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 肩をがっくり落としてトボトボ歩く乱馬の後ろ姿。
 最後の粘りを見せる夕陽は、短い黄昏刻の間で最も強い橙色。

 乱馬の優柔不断ではっきりしない意気地のなさは、今更何を言っても変わらないし、忠言することで変に意固地になってしまうから、何も言わない。葉っぱをかけることも既に面倒だ。
 しかし。ああ、なんというくだらない時間を過ごしたのだろう。
 ちんけなお好み焼きで一時間近くも、呆け者のようにぼーっと突っ立って。この時間があれば、もっと効果的なプロモーション活動が行えたはずなのに。
 あんな今にも潰れそうな庶民臭い店では、パパラッチの一人だっていやしなかった。地元ということで、それだけを期待していた。それだから時間を捻り出してやった。許した。
 誤算だ。
 シャンプーは小さく舌打ちした。

「…シャンプー。明日の予定ってなんだ?」
「雑誌の取材が数誌あるね。ファッション雑誌が一誌あるから、これは現場の入りが朝四時ある」
 手帳を取り出さずシャンプーは乱馬の背中に答えを返す。
 乱馬は勢いよく振り向いた。
「オマエとゆーやつわっ!これからテレビ局行ってバラエティ番組の収録してジム行って練習して……。それで朝四時から雑誌の撮影だあああ?」
 顔をへのへのもへじにした乱馬が涼しい顔をしたシャンプーに食ってかかる。
「オレを殺す気かっ!!!!!」
 乱馬は肩で息をしていて、興奮冷めやらずといったところだ。シャンプーはうんざりした眼で乱馬を見上げる。
 ぴゅう、と冷たい風が二人の間を通りすぎる。

 い〜し焼〜き芋〜、焼〜きたて………

 素朴で甘い匂いが風に乗って漂ってきた。シャンプーが首を傾けると、視線の先にのろのろと屋台を引く中年パンダがいた。

「私、石焼き芋食べたいね」
「人の話を聞けっ!」
 ワナワナと肩を震わす乱馬をシャンプーはキッと睨め上げた。
「聞いてるね。アレをよく見るある」
 シャンプーは屋台を引くブサイクなデブパンダを指さした。
 しゃらん、しゃら…。
 ブレスレットと時計が重なってシャンプーの細い腕を滑り落ちる。時計盤を反射する強い西日が乱馬の眼を射抜く。
 目が痛い。
 乱馬は光の筋をゴツゴツした手で遮り、気だるそうに父親へと顔を向けた。
 玄馬のふかふかの毛は、薄紫と朱にグラデーションで染まっている。
「パンダ、乱馬のためにバイトの他に屋台まで引いてる。私もひーばーちゃんも、乱馬のために日本の店売り払ったね。貯金も空っぽになったね」
 よく見ると、パンダの黒ブチ部分の毛に、白髪がチラホラ目立つようだった。乱馬の胸にちくりとトゲが刺さる。
――気づいていなかったワケじゃないんだ、親父。それから、お袋も。
 そんな情けない言い訳がひとつふたつと浮かび上がる。そしてそれは、「だけど」と続く。だけど、そうさ。今その分を返している最中じゃないか、と。

 だから俺はこんなふうにシャンプーに次々と過酷なスケジュールを組まれ、それに愚痴りはするけれど、きちんと仕事をしているんじゃねーのか?牛か馬かのように働いて、稼いで、あの日から背負ったまんまの「借金」全部を返そうと頑張ってるじゃねーか。
 一人で。
 そう、一人だ。俺は一人で頑張っている。
 肉体的な疲労は別にいい。そんなものはちょっと無理をすればいいだけのことだ。慣れている。それにこれくらい、本当のところは無理でもなんでもねえ。
 だけど、時々ふと、俺はたった一人、荒涼の地に立っている気分になる。
 人っ子一人、見当たらないような、そういう寂しげな風景の中で生きるのは修行中は当然のことだけど――なんて言えばいいのかな。頭のいいあかねだったら、すぐにウマイ言葉で「それだ!」って表現をしてくれるんだろうけど。…まあ、仕方がねえ。そういう心の中に住んだことは、あの日までなかった。
 だけど、最近じゃ俺の周りには、人っ子一人いないんだって時々思い知らされる。痛いくらい。
 そりゃ、シャンプーはマネージャーとしてそれこそ、鬱陶しいくらい一秒と離れず側にいるけど。マスコミ関係の仕事のときなんて特に、この俺様が未だにドキっとするくらい色っぽい表情で俺の隣りで笑っているけど。俺に自由な、一人の時間なんてないに等しいけど。そういえば、寝ている間以外はずっとシャンプーの顔を見ているような気がするけど!!

 乱馬はなにやら方向が違ってヒートアップしてきた怒りを、握り拳をつくることと言葉にならない唸り声をあげることで抑えた。
 シャンプーも――そしてそれはシャンプーの血族にも及んで――負債相手の一人である以上、己の後ろ暗さをシャンプーに八つ当たることだけはなんとか思い留めなければならなかった。
 シャンプーは相変わらず、乱馬を冷たい目で見ていた。

 昔、ムースは
「シャンプーはオラを冷たい目でしか見ん。乱馬、貴様を見るときとは違ってな。心底惚れた女に、氷のように冷たい目で見られるということが貴様にわかるか」と酒をちびちび涙ぐしぐしと、乱馬に愚痴ったことがある。
 ムースはその日、シャンプーに何度目かしれぬデートのお誘い――例によって、恐ろしく悪趣味な――を持ちかけ、これまた何度目かしれぬ、こっぴどい振られ方をしていた。
 常識では考えられぬほどのムースの悪趣味の原因は、彼の非常識なまでの近眼さだけでは片づけられないものがある。シャンプーがムースからの誘いを断るのは、単に乱馬への恋心からだけではないだろう、というのが乱馬を含め、彼等を取り巻く多くの人達の見解でもあった。
 しかしそれをきちんと助言してやった者は、そういえば、誰もいない。親切なあかねが一言教えてやっていれば、今頃、ムースは勿論、シャンプーにとってだって幸せな――憎まれ口を叩きながらも二人で幸せにやっていたかもしれないのに、と乱馬は目の前に立ちふさがる女を眺めながら思った。
 ムースが言った、シャンプーの氷のように冷たい目、というものを乱馬は今、目の前にしている。
 不思議なものだ、と乱馬は思う。
 昔のシャンプーが「男の」乱馬にその目を見せたのは、反転宝珠を逆位置につけて乱馬の前に現れた、あのときだけだった。あのときはシャンプーのあまりの豹変ぶりに驚いて戸惑った。そして愚かに焦って追いかけた。
 あの頃は乱馬に向けられる冷気の漂った視線というものは、豹変と言うほかなかった。今ではそれこそ日常であり、もし今、シャンプーに反転宝珠を逆位置につけたとすれば、それは嫌悪や侮蔑ではなく、素晴らしく豊かな愛情をもたらすだろう。
 本当に不思議だ、と乱馬は首をひねる。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。昔、破壊的な求愛を受けた女に馬車馬になれ、と冷酷に命じられ、貧乏暇なしとでもいうように、途方もない負債を抱えている。金銭的な負債――借金は完済の目処がたっているけれど。
 あかねのせいだ、と乱馬は元許嫁を心の中で罵った。
 シャンプーに向けられぬ八つ当たりと全ての責任を、もう何年も会っていない過去の恋人に押しつける。彼の脳裏で、責められたあかねが憤慨する。けれど、その表情がうまく思い描けない。
 乱馬はシャンプーに卑屈に笑いかける。お決まりの揉み手も添える。
「わかってるよ、シャンプ〜。すまねえなあ〜って、いつもシャンプーには感謝してるぜ!」
 ヘラヘラとご機嫌取りをする乱馬に、シャンプーはフン、と鼻であしらい
「明日の予定の前にまず、テレビ局ね。さっさと行くある」
 ヒール音をツカツカ高らかに、前を歩いていった。
 乱馬はくびれたウエスト、豊かなヒップ、そしてまたくびれた足首へと繋がるヴィーナスの脚線美に「ぢぐじょお〜」と紳士的な唸り声を捧げた。

――ああ。確かに俺は夢の格闘家になれたさ。
 とびきり強くて、とびきりの売れっ子。
 マスコミはこぞってもて囃してくれる。「色男」としての評判もスクープされた記事の数でよくわかる。
 向かうところ敵なしの売れっ子最強格闘家。
 それが今の早乙女乱馬。無差別格闘早乙女流なんていう、ご大層な形式だけの肩書きなんぞいらない、あるのは今この瞬間の己の強さだけ、とでもいうように。一人の売れっ子格闘家としての早乙女乱馬がいる。
 きっとあかねもテレビや雑誌で俺の勇姿を見てくれているに違いない、と乱馬は自嘲気味に笑ってシャンプーの後を半歩遅れでついていった。
 ムースが乱馬に八つ当たったときの会話を、乱馬はゆるゆると思い返す。


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 猫飯店のカウンター席の片隅に、ムースと乱馬は並んで座っていた。
 上海花彫酒のカメを抱えたムース。うじうじと男らしくねえ、と喝をいれた乱馬は、ムースから酒瓶をとりあげた。
 慶びの席に用いられる老酒。ムースが飲んだとシャンプーが知れば、彼女のムースに対する冷遇はさらに酷いものとなるだろうことが偲ばれた。
 シャンプーはド「S」だ、と乱馬は思う。あんな女王様と一緒になれば、絶対に苦労する。許嫁がシャンプーじゃなくてよかったな〜、と思う。猫だし。
 ウッちゃんは料理がうめーし、心が広い。浮気もオッケーってかんじだ。従順だし。だけどあかねは…。
 はっと乱馬は思い直し、もう一度ムースに同情しようと試みる。
 確かにシャンプーのムースに対する態度は鬼だ。冷たすぎる。可哀想だ。うん。そうだ。猫だし。
 乱馬は水を頭からかけられてガアガア鳴いているド近眼アヒルの惨めな姿をいくつか、記憶から引っ張り出す。うんうん唸って頭をひねる。ああ、やっぱりムースは哀れだ。だって猫だし。
 しかしムースへの同情もいささか飽きた。
 こうして愚痴を聞かされ、親身になって――乱馬自身はそう思っていた、という話だが――聞いてやっているのに、結局いつも自分が責められるのだ。
「いつまでたっても貴様がはっきりしないせいだ!」とか「いい加減、天道あかねに対して素直になるだ!」とか「オラのシャンプーを誘惑するでねえ!」とか。
 だから、まるで見当違いなことばかり…と乱馬はその度に唾を飛ばして反論するはめになるのだ。
「俺のせいじゃねえ」とか「るせえ!あかねなんて関係ねー!」とか「俺がいつシャンプーを誘惑したっ!」とか。パターンだ。
 飽きた。面倒くさい。
 それに尽きた。たかだか女一人でくだらねえ…そう思った。
 またか、いつものことじゃねーか。
 乱馬はテーブルにつっぷして女々しく泣くムースにうんざりした。しかしムースにとってみれば、慣れていることとはいえ、好きな女に振られて落ち込まぬはずがなかった。たとえそれが物心ついたばかりの幼き日から続く「お約束」であり、ムースの記憶にそれ以外の例外がひとつとして見当たらないとしても。

 そんな簡単なことが、あの頃はわからなかった。わかっているつもりではあったけれど。自分が誰かの立場になったら、なんて考えていなかった。思いつきもしなかった。
 いい加減、オマエこそ慣れただろうに、とまで思った。好きな女に拒絶されることに、いい加減慣れただろう。もう痛みもしないのだろう、痛手を負うほどの傷でもなんでもないだろう。
 あかねにバカバカ言われることに腹を立てていたけれど、本当に俺ってバカだったんだなあ、と乱馬は昔を思い出しながら素直に感心する。





「わかるか、乱馬。その次の瞬間、オラを冷たくあしらったすぐ後で、シャンプーは乱馬を熱っぽい目で見るだ…。オラには一度も言ってくれたことのない言葉で…」
 ムースはカウンターテーブルに左頬を押しつけて、涙とこぼした酒で顔とテーブルを濡らしながら、乱馬を睨んだ。
「いや、貴様にはわかるまい。一つ屋根の下で惚れた女とその家族と暮らしながら――しかも許嫁の――天道あかねがありながら、なんの罪悪感も抱かず脳天気にフラフラと他の女の色香に惑わされる浮気男に…。貴様なんぞにわかってたまるか…」


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「誰が浮気男だよ…」
 記憶の中のムースにつぶやく。昔も同じように反論した気がする。「それに、あかねなんか俺には関係ねえ」と付け加えて。
「浮気男かあ…」
 乱馬の別名に、それはあった。昔も、それから無責任にでっちあげて騒ぎ立てるマスコミのおかげで、今も。
――そんなつもり、一度だってなかった。
 あかねは今、あのゴシップを雑誌で読んだのだろうか?それともテレビで?
 誰か名も知れぬ女との熱愛報道なんて、気になったのは最初のうちだけで、今はもうどうでもよくなっていたけれど。今回の記事だけは。
 案外泣き虫だったよなあ、とショートカットの少女の面影に胸が痛んだ。
――今ならちょっとわかる気がするぜ、ムース。
 いつものことだろう、だって?だからこそ、だったのに。拒絶される、ということの意味を知らなかった。



 ゆっくりと屋台をひく薄汚れたパンダの脇を、乱馬はうつむいて足早に通り過ぎた。
 そんなことをしてもしなくても、お互いの存在をなかったことには出来ない。よくわかっていた。
 それでも、どんな顔をして父親を見ればいいのかわからなかった。
 今でもわからないことだらけだ、と乱馬は思う。

 色褪せたネズミ色のチャイナを引っ張る。夕陽を浴びていることだけが、ネズミ色に見える原因ではない。大分着古している。
 元は鮮やかな水色だった。天道家に居候していた頃はかすみが毎日洗濯してくれた。時々のどかがそれに加わることもあったし、あかねが手伝おうとすることもあった。お気に入りのチャイナをボロボロにされたくなかった乱馬がそれを丁重にお断りするのは当然のことだったが――そして、そのために屋根をぶち破ってお空に消えてゆくのも勿論のことだったが。
 引っ張った辺りのボタン糸が緩む。そっと引っ張ったつもりだったけれど、随分酷使しているのだから、仕方がない。生地も擦り切れているし、糸だってほつれている。最後にボタン直しをしたのはいつのことだったか思い出せない。
 あとで糸を買おう、と乱馬は思う。それともシャンプーに買ってきてもらおうかな、機嫌がよければ頼めるかも。
――最後に直してもらったのは誰だったっけな。
 自分以外の、他の誰かが乱馬の着衣を洗濯してアイロンがけして。ほつれていたら直してくれて。そういうことをしてもらったのは、いつが最後だったのだろう。
 あかねではないことは確かだ。あかねだったら、その後すぐに自分で補強しただろうから、絶対に覚えている。
 絶対に覚えている。
――そういえば、シャンプーだったかもしれねーな。
 きっとそうだ、と乱馬は思う。最初のうちはシャンプーだって優しかった。甲斐甲斐しく世話を焼くことが嬉しそうだった気もする。

 俺はあの頃から大して変わっちゃいねーのかも。肝心なことはなんにもわからないで、どうやったらうまく逃げられるかばかり考えている。何かあると、うろたえて焦って――収集のつかなくなったこと全部、あかねのせいにして押しつける。あかねがいない今でも。

 元婚約者と同じくらい、両親とまともに会っていなかった。
 彼等との交流は銀行で行われた。彼等が通帳に記載するとき――残高照会だったり、引き落としのときでもいいけれど――そのとき不良息子が金を振り込んでいることが知れて、それだけだった。
 すまねえ、親父、なんて。あれだけ散々めちゃくちゃに生きてきた男だ。自分のしていることはまだ可愛いものだ、と思っていた。
「白髪まじりのパンダなんてよー…。そのうちシロクマになっちまったら、つまんねーじゃねーか」
 ブツブツ愚痴る乱馬に、後方から「パオッ」という非難じみた声色の鳴き声がして、前方からは「だからしっかり稼ぐね!」と怒鳴られた。
「…ぅるせー」
 足もとの石ころを軽く蹴り、乱馬はシャンプーの腕を掴んで、それから肩を抱いた。後ろは振り返らなかった。パンダが掲げるプラカードを読みたくなかったし、神出鬼没のプラカードをもはや持ち歩いていなかったら、と思うと怖かった。
 シャンプーは乱馬の腕をするりと振り払い、乱馬の額を――女傑族の力でもって――人差し指で弾いた。とんでもない勢いで乱馬が吹っ飛ばされる。そしてゆっくりと落下。ぐしゃり、という汚い音。
「誰に見せつける必要があるね」
 ゴシップ記者も――あかねもいないのに。



 きっと、パンダが乱馬に過去の幻影を見せたのだ。


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photo by Four seasons

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