10

「な、なんでここに…」
 ごろごろと乱馬の胸に頬を擦りつける、シャンプーのなめらかな肌の感触が、我に返れ、とじわじわ乱馬に警告している。擦り切れ薄汚れたチャイナからは、いつもの泥臭い汗の匂いではなく、甘く官能的な花の香りが立ちのぼってきた。
「私、乱馬の行くところいつでもついてくね。これ、愛人なら当然のこと」
 シャンプーの漏らした幸福な吐息が、破れた布地の隙間、乱馬の胸元にじかに触れ、乱馬の首筋にぞくぞくと何かが走った。
「本当の妻、乱馬の危機、全て把握しなければならない。夫助ける、妻の役目」
 ごろごろ喉を鳴らして、乱馬の首に回した腕の力をわずかに強める。“これ”は私の獲物だ、と主張するように。
「あかね、今頃日本で何も知らず、のうのうと暮らしてる。妻、失格ね」
「あかねっ!」
 乱馬はあかねの名が出た途端、弾かれたようにシャンプーから文字通り飛びずさった。
「あん」
 名残惜しそうに彷徨うシャンプーの手を、今度は乱馬ががっしりと掴み、焦燥にかられた目でシャンプーの瞳を覗き込んだ。
「シャンプー!なんでおれがここにいるってわかった?あかねは?あかねは、ほんっとーに知らないんだろうな?」
 シャンプーは不機嫌にふん、と鼻を鳴らして乱馬の手を振り払うと、腕を組み、目を細めて乱馬を睨め付けた。
「あかね、何も知らない。乱馬消えた理由、居場所、全部。もちろん、私が乱馬と一緒にいることもある」
 ニヤリと笑うシャンプーに、乱馬はほっと胸をなで下ろした。緊張に引きつらせていた相好をみるみる崩す。悪意の欠片も見られない、無邪気な少年そのものの笑顔で、災難を逃れられた幸運を喜んでいる、“乱馬らしい”表情。
 シャンプーはそんな乱馬の様子に、肩透かしを食らった。拍子抜け、というほうが近いかもしれない。いったい何が嬉しいのだろう?悪意いっぱいの皮肉のつもりだったのに。
 それとも自分と二人でいられることがそれほど嬉しいのだろうか。これから先もずっと、あかねに知られなければ、二人だけで生きていけるということを、乱馬も自分と同じように望んでいるのだろうか。
 シャンプーは再び、情熱の花が胸に大きく咲き誇ろうとするのを感じた。甘やかに密やかに、かぐわしい香気を胸いっぱいにたくわえて。
「乱…」
「いやーよかったぜ。あかねにバレちゃ、せっかくの計画が台無しになるとこだったぜ!」
 シャンプーはもう一度乱馬に抱きつこうと伸ばした手を、乱馬の台詞を聞いて、止めた。乱馬は「あぶねえ、あぶねえ」と笑っている。
「それにシャンプーと一緒だってバレたら、殺されそうだし…」
 乱馬はシャンプーに背を向けてぼそっとつぶやき、呪泉郷のガイドの方へ向かった。だが、シャンプーに聞こえていないと思ったのだろうが、生憎しっかりとシャンプーの耳に届いていた。
 シャンプーの胸に咲いた大きな歓喜の花はその気色を一変し、毒々しい色の蜜が花弁を伝って垂れた。どろりと胸に落ちるのは、酸の鼻をつく匂い。
 ああなるほど。
 ようやく乱馬の喜んでいた理由が理解できた。それから、正真正銘の馬鹿だ、と思った。
 計画?なんの計画だか知らないが、計画もなにも、あかねを始め、天道家は乱馬が今どこで何をしているのか、まったく掴めていない―――つまり、生死すら不明で、その状態が一年弱と続いている。乱馬から何の理由も聞かされず、突然、忽然と跡継ぎに姿をくらまされた天道家。そしてその当の許嫁。
 シャンプーが側にいることがバレたら、だと。ああ本当に。馬鹿そのものだ。
 シャンプーは、ガイドに半ば掴みかかるように向かう乱馬を眺め、もう一度鼻を鳴らした。己の立場を少しもわかっていない獲物に対し、わざわざご親切にそれを教えてやるつもりはない。

「おい!てめえ、最初っからわかってて騙しやがったな!」
「お、お客さん落ち着くよろし。ね?騙す、言葉悪い。私、嘘は言てない。ね?」
「なんだと!」
 慌てふためき、じりじりと後退していくガイドに乱馬は詰め寄った。とうとう背が冷たい壁に辿り着き、ガイドは己の胸倉を締め上げる、粗野な男の憎悪に満ちた瞳に震え上がった。身をよじって抵抗してみたものの、結局胸の前で両手の平をかざした。
 しかし乱馬は、ボロボロのガイドの姿に同情し、実のところほとんど怒りの炎を消してしまっていた。一方、それなりに怒っているんだぞ、という格好は示しておかなければ、後々また体よく利用されることになりかねない、と掴みかかっている次第だった。実際の乱馬の内心はといえば、あかねにバラさないでおいてくれたらしいガイドに、感謝したいくらいだった。
 シャンプーにバレてしまったのは仕方がない。中国はシャンプーの母国だ。なんらかの伝手はありそうなもの。
 しかしシャンプーにバレ、乗り込まれ、(おそらく)こき使われ、さんざんな目に遭わされながらも……ムースのことを考えると、ガイドがどんな仕打ちにあってきたか、ある程度想像がつくというものだ。誰か他の野郎に泣きつこうとかして巡り巡ってあかねにバレてしまうような事態を招かなかったガイドはエライ。すごくエライ。
 ふうっと乱馬は息を吐き、ガイドを吊り上げていた手をぱっと離した。宙に浮いていたガイドは支えを失い、どすんと尻餅をついた。
「アイヤー」
 イタタ、と尻をさするガイドの正面に、乱馬はしゃがみこんだ。コホン、と空咳をする。
「まあ、今回のことは大目に見てやるとするぜ。約束通り、あかねにバラさねーでいてくれたみてーだからな…」
 それから礼を不器用ながら述べようとする乱馬に、ガイドは尻をさすっていた手をとめ、目を剥いて乱馬を見張った。乱馬はガイドの反応に思わず後ずさった。自分が礼を言うことに、それほど驚いたのだろうか…。
 ガイドは時が止まったような、奇妙な表情で乱馬を見上げた。
「お客さん、それ本気で言ってるか?」
「え?」
 乱馬は小首を傾げてガイドを見た。今やガイドは、元々は細く小さい目をこれ以上見開けないほどにまん丸くし、乱馬を凝視している。
「あかねさんに連絡しなかたこと、お客さん、怒らないあるか?」
「はあああ?」
 何言ってんだコイツは、と乱馬は思った。天道家を筆頭に、日本にいる友人達全てに己の場所を知らせないよう、厳しく口止めしたのは乱馬だ。彼等から乱馬の居場所を尋ねられても、知らぬ存ぜぬで通せ、と乱馬は鳳凰山に向かう前に、きつくガイドに頼んでおいたのだ。
「なんで怒るんだ?おれはあんたに、しゃべるなって頼んだんだぜ」
 驚異の表情をますます強めるガイドに、乱馬は「あっ!」とひらめき、拳をポンと叩いた。
「シャンプーにバレちまったこと?まあそれは、仕方ねえ。許してやっから!」
 おれって心が広いからさーわはは、と陽気に笑う乱馬に、ガイドはその表情を、驚きから呆れ顔へとゆっくり変えていった。
――あかねさんが何度電話かけてきたと思てるね。あの、藁にも縋るようなせっぱつまた声色。幾度目からかは、絶望に満ちていた。
 ガイドは馬鹿みたいに高笑いしている男を一瞥して、ふるふると頭を振った。詰所には、あかねだけでなく多くの人間から乱馬の在を問う電話が幾たびも幾たびも、それこそ毎日のようにかかってきた。
 確かに乱馬には、居場所を教えぬよう何度も念を押されていたが、それは乱馬自身、すぐに帰れるという見込みがあったからではないか。これほどまで長く鳳凰山に居座るつもりが、彼にはあったか。なかっただろう。
 だが、ガイドもまた、それを乱馬に教えてやるつもりはなかった。
 この単細胞にもわかるよう、懇意丁寧に説明してやって不興を買うなど、ばからしい。だいたいこの男の気短なことといったら。身に染みている。
 なぜガイドが日本にいる乱馬の知人に、彼の居場所を知らせなかったか。
 それはシャンプーに脅されていたからだ。決して他言は許さぬと。ましてや天道あかねなど言語両断。知らせればただではおかぬ……キーマに勝るとも劣らぬ凄みをきかせるシャンプーに、非力なガイドがどう立ち向かおうというものか。
 それに、連絡することで乱馬を連れ戻そうと乱馬の仲間達によって鳳凰山が襲撃される可能性もあった。連中は乱馬に負けず劣らず短慮で横暴で凶暴で好戦的で、暴力による解決しか頭にない。むしろ戦える機会を飢えた獣のように目を光らせヨダレを垂らし、求めている節がある。乱馬を助ける、とかいう大義名分にかこつけて、喜び勇んで闘いに身を興じるに違いない。そうなれば原点に戻って、今度は鳳凰山の連中だ。もしかしたら呪泉郷の水を止められるかもしれない。
 ガイドは、事の起こりのキーマの脅しにも、次いでシャンプーの脅しにも、ただ諾々と従う他なかった。ほんのちょっぴりの――ちょっぴりすぎて目にも見えぬ程だったが――乱馬への罪悪感と、なぜ自分がこんな目に!という暴力的な理不尽さへの多大なる憎悪を胸に。

「そういやあ、なんでシャンプーはおれがここにいるってわかったんだ?」
 ひとしきり陽気に笑うと、乱馬はくるりと振り返ってシャンプーを見た。シャンプーは冷たく吊り上げていた目を緩ませ、ニッコリと微笑んだ。
「乱馬の行方、全て知ておかねばならない。乱馬が日本離れるとき、私、見てたね」
「そ、そお…」
 乱馬はひきつった笑顔で答えたが、賢明にも「風呂とか便所に入るときくらいは覗いてないよな?」と尋ねることはやめた。もちろん知てるね、なんて笑顔で言われてしまったら、乱馬はこれからの人生、キョロキョロと不審者のように振る舞って生活していかねばならない。
 乱馬はおずおずとシャンプーを見た。
「あの、も一度聞くけど、おれがここにいること、他のやつに…」
「言てない」
 きっぱりとシャンプーが告げると、乱馬は破顔して「そおか、そおか。そんならいいんだ」と笑った。乱馬はそれでシャンプーへの興味を失ったのか、腹が減った、とガイドの炊いていた鍋に向かう。
「安心するよろし。乱馬がこそこそ天道家抜ける、私の他、誰も見てなかた」
「そっかー」
「私が猫飯店出たのも気付かれてないね。私、慎重に動いた。ひいばあちゃんには話つけてあるが、ひいばあちゃん、誰にも言うはずないね。沐絲も知らないね」
「まー、そーだろうな」
 乱馬の頭には、曾孫と自分を結びつけようと画策していた老婆の姿が思い浮かんだ。確かに、あのばーさんなら、何か特別に他の重要な目的がない限り、“婿殿”と曾孫の時間を引き裂きたいとは思わないだろう。そう思うと、乱馬はできる限り早く日本に帰ろう、と決意した。それからシャンプーには、どうにかしてわかってもらわなければ。
 厄介なことになりそうだ、と思う。どうすればシャンプーは自分を諦めてくれるだろう。できれば傷つけたくないし、シャンプーにも幸せになってほしい…シャンプーには乱馬よりずっと適役の、シャンプーに命を捧げんばかりのムースがいるじゃないか。なにより帰国してからあかねに妙なことを吹聴されるのはごめんだ。せっかくの素晴らしい計画が水の泡だ。
 あかねのためにわざわざ、しち面倒なことをしてやったっていうのに、くだらないヤキモチ――あかねお得意の――で不意になるなんて。

 火から下ろし、蓋をとじ、蒸してあったのを、乱馬は躊躇せずにパカリと開けた。白い湯気がもうもうと立ちのぼる。ガイドが「あああああ。お客さん、まだまだよ…」と悲しげに止めるのを、乱馬は「まあまあ」などと言いながら、邪気のない笑顔で振り払い、鍋の中身を玉じゃくしで掬った。
 シャンプーは乱馬の後ろ姿に語りかけた。乱馬は玉じゃくしから直に鍋をすすりながら、てきとうにふんふんと相槌を打った。
「乱馬が危険な目に遭たら、すぐに駆けつけるため、乱馬が中国渡てすぐ、私、後追った。乱馬が鳳凰山いる間ずっと、ここで私待てたね」
 ずっと待っていた。完全な女になることも、本当なら、いつだってできたのだけれど。乱馬が中国に渡る前からだって、いつだって。
「乱馬」
「んー?」
 ズルズルと音を立てて杓子をすする後ろ姿。白い湯気が乱馬の体を覆っている。
「鍋の味はどうあるか」
「まあまあかなー。味が染みこんでねえっつーか…」
「だからまだて私、言たのに」
 ガイドが恨めしそうに乱馬を見た。乱馬はガイドの声が聞こえなかったかのように「うん、もうちょっとだな」と頷き、蓋を閉じた。玉じゃくしがコロン、と薄汚れた布巾の敷かれた台の上で転がる。
「食事の前に乱馬、一番の目的、済ますよろし」
「一番の目的?」
 乱馬はくるりと振り返り、小首を傾げた。シャンプーは肩をすくませた。
「乱馬、なんのために呪泉郷きたあるか」
「あっ!」
 今初めて気がついた、とでもいうように顔を輝かせる乱馬に、シャンプーはにっこりと笑いかけた。乱馬の傍らに立つガイドは、心底呆れ顔で乱馬を見上げていた。
「乱馬、完全な男になる。わたし、完全な女になる」
 男と女はアンドロギュノス、原形に戻ろうと結びつくため、二つの体は今一度、半身としての完全体に戻る。同時に。そして完全な半身は完全な一体になる。それは、プラトンの饗宴。


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photo by Do As Chinese - 中国語学習室

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