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「こりゃ……」
 乱馬はゴクリと唾を飲み込む。
 白く干からびて、カラカラに乾いた土が粉塵となって風に舞い上がる。まばらな草が随分の干上がった地肌になんとか命を取り留め、へばりついている。葉の色は黄色く褪せ、葉脈が貧相に凸となっている。
「どーゆーことでいっ!!ええ!?」
 呪泉郷ガイドは乱馬に胸倉を捕まれ、足をプラプラと地から浮かせた。二人の男の背後には、干上がった呪泉郷。各泉ごとに一本突き刺さっている竹棒が、虚しく天を仰いでいる。
「お客さん、落ち着くね」
「これが落ち着いていられるかーっ!!」
 呪泉郷ガイドは激しくブラブラと揺すぶられる。乱馬はクソッと悪態をつくと、ぺいっ、と呪泉郷ガイドを投げつけた。呪泉郷ガイドは「お客さん乱暴ね」と愚痴ると、衣服についた砂をはらって立ち上がった。乱馬は呆然と枯れた泉を眺めている。
「私もよくわからないが、サフランとの闘い、呪泉洞の地下水脈に変動起きた。おかげで鳳凰山、呪泉の水、戻た。しかし呪泉郷、二日前から水止またね」
「二日前だとっ?」
 呪泉郷ガイドに乱馬が掴みかかる。アイヤー、と呪泉郷ガイドが悲鳴をあげる。
「こっちに来る前、一週間前にちゃんと連絡したじゃねーか!なんで水が枯れたって連絡してくれねーんだよ!!」
「言てたらお客さん、どしたね」
「来るわけねーだろ!水がねえのに、どうしろってんだよ!」
「そだと思て、私言わなかたね」
「んだとっ!!」
 乱馬は拳をあげると、そこでピタリと止まり、溜息をつく。怒らせた肩をおろし、呪泉郷ガイドを地に下ろした。
 ガイドに当たっても仕方がない。仕方はないが、高校卒業半年前から練り上げていた世にも素晴らしい計画が、無惨にも崩れ去り、この憤りをどこへ向ければいいのかわからない。
 乾ききった大地にへたり込んだ乱馬に、ガイドが声をかける。
「お客さん、どんなことあても、男溺泉(ナンニーチュアン)ほしいか」
 顔を膝の間に潜り込ませ、くぐもった声で「ったりめーだろ…」と、乱馬は答えた。
 男溺泉。欲しいに決まっている。高校を卒業したらすぐ、呪泉郷に渡って完璧な男になるつもりで、修行の合間に毎日毎日、アルバイトに励んだ。なびきにちょくちょく、その金を奪われながらも、必死に貯めた。なぜならそれは、中国へ渡る資金よりもずっと大事な、あかねへのエンゲージリングの費用に当てるためでもあったからだ。
 あかねの知らぬ間に――あかねはさゆり達と卒業旅行に出掛ける筈だと踏み、実際その通りだったが――完璧な男に戻って、プロポーズしてやろうと思っていた。未だにはっきりしない二人の関係を、ちゃんと形にしてやろう、と思っていた。シャンプーや右京…は最近どういうわけか、大人しいが――や小太刀に追いかけ回されて、その都度あかねにヤキモチを妬かれて殴られるのも、もうそろそろ終わりにしてやってもいいんじゃないかと思った。
 そうするには、男になってケジメをつけることが何よりも必要だった。そうすることでようやく、新しいスタートがきれると思った。だから誰にも知られることのないよう、こっそり中国まで来たのだ。男溺泉に浸かってすぐ、早ければ日帰りで、遅くとも三日後には日本に、天道家に帰るつもりでいたのだ。
「方法、ひとつだけある」
 乱馬はがばっと顔をあげ、ガイドの肩を強く揺すぶった。
「なんだ!?それは!」
 ガイドはガクガクと揺られながら、言う。
「私、呪泉郷の水、元に戻てほしい。でなければ私、失業してしまうね」
「おう、そうだな。で?方法ってなんだ?」
 乱馬は興奮してガイドを見る。その目は期待と信頼に満ちている。ガイドはニヤリと笑った。電話口では何かこちらにとって不利益な交渉をされたかもしれない、ヘタをすれば断られたかもしれない頼みが、今ならばすんなりと快諾してもらえそうだ。乱馬の他に、目障りな仲間の一人も連れていない。乱馬一人だ。
 ガイドは呪泉郷を越えて向こう、呪泉洞の方角へと指さした。巨大な岩の積み上げられたような山容。その天をつく高い絶壁では、ごつごつと無骨な岩肌が晒されている。
「お客さん、も一度鳳凰山行くよろし。そして薩夫郎(サフラン)に会う。これ、唯一の方法ね」

 乱馬は即答した。


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 とにもかくにも、呪泉郷の水が戻ったのは目出度いことである。
 乱馬は心身共にボロボロになって呪泉郷に戻ってきた。杖をつきつき、やっとのことで足を前に進める。乱馬には、今が何年の何月何日なのかまったく見当がつかない。電話線も引かれず郵便配達員も訪れない山奥で、自分がどれほどの期間を過ごしていたのか、考えたくもない。昔父親と共に、長い間中国で修行していたときですら、中国語を覚えられなかった乱馬が、ニーハオくらいはわかるようになった。
 乱馬は鳳凰山から呪泉郷へと帰途の間中、あのうすらとぼけたガイドを、どうやって懲らしめてやろうか、そればかり考えていた。
「はっ…話が違うぜ…」



 鳳凰山に着いた乱馬は驚愕した。
 あのサフランに会え、と言われた時点で、おそらく闘いになるのだろう、と思っていた。水くせえ、そんなことならわざわざ隠す必要なんかなかったのに、と乱馬は呪泉郷ガイドの言い分を道中、思い返していた。
 妖怪退治・人助け・その他諸々、争ったり武力を必要とすること。
 武道家の務めだ。
 そりゃあ、少しの依頼賃くらいは欲しいと思うけれど、なにより男溺泉のため自分のためでもあるのだから、なくても仕方がないと思う。とはいえ、まあ騙され丸め込まれた気も無きにしも在らず、タダ働きというのもしゃくに障るし、結婚資金――プロポーズもしていなかったが――のために事が片づいたら礼金をせしめよう、と乱馬は考え、先の闘いを思い返し、どのように弱点をつくか、闘いをシミュレーションしながら奮い立った。
 しかし乱馬を待ち受けていたのは手厚い歓迎だった。

 紀瑪(キーマ)を始め、城下の者達は乱馬の顔を見るやいなや、「よくお越しになられました。さあさ、お食事へどうぞ。それともお体をお浄めになられますか、それとも…」と、まるでどこぞの殿様扱いだ。それだけでも驚くには十分だったのに、更に極めつけの一発があった。
 乱馬が「じゃ、じゃあ、とりあえず風呂に入りてえかな。砂まみれだし」と戸惑いながら答えると、サフランお付きのじいが「乱馬さま、お湯浴みな〜り〜」と声を張った。
 干上がった体が、大声を張ったためにさらにギュウっと絞り上げられ、毛艶の悪い羽がぱさぱさと擦れた。
 乱馬は何がなんだかわからないまま脱衣所に連れられ、大理石の豪華な風呂にドボンと浸かり、一体どういうことだと血の巡りの悪い頭を悩ませていた。
 そしてそのとき、乱馬はとんでもない言葉を耳にした。
 いや、最初は自分とは全く無関係の、誰か他のどっかそこらへんにいるであろうアカの他人のことだと思った。なぜなら乱馬は、十八にもなって少々情けない、いや屈辱的だと考えていて、他の誰にも打ち明けたことはなかったが――…童貞だったのだ。下ろしたことのない筆が、ぴぴぴっと知らぬうちに悪さをしたのでもない限り――いつのまにやらパンダが金を稼ぐために、乱馬の精子を精子バンクに提供していたとかいうことなら、まだ考えられないこともない――自分の遺伝子を直々に受け継いだお子様はこの世に存在するはずはなくて、つまり「パパー!」なんて呼ばれる謂われはないのである。ないのであるが、混乱する乱馬の脳天をズブリと貫いた言葉は、まさしくそれであった。

「パパあああー!会いたかったよおっ!!」
 それはサフランだった。


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「おい、てめえッ!ガイドッ!」
 乱馬は荒々しくガイド詰所のドアを開けた。鍵の存在は無視することにした。言いたいことが山ほどあった。
 とにかく大変だった。円形脱毛症にならなかった自分の頭髪のしぶとさを褒めてやりたい。危うくクソ親父のようにつるっぱげになるところだった。悪夢だった。
 確かにガイドは嘘は言っていない。呪泉洞の地下水脈に変動が起き、鳳凰山の断水が救われたこと、そののちに呪泉郷の水が枯れたことは事実だし、呪泉郷が枯れたのは、地下水脈に変動が起きたため、とは言わなかった。
 乱馬は怒りに震えていた。鳳凰山に軟監禁されている間、ずっと表に出せなかった積もりに積もったフラストレーションを解放してやらねばならない。
 なんだって、あのクソガキのお守りなんぞをしなければならなかったというのだ。だいたい、あのクソガキはあかねの命を危ういところに追いやった張本人なのだ。恨み辛みこそあれ、愛情なんぞ欠片もない。それを「パパ」?しかし、それが呪泉郷の水を元に戻す条件だった。


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「どーいうことだよっ!?」
 頭を強かに固い固い大理石に打ちつけると、乱馬は腰にタオル一枚巻いただけの姿で、大広間へと一目散に逃げた。そして途中目に入ったキーマを捕まえて詰め寄った。
 キーマは「どうかなさいましたか」とのんびり答える。背後からバタバタと小さな子供の走り寄る足音が聞こえた。
「まあサフランさま、そんなお姿ではお風邪を召してしまいます」
「だって……だって……!」
 グズグズと子供の泣きじゃくる声が聞こえる。乱馬は恐ろしくて振り返ることが出来ない。
 キーマは乱馬の脇を過ぎ、ぐずる子供を抱き上げたようだった。子供の泣き声が乱馬の肩の高さあたりから聞こえる。
「まあ、お体も濡れたままで…」
 キーマはよしよし、と子供をあやした。乱馬の背中には冷や汗がだらだらと伝う。先程の出来事は、もしかしたら夢ではないのかもしれない。
「余は…余は、一緒に風呂に入りたかったのだ…」と子供…いや、サフランがグズる。キーマがウンウン、と頷く。
「てて様に久方ぶりに会うたのだ、てて様のお背中をお流ししたかったのだ…」
 乱馬はビキッと固まった。そしてキーマが言った。
「そうでございましょうとも、サフラン様。本当に長い間、よく我慢なされました。ようやくお父君と再会できたのです。存分に甘えてよいのですよ」
 乱馬の腰に巻いていたタオルがはらりとと床に落ち、乱馬”自身”が冷たい外気に触れた。
 キーマが素早く乱馬の前に回る。つつつ、とキーマとサフランの視線が下がっていき、乱馬は視線が痛いと思った。
 キーマの口がゆっくりと開く。
「まあ…なんと…粗ま…」
 うっうるせええええええええええええええっ!!
 乱馬はキーマの言葉を聞き終えることなく、全力疾走で逃走した。前を隠さずプラプラと。乱馬の目には涙が光っていた。

「哀れな…」
 キーマは深く同情した。






「…なんでこーなんだよお…」
 乱馬は泣きたい気持ちでいっぱいだった。
 中国に着いたときは、男溺泉にさっさと浸かって、そんで日本にとんぼ返りして、その足で、以前あかねがステキねえ、とウットリ見とれていたジュエリーショップの指輪を婚約指輪に買って、そんでそんでプロポーズしてめでたしめでたし、の完璧な予定があったのに。
 今、乱馬はサフランの”お馬さん”としてパカパカやっている。
 サフランは嬉しそうに「はいどーはいどー!」と乱馬の脇腹を蹴る。果たしてこれは父親のあるべき姿なのか、よくわからなかったが、とりあえずキャッキャッとサフランが喜んでいれば、どうだっていいらしい。
 鳳凰山の城の者達はみな、乱馬を恋しがって暴れるベイビーサフランに手を焼いていたのだ。
 サフランの前世、とでも言うのだろうか。タマゴから孵ることを再生とするならば、まあとりあえず前世といっても間違いではなかろう。その前世の記憶が歪んだ形で現サフランに残されたらしく、ベイビーサフランは物心つくと、「パパあーパパあー!」と泣いたそうだ。
 本来の”パパ”を見ても、サフランはいやいやをして拒否をし、なぜか城内にあった乱馬のポラロイド写真を見つけだし、乱馬を指さして「パパ!」と言った。
 城下の面々は、かつての敵に父親を見る主に、当初は「これは違うのです」と説得にかかったが、結局サフランを宥め諭すことができず、「乱馬を連れてこぬば、呪泉郷を枯らす」と呪泉郷ガイドを脅した。ガイドはその時点で乱馬が呪泉郷に来るとの連絡を受けていたので、乱馬の了解を得ずにハイわかりましたと快諾した、というのが事の次第だった。そして乱馬を鳳凰山に向かわせるために、呪泉郷ガイド達は一時、呪泉郷への水源を止めていたのだ。
 つまり今、呪泉郷は正常な水量で満たされている。
 その話を聞いた乱馬は即座に城を出ようとした。が、サフランが泣いて縋り、その頭上でキーマが「サフランさまが覚醒なさるまで、城下におられよ。でなければ我ら再び呪泉洞を襲いて、呪泉の水、決して渡さぬ」とすごんだ。
 ガキのお守りをするだけでいいなら、まあいいか、と渋々承諾した乱馬だったが、サフランの覚醒までの期間がどれほどなのか、乱馬は尋ねるのを忘れていた。そして鳳凰山は下界と遮断された場所にあるということも失念していた。


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「てめえ、騙しやがって!あンのクソガキ、おれが殴れねえのをいいことに、散々好き勝手しやがったんだぞっ!」
 乱馬は怒鳴りながらガイド詰所に足を踏み入れると、思いも寄らぬ人物を目にし、ぴたりと止まった。

「乱馬、会いたかたね!」

 シャンプーが歓喜に満ちた、艶やかな声で乱馬との再会を喜ぶ。乱馬は驚きに怒りを忘れ、シャンプーのなまめかしい腕が自分の首に回されるのを感じていた。
 薄暗い詰所の奧では、ガイドがボロボロの姿で鍋を炊いていた。擦り切れた衣服に目の回りをぐるりと一周する青痣。腕のあちこちにも、日が経って茶ばんだ痣が見受けられる。乱馬同様、いやそれ以上に疲労困憊した姿だった。シャンプーの仕業だ。


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photo by Do As Chinese - 中国語学習室

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