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 どんなに追いかけても、乱馬が振り向いてくれないことを、大分前からわかっていて、わかっていたけれど潔い女にはなれなかった。
 もしかして。もしかしたら。
 乱馬は頑なで意地っ張りで幼く、色気の欠片もない、聖少女のままで居続けようとするあかねに愛想を尽かすかもしれない。あかねは優柔不断ではっきりしない乱馬の態度に疲れ果てて、見捨てるかもしれない。

 シャンプーは乱馬のはっきりしない卑怯さを、幼さを。あかねほどには我慢が出来ないわけではない。
 激情に振り回されるのは周囲の人間だけではなく、己自身も時として、本来の目的や原点を忘れて全てを見失ってしまうこともあるのだけれど。それほどの激しい愛憎と欲望を基準装備として常に携帯していて、独占欲だってもちろん、蛇のように強いのだけれど。
 それでも今のところは、乱馬が容易にふらふらと、様々な女の色香に惑わされてしまうのを許すことが出来たし、自分もそれを利用しない手はないと思った。

「既成事実」

 一度でも寝れば、小心者の乱馬は容易く手にはいるだろうと思った。
 泣けばいいのだ。
 あなたに捧げてしまったこの身体では、他の男の元へなど嫁げるはずもない、と。そうすれば乱馬は責任を取らざるをえない。
 そういう男だ。清くて純粋で真面目で愛おしい、とてつもなく卑怯な。乱馬はまだ少年なのだ。
 そして、そうやって手に入れたのだとしても、乱馬という男はそれなりに与えられた環境にすぐ順応してゆくだろうことも見当がついた。
 最初のうちは抵抗する素振りをとってみても、すぐに馴染んでしまうだろう。すぐに納得して気に入るだろう。自らの居場所を見つけだすだろう、作りだすだろう。
 どこででも生きていけるのだ。
 どこででもそれなりの幸せでもって生きていけるように、乱馬は馴らされているのだ。幼い頃からの修行そのものと、修行によってもたらされた数々の災難と幸福によって。
 あかねのことだって、最初は気に入らない女でしかなかったのだと、玄馬が目を細めて懐かしそうに語っていたことがあった。




「あやつはいつまでたってもガキっぽくてかなわん。なあ母さん」
 嬉しそうな、幸せそうな二つの顔。
 シャンプーは少し逡巡して
「そこが乱馬の可愛いところある」
と媚びた。玄馬は
「そりゃ〜ワシの息子だもんね〜」
とデレデレ笑った。
 ガッハッハッと豪快な笑い声が場を沸かす。
「ワシほどではないけど。な〜、母さん」
 のどかはニコニコ笑って
「乱馬は男らしくて、 あなたよりずっと 、素敵な男の子ですわ」
 と、なんの邪気もなく玄馬に答えた。玄馬がピシッ…と固まった。



 シャンプーは仲睦まじく微笑ましい構図で笑い会う夫婦と、平和な世間話をしていた。
 どこからそのような話に結びついたのか、よく覚えてはいない。ただ、彼等にとって、あかねは一人息子の大事な嫁で、我が息子とあかねの行く末は、常に心に抱いている「日常の話題」の一つだということだ。誰となにを話していても、ふとした言葉の端から思い起こされること。至極当然のこと。シャンプーが乱馬を求め、襖を破って突撃してくることと同時進行のルーティン。
 彼等は、いつ孫を拝めるのかを期待しているのだった。その、まだ見ぬ愛しい孫の母親は、ショートカットの少女である予定だった。
 シャンプーのことを、不出来で自慢の息子を慕ってくれる仲の良いガールフレンドの一人として。我が息子はなるほど、結構人気があるものだ、と喜ばせてくれる取り巻きの一人として。彼等は寛大だった。
 シャンプーはそんな彼等が好きだった。彼等が未来を描くとき、息子の隣りを我が物顔で居座っているのが、ヒステリックで正論ばかりで欲深くて臆病で卑怯でイイコちゃんぶっている、厭らしい、あの女だとしても。
 それは彼等の罪ではない。早く乱馬の隣りを塗り替えなくてはいけない。罪は、作業がなかなか進んでいない、シャンプーにある。


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「…シャンプー」
 熱っぽい目で乱馬がシャンプーを見上げる。シャンプーは腕につけていた、いくつもの装飾品をライトの下に置く。
 乱馬の視線が背中をつき刺しているように感じられる。全身が粟立つ。
「疲れてるのではなかったのか?」
 乱馬がわざとらしい溜息をつく。
「あーそおー。そおーだよな。誰かさんの御陰で、俺はとてつもなーく疲れてるんだもんな。そーそー、そーだよなー?」
――…嫌味な男ある。
 シャンプーはキュッと唇を噛む。
「あ〜疲れたなー。あの収録のときさー。誰だっけ?あの司会役、しつこかったよな〜。なあ〜?」
「なんのことか」
 乱馬は無視して話を進める。
「あれさあー、絶対シャンプー、お前とのこと言ってたんだろうなー?『中国美人マネージャー、夜もホテルでマネージング』って。お前以外に、俺、マネージャーいたっけ?」
「………」
「いねーよなー。そーだよなー」
 乱馬はシーツを身体に巻き付けながらベッドの上をゴロゴロ転がっている。そして頭だけ、ぐるりとシャンプーに向けた。
「あれっ?そーいえばここにいるの、誰だ?」
 乱馬がニヤニヤ笑って、腕を伸ばす。乱馬の指先がシャンプーの肩に触れる。ぞっとした。
 瞬間、救いの手がシャンプーに差し出された。今日の出来事がシャンプーの頭に、ぴかりと閃き思い起こされる。
「手紙」
 シャンプーが一言そういうと、肩の上に載せられた乱馬の手が、ピクリと痙攣した。それに連動して、シワクチャになって乱馬の腰に巻き付いていたシーツが、するりと落ちる。乱馬の大事なところが露わになる格好。きっとつい先程まで、威勢がよかったかもしれないそれは、完全に俯いている。
「そ、それは…」
「それは、なにあるか?」
 シャンプーはずり落ちたシーツを乱馬の顔に投げつける。シーツがパサっと広がり、乱馬の全身を包む。
 乱馬が小さく呻いた。
「…どーせ、うまくいきっこねーんだからいいじゃねえか…。シャンプー、お前だってわかってんだろ?」
 乱馬は顔の上のシーツを、ゴツゴツした指でつまみ、ずらした。力のない、弱々しい声。
 シャンプーの胸に、小気味の良さと、同情と、もうひとつ。
「さあな。私にはわからないある」
 興味もないある、とシャンプーは吐き捨て、ドアの外へ出ていった。橙色の仄暗いライトがポッカリ、シャンプーの時計やブレスレットを照らしながら浮かんでいる。
 バタン、と部屋中響き渡る力強い音が、乱馬を一層惨めにさせた。
「なあ〜にやってんだかな…俺…」
 乱馬は歯を食いしばって、必死に嗚咽が漏れるのを堪えた。


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 惰性で、というにはあまりに醜い執着心がありすぎたけれど、とっととケジメをつけて、引き下がって終わらせたかった。そのキッカケを掴めないまま、乱馬を追いかけて乱馬に迷惑がられて、傷ついて。あかねが傷ついて。あかねを傷つけることで、乱馬を傷つける。私が傷つく。
 でも他にどうしたらいいのか、もうわからなかった。
 意固地になってしまって。
 コントロールのきかない、無駄なプライドと見栄と無意味な掟と。
「我的愛人」
 ひいばあちゃんに。先祖に。故郷の村人に。あかねに。乱馬に。沐絲に。右京に。小太刀に。私達の破壊的な喧噪を見てきた観衆に。
 関わり合った全ての人達に対して、意地と見栄が消し去れなくて。ここで終われば、敗者となった自分を嘲笑されるような気がして。
 コントロールのきかない、無意味なプライド。私以外、誰一人として気にもとめないような、見栄。
「我愛イ尓」
 引き下がるわけにはいかなかった。
 それが苦しくて、がむしゃらに追いかける自分が哀れだと考えないようにしながら、乱馬に「別了」を言い渡す日を待ちわびた。


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 シャンプーはハンドバッグの中を探った。
 カツカツとヒールの音を響かせながら歩いていると、通りすがる度、男共が必ず足を止めて振り返る。気分が悪い。
 後方で、その鬱陶しい男共のうちのどれか、に腕を絡ませていたらしい女が、キイキイと叫んでいる。煩い。携帯電話が見つからない。
 そういえば、ブレスレットと共に、部屋に置いてきたのだ、とシャンプーは思い出して後悔した。
 公衆電話を探そう、とロビーに出た。



「もう渡したか?」
 シャンプーは名乗りもせず、電話先に相手が出た途端、切り出した。
「……あんさん誰や」
 相手は不機嫌そうだった。
 シャンプーはロビーのソファーでくつろぐ、男女を眺めた。男も女も、他に正式な相手がいる身。まだハイエナのような雑誌記者に暴かれてはいないが、近々、どこぞの低俗な雑誌で暴露されることだろう。最近はこのホテルも、安全ではない。スパイが従業員の中に、数名混じっているのかもしれない。
 しかし、そんなことはどうでもいいのか、知らぬのか、肩を寄せ合ってソファーに身を沈める、渋い二枚目俳優と、知性派で知られる美人女優。

「お前、面倒くさい女ね。だから男が寄りつかないある」
 シャンプーはフウ、と溜息をついた。
「なっ…!あんたにそない、言われる筋合いないわ!!もう切るでっ!」
 右京の怒鳴り声がシャンプーの鼓膜を突き刺す。本当に煩くて面倒な女だ、と思った。くだらない。
「こっちだって早く切りたいね。お前と仲良くお話しする気なんて、さらさらないある」
「さっきから、なんなんやっ。喧嘩売っとるんかい!だいたい――」
「私が聞きたいのは、お前があかねに、招待状を渡したかどうかだけね」
 シャンプーは右京の文句を遮って言った。
「お前の話、他に興味ない」
「…うちかて、興味ないわ。…ホンマならな」
 受話器の向こうから、右京の微かな呻き声が聞こえた。
 シャンプーの脳裏に、右京の憎悪に満ちた目の色が浮かぶ。夕方、乱馬に付き添ったときの、右京の目。見苦しい女の嫉妬と、それだけに留まらぬ、自分への憎しみ、恨み。
 女から憎まれるのは、慣れている。好かれるつもりもないのだが。
「渡したか、渡してないか。どっちね」
 苛立つ。さっさと用件を済ませて切りたいのだ。右京だって、シャンプーの声を長く聞くのは不快だろうに。なぜ早く答えないのか。イエスかノーか。簡単ではないか。
 理解に苦しむ。
「…まだや」
「そうか。わかた。ツァイツェ――」
 シャンプーが電話を切ろうとすると、右京が怒鳴った。
「ちょい待ちぃや!!」
 シャンプーはほぼ、耳から離しかけていた受話器を再び耳に当てる。右京の怒声が大きかったおかげで、耳から離していても、その声はよく聞こえ、ソファーに沈む男女がこちらを振り返った。
「―まだ何かあるのか?」
 うんざりと投げやりなシャンプーに右京は憤る。
「なんやねん!?ワケわからんわ!」
「わからないのは、こっちね。人を引き留めておいて、なにあるか」
 シャンプーはチラチラとこちらに視線を送ってくる有名人カップルを睨みつける。お前達だって、近く、そうやっておもしろ可笑しくジロジロ見られる立場になるんだろうに、とシャンプーは嫌悪する。
 男女は肩をすくめて、言葉を交わしたようだった。
「あんさん、ほんま、何がしたいねん!?」
 右京は要領の得ない答えをわめき散らす。電話先でわめかれるのは迷惑だった。
「何考えとんねん?あの記事、なんや?!アレがホンマやったら、乱ちゃん振り回して、何したいん?なんで乱ちゃんとあかねちゃん、会わさそうとするん?……あ……あかねちゃん傷つけて、面白いんかっっっっっ?!」
 はあはあ、と右京が息を切らしているのが伝わってくる。シャンプーは目を閉じて、こめかみをグリグリと押した。

―――あかね。
 そういうことか。右京が怒っている理由は。
 乱馬への未練かと、なんて鬱陶しい惨めな女だろう、と思っていたが、そういうことだったのか。

 シャンプーはジリっとした嫉妬が胸を焦がすのを感じた。
「お前にわかてもらう必要ないね。とにかくお前、早くあかねに渡す。それだけね」
 淡々と告げるシャンプーに、右京は怒りを増す。
「乱ちゃん、弄んで、がんじがらめにして、見せつけるつもりなんか?…お生憎様やなっ!!」
 右京の憤怒はすさまじく、シャンプーは受話器を若干、聞こえる程度に耳から離した。
「今はあんたと一緒にいよっても、乱ちゃんがホンマに愛しとるんは、あんたやないでっ!!いくらあんたが乱ちゃん、縛り付けよ思ても、あかねちゃん傷つけよ思ても、あんたの思い通りにはなれへんからなっっっっ!」
 シャンプーは嘲笑った。なんてくだらない…。
「あんな男。くだらない。欲しいならお前にやるね」
「なっ……!」
 右京がまた叫び出しそうな気配がする。また耳元で大声を張られたのでは敵わない。
 シャンプーは唇を曲げて、言葉を繋ぐ。
――これはリップサービスだ。
「ああ…でも、乱馬はお前なんか欲しくないね。乱馬が欲しいのはあかねだけある」
 右京が息を呑んだ。
「な…。ら、乱ちゃんはまだ、ホンマにあかねちゃんのこと――」
 我ながら、なんて親切なんだろう、とシャンプーは自嘲した。だいたい右京も、乱馬の本心とやらを疑ってるくらいならば、妙な啖呵をきるな、と思う。あんな女のために。
「わかたら早くあかねに渡すある。再見」
 今度こそシャンプーは電話を切った。
 右京にとっては謎だらけだったが、シャンプーはそれこそ、出来る限りの親切で応えていた。

 シャンプーは受話器を置くと、ゆっくり長く、息を吐き出した。
 目を閉じてじっと佇む。まだ部屋に戻りたくなかった。おそらく乱馬も、まだシャンプーに戻ってきて欲しくないことだろう。
 シャンプーはもう一度溜息をつく。先にしたにも増して、重い溜息だった。

 ハンドバッグを振り上げ、顔を上げる。ソファーを一瞥して、シャンプーは歩いた。五分と経たずに、部屋の前に着いてしまう。
――もうすぐ終わる。
 シャンプーはドアを鋭くノックした。ノックをしながらも、扉が開かないでくれれば、と願う。けれど扉は開く。乱馬が疲れた顔で、シャンプーを見る。シャンプーは身体をすべりこませ、乱馬が鈍い動きでドアを閉める。
 シャンプーは背後の乱馬を見ずに、ベッドに入った。乱馬がその上に被さり、シャンプーの冷えた身体を包んだ。

 永遠に続くかと畏れていたのも、もうすぐ終わる。右京があかねに招待状を渡してくれれば。
 シャンプーは解き放たれる喜びを早く感じたい、と思った。
 背後から回される乱馬の太い腕。節ばった長い指をなぞりながら、シャンプーはその温もりを感じていた。

「対不起…」
 シャンプーの小さいつぶやきに、乱馬は抱く腕の力を強めた。言葉の意味はわからなかったが、なんとなく、シャンプーが泣いているように思えた。
 肩を震わせているわけでもないのに、と乱馬は自意識過剰かと思いもしたが、細い身体が、その身体の温もりが愛おしかった。乱馬はシャンプーの豊かな髪に顔を埋める。
――もうすぐ、終わる。

 身じろぎもせず、二人はその夜を過ごした。
 二人の頭には、同じ一人の女がいた。


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photo by Four seasons

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