な石は、それを差し引いても有り余る魅力がある。まあ、ダイヤ好き・ルビー好き・サファイヤ好き・エメラルド好き…その他様々な宝石に惚れ込んでいる人達は、それぞれ魅了されている石のことを、皆一様にそう言うのだろうけれど。
 きっと、ジュエリーの品揃えは、数ヶ月前のクリスマスシーズンが一番だったんだろう。高校生の身では関係のないことだけど、ボーナスシーズンということも重なって、普段よりクラスアップした商品が並ぶのは、やっぱりクリスマス。ジュエリーなんていう、普段はなかなか気軽に買えないようなものが、買われていくのもクリスマスは集中する。目の前に並べられたジュエリーは、もちろんとても綺麗ではあったけれど、数ヶ月前、今と同じように、隣りで暇を持て余す少女を尻目に数時間もガラスケースにへばりついて眺めていた、あのときのラインナップより劣る気がした。
 右京はもう既に、ジュエリーを見ていない。通りを挟んだ向かい側のブース、色とりどりのマフラーを見ている。マフラーが並べられた棚には「半額セール」という赤文字を黄色で縁取った、大きなポップが踊っていた。いつまでもいつまでも、これ、と決めないあたしに、右京は苛立ちを隠しながらも、隠しきれないでいた。
「そうは言っても、右京もつけるものなのよ?好みとか、ないの?」
 右京の好み。あるならば、先制してほしい。最後の最後になって「こんなん、いやや」なんて言われたら、とてもやりきれない。特に意見もないのなら、もうこのままあたしの好みだけで選ばせてほしい。右京の好みなんて、本当はない方がいい。自分の思うように、デザインも値段も、全部、決めさせてほしい。でも今回のリング資金は全部右京の懐から出るのだから、意見を伺わないわけにはいかない。こと値段に関しては。このうちのどれかにしよう、とガラスケースから出して貰ったリングは、三つ並んでいる。あたしの優柔不断さだけが理由じゃない。一番のお気に入り、二番目、三番目。順番は心の中でちゃんとついている。だけど、値段もその魅力と比例しているのだ。「これにしましょう」と、最高値のリングを躊躇わず指さすことは、さすがにできない。さっきから迷っているのは、そのせい。
 どうか察してほしい。右京を見上げる。右京はガラスケースの上に並べられたリング達をちらっと一瞥した。「っちゅーか、そもそもうち、アクセサリーは基本、つけへんの。邪魔になるやろ。不衛生なるから商売中はつけられんし、ネギくさーなった手えに指輪、つけるん想像してみ。いややろ」
「もーあかねちゃんが思うんに決め」と右京が疲れた風に溜息をつく。
 苛立ち、というものは伝染してしまう。幸せな気分や、親切、好意といったものが伝染するよりずっと容易く。いいのね?じゃあ、いいのね?この、一番高いリングにして、本当にいいのね?悪魔が囁く。
「じゃ、右京。あたし、これがいい」
「ん。おねーさん、これ二つね」
 忍耐強くあたし達(というより、あたし)に接客し営業スマイルをし続けてくれていた店員さんに、右京が声をかける。自ブランドのジュエリーを首から、そして腕に、指に、とジャラジャラ重ねづけしたお姉さんは、不思議そうな顔を一瞬して、それからサイズを聞いた。「サイズは何号がよろしいでしょうか」
「サイズう〜?」右京は思い切り眉をしかめて、あたしを見た。オシャレで気取った雰囲気のあるお姉さんを前に、気恥ずかしくなるのを感じた。「あかねちゃん、何号?」
「あたしは…」ささくれだって、痣もある、ゴツゴツとした自分の手を見る。「11号、かな」
 いくつもの指輪を重ねづけているお店のお姉さんの細い指が目に入り、恥ずかしさが一層強まる。だって、しょうがない。武道をやっていたら太くなっちゃうじゃない!
「ほんならうち、それよりイッコ下のサイズかな」
 右京がさらっと口にした言葉に驚いて、顔をあげた。右京は指輪のサイズを確かめるためのサンプルに指を通していた。まず確かめられては、とお姉さんが出してくれたそれは、1号からいくつものサイズが揃っているリングサイズゲージ。右京の指は、7号のゲージにすんなり入っていった。
「うち、7号みたいやね」
 今隣りにいる女の子が右京ではなく、数ヶ月前、ちょうどこの場所で、ちょうど同じ店員さんの前、隣りにいた女の子だったら。赤髪をお下げにした女の子だったら。あたしは迷うことなく、握りしめたこの右手を振り上げていただろう。右京の顔には何の邪気も浮かんでいない。「あかねちゃんもサイズ、確かめた方がええんちゃう?」
「い、いいっ!大丈夫」
 あたしがぶんぶんと首を振ると、右京は「ほんでも、買うてからサイズちゃうやん、なんてことなったら、じゃまくさいやん。なあ?」と、お姉さんに同意を求めた。お姉さんは「そうですね」と同意しながら、困惑した表情で、あたしに目線を送ってきた。あたしは小さく頷いた。このお姉さんは、数ヶ月前のクリスマスシーズンで、あたしのリングサイズを知っている。例えそのときのことを、記憶していなくても、クリスマス時期の売り上げ表や顧客リストに、あたしのリングサイズは記録されているはずだ。
「あ、でも、サイズは前後2サイズまででしたら修正できますので…ご購入されて一年以内でしたら、前後1サイズ無料でお直しもできますよ」
 にこっと営業スマイルで応じるお姉さんに、内心感謝する。右京は「そんなもんかいな」と納得したようなしていないような顔で「確かめるだけやのに…」と独りごちた。
 右京を横目に、「別々で、ラッピングしてください」とお願いすると、お姉さんは営業スマイルで応えた。「お友達とお揃いのリングなんて、素敵ですね」
 右京は焦ったように顔を赤くして「そうやねん!うちら、仲良しやねん、な!最近友達同士でお揃いのリングするん、流行っとるんよ!ホンマのホンマ、ただの友達同士やねん!あっ!おたくらジュエリー扱っとるんやから、そこんとこ、よう知っといてや。知らんと損するで、ほんま。女の子同士、仲良ーするんは、不思議でもなんでもないねんて」
 お姉さんは呆気にとられたように「そうですか…」と頷いた。そしてすぐに切り替わる営業スマイル。

 ジュエリーショップから解放されると右京は、半額セール中のマフラー、手袋売り場を指さした。「いつも気張ってくれとるし、プレゼントのひとつふたつ、やろかと思うんやけど…半額やって、ちょうどええわ」
 あたしが延々とガラスケースにしがみついている間に、右京は既にめぼしい商品にあたりをつけていたようだった。迷うことなく、カラフルなマフラーを手に取る。ファッションに詳しくないあたしでも、ぱっと見て、すぐにどこのブランドのものかわかった。
「女もんと男もん、どっち選んだらええのか、よーわからんねん。そこらへん、難しいやろ、小夏って。そやから“ユニセックス”なもんやったらええかなー思て…」
 右京の口からユニセックス、という単語が飛び出ることに、どことなく違和感を感じた。右京の手には、鮮やかなマルチストライプ柄のマフラー。
「これなら、女でも男でも、どっちでもええやろ。小夏がいらんゆうても、うちが使えるしな。ま、そんなんぬかしよったら、ただじゃすまさんけどな!」
 そう言って、右京はあたしの首にマフラーを巻いた。「うん、やっぱり女でも似合うな」右京が首を傾げる。「っちゅーか、あかねちゃんだからやろか」
 右京はマフラーを巻いたあたしを、今度は鏡越しで眺める。「ほっそい首やな〜」右京がマフラーに手をかけ、両サイドをひっぱる。うっと、息がつまる。
「あかねちゃんやったら、簡単にいくんやろうな…」
 物騒なことを考えていそうな右京に、鏡越しで視線を向ける。右京はしばらくじっと鏡の中のあたし、というよりマフラーの巻き付いた首とマフラーを虚ろな目で見ていた。「乱ちゃんは…そううまくいかへんね…」
 右京ったらどうしたの、と笑ってみようとして、やめた。声が震えそうだった。左手の薬指に、痛みが走ったような気がした。
 レジへ向かおうとする右京にとことこついていく。右京の横顔には、未だ表情が浮かんでいなかった。無表情のまま、レジカウンターにマフラーを置く右京。かん高い声の店員さんから、「税込みで7,980円でございます」と告げられると、右京はお財布から一万円札と十円玉を七枚出した。「悪いんやけどあかねちゃん、あと十円、持ってへん?」
「あるある」あたしはお財布を取り出し、コイン入れをあさる。「あっ、五百円玉もあった。それに百円玉が…えーと二枚。右京、あと二百円ない?」
「あるある!小銭、あとぴったり二百円やねん。あかねちゃん、ありがと!」
 右京が百円玉を二枚、ちゃりちゃりん、と出し、一万円札が一枚に五百円玉が一枚、百円玉が四枚、十円玉が八枚、キャッシュトレイに載る。ラッピングもしていない紙袋を受け取り、「ありがとうございました」の声を背中にすると右京は口を開いた。「実はこのマフラー。ほんまは乱ちゃんにプレゼントしたい、思て、去年…十月の末頃やろか。見てたものやねん」
 十月の末頃と言えば。思い返してみて、右京を咄嗟に見る。右京は泣きそうな顔をしていた。
「うちのこと、許してくれる?うち、まだあの頃、あかねちゃんの気持ち、疑ってて…。っちゅーより、うち自身の気持ちもようわからんくて…。乱ちゃんのこと、嫌いになったわけやなかったし。一応、うちも許嫁やねんなあ、思って…。ほんで、乱ちゃんに何プレゼントしたらええやろか、思って、雑誌探っとったら、“ポール・スミス”っちゅーブランドがカッコええなあって…そんで、マフラーっちゅうんも、クリスマスプレゼントにええかなあって…。もう乱ちゃんにプレゼントするつもりなんて、全くあれへん。ほんまにこれは、小夏へやねん。色とかデザインがえらいカッコええから、忘れられんかっただけやねん。丁度半額なっとったし」
 神無月。右京が、あたしに「本気だ」と告白してきた、ほんの少し前のこと。ああ、あのとき。それならば。「いったいなんの話なの」と冗談めかして、切り返していれば、まだ、間に合ったはずだったのだ。そうすれば右京も、傷ついた顔を隠しながら、「嫌やわ、あかねちゃん。冗談にきまっとるやん〜」と笑って返してくれたはずだ。マフラーを巻きつけたあたしを見て、乱馬の名前を出すことなどなかったはずだ。乱馬の首にマフラーを巻きつける想像をすることも、もちろん。
 眉を寄せ、青白い顔で必死に弁明している右京に、今ではそんな躊躇いなど見えなかった。出雲に出掛けたがための、東京、練馬における神の不在は、あたしと右京に真実を教えることができなかった。

「あーしかし、ほんっま、恥ずかしかったわ…」
 気が楽になったような、清々しい表情になった右京は、ぶんぶんっとジュエリーの入った、小さな紙袋二つを振り回す。あたしはデパートを出てからというもの、そのもう一つがいつ手渡されるのかを待っている。
「女同士でお揃いの指輪なんて、変に思わはったんやろなー。怪訝な顔してはったもん…。あー!えらい恥ずかしい〜!あーあーあー!」
「そんなことないわよ。右京だって言ってたじゃない、女の子同士でお揃いの指輪するのが流行ってるって。お姉さんだって、そうなんだなって思ったわよ」
「いやっ!そんなんとちゃうっ!絶対、あのおねーさん、ミョーに思っとった!最後にわざわざ『お友達とお揃いのリングなんて、素敵ですね』言いよったの、当てこすりに決まっとるわ〜!ああ〜ほんま、もう…」
 右京は頭を抱えて、愚痴を続ける。未だに紙袋は手渡されない。だいたい右京がお揃いのリングを買おうなどと提案したのではなかったか。あたしは、そんなことないわよ、ともう一度慰めてから、息を吸った。
「それにしても、今日は本当にありがとう」
 右京が顔をあげる。あたしはにこっと微笑む。
「この指輪、大事にするね」
 促されるようにして、右京が紙袋をあたしに差し出す。あたしが紙袋を受け取る。手を伸ばしたとき、左の薬指にはめた、小さなダイヤがいくつか並んだエタニティーリングが、夕暮れの赤っぽい光を弾いた。クリスマスに、乱馬から貰った婚約指輪。
「何があっても、大事にするからね」
 右京は笑って「そらもう。大事にしたってや〜。ほんま高かったんやで〜」と言った。「かなり予算オーバーやったんよ」
 大丈夫。何があっても大事にする。たとえ、このリングが右京とお揃いのリングではなくなったとしても。
「あかねちゃんが自分で買うたっちゅー、そのダイヤのリングよりかは、なんぼか安いかもしらんけど」
 うちからの真心やで、と右京はあたしの左の薬指に光る指輪を指さした。「今日からそこは、こっちの指輪が定位置やろ?」
「どっちもつけるのよ」
「どっちも?」
 怪訝そうな顔をする右京。
「ほら、あの店員のお姉さんもしてたでしょう。重ねづけするのよ」
 オパールのリング。石言葉は、希望とか安楽とか、無邪気とか忍耐とか、たくさんあるけれど。右京からもらった、角度で違う表情に色を魅せる、この素敵なリング。ずっと大事にする。約束する。ずっとつけ続けるわ。ダイヤのリングと重ねづけして使うの。ダイヤのリング。普段はあまりダイヤモンドに興味はなかったけれど、小さな石がいくつも並んだ、このクリスマス限定ライン、フル・エタニティー・リングは特別中の特別だ。そのために、右京が呆れるくらい時間をかけて散々悩んで、単体づけでも重ねづけでも魅力的なオパールリングのデザインを選んで、その中でダイヤのリングに一番似合う、と思ったこの指輪を買ってもらったのだもの。お揃いのリングでなくなったあとも。乱馬からもらった、フル・エタニティー・リング、永遠のリングと一緒に、あたし一人で、ちゃんとつけてあげる。
 オパールの石言葉はたくさんあるけれど、移り気、という言葉もあるらしい。ジュエリーショップのお姉さんは、この石言葉を知っていたのだろうか。


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