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 淡く頬を染め小鼻をひくひくと動かし、顔を上げてはまた俯く。そんなあかねを、鉄板にジュウジュウお好み焼きを焼き付けながら、右京は見守っていた。
 立ちこめる香ばしい薫りにあかねの腹が鳴る。
「なんや、あかねちゃん。夕食まだやったんかいな。よかったらウチで食べてき。祝い事せなあかん気ぃするしな」
 あかねが言い淀んでいる話の内容。右京はなんとなくわかっている。一年ぶりに天道家に帰ってきた居候。右京の元にも挨拶に来た。
 あかねがはにかむ。
「右京には敵わないわね」
「当たり前や。この一年、うちがどんだけあかねちゃんの愚痴きいたと思っとんねん」
 ぺしっと右京がヘラでお好み焼きを返す。
「ホント。右京には世話になりっぱなしだったわね」
「ほんまやで。これで真っ先に報告するんがうちやなかったら、ヤキ入れなあかんところやったわ」
 丁度いい頃合いに焼き上がったお好み焼きを、鉄板の上から手際よく皿に移す。
「豚玉、お待ち」
 青白い手をした客が両手をのばして、危なっかしく皿を受け取る。アツアツのお好み焼きがのった皿もまた熱く、客は小さく「あつっ」と言った。
「…もちろん右京に一番に報告しにきたのよ」
 あかねがぐっとツバを飲み込む。それを見て右京は、丹田に力を込めて備えた。次にあかねの口から出てくるだろう言葉には、ある程度の心構えが必要だった。

「右京。あたし、乱馬と結婚する」
「ほんまっ!?やったなあ、あかねちゃん!」

 右京はヘラを放り投げてあかねの手を取った。あかねは、ヘラが客席に飛んでいったのを見て、危ないわ、と苦笑した。それから「ありがとう」と微笑む。
 清廉でいて、匂い立つような艶を浮かべるあかね。紅をひかぬ淡い桃色の唇は微かに濡れ、頬は薔薇色に染まっている。
「うんうん。ようやっとや。ほんま。やっとあんたら二人、まとまってくれんのやなあ」
 右京は満足そうに頷くと、目尻に浮かんだものを拭った。それから飛んでいったヘラを見る。
 顔前にヘラが突き刺さったことに怯える客からヘラを抜き取り、「悪かったなあ」と快活に右京は謝った。客は蒼くなった顔を神経質にひきつらせて、「だ…大丈夫です」と震える声を振り絞る。そしてさめざめと泣いた。
「あかねさん…。とうとう結婚してしまうのですね……しくしくしく」
「…あんたも相変わらずやなあ、五寸釘」
 ひ弱な肩を震わせる青年を右京はゲンナリと見下ろした。常連客への対応としてはあんまりな気もするのだが、高校時代からの旧友である上、軟弱男の象徴である男に、右京としてもこれ以上の接遇は出来そうもない。
 湯気を立ち上らせる美味そうな豚玉に涙を落とす五寸釘。あかねは五寸釘に、恐らく今まで五寸釘の目に映ったうち、最高の笑顔で微笑みかけた。
「まだ式の日取りは決まってないんだけど、そのときは五寸釘君もよかったら来てね。乱馬も喜ぶわ」
 その言葉に、五寸釘の嘆き声はより悲愴の色を増した。

――あかねちゃんは知らんのやろな。
 右京は、より一層、悲劇じみた声を出して泣く五寸釘と、その背中に手を回して宥めるあかねを見て、溜息をついた。
 それから、あかねが右京の持たせたスペシャルミックスモダン焼きを手に帰路につくと、右京は未だに鬱陶しく泣き続ける五寸釘を追い出しにかかった。
「あんたもええ加減にしとき。惚れた女の幸せ喜べんでどないするん。男やろ」
「そ、そんなこと言われても…僕はただ…」
「ただ、なんやの」
 五寸釘は少し黙って、それから卑屈で厭らしい笑みをうっすら口元に引っかけ、右京を見上げた。
「久遠寺さんも大変ですね。本当は早乙女の事、まだ好きなのに。残酷ですよね、あかねさん」



 五寸釘を店から閉め出してピシャリと戸を閉めた後、右京は自分が何を口走ったのか思い出せないのに驚いた。たった今口から飛び出した言葉なのに。
 右京は顔をあげ持ち直すと、カウンター席に並ぶ客に笑顔を振りまいた。
「お客はん、すまんかったなあ。えらいカッコ悪いとこ見せてしもて」
 愛用のヘラを手に気丈に振る舞う女店主を、常連客が包み込む。使いから戻った小夏が引き戸を開ける。店が華やぐ。
 小夏が注文のミックス玉を右京に手渡した。


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「あかねのやつ!俺の話なんかちっとも聞きやしねえ」
「乱ちゃん、ええ加減にせえ。乱ちゃんの事情、なんやようわからんけど、うちかて今の乱ちゃんに味方でけへん」
「なんでだよ!」
 カウンターに叩きつけられるグラス。飛び散った水が乱馬の顔にかかる。乱馬は濡れた前髪をふるって水しぶきを飛ばす。
 右京の目の前に居座り、ここ二・三日前まで一週間ほど、営業妨害を続けていた男は依然、逞しい男のなりのままだった。
「…ほっんまに乱ちゃん、水かぶっても女になれへんのやねえ」
 右京がじっと乱馬を見つめる。乱馬は先程の激昂を薄く笑うことにすり替えた。
 最近、いつの日だったか、似たような顔つきをした男を右京は見た。誰だったろう、と考えて思い浮かんだ。
「ああ、そーだよ。もう二度と女になんかならねえ。念願かなってな。でも、あかねはそんなことどーでもいいみてえだな。俺がどれくれえ苦労したかも、なんもわかってねえ」
 乱馬はけっと悪態をつくと、店の出入り口を眺めた。右京は溜息をつく。
 乱馬のさっきの顔つき。五寸釘と同じ表情。卑屈で厭らしい、あのうすら笑い。
「あんなあ、乱ちゃん。乱ちゃんがどんだけ苦労したんかは、うちも知らん。けどなあ、乱ちゃんが黙ってこの町出て行って、なんの連絡もよこさへんで、生きとるかもわからんようなって。あかねちゃんがなんの苦労もせんかったと思う?」
 乱馬は顔を背けたまま動かない。右京は濡れたカウンターをひと拭きする。

 乱馬が突然消えてから現れるまで、微笑みながらの「大丈夫」を右京は何度も見せつけられた。新しい道場の後継者探しに傾き始める天道家。乱馬の情けなさや幼さや、数多の短所を挙げ連ねて、右京がそれに相槌を打つ度に、消えていきそうだったあかね。

「あかねちゃんの苦労かて乱ちゃんに負けへん思うで」
 カウンターに置かれた乱馬の左手が縮んだ。肩肘をついた右腕が顎から外される。

 乱馬を追いつめるつもりはなかった。諸手を挙げて乱馬に賛成することは出来ないにしても、乱馬の男としての矜持を汲んでやろうと思っていた。乱馬を孤立させることが危険なことはわかっていた。けれど右京の口は止まらなかった。
 乱馬が立ち上がる。振り返って右京を睨む。右京はカウンターの下できつく拳を握った。
「…ウッちゃんもわかってくれねえんだな」
 乱馬の目は憎悪に燃え、そして孤独だった。右京は己の淀みなく回り続ける舌を恨んだ。
 西日が戸の隙間から入り込む。淡い逆光となり、乱馬の表情が曖昧になる。
「乱ちゃんがあかねちゃんにええカッコ見せたい思うんはわかるで。男はグダグダ言い訳したらあかんねん。黙ってついて行くんが女の仕事や思うし、浮気の一つ二つ、男の甲斐性や」
 乱馬の瞳が揺らぐ。
「浮気なんかしてねえーって…」
 右京が乱馬を遮る。
「でもわからんわ。別れよう言われた相手にも、女は忠誠誓わなあかんのかいな」
「別れたいなんて一言も言ってねえだろっ!」
 右京は腕を組んだ。細めた目に映る男は、真っ赤な顔をしていた。
「へえ。そうやったん。それは知らんかったわ。『あんたの人生背負いません。一人でやってきます』ゆうのは別れやないんやな」
「だからっっっ!それはワケがあるって言ってるじゃねえかっ!それにウッちゃんだって、俺が格闘家としてデビューするの、最初は賛成してくれてだだろっっ?!」



 グラスに新しく水を注いで乱馬の前に置く。薄暗い店内に延びる一筋の橙がグラスに反射する。
 右京は乱馬に腰掛けるよう促す。
「確かに賛成した。マスコミ出て有名なって、稼いで、いずれ道場継いで大きくさせるつもりなんやろな思たから。そらええこっちゃ思ったで。けど、あかねちゃんの気持ちもあんねんで、乱ちゃん」
 右京が屈む。カウンターから右京の後頭部が覗く。
「冷やしか出さんといて、悪い思うけど…。茶っぱ、切らしとるんや。これ貰いもんやけど、よかったら食べ」
 にゅっと白い手がカウンターに延び、その指先から押される月餅が三つ。どれも端が欠けている。
 右京の顔が現れる。
「うち、今ダイエット中やねん。あの小夏も流石にもう飽きたみたいでな。こんなデカい箱いっぱい貰ったんよ。お客はんの気持ちは嬉しいんやけどなあ、二人所帯やったら食べきられへん」
 右京は両手で大きく丸をつくり、その菓子箱の大きさを示す。
「…意地悪言ってしもたけど」
 右京は力無く笑った。乱馬がぎこちなく腰を下ろす。
「そのワケちゅうもんがわからんと、あかねちゃん納得でけへんよ。…そら男は言い訳したらあかんゆうたけど」
 反論しかけた乱馬に右京は手をかざす。
「でもなあ。あかねちゃんはさっきうちが言うたように思てるんちゃうかな。ワケわからへんと思うで。突然乱ちゃんが消えた思たら戻ってきて、ハイ結婚しましょう言われて、喜んどったらシャンプーがなんやケチつけて、そんで今度は『道場継ぎません。小太刀んとこで働きます』やろ?そら、あかねちゃん、わからんわ」
 乱馬は黙って右京の言葉に耳を傾けていたものの、その顔には決して納得した色は浮かばない。月餅を包む和紙を剥がして一口で飲み込む。水の入ったグラスを手に取る。
 乱馬の喉仏が大きく動き、水と一緒に菓子が飲み込まれるのを待って、右京は口を開く。
「自分が必要とされとる実感なんて持てへんもん。乱ちゃん、一人で頑張っても、空回りしとるだけで伝われへん。あかねちゃん大事にしたいゆうんはええけどな。乱ちゃんのは少し違てる。男やゆうても、一人で生きてくんやないんやから、少しはあかねちゃん頼りぃ。なんのための結婚やねん」
 乱馬が俯く。グラスをきつく握りしめる。びしり…と鈍い音がグラスから発せられる。
「…そんでも言えねえもんは言えねえ。大体っ!この俺がハッキリ、け、け、けけけ結婚するって言ってやったのに、なんで信用しねえんだよ!あいつは」
「あかねちゃんのためや思うても言えへんの?」
「好きだって言えば、それで十分じゃねえか」

 乱馬がガタリと立ち上がる。ヒビの入ったグラスと、水滴、月餅が二つ、丸められた和紙。
 乱馬は振り返らず「ウッちゃん、世話になったな」と言い捨て出ていった。
 店中至る所に鮮やかな橙の夕陽が広がる。右京は乱馬の後ろ姿が戸で隠されるまでじっと見守っていた。

「十分やないときかて、あるんやで…」


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 白っぽい日差しが目の前の日本家屋を照らし、煤けた壁や太く逞しい喬木の肌を洗う。溜まりを覆う藻と苔は青から黄色へと、その色相を変え、昼前の輝度を示す。
「こんにちはー。久遠寺ですー」
 天道家の門をたたく。手には出来たてのお好み焼き。
 美味しいものでも食べれば幾分、気分も落ち着くだろうと考えて、いつもより豪勢で愛情こもった、スペシャルお好み焼きを焼いた。乱馬もあかねも、右京のお好み焼きを高校の頃から好いてくれていたから、喜んでくれるんじゃないかと思った。
 昨日乱馬が店を出た後、右京の心に浮かぶのはただひとつ。後悔だった。

 数日前に乱馬が店に顔を出さなくなったときも、後悔したはずだった。
 乱馬が孤立無援であることをわかっていたのに、営業の邪魔だと言わんばかりの態度を取ってしまった。商売の手を緩めることなく、お好み焼きを焼く合間に、「そらあかねちゃんが悪いなあ。けど乱ちゃんも乱ちゃんやで」とか「少し経てばあかねちゃんも許してくれるんとちゃう」とか、適当な相槌を打っただけだった。その日最後の客が捌けると、それから少し、店の隅でお冷やを飲み続ける乱馬の話相手になり、小夏に後片づけを任せて天道家へ送るくらいで。
 そんなことを一週間ほど続けると、乱馬は「商売の邪魔してわりぃ」と申し訳なさそうに呟いて、それから二・三日姿を消した。
 そのとき、右京は後悔したはずだった。
 二・三日で戻ってきたからよかったものの、そうでなければ、乱馬が再び天道家から去ったのは、上手く立ち回れなかった己の責任だと思った。



 天道道場の看板が日を浴びて白く霞む。
「今度こそ、うちがなんとかしたる」
 泣き腫らした目で疲れたように微笑むあかねを見るのも、憤りと孤独に荒れる寂しげな乱馬を見るのも、もう十分だ。






 あかねにしてみれば確かに、道場を継がない、と宣告されることは別離と受け取っても仕方がないのだろう。
 しかし、と右京は思う。
 それは短慮と言えよう。あのどうしようもなく不器用な乱馬が、やっとのことで将来を誓ったのだ。その思いはそれほど容易に変わるものではないだろう。跡継ぎになる決意は固かったはずだ。翻すつもりなどなかったはずだ。
 何某かの事情というもの。事情そのものと、隠す理由。
 右京にもわからないけれど、それは恐らくあかねを裏切るものではないはずだ。いや、もしかすればそのようなものであったとしても、乱馬自身はそのつもりはないはずなのだ。恐らく、あかねや天道家を大事に思うからこその見栄であったりするはずなのだ。
――道場主となるのは、何も今すぐ、結婚してすぐでなくてもいい。
 そう乱馬も考えているのではあるまいか。
 乱馬は将来、決して道場を継がぬ、と言ったわけではない。
 格闘家として名を馳せてから、そのネームバリューによって道場を栄えさせることは、ままあることだ。その効率をあげるために、どこか大手事務所に所属しなければならないとしても、それくらいは大目に見るべきことだろう。後々、ちょっとした問題を引き起こすかも知れないが、最初の契約で断りを入れておけばいいのだ。

――その事務所というのが九能小太刀でなければ、右京も戸惑わずに応援したくらいだ。

「ほんっまにシツッコイ女や…」

 三日ばかりの家出の後、乱馬が天道家に帰る前、その早朝に右京は誰より早く――小太刀を除けば――乱馬から、新しい就職先について報告を受けていた。そして大喜びで賛成した。いい話だと思った。
 小太刀の名前が出てくるまでは。


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 乱馬はまだ陽も昇りきらぬ早朝、店に押し掛けてきた。乱馬の顔は、ここ最近、陰陰滅滅としていたのが嘘だったかのように、喜びに溢れていた。
「ウッちゃん!聞いてくれ!俺、スカウトされたんだ」
 右京は半纏を羽織り、寝ぼけ眼を擦りながら、目を輝かせる乱馬の話を聞いた。
「これでシャンプーを追っ払えるし、あかねも喜ぶに違いねえ!!」
「ようわからんけど…なんや…よかったなあ、乱ちゃん…」

 右京が欠伸を噛み殺して聞いた話には、乱馬の実力を理解している人物が居て、その人物は大金を積んで格闘家としての乱馬を迎えたい、ということらしかった。
 そこまではよかった。
 右京はうっすらと眠気で覆われた頭で、ぼんやり「よかったなあ」を繰り返していた。小夏が慌ただしく玄関先に現れ、乱馬を威嚇するのも、右京はどこか他人事のように眺めていた。
 が、その右京の目も覚めた。
 乱馬の口から出てきたスポンサーの名前に、完全に右京の目が覚めた。

 スポンサーは九能家ということだった。

 なんのことはない。小太刀が乱馬をものにせんと、裏金でも回して、この突然の幸運を捻り出したのだ。
 もちろん、その背景がどうであろうが、本人の実力が伴わなければ、すぐに乱馬は格闘界から姿を消されるだろう。実力の世界だ。
 きっかけという幸運を掴むには、それを何もないところからポンと作りだそうとすれば、金がいる。が、留まり続けるには、金だけではどうにもできない。
 その点、乱馬には実力があった。誰もを黙らせるほどに充分な、人間離れした実力があった。
 乱馬は必ず、このチャンスをものにできる。ルックスも、そう悪くない。多くの女性ファンの心を射止めることができるだろう。そうなれば、マスメディアへの露出も期待できる。稼げる。成功する。
 何より乱馬が自信を持つ分野で。何より夢中になれる、これまでの人生全てを注いできた分野で。好きなことが仕事となり、それは成功する。
 夢に描いたようなサクセスストーリーが目の前だ。

 魅力的な話だった。
 だが、乱馬にもプライドがあるだろう、と、この話は勿論、断るものだと右京は思った。喜びに満ちた乱馬の顔はその逆の結論を示している気もしたが、なにしろスポンサーが、あの小太刀となるのだ。
 しかし乱馬は言った。

「これからあかねに、小太刀んとこに世話になるって言いに行こうと思ってよ。ウッちゃん、話聞いてくれてサンキュ!!」

 呆然とする右京と釈然としない小夏を置いて、乱馬は天道家へと走っていった。
 その数時間後にまた、怒りに肩を震わせる乱馬が右京の前に現れることになったのだが。


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「右京…」
 戸に寄りかかるようにして、あかねが玄関先に姿を現す。右京は自慢のお好み焼きを下げた左手を前に出した。
「あかねちゃん、昼まだやろ?うち、スペシャルミックスモダン焼き、焼いてきたんや。みんなで食べ…」
 あかねがしゃがみ込む。
 右京の視界が歪む。白く包まれた天道家が霞んでいく。
「あかねちゃんっ?!」
 走り寄ってあかねの手をつかむ。
「乱ちゃんはっ!乱ちゃんはどないしたんっっ!?」
 右京の引っ張り上げたあかねの細い腕が、だらりと落ちる。



 玄関から右京を迎えに出てきたあかねの薬指に、指輪はなかった。乱馬は既に天道家を出ていた。
 右京は息を呑んだ。

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photo by Four seasons

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