12

 乱馬は沈黙に耐えかねた。芙蓉の花を弄び、黙りこくるシャンプー。乱馬は“茜溺泉に入ってくれるのなら”と切り出すべく、ごくりと生唾を飲んだ。
 乱馬の頭の中では据え膳食わぬは…という非常に都合のよろしい言葉がぐるぐると回り続けている。シャンプーの瞳に光がよぎる度。豊かな黒髪が手で払われ、しなやかな放物線を描く度。ぴったりと体の線を描く艶やかな牡丹色のドレスが皺をつくる度。どんよりと重くなってくる下腹部に腰。毒々しい蜜と泥が混じり合ったものがぼとっぼとっと落とされ、乱馬の足もとを囲い、身動きがとれなくなってきている。
 際限なく湧き出る情欲と好奇心に、これ以上頭を振り続けようと努力する意思が乱馬には沸いてこなかった。茜溺泉に入ってくれるのなら、という余りに屈辱的な提案を、もしシャンプーが受け入れることが出来るのならば。もうおれは。
 全てはシャンプーの答えに任せる。
 乱馬は口を開いた。
「シャ、」
「わかたある」
 乱馬を遮り、シャンプーは頷いた。乱馬の拒否を受け入れたのだ。
「え゛?」
 妙にあっさり引き下がるシャンプーに、しかし乱馬は肩透かしを食らった。てめえ勝手な話だとは乱馬もつくづくわかってはいるのだが、シャンプーは自分に強く惚れていてシャンプーをまるめこむには骨が折れるぞ、と苦悩しウンザリする反面、そのように求愛されることで虚栄心を満たしていた。
 乱馬が間の抜けた顔でシャンプーを見ると、シャンプーは小さく肩をすくめた。
「乱馬、しつこく言たら、またわたし、騙されることになるね」
「またって、人聞きがわりいな」
 むっと顔を顰める乱馬に、シャンプーは一睨みする。
「鳳凰山で懲りたね!わたしが、乱馬に条件のむ迫たら、乱馬、今は“好得(ハウダ)”言う。しかし、わたしが手を貸した後、乱馬、とぼけるに決まてるね!」
「う゛っ」
 易々と想像できる、十二分にあり得る展開に、乱馬は言葉を詰まらせた。シャンプーはふっと険しい表情を緩め、眉を下げると小さく諦めの溜息をついた。
「仕方ないね。乱馬、無理強いできない。わたし、あかねに勝てなかた」
 狂おしいまでに切ない表情で寂しく微笑むシャンプー。常に強気・気丈な、誇り高く凛とした強さで佇むシャンプーだけに、乱馬の胸はぎゅっと締め付けられた。
「すっすまねえ…。だけどよ!シャンプー!おめえがあかねに負けてるってわけじゃねえんだぜ!あかねなんて色気はねーし、寸胴だし、可愛げはねーし、不器用だし、ガザツだし、凶暴だし、」
「わかてるある。わたし、強くてとても可愛く美しい。乱馬の見る目がないだけね」
 指折り数えてあかねの短所を上げだした乱馬を遮って、シャンプーは言った。
「そ、そーかもな」
 照れて頭をかく乱馬を前に、シャンプーは悪魔の囁きを聞いた。
――あかね、乱馬はおまえにくれてやるね。
 真っ赤な顔をして明後日の方向を向き、未だにわけのわからぬ弁明やらなにやらの繰り言を口にしている乱馬に隠れて、シャンプーはニヤッと紅い唇を吊り上げた。
「わたし、乱馬諦める。茜溺泉潰してほしい、青海省に頼む、協力もする」
「本当かッ!」
 乱馬はぱあっと顔を輝かせてシャンプーの肩をがっしりと掴む。シャンプーはこっくりと頷く。
「もう抱いて欲しい言わない。その代わり……」
「その代わり!?」
 乱馬は必死の形相でシャンプーに詰め寄る。シャンプーを抱かずにシャンプーが自分をすっかり諦めてくれてその上茜溺泉を潰すのに協力してくれるというのならば、乱馬はどんな無理をしてもいい、と思った。
 シャンプーは神妙な顔をして、しかし燃え盛る情熱の炎を瞳に宿して乱馬を見つめた。
「最後にキス。してほしいある…」
「キ、キス?!」
 乱馬は戸惑いでシャンプーの肩を掴んでいた握力を緩めた。冷や汗が一筋、額を伝う。出来の悪い笑顔を浮かべ、乾いた笑い声を出す。
「や、やだな〜シャンプー。冗談がキツイぜ!だってさっき、おれのこと諦めるって…」
 シャンプーは切なげに瞳を潤ませ、小さく頷いた。
「キスだけ。キスしてくれたら、乱馬諦める。キス、いい思い出、乱馬、諦めることできる!」
 シャンプーの大きな目から涙がぼろっとこぼれ落ちる。
「で、でも…」
 ごにょごにょと口ごもる乱馬の胸元、チャイナをぐいと引っ張り、シャンプーは顔をうずめた。震える手でしがみつき、悲鳴のような悲痛な声で訴える。
「キスくらい!最後ある!最後…!あかねには言わない!絶対、言わないね!お願いだから!おねが…」
 わああっと泣き崩れるシャンプーの背中に、乱馬はおずおずと躊躇いがちに腕を回した。嗚咽を漏らすシャンプー。頭を優しく撫でてやる。
「………わかった。最後にキスしてやる」
 しゃっくりをしながら、シャンプーが涙に濡れた顔を上げる。乱馬はつらそうに笑った。
「シャンプー。おめーの気持ちにこたえてやれなくて、悪かった」
 シャンプーは乱馬の背中にしがみつき、今一度、乱馬の胸に顔をうずめた。既に乾ききった瞳と濡れた頬を乱馬の胸に押しつけ、シャンプーは笑い出したいのを必死に堪えた。
――あかね、乱馬はおまえにくれてやるね。一度だけなら!!


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「小太刀!出てこい!小太刀!」
――もう、あかねに隠れて金を稼ぐ必要もねえんだ。わざわざ小太刀なんかのところで働く理由なんざねえ!
 九能家の門前でわめきたてる乱馬に、ばたばたと小太刀が駆け寄ってくる。小太刀の後ろから「何事だ!」と不機嫌な男の声がするのが乱馬の耳に入り、そして通り抜けていった。
「どうしたのですか!乱馬さま!」
 息を切らせて小太刀が乱馬の前に立つ。乱馬は侮蔑に満ちた目で小太刀を見下ろした。
「小太刀、あの契約はナシだ」
「え?」
 きょとん、とする小太刀に乱馬はますます憎悪を駆り立てられた。無垢なもの――小太刀が無垢だとはとても思えないが、今の乱馬にとっては陰湿でたちの悪い小太刀でさえ、無知で世間の荒波に揉まれたことのない温室ウサギのように見えた。無垢なものというものが、どれほどめちゃくちゃに切り裂いて破壊しつくしてやりたい憎悪の的となるのか、よくある悪役が掲げるよくある不条理な理屈を乱馬はたった今、身を以て知ることができた。皮肉なことに、それは乱馬がこれまで敵としていたはずの者達の心理だということも、乱馬はわかっていた。
「え、じゃねえ!ナシなんだよ!おれはおめーみたいな頭プッツンお嬢様のお遊びにつき合うつもりなんかねえってことだよ!」
「聞き捨てならんな!今、きさまは小太刀をなんと言った!」
 戸惑う小太刀の背後から兄の帯刀が出てくる。乱馬は一瞥すると小太刀に視線を戻した。
「わかったな、小太刀。おれはおめーの下で働く気はねえ。じゃあな」
 くるりと背を向ける乱馬。帯刀は乱馬の肩を掴んだ。
「待て!早乙女乱馬!」
 乱馬は気怠げに顔をあげ、胡乱な目で帯刀を見る。
「なんだよ、九能センパイ。あんたにゃ関係ねーだろ」
「早乙女乱馬、ぼくは貴様が心底嫌いだ。便所紙以下だ。貴様が我が家を今後も訪ねる機会があるのだと思うと、あまりの汚らわしさに身の毛がよだつ!だから貴様が小太刀のプロダクションから抜けてくれるというのならば、ぼくとしては大いに賛成だ」
「じゃーいーじゃねーか」
 便所紙以下から手を離せよ、と乱馬は帯刀の手を払った。帯刀は竹刀を乱馬の鼻先に突きつける。
「ぼくとしては賛成だ…。だがな!」
「あんだよ」
 乱馬はぴんっと指で帯刀の竹刀を弾いて飛ばす。帯刀は竹刀を取り戻そうと背後を見ることもなく、乱馬を睨む視線を外さなかった。小太刀はハラハラしながら二人を眺め、躊躇ってから兄の竹刀を取りに行く。
「男が一度口にした約束を覆すのは…いや、いい。きさまはそういう男だったな!」
「…なにが言いてえ?喧嘩うってんの?九能センパイ」
 小太刀は戻ってきて帯刀に竹刀を返すと、乱馬と帯刀の間に身を捻りこんだ。
「小太刀!」
 帯刀が妹を叱りつけ、下がるよう睨みつける。小太刀はかぶりを振った。
「お兄様、わたくしから乱馬さまにお話しさせてくださいませ」
 帯刀は頷かず、そのままその場に留まった。小太刀はくるりと乱馬に向き直る。
「乱馬さま。わたくしはもしかしたら、乱馬さまの言う通り、頭プッツンのお嬢様なのかもしれません。そして格闘界に新たに乗り込もうとするのは、世間の皆様からすれば、世間知らずなお嬢様のお遊びなのかもしれません。ですが、乱馬さまはわたくしより世間を知らないではないですか」
「なんだと!」
 乱馬が憤る。なんにでも反発せずにはいられないのだ。もう自分が何に対して何を言っているのかもわからない。筋が通っているか通っていないかなど知らない。正しいとか誤りだとか、そんなのは踏み倒してしまえ。目の前にあるものがなんであろうと関係ない。
「乱馬さま。わたくし、再三申し上げましたわよね。これはお遊びではないのだと。そしてあなたはそれを承諾なさいました」
 乱馬は小太刀を睨み続ける。
「雇用契約を結べば拘束権というものが生じるのです。ご存知でしたか?」
「小太刀、やめろ」
 小太刀は帯刀の制止を振り切って進めた。
「ご存知のわけ、ありませんわよね。乱馬さまはなーんにもご存知でない!契約書もお読みにならなかった!わたくしがあれほど、お遊びではない、と忠告して差し上げましたのに、なんにも!」
 小太刀はニヤッと笑った。
「乱馬さま。ついでに申し上げますと、契約書には乱馬さまのマネージャーを務める人材に関しても書かれていましたのよ。勿論、乱馬さまはご覧になられていないことと思いますけど!」
「まさか…」
 乱馬は初めて、小太刀の言葉に怯えた。小太刀は愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「わたくしに全面的な……つまり、乱馬さまに拒否権はございません。乱馬さまにはちゃーんと、乱馬さまのお望み通りの方を配属することにしましたわ!たった今!」
 乱馬を睨みつける小太刀の双眸もまた、乱馬に劣らず憎悪に燃えていた。


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 悔しくて泣いた。あれほど侮辱され屈辱に身が悶えても、まだ乱馬を愛していた。小太刀は獣のように吼え、涙を流すと、引き籠もっていた自室から出て、使用人を呼びつけた。すぐに馳せ参じた男に小太刀は用を言付ける。
「あの女に、伝言を届けなさい。正式に我がプロダクションにむかい入れ、乱馬さまのマネージャーとして雇うと」
 この封書を、と小太刀が渡すと男は恭しく受け取り、「はっ」と頭を下げすぐさま屋敷から姿を消した。
――乱馬さま。それでもわたくしは、あなたをお慕いしているのです。あなたのために、せめて只今だけでも、あなたのお心が慰められますように。願わくば、そのままお二人、幸福になられますように…。
 手負いの獣の身を慰める、娼婦の役割を小太刀は務められる権利を持たなかった。そのことを女として、小太刀はあまりに惨めに思った。束の間の、一夜だけの慰めを、小太刀は乱馬に与えることが出来ない。将来を見据えた上での、己の立ち位置如何のみによるではない。それだけならば、この激情の名の下に、小太刀はいくらでも流されよう。だが、小太刀が愚かな女に成り下がっても、小太刀の体では一瞬でも乱馬が慰められることがない。それがために。あの男が慰められるとすれば、彼がどれほど憎んでいようと、いや、憎んでいるからこそ。あの女しかいないのだ。己の女としての価値を全否定される屈辱を小太刀はこの日、二重に味あわねばならなかった。
 小太刀の放った伝令は真っ直ぐシャンプーの元へ届けられた。



 その夜、初めて乱馬は女と寝た。相手はシャンプー。中国であれほど拒んだ魅惑的な体を、乱馬は破壊し尽くすように乱暴に抱いた。
 シャンプーが優しく乱馬の頬を、唇を、胸を、腹を、太股を、乱馬自身を撫で、触れる。シャンプーの手が優しければ優しいほど、乱馬は憎しみに駆り立てられ、シャンプーの細い首をきつく絞めた。シャンプーは窒息寸前まで耐えて抵抗を見せず、それに耐えかねた乱馬がシャンプーを解放した。それを幾度と無く繰り返す。乱馬の暴力的で愛のない攻めを受けても、シャンプーは歓びに鳴き、心を震わせた。

 苦しかった。
 悲しかった。悔しかった。騙された。信じてもらえなかった。憎い。全てを壊した女。守ろうとしたのに、信じなかった女。なぜ信じない?どれほどの誘惑に耐えたことか!そしてそれを全て無にした自分は。ああもういまさら何も戻らない。全てを壊したのは、誰?この女?あの女?それとも、あの女?いや、まだここで抱かなければ戻れた?しかし時は戻らない。

 目の前に横たわる問題を解決すれば、晴れて堂々と天道家に戻れると、心の底から信じていた。
 小太刀の事務所で雇用契約を結べば、負債を返済できる。コロンと両親が結んだ契約が解消される。そうして問題が片づく頃には、いつものようにあかねも機嫌を直していて、どちらが謝るともなしに寄り添うものだと、それが当然の、たとえ天と地がひっくり返っても変わらぬほどに必至の摂理だと、信じていた。


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photo by Do As Chinese - 中国語学習室

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