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「今度同窓会あるんだってさ。ウッちゃん、出るだろ?」

 これ大介から、と乱馬は右京に二通の招待状を差し出した。
 右京はそれぞれの宛先を見ようと、手紙を裏返した。
「…こっちはうちがあかねちゃんに渡せばええんやね」
「…おう。ウッちゃん、その………よろしくな」
 ははは、と右京が笑う。
「乱ちゃんの頼みじゃあ、断るわけにはいかんもんな。あかねちゃん、首に縄つけてでも引っ張ってくるわ。安心しい」
 右京は胸をどん、と拳でたたいてみせた。
 乱馬は片方の眉を下げて苦笑する。乱馬の隣りに並ぶ女は居心地が悪いのだろうか、早く店を出たがっているように見える。
「じゃ、ウッちゃんまた」
 乱馬は片手を挙げ、右京に別れを告げると、隣りの女に待たせたことを詫び、暖簾をくぐって出ていった。


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 乱馬が「お好み焼きうっちゃん」を訪ねてきたのは、つい先ほど。あかねとの電話の一時間前。


 右京は、本日二度目となる開店準備に忙しなく店内を動き回っていた。
 冷蔵庫をチェックすると、食材がもしかすれば足りなくなりそうな心配があったので、小夏を使いにやる。ついでに銀行にも寄らせることにする。
「行って参ります」
 右京は酒棚の最終チェックをしながら、後ろ向きのまま、よろしく、の挨拶代わりにひらひらと手を振った。
 芋焼酎の鬼ごろしが残り僅かなだけで、あとは揃っている。これくらいなら明日、酒屋から納入されるまで待てばいい。
 右京は前掛けの紐を腰上に持ち上げ、結び直す。冷蔵庫からネギを取り出し、まな板に向かう。
 軽快なリズムでネギを刻む。ぶれることなく一定の刻み音。
――猫の手でも借りたいっちゅーけど、こない繁盛するんは有り難いこっちゃ。
 額を伝う汗を手の甲で拭い、右京は気のいい常連客達の顔を思い浮かべた。
 第二弾の客層は赤ら顔で酔っぱらって、酒臭くて、図々しくて、声がでかくて、言うことが支離滅裂で、時折店内でケンカ騒ぎを起こすショボくれた中年親父で―――彼等は皆、気が弱く、人がよかった。
 溜まった愚痴をネチネチと辛気くさく右京や小夏に打ち明けた後、ぱあっと陽気に酒を煽り、右京ご自慢のお好み焼きをウマそうに食べて帰るのが彼等の常だった。
 二日と空けず、彼等は「お好み焼きうっちゃん」に通ってくる。二日と空けず、似たような愚痴を持ち込み、似たような口論をし、似たような満足を得て。
 疲れた顔で店に来たお客さんが、たとえそのとき限りの気晴らしに過ぎなくとも、吹っ切れた明るい顔して店を出てゆくのを見ると、嬉しかった。
 己の道。信念を貫く右京にとって、なにより誇らしい瞬間。

 文句の一つも言わず、従順についてくる女のような容姿の小夏。
 一人でも、店を成功させる自信はあった。実際、小夏が店に居着く前だって、それなりに繁盛していた。慣れるまで、小夏の金銭感覚と常識には苦労させられたし、使えるように仕込んだのは、右京だ。
 それでも。いや、それだからこそ、か。どちらでもいいけれど、今は居てくれなければ困る。大事な右腕となった小夏。
 右京の隣りに並ぶのは、女の着物がよく似合う、可憐な抜け忍。それもくノ一。二人並べば、店内は艶やかに陽気にしっとりと華を咲かせる。
 それが常連客の目を楽しませる。胸を弾ませる。

 高校生の頃、欲しかったものは、二つあった。
 一つはお好み焼き職人としての将来。技術、経営能力。それらに付随して途方もなく広がり膨らみ、沸き上がる、大きな夢。果ては世界規模の事業展開。
 もう一つの夢は、―――叶わなくてよかったのだろう。



 出入り口からガラガラ、と引き戸の音がした。
――小夏のアホウ、また鍵閉めんで外行きよって!不用心やないかい。
 チッと舌打ちすると、すぐさま商売用の明るい声色をつくって右京はカウンターの奧から店先に出てきた。
「お客はん悪いなあ。開店までまだ……」
 暖簾を押し上げた右京の手が止まった。
 目の前の二つの人影に右京は見覚えがある。
 いや。彼等を知るのは右京だけではない。最近では、日本全国で、その認知度が日々高まりつつあり、もしかすればサインを求められることも数知れないほどかもしれない有名人。
 今は、数人のゴシップ記者に追われているだろう、ワイドショーな仲と噂される二人。

――何年ぶりやろか。

 あの頃は、この見目麗しい二人組の片方が右京の店に放課後、夕食前の腹ごしらえにやってくることは日常茶飯事で。片手をあげ「よっ」とか、店に入るなり「ハラ減った〜」を連呼したりしながら右京にタダメシをせがんだものだ。
 逆に、もう一人が右京の店に正面から堂々、訪ねてきた記憶はない。
 右京にとっても彼女にとっても、お互い、あらゆる面でライバルであったし、個人的につきあう理由もなかった。今も昔も変わらず。
 しかし今となればどちらにしろ、二人とも同じく珍奇な客には違いなかった。

 右京は思いもかけぬ来客に大いに驚いた。心臓が喉から飛び出るいうんは、こういうことなんや、と。
 だがそれより怒りの方がずっと大きかった。正直、どの面下げてうちの前に現れることができたもんやな、なんて皮肉の一つでも口から出そうだった。
 怒りを助長したのは、乱馬の隣りに、当然のように寄り添う女。
 乱馬の隣り。
 右京がどんなに望んでも、手に入らなかった場所。その場所はあかねだけに許された場所だ。
 あかねだからようやく諦めのついた、本当は誰にも譲りたくなかった場所。優柔不断でプライドが高く、意固地で照れ屋な乱馬がかすかに、しかし唯一、自らの愛情を表に示す、あかねだから。
 諦めざるをえなかった場所。恋敵がどんなに素晴らしい人物だろうと譲る気などなかった、乱馬本人の確固たる愛情さえ存在しなければ、絶対に諦めなかった場所に。
 そこに、なぜ彼女がいるのだ。
 厚かましく至極当然といった顔で。昔から変わらない、高慢ちきで高飛車な、かの元ライバル。右京とともに恋の争いで、あかねに完敗したはずの。新たな幸せを探すことを誓い合ったはずの。
 その裏切り者が、どうして。

「…なんでや」
「ウッちゃん?」
 右京の喉の奥から濁った低い唸り声が絞り出される。乱馬が怪訝そうに右京の顔を覗き込む。

――あかんあかん。こないな事しても仕方がないやんか。なんにもならんわ。
 ふるふると頭を左右に振る。
 右京が乱馬に怒鳴って、ねちねち責めたところで、なんになろう。
 それは右京の役目ではない。右京の心のわだかまりを乱馬にぶつけることで、右京の心だけが一時スっとするとしても、物事を好転させはしない。
 それより、右京のやるべきことは、目の前の乱馬とあかねを、どうにか引き合わせること。
 どう転んだって、これ以上最悪なことになろうはずがない。あの意地っ張りの二人が、お互いの意に反して状況を複雑に悪化させてゆくことをどれほど得意にしていたとしても。
 右京はわざとらしい、とってつけた笑顔を貼り付ける。

「なんやなんや。ずいぶん久しぶりやないか。うち、てっきり忘れられたか思ってたんやで。びっくりしたわ、突然連絡もせんで〜。大事な幼馴染みに随分、冷たいんとちゃう?」
「わりいわりい。最近忙しくてよー。大変だったんだぜ、ここに来るのも」
 乱馬は満更でもなさそうに、頭をかいた。
「まったく、人気者はツライぜ」
 右京はアホか、と呆れつつ、そうや、こーいうんが乱ちゃんや、と目の前の男の浅薄さを懐かしく思った。
「最近は乱ちゃんの顔、テレビで見られへん日はあれへんもんなあ。そうとう無理してるんと違う?いくら乱ちゃんが丈夫やからって無理したらあかんねんで!」
 右京が「格闘家は体が資本なんやから。体壊したら元も子もないで〜。疲れたときはゆっくり休んでたくさん食べて、元気充電せなあかんわ。それから心機一転、気張ってけばええねん」と笑うと、乱馬はチラリと隣りの女を見て
「大丈夫だって。ウッちゃんは心配性だなあ。……まあ、このところ、スケジュールがたてこんでるから、少し休みたいのも本音かな。鬼マネージャーが許してくれねえんだけどさ」
「休めばええやん。そないなこと乱ちゃんの自由や。その女には関係あれへん。乱ちゃん雇ってるんは、その女と違うで」
 女は鋭い右京の視線を、挑発は受けない、とばかりに横目で受け流した。

 女は足を組み替え、長い黒髪をばさりと後ろへ払う。
 深みのある美しい翡翠の勾玉のピアスは小ぶりで形のよい耳で泳ぐ。金や朱の組み紐で赤瑪瑙を数珠繋ぎしたブレスレットと、揃いのアンクレットはそれぞれ細い手首ときゅっと締まった足首で揺れる。ゆったりと豊かな黒髪は女の華奢な肩の上、優雅に放物線を描く。
 ……圧倒的な、なにか。
 右京は一度きゅっと口を結び、視線を乱馬に戻した。
「で、どないしたん?なにかうちに用があるんやろ」
 でなけりゃ、乱ちゃんがうちに会いに来るわけあれへんし、と右京は内心付け足した。
「ああ…。それがさ…」
 乱馬はズボンのポケットに無造作に手をつっこみ、何やらごそごそとやっている。
 その隣で女がハンドバックの留め金をパチンと開ける。
――嫌味なやっちゃな。
 美しく織られた絹地に珊瑚の玉を飾った豪奢なハンドバッグ。
 艶やかなこの女に似合いだった。非の打ち所がないほど、女は美しく妖艶だった。
 女は無言で白い二通の封書を取り出し、乱馬に差し出す。
 さめるような赤一色のマニキュア。尖った爪の先端がつう、と線を引く。
「ん」
 乱馬は女の手から二通の手紙を受け取る。
 その動作は自然で、右京の心は激しく揺さぶられた。右京の脳裏に、あかねの花がほころぶような笑顔が浮かんで消える。
 その役割は、そこにいるべきは―――……
「ウッちゃん、これ」
「なに?」
 右京は前掛けで手を拭ってから、乱馬の差し出した手紙を受け取ろうと手を出した。
 二人が来るまで、ネギを切っていた手。二人の前に出るとき、軽く水洗いだけはした。今さら前掛けでぬぐおうと、匂いは消えない。
 深爪気味の指先は、白い部分が見えなくなるまで切りそろえられている。マニキュアなど塗られているはずがない。塗ったとしても似合わないだろう。これほど深く切り込んでいるのだから。
 マメにタコ、あかぎれに切り傷、火傷。でこぼこした、乾燥した職人の手。
 この手で、細腕一本で自分と小夏と、その生活を支えてきた。強い女の、タフに現実を生きてきた手。その証。
 恥ずかしくなんてない。
 恥ずかしいのは、その思いを肯定させようと言葉を紡ぐこと。連ねた言葉に委ねて連想させてゆく、薄汚さ。

 右京は自嘲の色を浮かべて、乱馬を見た。乱馬はなかなか手紙から指を離さない。
 右京はいったん、手紙から手を離した。
 乱馬の視線が名残惜しそうに離れた右京の指を追う。
――あんまりジロジロ見いひんで。
 右京はふっと口元を緩める。ヘソの前で手を重ね、軽く握る。右京はうつむく。
「あ、あのさ…」
 なにかを言い淀み、両手の人差し指と親指の先を突つきあい、いびつな菱形をつくる。昔と変わらない、幼い彼の面影。
 モゴモゴと口を動かし発声された、低い男の声は右京の耳まで届く前に地に落ちてしまう。
 右京の心がざわつく。
 そして過ぎ去りし年月を実感する。
 昔は、この男のこういうはっきりしない優柔不断さが可愛いと思った。うちが守ってやらな、と温かい愛情で胸一杯になった。

 無表情で乱馬の隣りに並ぶ女が、左手首を表に返す。
 辺りを包み込む、日の入り前のオレンジの光。赤瑪瑙がぼんやり朱に染まる。
 女が軽く手首を振る。緩めのブレスレットが手首と肘の中間あたりまで落ち、腕時計が露わになる。こぼれ落ちる夕暮れの朱瑪瑙。
 細い銀がなだらかなカーブを描き、時計盤の周りを小さな翡翠とダイヤが囲む、腕時計。
 女は乱馬の鼻先に時計盤をつきつける。
「ったく。わかってるよ」
 乱馬は不機嫌な声を隠さず、女の腕を押しのける。
 右京は、もう驚いたらあかん、と心に決めた。
 どれほど気の置けない仲であるように見えても、どれほど馴れ馴れしく見えても、うちが驚いたらあかん、と思った。
 そんなふうに驚くことが、あかねを裏切ることのように思えたから。

「ウッちゃん。これ招待状」
 乱馬はもう一度右京に、二通の手紙を差し出した。
 招待状、の言葉の響き。とっさに右京の頭に浮かんだのは、乱馬と隣りに寄り添う女が教会でタキシードとウェディングドレスで愛を誓い合う姿だった。
 右京は手を出すのを躊躇った。  


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「ほんまに乱ちゃん、なにやっとるん…」
 右京は客用に揃えた週刊誌の一つに目をやった。
 そこには新進気鋭の格闘家とその中国人美人マネージャーとの熱愛報道が、大きく見出しとなっていた。


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photo by Four seasons

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