彼女のウィンクで魔法はとける。

そしてそれはまた別の魔法の始まり






「人参とタマネギとジャガイモとブロッコリーください」
「はいよ」
 あかねはゴロゴロと野菜が袋に入れられるのをぼうっと眺めていた。
 今日はシチューを作る予定だ。いまさっき、料理教室であかねだけに限った特別メニューとして、教わってきた。
 一つの野菜を切るだけのことに、数時間もかけてしまったけれど、誰も死人を出さないで済むものができた。ちゃんと普通のシチューの味がして、おいしかった、とあかねは思う。
 料理教室の先生だって、目尻に涙を光らせながら喜んでくれた。久しぶりに。あかねが初めて料理教室で、生あるものが口にしても危険のないだろうものを作ったとき以来。
 だからマトモなシチューだったんだろう。

「あかねちゃん、今日は何をつくるんだい?」
「シチューを作るつもりなの。ああ、そうだ。おいしくできたら、お裾分けにきますね」
 あかねは両手を胸の前で合わせて、可愛らしく小首をかしげた。八百屋のおじさんはその天使の微笑みに、ひきつり笑いを浮かべる。
「い、いや…あ・あ・あ・あれだ…、あ、…ああ!そうだ!すまんなあ、あかねちゃん。今日はウチのカミさんがシチュー作るんだとかよう。そうだそうだ。奇遇だなあ。残念だけど、残念だけど。ああ、残念だなあ。それにしてもなんて奇遇なんだろうなあ、ああ残念だ。」
 ははは、と乾いた笑い声を出すおじさんに、あかねは残念ね、と微笑んだ。
 あかねの料理の腕が破滅的なのは、誰もが知っている。あかねも、周囲の自分への評価がいかなるものか、知っている。だから、もう無理強いはしない。泣いて拗ねて傷ついたりしない。高校生のときのようには。

 店先に並ぶ野菜は、夕焼けのオレンジ色に照らされているせいか、干からびて見えた。
 産地直送の新鮮な野菜をいつも提供してくれる、なじみの八百屋。
 八百屋のおじさんは二代目で、あかねが小さい頃から、この店には世話になっている。だから、顔馴染みの常連で、おじさんはあかねに限らず天道三姉妹を可愛く思っている。
 もっとも、そんなふうに、この界隈で有名な美少女三姉妹を可愛がってくれているのは、八百屋のおじさんだけではない。商店街を始め、町の誰もが彼女達を微笑ましく見守っていた。
 穏やかで落ち着いた、ほんわか笑顔の長女かすみ。しっかり者で頭の回転が早く、切れ者の次女なびき。力持ちで心優しく、真面目な末娘あかね。
 母が生きていた頃から、彼女たちを見守り続けてきた町の住民達は、最近、哀れみを滲ませた目であかねを見る。
 それは高校を卒業したあたりから始まったが、近頃その色合いが格段に、なお一層、ますます濃くなった。あかねはその視線に少しだけうんざりしたり、安らいだりする。





 家路をのろのろと辿る。いつもと同じように、買い物袋を下げて、なんとなくなんとなく。一人でのんびりと。
 毎日の繰り返し。

 朝早く起きて、洗濯機を回して、干す。そうしている間になびきが起きてきて、あかねにおはようを言う。それからなびきが朝食の支度にかかって、あかねは朝のランニングに出る。
 家に戻ると道場で一汗流す。
 あかねが居間に着くと、早雲が新聞を広げている。その頃にはなびきは既に大学へと家を出てしまっている。あかねが席に着くと、早雲と二人で声を揃えて「いただきます」を言い、机に並べられた料理に手をつける。
 食べ終えると、洗い物を片づけて、道場へ行き、掃除をする。それから数少ない門下生がちらほら道場にきて、稽古をつけてやる。
 昼になると、嫁に出たかすみが昼食を持ってきて、それを早雲と食べる。たまに門下生達も、手持ちの弁当の他に、かすみの手料理に舌鼓をうったりする。
 かすみは自分の料理が美味しそうに平らげられていく様を見て嬉しそうに微笑み、そして午前の診療を終えた夫と平和でのんびり幸せな昼食を摂りに小乃接骨院に戻る。
 午後になると、道場は早雲と交代する。
 午後からの門下生は早雲が稽古をつける。あかねはシャワーを浴びて着替えてから、一駅先の料理教室に行く。そこで散々苦労して、とりあえず一日一品なんとか、簡単なメニューを安全なものができるまで教わってくる。
 帰りに商店街に寄って、習ったばかりのメニューを夕食に作るべく、買い物をする。そして苦労しながら夕食をつくり、早雲と二人で食べる。
 たまになびきがそれに加わる。
 なびきが夕食の時間までに間に合うときは、夕食はあかねとなびき、二人で分担してつくる。というより、なびきがあかねのフォローをする。
 あかねの作った料理の場合、なびきは自分の手出し口出ししたもの以外、絶対に口をつけない。だから一人で全てやり遂げたいのを、あかねは渋々我慢する。それに姉妹二人で料理をつくるのも、悪くないとあかねは思う。
 高校生の頃までだったら、なびきとあかねが二人で協力して夕飯を作る姿など、あかねも早雲も想像できなかった。早雲にとって、かすみが嫁に出て、一番の心配は今後の食事であったが、人一倍不器用な末娘の手料理は、なんとか意識を保っていられるぐらいまでに上達した。加えて、台所で姉妹仲良くやっている姿は微笑ましい。
 それからあかねは風呂に入り、図書館で借りてきた本を読んだり、道場の経営をなびきと一緒に考えたり、それぞれの門下生につけてやる稽古に関してだったり、今後の方針についてだったりを早雲と話し合ったりする。
 そして寝る。

 朝起きて寝るまで、テレビはつけない。あかねが居間にいる間は、絶対にテレビの電源は入らない。
 毎日の繰り返し。

 そういえば、高校の頃の毎日の繰り返しは、朝、乱馬と一緒に遅刻すれすれの時間に登校することだった。
 乱馬がフェンスの上を器用に、それでいて猛スピードで走り、あかねはその下をこれまた猛スピードで走る。二人は毎日同じ文句を言い合う。言い争いながら猛スピードで駆けてゆく。
 そこへ岡持の中国娘と、黒薔薇をまき散らすレオタード娘と、どでかいヘラを背負ったお好み焼き職人兼女子高生が乱馬に集中攻撃をしかける。あかねはぶすくれて走り去る。乱馬が情けない悲鳴をあげて三人娘から逃げる。
 毎日がお祭り騒ぎで、信じ難い災難に巻き込まれて、それが日常だという。なんと非日常的な毎日だったことか。
 今は、とても平和だ。

 ただいま、と門をくぐってあかねは家にあがる。野良猫が門の前でニヤアと鳴く。
 そして今日も平和な毎日の繰り返し。
 強い西日が「無差別格闘流 天道道場」の看板を照らし出す。
 誰かさんが昔、唯一の弱点だとふざけたことをぬかしていた猫。その猫が道場の中へ消えていく。
 最近どうやらトラ縞の猫が二、三匹住みついてしまったらしかった。
 トートバッグと買い物袋を部屋に置いてから、あかねはミルクを皿に注ぎ、縁の下に置きに行く。


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「あかねちゃん、聞いた?再来週の日曜、同窓会するんやて。どないする?」
「そうねえ…。まだわからないわ」
 あかねは指にくるくると受話器のコードをまきつけて、高校の頃の同級生にどっちつかずの返事をした。
 カレンダーを見るまでもなく、その日、予定がないことをあかねは知っている。
「右京こそ、お店が忙しくて難しいんじゃない?」
「あかねちゃんが出るんやったら、うちも行くわ。久しぶりやもん。店は小夏に任せるさかい。最近、小夏もようやくお客はんに出せるモン作れるようになったんや」
「あら、そうなの?てっきり再来週はお祭りがあるし、屋台でも出すつもりだったんじゃないかと思ったんだけど。…そういえば右京、この前、グルメ雑誌にお店紹介されたんですってね。すごいじゃない」
「たいしたことあれへん。マイナーな地方雑誌や」
「そんなことないわ。右京のつくるお好み焼きは本当に美味しいもの。それをちゃんと評価してくれたのよ。実際、遠方からのお客様も多いでしょう。それとも右京は雑誌に勝手に口コミされたの、本当はイヤだった?」
「まあ、悪い気はせえへん。うちかて嬉しい。けど、まだまだや。まだ半人前や」
 あかねが右京の台詞に反応して、畳みかけるように褒め言葉を浴びせる。
 右京はあかねの賛辞にまんざらでもない気分になって、二号店の計画をあかねに熱心に語った。あかねは、いい具合に相槌をうち、右京の心をくすぐる褒め言葉をところどころ、嫌味にならない程度ではさむ。
 当初の目的だった同窓会の話は、右京の念頭から消えた。

「…あ、それじゃあそろそろ夕飯の支度しなきゃいけないから」
「そや、うちも仕込みせんと」
「じゃあまたね」
「うん、また………って」
 ぶつり、と受話器の向こうで電話の切れる音がした。
「ちょ、ちょー、待ってえや!あかねちゃーーーん?」
 右京は受話器に向かって唾を飛ばし叫んだが、既に回線は切れている。
「ああ、またやってしもたわ…」
 右京は受話器を置くと、頭を抱えた。
 ある話題に及びそうになると、右京はいつもあかねとのコミュニケーションに失敗する。何事も起きぬ前に、あかねがさっさと身を翻してしまう。
 右京はいつも、あかねのその巧妙な手口にひっかかって、まんまとのせられてしまう。
 右京は褒め言葉に弱い。
 真面目で純粋で少し素直じゃなくて不器用で頑固で真っ直ぐだったあかね。
 どこにそんな武器を隠していたのだろう、と右京は思う。
 そこで思い至る。
 やっぱり、あかねちゃんも、あのなびきさんの妹なんやなあ、と。




 右京はもう随分とあかねに会っていない気がする。
 しかし、あかねは右京を避けているわけではない。なかなかあかねと会えないのは、口コミ雑誌に店の名が出たことで嬉しいことに客がどっと増え、右京の方が殺人的に忙しくなったせいだ。
 あかねは今、無差別格闘天道流の師範代を務めている。あかね曰く、家事手伝い。
 手伝いというより、仕事を増やしているような不器用ぶりも、最近はおさまりつつある。
 あかねの常軌を逸した不器用さには、多かれ少なかれ、誰もが迷惑していたものだが、まったく治ってしまうとなれば、それはそれで寂しいと右京は思う。
 昔のドタバタ騒動がここでもまた遠のいて、それらが事実あったという現実としての色や濃度が薄まってゆく。
 あかねがまだ、相変わらずとんでもない味の料理を高確率でつくっていてくれることに、右京はひそかに喜んでいる。

 そんなふうに、あかねは野良猫のハラを壊すエサをつくったり、門下生を鍛えたりしながら日々を過ごしている。あかねの毎日は平和でほとんど変わり映えもなく、暇を持て余すほどではないにしろ、時間は自由に使える。
 高校を卒業してから「お好み焼きうっちゃん」が忙しくなるまで、あかねと右京は二人でショッピングやテニスや映画やカラオケやら。若い女の子らしく遊んだりもした。
 だから、あかねは右京との長電話にも楽しそうにのってくる。居留守を使ったり、口実をつくってさっさと電話をきったりはしない。
 特別な理由がなければ。
 だから先程の電話で、右京をうまく丸め込んで電話を切ったことには特別な理由があったということだ。

 あかねが避けているのは右京ではない。
 あかねが避けているもの。
 風林館高校そのもの。風林館高校時代を思い出させる全て。

 早乙女乱馬を思い出させる、全て。





 右京があかねにとって、その中での例外にあるのは、成り行きとも言えるし、当然のこととも言えた。
 右京は乱馬を追いかけ回す、あの三人娘の一人だった。乱馬のもう一人の許嫁だった。そして家族を除いた友人の中、その誰より、乱馬とあかねを祝福し応援してくれる特別な友人だった。
 あかねと乱馬が同時に、それぞれ別々の理由から、同じくらい強い信頼感を寄せる右京。

 同窓会にあかねを連れてこい、と右京の想像の中のかつての同級生達が、強い口調で右京にせまった。
「あんたらに言われんでも、そうするつもりやったわ。あほう」
 同窓会の招待状が二通、カウンターテーブルの上に載っている。ひとつは「久遠寺右京様」。もうひとつは「天道あかね様」。

「…乱ちゃんのアホウ」
 招待状の「天道あかね様」をどうしようか、右京は少しばかり悩んだ。小夏は今や、右京の右腕となり、これからの夕飯時、欠かせない存在だ。
 店は最近、あまりに混むので仕込みやらが間に合わず、営業時間を仕方なく二度に分けている。昼飯時がまず一回。晩飯の夕方から、飲んだ後のサラリーマンが立ち寄る明け方までが二回目。
 小夏は今、仕込みと掃除と銀行へ両替に行くことのうち、いずれかの最中。抜け出してもらうわけにはいかないし、自分もそろそろ本日二度目の開店準備にとりかからねばならない。
 そしてつばさの存在を思い出した。右京は受話器を上げ、つばさを呼び出すことにする。


次項



photo by NOION

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