あかねの目の前には白い封筒が所在なさげに佇んでいる。
しかし、あかねにしてみれば、天道あかね様、と書かれたそれは、あかねの平穏な生活を地盤から覆す恐ろしい魔物のようで、あかねは眉をひそめて視線を逸らした。沈痛な表情が、それがどれほどあかねにとって、苦痛をもたらすものなのかを雄弁に物語っている。
「お節介よ…」
あかねはぽつりと漏らす。
何も知らないくせに、と、どす黒い感情があかねの胸に沸いて出る。
ポニーテールにリボンをくくりつけた、可憐な男の子。もう二十歳をとうに過ぎたというのに、彼は未だに女子高生のように無邪気で可愛らしい。セーラー服だって、まだ似合う。きっと、そこらの女子高生には負けない愛らしさを未だ誇って、完璧に着こなすだろう。
彼と知り合ったばかりの頃のあかねなら、あの頃のあかねなら、彼に負けないくらい初々しくて少女らしかったけれど、今ではこんなに違う。あかねはもう、高校生の頃とは違う。容姿だって大分、世間慣れしたように冷たいものになってしまった。擦り切れてしまった。お愛想の笑顔が上手くなった。
無邪気に「あかねちゃんも行くんでしょう?」なんて笑う、彼とは全然違う。
「私も行きたいなあ。卒業生じゃなくても参加していいのかなあ?」
つばさはそう言って、あかねにこの招待状を押しつけて帰った。有無を言わさず、ただ一方的に喋って、あかねの手に招待状を捻り込んで手を振って帰っていった。
右京の差し金に違いなかった。
「行かないわよ…っ!」
あかねのヒステリックな鋭い声に、階下の早雲は気がついた。あかねの声はとても小さく、扉を閉めてしまえば他に漏れ出ることのないほどだったにも関わらず、固く扉の閉められた彼女の部屋から早雲へと直接伝わった。
早雲は一度立ち上がって、しばし逡巡し、また座り直す。ちゃぶ台の上に置いた新聞を手に取った。
胸を抉られるような思いで、早雲は新聞を読む。
誰が彼の愛しい末娘を、これほどまでに傷つけ突き落としたのか。
――彼本人に他ならない。
早雲はあれから毎日、亡き妻へと問いかけていた。
自分のしたことは間違っていたのか?愛娘と親友の息子が、自分と愛しい妻のように、いつか幸福な家庭を築けると、そして流派を二人で支え継続していってくれると。最初は反発しあっていても、いずれ惹かれ合うに違いない。なぜなら親友の息子であるのだから。自分が信頼する、早乙女玄馬の大事な一人息子。同じく無差別格闘流を担う若者。その彼と我が娘がうまくゆかぬはずがない。これ以上の良縁はないに違いない。
全て、エゴだったのだろうか。――そうだ。エゴだった。
ただ普通に恋をして、結婚して。
仮に無差別格闘流が途絶えたとしても、あかねが幸せであるのならば、それでよかったはずだ。あかねが普通の女として、幸せになる。それだけで十分、素晴らしい人生であったはずだ。早雲にとっても。
娘の幸せを願うのがたった一人の父親として……ああ、なんと愚かだったことか。
早雲はいつの間にか引き裂いていた新聞を見やり、重い溜息を漏らす。
最近、早雲の周りの新聞はことごとく引き裂かれてしまう。彼の気づかぬうちに、いつの間にか新聞が破れている。読もう、と思うときには、既にどの記事も内容の繋がらない紙切れになってしまっている。
ちゃぶ台に手をついて、立ち上がる。早雲は愛用の湯飲みを取りに流し場へ足を向けた。
最後は酷かった。
いつも言い争いばかりの二人だったけれど、あんなに低俗で下世話な台詞を言ったことはなかったし、これから先もないだろう。ないことになっている。乱馬と顔をあわさぬ限り、もう二度とないのだから。
もう理解しようなどと思わない。早乙女乱馬が何を考えているかなど、理解しようと思うことがバカだった。あかねには決してわかるはずがなかった。
結婚しよう、一緒に無差別格闘流を盛り立てよう、と言われたその次の日に、シャンプーが天道家に「責任をとれ」と怒鳴り込んできた。
シャイで不器用な乱馬がその台詞を絞り出すのに、どれほどの勇気が要ったのかあかねは知っているつもりだったから、本当に嬉しかった。プロポーズされたその日まで、一年ほど離れていたから、その嬉しさは天にも昇るものだった。あかねにプロポーズをするために、中国へ渡って完全な男に戻ってケジメをつけたかったのだ、と真っ赤な顔で拙い様子で説明する乱馬が愛しくてたまらなかった。
「何も約束しねえで日本を離れたのは悪かったって思ってる。でもよ…その…その…。お、俺だって…ふ、不安とゆーか…っ。その………だああああああっ!だから!!俺がいねえ間に、おめーが他の男とっとかっ!!!!」
あかねはプウ、とふくれてみせた。
「なによそれ。あたしが尻軽だって言いたいわけ?」
「ちっちがうちがうちがうっ!!そうじゃねーって!!!!だ、だっだからっ!!」
わたわたと腕を振り回す、ゆでだこ状態の乱馬にあかねはぷっと笑った。
「はいはい。わかってるわよ。あたしのことが好きで好きで仕方ないから、心配だったのよね?」
「………っ!!!うっうるせええー!!!」
あかねはケタケタと笑った。心から幸せだと言わんばかりの笑顔で。
乱馬はちょっと拗ねてから、気を取り直して「結婚しよう」と言った。それからあかねの左手の薬指に指輪をはめた。緊張で震える乱馬の指はうまくあかねの指に指輪をはめることができなくて、乱馬は「あれっ?あれっ?」と焦った。
何度目かのチャレンジも失敗に終わると、乱馬はおそるおそるあかねを見上げた。
乱馬の手の中の9号の指輪。あかねの指のサイズは9号だと、なびきから情報量の一万円と引き替えに聞いていたのだが。
「…おめーひょっとして太ったんじゃねーか?」
「な…っ!失礼ね!!」
あかねが久しぶりに乱馬を窓の外へと殴り飛ばした夜だった。
それなのに、その翌日、シャンプーがもの凄い形相で「責任をとれ」と乱馬に詰め寄った。
別室で乱馬とシャンプーが小声で言い争い、時折感情の高まったシャンプーの叫び声が聞こえた。
「あかねにバラすね!」
自分の名前が叫ばれたとき、あかねは持っていた茶碗を落とした。乱馬とシャンプーに出すつもりのお茶だった。
何の責任なのか、あかねは想像したくもなかったけれど、乱馬を問いつめた。もしかすればあかねの下世話な想像とは違うことかもしれない、と淡い期待があった。
しかし乱馬は「俺は悪くねえ」とばかりに開き直り、うるせえ、で全てをうやむやにした。
あかねの涙と怒りがどうしようもなくなると、乱馬は天道家から飛び出して、右京の店に逃げ込んだ。そして少し落ち着いた乱馬を右京が引っ張って連れてきた。
それを幾度か繰り返すと、右京の店にも寄りつかなくなった。おそらく右京が閉め出したのだろう。
それから数日後。どこへ彷徨っていたのか、ある早朝、突然玄関先に姿を現し「あかねえ〜〜〜〜!喜べっ!」と満面の笑顔で叫んで、天道家の面々を叩き起こした。
そして乱馬が口にしたことは、あかねを奈落の底に突き落とした。
あかねを天国に舞い上がらせたのと同じ、プロポーズを申し込んだのと同じ口で乱馬は決別を告げた。
「天道道場は継がねえ。小太刀の事務所に行く」
理解しようなんて、バカだった。
あかねにとって喜ばしいこと、が天道家を継がぬ事だと乱馬は言ったのだ。その言葉に、お互いにとって最良の道が別れである、という意味以外、何があるというのだ。
それなのに乱馬はよくわからない繰り言ばかりで、「この分からず屋!おめーみてーな可愛くねー女、誰が嫁に貰ってやるかよ!」と叫んで出ていった。それが最後だ。
乱馬の醜態に、のどかは泣いて謝罪した。天道家の面々は複雑な面持ちで、頭を下げ続けるのどかを制した。
そのときはまだ、あかねは怒りで息巻いていて、そのおかげで活気に溢れていたとも言えたし、長く離ればなれだった息子のあまりの振る舞いに、のどかの方がずっと気の毒に映ったのだ。
「あかねちゃん、本当にごめんなさい。本当にごめんなさい…。おばさん、まさか…まさか…。ごめんなさいぃ……」
のどかは最後まで顔をあげられずに、パンダと共に天道家を去った。あかねが「おばさまのせいじゃないわ」とのどかに微笑みかけると、のどかは泣き崩れ、パンダがそれを支えて出ていった。
「何もしらないくせに……!」
罪のない笑顔で手紙を押しつけていったつばさ。
何も知らないくせに、どうしてそうやって簡単に、人の心をズタズタに切り裂いていけるのだろう。
――何も知らないくせに。
乱馬もまた、あかねのことなど、何も知らなかった。あかねも乱馬のことなど、何一つ知らなかった。
つばさが持ってきた招待状。右京が電話で言っていた同窓会の招待状だと、あかねはすぐにわかった。つばさが門前に現れた時点で、きっとそうだ、と確信していた。
右京は否応なく、二人の醜い争いを目の当たりにして、巻き込まれて、あかねが知るところの全てを右京は知っている。あかねが知らないことは右京も知らないし、右京の知らないことはあかねも知らない。だから二人して、乱馬の暴挙の理由を知らぬまま、二人して乱馬を愛して憎んだ。
右京以外に誰も知らない。誰かに一から説明する気力などない。だから右京以外は、誰も、何も知らない。
右京にはずっと世話になり通しだった。高校を卒業してからというもの、右京以外にあかねが頼った友人はいない。
その上に、申し訳なく思いながらも、話を逸らして早々に切ってしまった電話。
右京の成功への祝いの言葉を誤魔化しのために使ったことに、あかねは罪悪感を感じていたから、居留守を使おうと脳裏をかすめた考えを振り払って、つばさに応対した。
「ねえ、あかねちゃん。あかねちゃんは放っておけばきっと、この手紙を読まないだろうから、悪いけど、私が先に読んじゃったよ」
つばさは開封済みの封筒から白い紙切れを取り出してあかねの目の前に突き出した。
「誰の字だか、わかるよね?」
私にはわかんないけどさ、とつばさは言った。
「………」
あかねは目の前に掲げられた、地獄の舞踏会への招待状から目をそらした。血を流してぱっくりと口を開ける地獄の舞踏会。そういえばグリム童話に「踊り抜いてぼろぼろになる靴」という話があった、とあかねはふと思い出した。
でもあの話では、騙された三人のお姫様達を王子様が助けに来た。そして、結局助けに来た王子様は一番上のお姫様を選んだのだ。
東風先生がかすみお姉ちゃんを選んだように。
だから、もしこの地獄の舞踏会の誘いを受けても、誰もあかねを選びはしないだろう。ましてや悪魔があかねを救うわけがない。舞踏会を地獄に貶めた悪魔本人が。
『見せたいもんがある。絶対来てくれ。』
目に入った瞬間の感想。汚い字、とあかねは思った。
だいたい、失礼にも程がある。相手の都合もお構いなしの命令口調に、自分の名前すら書いていない。未だにあの男は卑怯者のままだ。自分の保身ばかり図って、時々調子のいいことを言っては人を期待させて突き落とす。その様子を見て、きっと笑っているのだ。
「…あかねちゃん、じゃあ確かに渡したからね!」
つばさは目を逸らし続けるあかねに手紙を押しつけると、走って逃げていった。あかねはぽつん、とそこに残された。つばさを呼び止めることも出来ずに、手の中にある恐ろしい存在に打ちのめされた。
「…あかね」
「なあに、お父さん」
とっさに笑顔をつくってあかねは振り向く。恐らく早雲は扉をノックしたのだろう。
躊躇いがちに早雲があかねの側に立ち、机に置かれた封筒を手にした。
「あ……」
あかねは早雲を見上げた。早雲の額に深く刻み込まれた皺が、中央に寄った。
――お父さん、こんなに老けてたっけ。
早雲の整えられた口髭も長い髪も、過ぎ去った年月を語っている。心苦しい思いで、あかねは早雲の言葉を待った。
「…なあ、あかね」
「うん」
「お父さん、これからあかねに酷いことを言うよ」
「…うん」
手紙を持つ早雲の手が震えた。あかねはそれを見て、早雲ににっこりと笑いかけた。
「いいのよ、お父さん」
その途端、早雲の目から抑えきれなくなった涙が溢れる。早雲はあかねを抱きしめた。嗚咽があかねの耳元から漏れる。
「あかねぇ…お、お父さんのせいで……!」
「やあねえ。何言ってるのよ。お父さん。お父さんのおかげでこうして強くたくましく、健康な娘に育ったんじゃない」
あかねは早雲の背中を優しく撫でた。子供の頃はとてつもなく広く感じた背中。小さく震えてあかねに懺悔する背中。
「ちょっと女らしさは欠けちゃったけど」
えへへ、とあかねは笑う。
早雲がぐしゅん、と鼻をすすった。
「あかねは誰より優しくて女の子らしい、自慢の娘だよ」
早雲はギュっとあかねを抱きしめると、その腕を振り解いた。
「お父さんの最後の我が儘、聞いてくれるかい?」
早雲の涙に濡れる瞳をあかねは真っ直ぐ見つめて、頷いた。
「最後だなんて。あたしなんていつも、お父さんに我が儘ばっかり言ってるわ」
早雲は悲しそうに微笑んで首を振った。
「あかね。ツライだろうと思う。お父さんはあかねをまた苦しめるんだと思う。だがね、あかね」
あかねは頷いた。父が何を望んでいるのか、あかねは察した。
「お父さん、わかってる。言わなくていいよ」
早雲は静かに涙を零す。そしてあかねの手を握る。
「あかね、ケジメをつけよう」
早雲が掠れた声を絞り出す。あかねがかぶりを振った。
「あかね。乱馬くんに、会ってきて欲しい」
見せたいのもとはなんなのか。どうでもいい。シャンプーとの婚約発表だなんてことだったら、腹の底から笑ってやる。