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「わたくしがマネージャーをして差し上げれば、よかったのかしらね…」
 乱馬のブロマイド、それがプリントされたタオル、うちわ…。数々の乱馬グッズ――それも、あまりの膨大さに崩れかけた山となっている――を目の前に、小太刀は溜息をついた。
「あのう…。社長?」
 乱馬グッズの山を挟んで真向かいに座る、いかつい強面男。両脇を締め、大きな体にぴったり腕を押しつけ、足をきちんと揃えて座っている。忘れられてはなるまい、と必死の心で、遠い目で思いを馳せている態の、若く美しい女社長に、おそるおそる声をかける。
「も、もしかして…社長直々にマネージャーをしてくださるんですか?」
 そんなわけあるかい…、と思いつつ、浮かれる心を抑えきれずに青年は尋ねた。わあ、僕、光栄だなあ、なんて無邪気な声も出してみる。
 小太刀がはっとした表情に変わり、現実に戻ってくる。青年はホッとしたのも束の間、小太刀のあまりに冷たい視線に全身が凍えた。
「……なんとおっしゃって?あなた」
 ひっ。
 声にならぬ叫びが青年の喉元まで、せり上がってくる。
 形のよい眉をひそめ、切れ長の目をつり上げる小太刀。紅い唇が嫌悪の言葉を今にも紡ぎ出そうとしている。青年は芯から恐れおののいた。
「すっすみませんっっっ!」
 僕ちゃん、調子ぶっこきました!と涙・涙に青年が謝罪する。
 小太刀は目の前で突風を起こす勢いで、頭を下げ続ける青年の体つきを、不躾にじろじろ眺める。
 この男はきっと大成するだろう。小太刀のカンは、今のところ外れたことがない。
 小太刀は冷たく細めた目元を緩める。
「そうですわね。わたくしがマネージャーをして差し上げても、もちろんよろしいのですけれど」
 小太刀がそう言うと、男はガバッと顔をあげた。キラキラ目が輝き、その顔は期待に満ちている。
「ほ、本当ですか!!!」
 小太刀はニコリと笑った。
 KODACHIプロダクション期待の新人を、社長自らマネージャーをする――勿論表向きだけのことではあるが――というのも、なかなか話題になるかもしれない。いや、なるに違いない。この男は確かに、ルックスもいい。
 話題の選手を多く抱え、いまや大手プロダクションとのし上がった、のし上げた手腕で感嘆される、若く美しい、自らもタレント性に溢れる社長と。まだ初々しい、しかし精悍な、将来有望な格闘家と。ちぐはぐな二人の、密やかな甘いプライベートを、観客に想像させることも手だ。
 しかし…。
「あなたにはもう、優秀なトレーナーとマネージャーを用意させてありますわよね?」
「…はい」
 男はがっくりと項垂れた。
 ちょっと下心を抱いたのがいけなかったのかも。それが社長に伝わってしまったのかも。顔に出てしまっていたのかも…。

 しかしそれは、あまりに馬鹿げた賭けである。一時の話題性だけを追求した、愚かな。
 その話題に飽きられたとき、それではどうするのだ?せっかくここまで築き上げたブランド名を、一気に奈落の底へと引きずり落としてしまう。二流ブランドになってしまう。
 それに。飽きられる前に、この男がもし――それはないと思いたいが、この世界は体力勝負で、何があるかわからないものだし、ケガだってあるし――大成しなかったら。
 それこそ小太刀は、本業を放っぽりだして若い男に入れ込んだ、愚かな女に映るだろう。事実に関わらず。
 マスコミとはそういうものだからだ。そしてたいがい、成功した女にはやっかみがつきまとい、いつでも、足を掬おうとする輩が包囲しているものだからだ。
 特に、夢破れた男達からの。容姿に恵まれない女達からの。
 それを利用して、ここまできたのだ。小太刀が若く美しく、格闘ジムの経営者として物珍しい風貌であったから、だけではない。所属する選手が皆一様に、端正で精悍な顔立ちを誇っているから、だけではない。

「あなたには期待しています。あなたは勿論、わたくしに後悔などさせないことでしょう」
 そう言うと、小太刀は立ち上がり、オフィスのドアを引いた。話は終わった、帰れ、ということだ。





 乱馬は逃げ場を求めていた。
 だから小太刀はそれを与えた。与えることが出来たから。ただ単純にそれだけだ。
 乱馬がおそらく、小太刀の話半分も理解していないだろうことは、小太刀も知っていた。
 あのとき乱馬は必死だったのだ。目の前の問題をどうにかしたい一心で。
 彼は格闘以外で、先を見る、ということができない。だから、乱馬がそのとき、どんなに真剣であろうと――その上、そうなってほしい、という小太刀の願いと重なり合い、一見、利害が一致しようとも――愛した男だからこそ、躊躇ってしまった。隠して丸め込んで、騙すように、性急に話を押し進めるには。そうすることが、どれほど自分に都合がよかろうとも。
 もし打ち明ければ、乱馬は、小太刀らしくない、と言っただろう。信じも、しなかったかもしれない。
 小太刀自身、揺れることが、己に対する冒涜ではないかと思ったくらいなのだから。

 乱馬はわかっていなかった。
 この先、やっかいな問題を引き起こすことになるだろう。誰より、乱馬自身が立ち直れない程の後悔をすることになるだろう。
 小太刀にはありありと、乱馬が幸せな未来へと続くレールを外れ、転がり落ちてゆく姿が見えた。それがわかっている以上、小太刀は乱馬に尋ねざるをえなかった。
 本当によろしいのですか、と。

「わたくし…甘かったのですわ」
 ふっ…と小太刀は微笑して、深紅の黒薔薇を手に取る。デスクの上に、常に生けられる小太刀の象徴。KODACHIプロダクションの象徴。
 しかし、小太刀自身が乱馬のマネージャーをするなどと、オーナーと選手の関係以上に、乱馬との距離を近づけるわけにはいかなかった。新事業設立の暁には、格闘家としての乱馬の力が必要だったし、それだけでなく、卑しい女の欲望もあった。それでも、現実に一時の快楽を叶えるわけにはいかなかった。
 触れられない。触れない。それでも側にいたい。
 だから、あの女をつけた。こうなることは予想できていたのに。
「おまえのせいではあるまい」
 小太刀は顔を上げる。そこには、己とよく似た造形の、端正な兄の顔があった。小太刀は眉をひそめる。
「あら。お兄様。いつからそちらに?」
「あのボンクラが部屋を出ていったのとすれ違いで入ったのだ。我が変態妹よ」
 帯刀は山積みになった乱馬グッズを一瞥すると、露骨に嫌悪を示した。そして、一枚のうちわを手に取る。
 うちわにプリントされた乱馬の表情は、もはや格闘家とはいえない。斜め四十五度に顔を傾け、白い歯をキラリと輝かせてカメラに笑いかける。昔の映画スターのような乱馬のポーズ。
「なんというマヌケ面を晒しているのだ、この男は」
 帯刀は嘲るように鼻で笑った。
「乱馬さまのご活躍のおかげで、我が事務所は潤っているのですよ。お兄様」
 小太刀はキッと、兄を睨め上げた。
 学生時代から、その道化ぶりで周囲の嘲笑を買っていたのは、紛れもなく帯刀その人である。その彼に「マヌケ」だなどと、大切な商品を評価されたくない。確かにそのブロマイドは、少々マヌケ面ではあったが。
 学生を過ぎて長く経つというのに、未だ学生時代の剣道着をどこに行くにも、スーツ代わりに、ときには正装着であるかのように身につける帯刀だって、相当マヌケだ。顔立ちがいやに整っているからこそ、更に滑稽だ。
 しかし、そんなつまらぬことを指摘してやれるほど、兄妹の仲は気の置けないものではなくなっている。それは学生時代と異なることだ。
「確かにあの男のおかげなのであろうな」
 帯刀はうちわを元あった場所に戻す。
「だが小太刀よ」
 帯刀はゆっくりと腕を組む。左手の薬指がキラリと光った。
「そうであろうとも、そのことで おまえが 気に病むことではない」
 小太刀の目を真っ直ぐに見て、帯刀は続ける。
「己の人生は己で決めるのだ。他の誰でもない。早乙女乱馬以外の誰も、あの男の人生に責任を負うことなど、出来ん」
 小太刀は静かに目を見開き、帯刀を見た。帯刀は左手の甲を、小太刀の顔前に突き出す。
「僕は今日、天道なびきにプロポーズしてきたのだ」
 たしかに帯刀は最近、小太刀が見かけるたび、いつも金欠気味であるようだった。以前だったら考えられないような、節約術の詳しく書かれた生活雑誌を、書店で食い入るように立ち読みしている姿も見かけられた。
「それはそれは、おめでとうございます」
 小太刀の口から、さらりと祝いの文句が出た。義理の姉が、あの天道なびきだなんて、正直なところ、あまり嬉しくはなかったのだが。
「…成功したと言ったか?僕は」
 帯刀がムスっと答えた。小太刀は驚く。
「まあああああっっ!!フラれておしまいになったのですか!?あの女に!」
 なびきにとって、帯刀はまさにうってつけの相手ではないか。馬鹿で単純で、何より湯水のように湧き出る資産が、なびきにとって、魅力的に映らないわけがあろうか。
 帯刀は唇を片端つって笑った。
「そうだ。なぜだと思う」
 帯刀に問われて、小太刀はハっとした。
 そうだ。天道なびきは、天道あかねの姉だったのだ。
 小太刀は息を呑む。
「そういうことだ」
 帯刀は頷いた。
「僕は気にしない。いくらでも待つ。だいたい、天道なびきとこのような関係になっていること自体が、考えればおかしなものなのだからな」
 小太刀は言葉もなかった。兄の恋路を、自分がまさに障害となっている。
「だがな、小太刀」
 帯刀の声が、急に地を這うように低く、力強くなる。小太刀はビクリと兄の顔を窺った。
「おまえたちは馬鹿だ。なぜ他人の人生を無理矢理に責任を負おうとするのだ?なぜ他人が不幸であれば、自分の幸福に罪悪を感じねばならぬのだ?」
 静かな怒りが帯刀の均整のとれた身体を包んでいた。
 小太刀は黙って兄を見つめていた。このような兄は、見たことがない。
「それは、傲慢というものだ」
 ああ。お兄様のお怒りは、わたくし達の幸せを願うからこそなのだ。
 帯刀は左手にはめられた、エンゲージリングに視線を落とした。
「…天道なびきがな。それでも、僕には指輪をするよう、言うのだ」
 幸せそうに愛おしそうに微笑む帯刀。小太刀が思うより、幸せな恋愛をしているのだろう。
 帯刀は薬指を逆の手でさすり、それから左手を口元に寄せる。自然な流れで、帯刀は目を伏せ、唇を指輪に押し当てた。長い睫毛が帯刀の頬に陰を作る。
「…お兄様」
 小太刀は震える声で、兄を呼んだ。
 何を言おうものなのか、自分でもよくわからずに、口をついて出た。小太刀の胸に熱く沸き上がる、感謝と親愛の情が、細い身体に留まりきれずに外へ出ようとした。
 帯刀が溜息をつく。
「…僕も馬鹿なのだ。愛する女と妹のためだ。嫌いな男だとはいえ」

 小太刀の事務所に乱馬が一選手として所属すること。
 無差別格闘流を天道道場にて教えを広め、背負うのではなく。それまで彼が教えを願った数々の師範や戦友達と、ともに進む、もしくは背負い、その先の可能性を探ろうと進むのではなく。一人の選手としてだけの、己の能力だけを試す世界へ躍り出るということ。
 乱馬自身が望んでそうした、ということが、どれほど大きな波紋を広げるのか。
 乱馬は結局、少しも分かってはいなかった。


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photo by L i n e 3 0 1

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