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「やあっと九能ちゃんも本腰入れて協力してくれる気になって助かったわあ」
 女が細めた横目で隣りにならぶ男を愛嬌たっぷりに睨め上げると男は、つまり九能は渋面をますますトカゲでも口に入れたかのように顔を顰めた。
「あ〜んなに乱馬くんのこと嫌ってたのに、一体どういう心境の変化?ん?タッチィ?」
 もしかしてなびきさんにプロポーズ断られちゃったのが、そんなに痛手だった?とからかうなびき。九能は苦虫を噛み潰したような顔でなびきを見下ろす。
「今までもぼくは邪魔していたわけではないぞ、天道なびき。あのクズと関わりたくなかっただけだ。そしてぼくは今でもあのクズが大嫌いだ」
「そりゃま、そーでしょうねえ」
 なびきは目の前で屋台をひいて石焼き芋を売るジャイアントパンダに視線をやる。好奇心旺盛な子ども達がきゃっきゃっと集まってはパンダによじ登り、パンダがプラカードで子ども達を振り落としている。パンダと子ども達の微笑ましい戯れに、なびきは眉間に皺を寄せ、唇を小さく噛んだ。
「…いくら私だって、九能ちゃんにそこまで頼むのもどうかと思ってたからさ。さすがに。それに実際、乱馬くんにはあたしも腹が立ってたし。あんな男、金輪際あかねに近寄らせてたまるかって思った。おかげで早乙女一家全部、まるごと恨んでたのよねえ。あんなどうしようもない男を育てたって理由で、」
「それでもおまえは結局、ぼくに頼ったではないか」
 なびきの独白を遮る。九能はパンダを見つめているなびきを一瞥すると、なびきと同じようにパンダを眺めた。自分の人生を投げうってまで、と九能は心の内でつぶやく。この傲慢な女が、自分の人生を投げうってまで。
 なびきはそれ以上言葉を発しない九能を見上げる。変わらぬ無表情でパンダを睨みつける九能。なびきは九能のしっかりと組まれた腕に、強引に自分の腕を捻りこませた。九能が驚いたように目を丸くしてなびきに振り返る。
「今も昔も、最後に頼りになるのは九能ちゃんしかいないのよ。愛してるわ、ダーリン」
「やめんか、気色悪い」
 頬を染めてぷいっとそっぽを向く九能になびきはしなだれかかり、組んだ腕の力をぎゅっと強めた。
「…ありがと」
 九能がフン、と鼻をならすのをなびきは笑った。くすぐったくて暖かく心地よいものだった。
――ガラじゃないことしてるわねえ。あたしも。
 なびきは絡めていた腕をすぽっと抜きさると、ずんずんと屋台へと向かった。九能は抜きさられた部分の急激な体温降下に眉を寄せ、なびきの後ろ姿をじっと眺めた。
 なびきはまだ十歳に手が届くか届かないか程の年端のいかない子ども達と、何やら取引をしている様子だった。子ども達の出す条件に不満なのか、なびきが考え込んだ風を装うと、子ども達は慌ててポケットから小銭をてのひらに載せてなびきに差し出す。なびきがそれでもいい顔色を示さないので、子ども達は唇を尖らせてブウたれながらポケットの小銭をまさぐり、てのひらに載せる小銭に足した。なびきはようやく渋々といった態で子ども達の手からこづかいをちょうだいし、代わりに、どこに隠し持っていたのか、取り出した笹を子ども達に渡す。子ども達は喜んでなびきから笹の葉を受け取ると、それ食え、とばかりパンダの口元に笹をぐいぐい押しつけた。一方なびきは、「代金はここに置いておくわね〜」と、子ども達から奪った小銭を屋台に置く。
 ぷすぷすと笹を突き刺されて困っているパンダを尻目に、なびきは特大の石焼き芋を手に戻ってきた。
「一番大きいの、もらってきちゃった」
 九能ちゃんも食べる?となびきは芋を半分に割る。ほくほくと黄色い芋は湯気をたて、甘く香ばしいにおいが漂う。九能は嘆息した。
「悪どい女だな。なにも子ども達から巻き上げなんでも、ぼくが買ってやるのに」
「純粋な物々交換よ。あのこ達はパンダにエサをあげるための笹がほしくて、私はヤキイモが食べたかった。ほら、なんて単純明快」
 しれっと返すなびきに九能は眉をひそめた。
「笹の対価が芋とは…。等価ではあるまいに。いとけない子ども相手に」
「そうやって人は世の中を学んでいくものなのよ、九能ちゃん」
 社会勉強させてあげたってわけ、そうねえ勉強代も含むってとこかしら。憶面もなくそう言うと、なびきは半分に割った分の、小さい方の芋を九能に差し出す。九能は内心、自分にまで無償で芋を差し出すなびきに驚いていたが、顔には出さず、芋が小さいことが不服だというように渋面で受け取った。
「おまえのは社会勉強ではなくチンピラまがいの巻き上げではないか」
 口が過ぎたのは久能自身自覚していた。故意に煽った部分もあると言えるし、単に芋を半分こするという行為に照れていたとも言える。案の定なびきはじろりと九能を睨みつけてきた。予想より凶悪な視線で。
「あのねえ、九能ちゃん。九能ちゃんの散財は私の散財になるの。それくらい悟りなさい」
「………」
 二人はハフハフとヤキイモを頬張った。二人の背後ではパンダが遂に子ども達に降参し、突き刺される笹を咀嚼しては子ども達を喜ばせていた。


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 恋人にヤキモチを妬かせたくて、自分に好意を抱いている誰か、誰でもいいと男とあてつけにデートなんてしてみて、結果襲われそうになったりだとか。不穏な事件に巻き込まれたりだとか。散々意中の男に心配と迷惑をかけて救いに来てくれるのを泣いて後悔しながら待つ女がいたとする。男はそんな馬鹿女を叱りとばすけど、大抵結局は許してしまう。馬鹿野郎、とかお決まりの強がりの罵倒を浴びせたら、馬鹿女を強く抱き寄せたりする。無事でよかった、なんて震える声と手で。馬鹿女は男の背に手を回して、おっそろしく陳腐なラブシーンを展開する。そうして幕が下りるのが必定。
 ばっかじゃないの。教科書でそう教わったかの如く例にならって動く、男も男だけど、この類の馬鹿女の救いようのなさときたら、目も当てられない。
 ごめんね、なんて涙目で言いながら、本当は事件に巻き込まれ尚かつその中心で居ることに、悲劇のヒロインになれたことを天国に昇天するほど喜び酔い痴れている。男が命がけの危険をおかして助けに来たことを、愛の証だとか脳天気なことをほざいて、独り善がりの感動に打ちひしがれている。なんて愛すべきマドンナ像なのかしらね。そう、本当にヒーローもののヒロインときたら、少しばかり形を変えど一様にそうなのだから、世にも素晴らしいマドンナ像なのだ。画一的。
 自分の身ひとつ守れないくせに、己の運と力を過信して。ノコノコと危険な場面に身を投じ、「そんなつもりじゃなかった」と無自覚の虚言症患者は傲慢な唇を尖らせる。
 己の要求は自然で当然のものであり、また叶えられるのは更に必至だなんて、どういう思考回路をもってすればそんな愚にもつかないことを盲信することができるのか、理解に苦しむ。
 やっぱり脳みそ足りてないのかしら。先天的?あらお気の毒。
 他人事として眺めていられるように、私がどれほど努力していることか。無関係で冷静な第三者でいられるよう気を配るというのは、なかなか結構な労力を要する。
 世間にゴロゴロと転がっている、馬鹿男と馬鹿女。単体でも脅威的ではあるけれど、組み合わされると世界中を根こそぎ腐らせることができるのだから、とんでもない話だ。
 あたしの平穏を愚者の手でズカズカと無神経に踏みにじられないように。厚顔無恥な笑顔に吐き気が込み上げるなんてのは、いかに生理的現象だとはいえ修行が足りないということ。こりゃ無の境地に至るしかないかしら、と荘子に学ぶつもりで書を紐解いてみたものの、荘子の言う無の境地は私の望むものではなかったわ。と、これはまた別のお話。
 そんな脳みその足りない障害者達は、障害のために同情されているのかなんだか知らないけど、誰もが美徳溢れることになっていて、身に余りすぎる賞賛を勝ち得ている。外観が美しいのは障害者になりえるための第一条件のようなものだから、そんなつまらない賛美は放っておくとして、思慮深いだの清らかだの…。思慮深い。そうね、頭が足りないせいで黙ってぼけっとしてればそう見えなくもない。清らか。清らかではあるだろう。無知の無恥なのだから。
 常に褒め称えられ生きてきた選ばれしマドンナは、その賛美によって身を貶めていることに、決して気がつかない。それがゆえ。


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「結局、どんなにそうなりたいと願っても、そういう女にはなれないと思ってね。だから馬鹿女を公平に馬鹿女扱いすることしか、他に手がないわ、なんてね。惨めよねえ。馬鹿女は私よ」
 なびきは茶を喫した。さすが無駄に資産家、九能家。すぐには勘定がはじき出せそうにない器は、窯変による釉色とはぜの柔らかい白磁茶碗で品よく両手にしっくりおさまるし、淹れられた茶そのものはなびきの苦手な玉露がたっぷりで甘い。
 襖一枚挟んだ向こうには、なびきがこの数年恨み続けた元凶とその生みの親が対峙している。
「だから九能ちゃん、私も九能ちゃんと同じ。九能ちゃんが乱馬くんを毛嫌いするのと同じように…」
 その先を濁すなびきに九能は頷いた。姉妹揃って美しい姿形をしているにも関わらず、これほどまで異なり、それでいて姉妹揃ってこれほどまで易々と九能の心を捕らえる能力に長けている。妹の次に姉へ。意図したわけではないが。
 贖罪として差し出した融資金。贖罪とはすなわち慰謝料か、と九能は自嘲しもしたが、この融資金の存在が様々な立場の人間を様々な泥沼、もしくは停滞した安寧地獄から抜け出させることもよくわかっている。薄汚いブルジョア的行為に思想は、自覚している者にとっては己に懲罰を下すのと同じことだ。そしてそれが事態の打開へと繋がるのならば、この上なく都合がよいだろう。
「饒舌すぎて気色悪いな」
 ふん、と鼻を鳴らす九能になびきは心の底から感謝した。なびき個人の抱えていた愚かで幼稚な過去の遺物も、九能自身の抱えていただろうつまらぬ強情も、彼等の周囲全体を取り巻き絡まり合った糸も、その全てを解放させたのは九能。そしてその全てはイコールとなり、起点は失せ終点はなく、ぐるぐると巡り続ける。
「あら。拗ねてるの?九能ちゃん。見合い相手が初対面で身の上話をしないのは、世間じゃ結構普通のことよ。安心して。九能ちゃんだけが騙されるわけじゃないわ」
「なんのことだ」
「ベッドの中で女がべらべらしゃべり出す過去の恋愛遍歴は大抵つくりものか、よくてゴテゴテ装飾された出来損ないのフィクションもどきだって話よ」
「天道なびき。親切心から忠告するが、おまえの冗談はおもしろくない」
「心外」
 ずずっとなびきが残りの茶を啜ったところで襖が開いた。光が一筋の線を走らせ、見るからに高そうな家具調度品にのびる。なびきがちらりと視線を上げる。九能は懐手をしたまま、動かない。
「九能センパイ」
 返事をしない九能に気を害するふうでもなく、乱馬は九能の左隣に膝を折った。九能は正面を向いたまま、許可も得ずに隣りを陣取る無礼な男を無視する。
 乱馬は小さく息を吸うと、九能に頭を下げた。乱馬のおさげがくたりと肩を滑り落ちる。なびきは静かに目を見開いた。この男に座礼と土下座の違いを区別する繊細さがあるとは、なびきには思えなかったからだ。いや、万に一つ、なびきには信じがたい細やかさがたとえ、この数年間で乱馬のうちに培われたのだとして座礼の意味を示すのだとしても、それにしても。
「わざわざお袋と会う席を設けてくれたり、こんな大金、おれなんかのために用意してくれて感謝してます。でもこれは受け取れません」
 手にしている封筒をすっと九能に差し出す。九能はそれをちらりと見やって、また正面を向いた。
「それは貴様にやったのではない」
 九能がむすっと重い口を開く。なびきは茶渋だけが残った湯飲みを座敷机に音もなく置いた。この黒檀の高級唐木座敷机は、乱馬が前代座敷机を破壊したあと、乱馬がローンを組んで購入したものだ。小太刀に請求されて。
 なびきは南部鉄瓶で沸かしたまろやかな風味の湯を常滑焼の宝瓶に入れ、宝瓶から用意しておいた白磁茶碗に茶を注ぐ。それから自分の白磁茶碗に茶を入れた。
「そうですね。でもおれの尻ぬぐいをお袋と親父にさせてるだけだ。てめえのケツくらいはてめえで拭きます」
 九能はぎろり、と隣りの男を睨んだ。なびきが乱馬の前に茶を出す。乱馬はなびきに頭を下げた。なびきはまたもや目を丸くした。
「それが出来ないから、こんなことになったのだろう。きさまという男は昔から口だけは一人前だな!」
「いや、本当にもう返済のほとんどは済んでるんです。妹さんのおかげもあって。確かに随分時間がかかりましたけど。九能センパイにも長い間心配おかけしてすみません」
「貴様のことなんぞ心配したことはない」
「ま、そーですね。センパイはおれじゃなくて、あか、」
「貴様なんぞが、馴れ馴れしくあかねくんの名を呼ぶな!」
 軽薄な調子で言葉を返す乱馬に、思わず九能は激昂する。抑えていた憎悪が表に出る。乱馬はニヤッと笑った。
「その方がセンパイらしいぜ。気取ってる九能センパイなんて気持ち悪くてしかたねえからな。だいたいなんでなびき姉ちゃんに尻に敷かれてんだ?弱みでも握られてんの?センパイ」
「フ…フフ…」
 妖気を背中から醸し出しながら九能が不敵に…不気味に笑う。脇に置いておいた竹刀を掴む。ゆらりと立ち上がると、体の正面に竹刀を立て、正眼の構えをとった。
「…早乙女乱馬。今日がきさまの命日だ!この九能帯刀が成敗してくれる!」
 九能は左足を大きく踏み出し奇声を上げた。突き突き突き突きいぃぃぃ!と叫んで九能が乱馬に突進していく。乱馬はたっぷり余裕をもって鼻先に竹刀がつきつけられるまで動かず、あと数oで触れる、というところで飛んだ。なびきには消えたようにしか見えなかった。乱馬はひらりと九能の攻撃を交わし、九能を煽るように竹刀の先端にトンっとつま先立ちをする。「センパイ、鈍ったんじゃねえの。あ、昔っからだっけ」なんて軽口を叩いては、九能を挑発する。九能は「なにをおおおお!」と憤怒の形相で唸る。
 なびきは白々とした視線で二人の男を眺めた。二人ともいい年して何をいまさら。
 湯飲みに入った茶を飲み干すと、ふうっと嘆息した。いい年した二人の男はいまだにじゃれ合っている。
「で、乱馬くん」
「はい?」
 ぴたり、と二人の………いや、乱馬の動きが止まる。乱馬に鼻をつままれ宙に浮きじたばたと竹刀を振り回していた九能が、がたがたっと畳の上に倒れる。その振動で座敷机の上で湯飲みが倒れ、茶が零れる。なびきはあちゃー、と額を叩いた。
「ほんっとーに返済の方は大丈夫なのね?」
「はい」
 ぴくぴくと痙攣する九能を背中に、乱馬は真摯に応えた。
「私がシャンプーやコロンおばあちゃんにこの話を確かめても平気なくらい?あちらも納得されてるの?」
「…はい」
 乱馬の顔が苦痛に歪んだ。
「シャンプーとは、その、なびき姉…なびきさんが考えられてるような関係じゃありませんし、今後そういうこともありません。おれの身辺は騒がれてるようなことも一切ないです。なびきさんやかすみさん、早雲おじさん、あかね…さんに許していただけるとは思ってませんけど、でも、」
「別に今更あんたがシャンプーとどうこうなろうがなるまいが、そんなことはどうでもいいの」
 なびきは乱馬の弁明を遮る。乱馬は悲愴な決意をしているようだったが、なびきはその釈明やら告白やらを聞きたいとも自分が聞く立場にあるとも思っていなかった。
「私が聞きたいのは、今後あちらさんからこの件で何かしらのお話が、早乙女のおばさまやおじさまにいかないで済むのかってこと」
 じっと乱馬を正面から見据えると、乱馬は真っ直ぐになびきの目を見返して「はい、両親に迷惑をかけることはしません」と答えた。
 なびきはくるっと視線を九能に向ける。九能は痛みに顔を顰めながら、なびきと乱馬のやりとりを見ていた。
「というわけで九能ちゃん。そのお金、いらないそうよ」
 九能はフン、と鼻をならす。
「よかったな、天道なびき。おまえの好きな金が戻ってきて」
「あらどうして、よかったなの?」
 九能は戸惑った。
「どうしてって…。おまえがさっき、ぼくの散財はおまえの散財だと…だから、ぼくの元に金が戻ってくるということはおまえの元に金が戻ってくるということだろう」
「だって、そのお金が乱馬くんに不要なら、私が九能ちゃんと結婚する必要がないじゃないの」
 なびきの言葉に、九能はガーン!と大きな落下岩石を頭にくらった。ぱらぱらと砕けた石が九能の肩に膝に落ちてくる。乱馬はひょこっと九能の顔を下から覗き込んだ
「なんでえ、センパイ。なびきさんに弱み握られてたんじゃなくて、弱み握ってる方だったのか」
 九能は乱馬の軽口に応酬しない。九能の髪は真っ白に色素が失せ、目は焦点が合わず宙を彷徨い、口は半開きで固まってしまっている。
「しっかし金出すから結婚しろだなんて、センパイも悪どいなー!」
 腕を組んで頷く乱馬に、なびきは突然ぼろぼろの絣姿になり、袖を目の下にやり、涙を光らせた。
「そーなの。九能ちゃんったらイヤとは言えない可哀想なかよわい私に、無理を迫って…」
 ヨヨヨ、と泣き崩れるなびきに、乱馬はジト目で「誰がかよわい、誰が」と小声で毒づく。そしてさっさと演技をやめて「あ、乱馬くんお茶飲みなさいよね。せっかくこのなびきさんが入れてあげたんだから」と茶を勧めるなびきに、変わってねえなあ、と乱馬は頬を緩ませた。
 乱馬が「いただきます」と湯飲みを手にすると、ようやく再起不能かと思われた久能が封印を解いて生身の人間に戻った。弱々しく虫の息で。
「ま、待て、天道なびき!」
「なあに?」
「それは、まことか?」
「それって?」
 白々と返すなびき。九能は冷や汗、脂汗を顔や体中至るところから噴き出して勇気と声を絞り出す。
「その、婚約を解消するというのは…」
「まことよ」
 あっさりと答えるなびき。九能は夢遊病患者の独り言のように、ぶつぶつと繰り言を言う。
「し、しかし…ぼくは…。天道なびきが承諾しないのは………だと思って、だからぼくは…。おまえが素直に頷ける性分ではないと……あかねくんのことが………小太刀も、このクズのせいでくだらぬ罪悪感を……だから………こうでも言わないと……」
「九能ちゃん。あんた私とつき合い長いんだから、あたしの性格くらいわかるでしょう」
 冷たい視線を向けるなびきに、九能は涙目で睨め付けた。
「ああ!だからきさまは、あかねくんの幸せを見届けぬ限り、己の幸せに素直に承諾できる女ではないと思ったから!ぼくは天道なびき、きさまがそういう女だと思ったから!」
「そこまでの九能ちゃんの読みは正しい」
 なびきは九能の泣き言を遮る。
「だったら!」
 九能はなおのことつっかかる。なびきは乱馬の手にある空になった湯飲みを見て、「あとのお茶は自分でいれなさいね。あと私の分もお願い」と言った。乱馬はなびきと九能の喧嘩を食い入るように見ていて、なびきに突然話しかけられたことに狼狽える。
「は、はい」
 乱馬はコポコポと茶をいれる。
「契約は反故になったんだもの。当然でしょ?」
 九能は言葉を失った。なびきはやれやれ、と嘆息した。
「あのねえ、九能ちゃん。後味悪いでしょーが。そんな脅迫じみた婚約なんて。さすがの私でもそんなロマンに欠ける結婚なんてやーよ」
 わかった?となびきが九能を見る。しかし九能は未だ沈痛な面持ちをしている。女に最後の最後まで説明させなければわからないなんて、野暮な男だ。しかしチラリ、となびきが乱馬を見ると、不可解な表情をしていることから乱馬も同じく察しがついていないのだとわかった。まったく、この男どもはどこまでアホなのだ。
「だから九能ちゃん」
 なびきはコホン、と空咳をした。九能は“絶望”と顔いっぱいに書かれた顔をなびきに向ける。
「すっかり綺麗に片づいたところで、改めて、私からお願いするわ。私と結婚してくださいって」
 九能と乱馬は抱き合って叫んだ。



 なびきは乱馬に注がせたお茶を「あ〜おいし。やっぱりお茶は煎茶よねえ。玉露は深みがないわ」と啜った。それから男二人に向き直る。
「当然じゃないの。なびきさんが九能家の財産をそう易々と手放すわけ、ないでしょーが。あんた達、長いつきあいなんだから私の性格くらいわかるでしょうに」
 よーくわかりましたよ、なびきさん。しれっと言い放つなびきに、男二人はげっそりと胸の内で頷いた。
(なにがロマンだ!)


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photo by NOION

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