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「乱馬さま…。あの…本当にそれで、よろしいのですか?」
「いーもなにも…。小太刀、オメーが言い出したことじゃねーのかよ?」
 ぶすっと乱馬が言葉を返す。
 小太刀は、こちらを一目とも見ようとしない、無礼な男の態度に、一瞬瞳を揺らしたが、すぐに強い視線で男を射抜いた。
「ええ。そうですわ。わたくしは、乱馬さまをお慕いしております。ですから、わたくしに出来ることでしたら、どんなことでも、して差し上げたいのですわ」
 凛と己の足で立つ。九能家の女として、恥ずかしくない立ち居振る舞いを。
 誰にどう言われようと、己の信念だけは曲げず、欲しいものは己の力で掴み取る。どんな手段であろうと勝者になり、なぜなら勝者は常に正義であり、敗者は常に罪人であるからだ。
 小太刀は乱馬の広い背中を見つめる。乱馬はいつでも猫背だ。最も厭う猫と同じように背を丸めて、乱馬は縁側に座る。
 …迷うことは、やはり、罪であろうか。

「あー、そー」
 乱馬は小太刀の力強い支援に、勇気が湧き出るわけでもなく、話半分、むしろ右から左、といった態だ。
 力ずくで奪い取った獲物の意に染まぬかどうかなぞ、小太刀には関係ない。そう思いつくと、乱馬は小太刀を背に、唇をゆがめた。
 そうだ、小太刀はそういう女だ。小太刀は醜く強かで純粋だ。だからこそ、こうして互いの利を求め、与え合うフリをすることができるのだ。
 小太刀は自分のしたいことをしたいようにする。それをねじ曲げたりしない。どんなことがあろうと、たとえそれが、愛しい乱馬の意に反することであろうと。

「乱馬さまのお考えが、どのようなものかは存じませんけれど。勿論、わたくしに出来ることでしたら………先程も申し上げましたわね」
 小太刀が首を傾げた。背後から起こった衣擦れの音が、乱馬の耳に届く。
 目の前でカコーン…、カコーン…と呑気な音をたてる、獅子脅し。淡い白色にぼやける立派な日本庭園が、乱馬の目の前に広がる。庭の池が時折波立ち、ワニのミドリガメ君が、ザバッ…と鼻面を水面上に突き上げる。
「わたくし、いくらお慕いしている殿方のためとはいえ、損になることは致しませんのよ」
 乱馬は、興味の欠片も感じられない庭から目を離し、小太刀を振り返った。
 小太刀は袖先を抑えながら、軽く握った白魚の手を口元まで上げる。腕の振りでゆったりと優美に揺らぐ、艶やかな白大島紬が、白い光を柔らかに反射した。返された昼間の光が乱馬の頬をかすめる。
「…どーゆー意味でいっ」
「言葉の通りでございますわ」
 ニコリ、と紅い唇を両端に吊り上げ、小太刀が笑んだ。凄惨なまでに、紅い唇。
「わたくしとて、バカではございません」
 周りの迷惑を顧みず、レオタード姿で黒薔薇をまき散らし、高笑いをしながら屋根伝いに飛び回る小太刀の姿。乱馬の頭の中、明瞭に思い起こされる。小太刀、常にご乱心。
――いやいや、バカじゃねーかもしれねーけど。
 どう考えても、「頭のオカシイ」と形容せずにはいられない、小太刀の言動を、乱馬はご親切に、「バカじゃない」ことにしてやった。
 テラテラと漆で塗られた黒檀の座敷机。三枚の真白い紙切れが並ぶ。
「バカではないのです。乱馬さま」
 つい、と差し出される一枚の紙切れ。白く細い指で、小太刀は乱馬に指し示す。
「ケ・イ・ヤ・ク・ショ」
 一語一語、切って小太刀は唇を動かし、指し示した文字を音読した。
 乱馬が片眉を上げて、小太刀を見る。文字くらい、乱馬だって読める。小太刀は何が言いたいのだろう。
「これはお遊びではないのです。おわかりですね?」
「だーかーら…。」
 乱馬は苛立つ。
 遊びじゃない。当たり前だ。遊びでわざわざ九能家なんかに来るものか。揃いも揃って、見たくもない顔ぶればかりの。
「何が言いてえーんだっ!おめーはっっっ!!」
 どんっ!!!!!
 乱馬が唐木机に両拳を叩きつける。乱暴に、ガスッと。言うまでもなく、乱馬の力は、強い。そして、みし……と嫌な音がした。
「「………」」
 乱馬と小太刀の間に沈黙が訪れる。それからゆっくりと、二人の視線が同時に、同方向に移される。乱馬の手元。……の机。
「「………」」
 二人が温かく見守る中、美しく繊細な飾り彫りのされた――同じものは他に、世界に一つとない、それは素晴らしい職人技の――座敷机に、うっすら、一筋の線が入り………あ、線が延びていく………………おおっっと、もうすぐ向こう岸の小太刀の方まで、線が届きそうだ…………。

 ザバッ。
 庭の方から、ミドリガメ君の池から這い上がる音がする。どうやら彼は、日光浴をするらしい。乱馬は、俺も日光浴したいなあ、ミドリガメ君、俺、隣りに座っていいかなあ、と話しかけたくて仕方がなかった。
 いいなあ。日が照ってて、ぽかぽか、あったかそーだよなー。気持ちいいだろーなー。なー?ミドリガメ君…。いいなあ、いいなあ……。
 獅子脅しの、カコーンという清々しい音が、静寂の中、響いていた。

 そして、割れた。
 まっぷたつ。高級唐木座敷机が。それも黒檀の。世界で一つしかない匠による素晴らしい出来映えの。聞くも恐ろしい値段をしていそうな。
 それが、まっぷたつ。

「え゛。」

 小太刀は、じっと裂け目を見つめている。
「あ、あの…。あ……あはっ。あ、あは、…は………は…。……こ、小太刀?」
 乱馬は冷や汗をダラダラと垂らしながらも、俯いたまま固まっている小太刀に声をかけた。
 小太刀がすうっと顔を上げる。
 乱馬は、のうのうと、あぐらをかいていたのを、途端、足を尻の下に折り曲げ引き敷き、正座の格好をとる。膝の上にちょこん、と両拳をのせる。もひとつオマケに、ぴしぃっと背筋を伸ばす。
 乱馬の背中に、とびきり冷たい汗が一筋。
「………乱馬さま?」
 小太刀がニッコリ微笑む。乱馬のひきつった笑顔。口端がひくひく動く。目尻に涙が浮かぶ。

――ひいいいいいいいいいいっっっっ!









 小太刀がズズっとお茶を啜る。相変わらず、獅子脅しはいい音色を響かせる。ミドリガメ君は日光のした、うつらうつらと鼻チョウチンをつくってお眠りだ。
 乱馬の背を照らす日は優しく温かい。そのせいだろうか。いや、それだけで?気のせいであろうか。乱馬の体を境に、激しい気温差を感じてしまうのは。
「ですからね、乱馬さま」
「………ハイ」
 もはや虫眼鏡で見なければならないほど小さく縮んでしまった乱馬に、小太刀は小さい子を宥めすかし諭すように、ゆっくりと言葉をつむいだ。
「お遊びではないというのは、こういうことでもあるのです」
 小太刀は白地に紅梅の散らされた、蒼の縁取りの――これもまた、壊れた唐木机に負けず劣らず、素晴らしく美しい有田焼の――湯飲みを、音もなく、静かに畳の上に置いた。
 小太刀の目が乱馬の目と合う。ジョークの時間は終わりにしましょう、と告げている。ここからは、ビジネスだ、と。
 乱馬はゴクリと唾を飲み込んだ。
「わたくしは今まで、乱馬さまをお慕いしておりました。少々、無茶なことも致しました」
 少々っ!?
 乱馬は喉から飛び出そうになった魂の叫びを、なんとか飲み込んだ。少々って、それでは、小太刀の基準でいう「かなり」とか「随分」はどれくらいなのだろう…。
 小太刀が目を伏せる。
「しかし」
 バチっと睫毛の風にぶれる音が聞こえてきそうな程、力強く見開いた目には、乱馬の知らない女が住んでいた。
「わたくしは、乱馬さまの才能、業績、将来性を熟慮の上―――これまでのおつき合いで充分、存じておりましたけれど。ビジネスとして、曖昧な希望などではなく、確信をもてたからこそ、お誘い願ったのでございます。これまでも、これからも、その点に関して、情けをかけるつもりなど、一切ごさいません。出来る限りのことをして差し上げたい、というのは、その基盤があってこそです」
 小太刀が紙切れを一枚つまむ。
「契約を交わすのは簡単です。乱馬さまのご署名をこちらにいただき、それでおしまい。これからは晴れて、乱馬さまはうちの所属選手です」
 どうです?簡単でしょう?と小太刀が笑いかける。
 乱馬は未だ、小太刀の真意を察することが出来ない。回りくどいのは苦手だ。むしろ嫌いだといっていい。
「だから、なんでい」
 小太刀が嘆息した。
 その、いかにも「やれやれ」といった具合の小太刀の素振りに、乱馬は少しムっとした。馬鹿にされたような気がする。
 あかねが乱馬に呆れるとき、見下すとき、馬鹿にするとき。よくやるのだ。は〜ヤレヤレ。乱馬じゃー仕方がないか、と。それに似ている。
「まあ、仕方のないことだと、わたくしもわかってはいます。乱馬さまに一般的なマニュアルを強要する気もございません」
 一般的なマニュアルってなんだ?なんのマニュアルだ?
 乱馬の頭の中は疑問符だらけだ。
「ですが、お友達感覚でいてくださっては困るのです。わたくしは雇い主として。乱馬さまは一選手として。わたくし達は、それぞれの役割を演じなければなりません」
 小太刀は言葉を句切り、乱馬をじっと見つめた。乱馬の中に、自分の言葉がゆっくり染み渡るのを、確認するかのように。
 乱馬は戸惑った。
 小太刀が雇い主になる。その通り。友達でいてはいけない。なぜだろう。役割を演じる。なんの?
 乱馬は、どうにか答えを導き出そうとこんがらがった頭を働かせる。
 小太刀は乱馬のことを慕っていると言った。それはそうだろう。あれほど酷い求愛を受けたのは、この世で乱馬くらいだろう。だから小太刀は、出来る限りのことをしてくれるという。しかし、それはなにかしら、裏打ちされた基盤があるからこそだという。裏打ちされた、というのは、乱馬自身の持つポテンシャルに他ならない。
 ということは、可能性の途絶えたときは、つまり――…。

 小太刀が口を開いた。



「これは、ビジネスです」


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photo by NOION

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