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 小太刀は乱馬の愚かな侮蔑を知っていた。
 愛される者特有の傲慢な優越感と支配感を、乱馬は確かに楽しんでいたし、意識しない些細なことも勿論、その言動に表れていただろう。当然のこととして。
 愛されているのだから。
 欲しいものは与えられるべきで、甲が望めば乙はそれを捧げるのが当然だった。だからシャンプーに逃げた。小太刀に逃げた。逃げたという認識はなかった。
 小太刀はそれを知っていた。嘆き悲しんだかもしれないし、逆にとって乱馬を手の平の上、転がせようとしたのかもしれない。あの契約時の小太刀の躊躇いは、そのどちらだったのか、乱馬には知りようがない。
 どちらにしろ、小太刀は乱馬の行く末をほぼ正確に予測できていたのだろう。堕ちるところまで堕ちた、この惨めで醜悪な男の姿を。けれど乱馬には、わからなかった。当時、自分は正しい道を進んでいるのだと信じて疑わなかった。常にそうであったように。
 己の怯懦を知り恥じ入るには、あまりに長くの時を必要とした。


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「…久しぶりだな、早乙女乱馬」

 使用人の案内で乱馬が部屋に通されると、正面奥に懐手に眼光鋭くむすっと不機嫌そうな表情の、久能家次期当主が構えていた。
 背中に定規を入れているかのように直立な背筋のまま、微動だにしない。この広大な家の主らしく、威風堂々たる態。
 この秋、家督を継ぐ予定の、久能家嫡男、久能帯刀。当主となると同時に、祝言を挙げる予定である、と使用人が嬉々とした様子で乱馬に説いた。
「ここ数年のことでございましょうか、帯刀さまのご様子がぐんとご立派に、落ち着かれて…それはもう、目を見張るほどでございまして。ええ」
 己が仕える主について、目を細めその目尻に縮緬皺を寄せて語る、その初老の女は、紺地の着物の袖を口元にやった。乱馬は黙って後ろをついていく。
 一つ、二つ、三つ…。いくつもの部屋を通り過ぎていく。前を行く女が廊下を曲がれば、そのたび、今度こそここか、と思い、ぐっと唾を飲み込み臍下丹田に力を込め覚悟を決めては、素通りに肩透かし。それを繰り返すうち、乱馬は当初の気迫も気負いもすっかりどこかへ置き忘れ、ぴんっと真っ直ぐ張られていた背筋は、いつものように尊大な格好に反らされ、ガチガチに固まっていた肩は、ぞんざいに頭の後ろで組まれていた。
 庭に面した廊下を行きながら庭に目をやれば、ちゅんちゅん、小鳥がなにかをつついている。
 一体いつになったら、そのご立派な、帯刀サマとやらの待つ部屋に辿り着くんだか。
 乱馬はふわ〜っと大口を開けて欠伸をした。そこへ女が振り返る。乱馬は慌てて頭後ろに組んだ手を解き、ぴしっと脇につけた。乱馬を品定めするかのように、女の目が細められる。誇らしい我が主人に謁見するに見合う相手であるかどうか、判別しようとするがごとく。
「そういえば、わたくしの聞くところによりますと、早乙女さまは帯刀さまの高校時代のご学友でいらしたとか」
「ご学友ねえ…。ま、そーなるんだろうな」
 乱馬はぽりぽりと鼻の頭を指でかいた。
 帯刀が卒業するその日まで、毎朝のように、男の姿であれば喧嘩、女の姿であれば求愛されたり、といった、あの恒例の挨拶が、友人のそれだというならば、確かに『ご学友』。乱馬はともかくとして、帯刀の乱馬に対する感想は、男の姿であれ女の姿であれ、友情などというものを抱いていたとは思われないが、そんなつまらぬ些事に云々するのは、ガキのすることらしい。オトナ、一社会人はそんなことは気にも留めぬことであらねばならぬらしい。
 実際、『ご学友』という表現以外に、他者が乱馬と帯刀の間柄をどう評すべきか、乱馬にもよくわからない。
 片や風林館高校の蒼い雷、且つ最悪の変態先代最強の男、対するは最強の男の称号を奪い獲った、風林館高校一の拳法の達人、ついでに校内一の色男。二人はライバル!だが時々恋仲?!
―――んなアホな言い方、あるかよ。
 乱馬はケッと鼻で笑った。週刊誌記者に追いかけ回され、根も葉もない出鱈目な記事を勝手に書かれるうち、知らず知らずにどうやら、ゴシップ誌特有の、センセーショナルで馬鹿馬鹿しい言い回しが染みついてしまったようだ。
 帯刀と乱馬の関係など、その表現如何など。常ならば毛ほどの関心も寄せないこと。ただ、少しばかり、つまらぬ些事に拘って、昔そうあったように振る舞ったり感じたりしたかったのだ。己が心の内のみの、体外には一切それと知られぬ、道化にもならぬ子供じみた内々の儀式的やり取りだとして。これから対峙する男に向けて。そこで張られているだろう、目に映るほどの侮蔑と嫌悪による、故意的な、突き放された隔たり、高校時代とは異なる類の優劣を意識すればこそ。
「ご卒業されてから、帯刀さまにお会いになられたことはございますか」
 まさかあるわけがなかろう、と確信めいた問いだった。
 さすが久能の使用人。性格悪いぜ。
 久能、とは言っても、この老獪な女の陰湿さは、兄・帯刀のすさまじい変態ぶりを基準装備とした上での豪放磊落とは異なり、妹・小太刀の周到さ、目的のためならば手段を選ばぬ卑怯な翳りを帯びた遣り口に似ていた。
 そうか、この女がなんかヤな感じがするのは、小太刀に似ているからなのか。
「ねえ…ないです」
 ねえよ、と吐き捨てるように言いかけて、言い直す。どんなにこの女が、小太刀が、そして帯刀が。久能家の者達が揃って皆気にくわなくても。それを表に出してもいい立場に、乱馬はなかった。それを弁えねばならぬことくらい、この女に『帯刀さまの格下』扱いされずともわかっている。
「いち使用人の身で誠に僭越ながら申し上げますと…」
  女の目に、小さく鋭い光が点った。
「早乙女さまのご活躍もさることながら、帯刀さまのご成長ぶりも、驚きになられることかと存じます」
 ホンット、性格悪いぜ。まったく。
 乱馬のご活躍、とは。表通り受け取ったとして、それは結局、この女の使える主、『帯刀さま』の妹君なる『小太刀さま』の下でちょろちょろと動き回る、使い捨ての駒としての働きぶりのことだ。そして暗に揶揄しているのは、乱馬のゴシップ誌における『ご活躍』のことではないのか。そう穿ってしまうのは、単に卑屈なだけなのか。
 固く閉じられた襖に向かって女が口を開くと、乱馬は悪態吐きに歪めた表情を引き締めた。花鳥風月なる趣の、優美に彩られた襖。奥から男の低い、静かな答えが返ってくる。女は失礼いたします、と襖戸に手をかけた。
―――久能のことだからてっきり、家ん中も、極彩色の悪趣味な成金趣味かと思ってたんだけど。
 いや、数年前に小太刀と契約を結ぶ折、そういえば同じことを思ったな、と乱馬は苦笑し、顔を上げたときには口を一文字に締めていた。乱馬の視線は他のどこへ漂うこともなく、奥座に座る男を真っ直ぐ射貫いた。
「おひさしぶりです。久能センパイ」


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「…久しぶりだな、早乙女乱馬」
 挑みかけるように己を射んとする乱馬の鋭い目に、帯刀もまた受けた強さ、そのものそのままに、足すことも引くこともなく、真っ直ぐに返した。
 広い背に眩いばかりの光を浴び、着衣の下でも嫌味なほどに隆々とした筋肉が、帯刀の目に入る。逆光となったその顔は、よく表情の判別ができない。が、爛々と光る獣じみた眼光は、鋭く帯刀を刺す。
 真正面に立ちふさがる乱馬は、帯刀が思わず目を背けたくなるほど、男としての自信に充ち満ちているように思われた。
 高校、大学、と学生のうちは勉学の傍ら、いずれ己が双肩に重くかかってくるだろう、生まれ持った責務から目を逸らし、手に負えるか否かの不安を振り払い、蕩々と鍛錬に励む時間こそあった。が、しかし、それも昔のことのようだ。
 机上であれこれ空虚で複雑多様な仮定を設け、それについて空しく論戦を交わす、お遊戯に耽る学生の身を離れてのちは、否が応でも実戦の地につかねばならない。その中で、息抜きだのストレス解消だのといった戯れ言で、席を離れ愛刀を手に汗を流すことなど、帯刀には許されなかったし、己自身、誰よりそんな甘えを我が身に許せなかった。そして、他者の媚びへつらいでもなく、自身納得の出来る、我が身の在り様を体現できた今、ようやく家督を継ぐに足り得ると頷いた。体裁を繕うのみではない、帯刀の知りうる限り、誰より聡い女を我妻と娶ることにも、労しながらも征した。
 我が城を築き、これまでの己の在り方、そして今後の展望についても誇りこそあれ、一切の負い目はない。我が道を堂々、信念と共に浮つくことなく真っ直ぐ歩んできた自信がある。成功者たる、男としての自信。だが、時には揺らぐこともある。
 鍛錬せざるもの、手入れを怠るもの。それらは常に等しく鈍り、錆びる。久能家の家宝である名刀に始まり、数々の珍品・貴品も同様である。その理はあらゆる物事に当てはめることが出来よう。しかし、その減速の目に見える速さというものは、肉体において突出して顕著であり、残酷である。
 使われなくなった筋肉は、あっという間にみるみると痩せ衰える。以前ならば易々と一突きせずとも風圧のみで砕けた、つまらぬ瓦礫。今は破砕機にその役を任せている。どうにか一心不乱に集中し、他を除外した研ぎ澄まされた神経でようやく感知できる、頬に止まった蚊。
 男として生まれたからには、優れてあらねばならぬ。力を持たねばならぬ。弱きを助く為、揺るがぬ力が、何よりの男たる証明である。
 だが、それはあまりに単純だとなびきに呆れられようと、視覚的な優劣、純粋な腕力で我と他との差を計り、一喜一憂するのもまた、男なのだ。
―――女の身に、理解しろ、とは言わんが。
 何につけ、道着で出かけようとする帯刀に、胡乱な視線を向けつつも沈黙する小太刀。大概においては面白がって、揶揄するなびき。デートだろうがなんだろうが、剣道着で現れる帯刀を、少しの間ショッピングだのなんだので離れたとしても、見つけやすい、との理由で、なびきは褒めることすらある。
 なびきに、帯刀のこだわりが全て理解できているとは、帯刀も思わない。だが、理解できずとも心情を汲んでくれる。かといってお前の気持ちをわかってやっている、と恩を売るわけでもない。帯刀の奇行を愉しんだり、利用する。だから、己の不都合となるときは、率直に不満を言う。なびきはそういう女だった。

「ちょっと久能ちゃん。クリスマスデートのときくらい、他の服着てくれない?」
 懐手で胸を反らす、無意味に尊大な様子で待ち合わせの場所で待っていた帯刀を眺め、開口早々なびきは、はあっと嘆息した。
 去年の年の瀬、慌ただしくもせめてクリスマスの夜は二人で、となんとか取り付けたデート。これから二人の向かう場所はといえば、珍しくデートに大乗り気のなびきが、喜び勇んで予約を取り付けた、ミシュランガイド東京でも三つ星を取得した、かの高名なガストロノミー ジョエル・●ブション。そびえ立つ豪華絢爛なるシャトー。それに対し、帯刀の装いは…。
「ありえない。いくら何でも、これはありえないわよ」
 なびきの不満が一向に解せない、というように不思議そうな顔でなびきに向かい合う帯刀を、なびきは眉間に皺を寄せ、下から舐め上げるように視線をやる。
「あのねえ、久能ちゃん。あんたお坊ちゃまなんだから、ドレスコードって存在、知ってるでしょう?」
 なびきは額に手を遣り、もう片方の手を帯刀の肩へと力なく置いた。帯刀はそのなびきの手を取り、のろのろと顔を上げたなびきと、目を合わせる。
「それだからこそ、道着なのだ。これがぼくの、唯一無二の正装なのだ」
 なびきは、ああもう頭痛い、としゃがみ込んだ。
「どうした、天道なびき。持病の偏頭痛か?」
 しゃがみ込んだなびきを帯刀が抱え上げる。「具合が悪いのならば早急に医者を呼ばねばなるまい」
 なびきは、「私の頭痛を治すには、真っ先に行かなきゃなんない場所があるのよ、久能ちゃん」と、帯刀の胸の中で呻き、高級ブティックへと促した。
 その後、なびきの指示のまま、帯刀は着せ替え人形になり、何十着と着替えた後、ようやくなびきの合格が出たと思えば今度は、予約時間に間に合わないと慌ててハイヤーを呼び、恵比寿へと急ぎ、息を切らせながら店内へと入った。食事が運ばれてくるや否や、なびきは帯刀への不満などすっかり忘れた様子で、料理に舌鼓を打ちつつ、店内の装飾やらサービスやらに感心、堪能していた。その普段見せない、なびきの無邪気なはしゃぎように、帯刀は大枚を叩くに足る、と頷いた。
 そうだ。天道なびきはそういう女なのだ。
 だからこそ。
 帯刀がいくら大名気といえど、むやみに金を出して己の周囲に人をはべらす、その虚しさは知っている。だが価値あるものには、躊躇わず惜しみなく投資する。
 帯刀は、生まれ出でたときから、君主たることを運命づけられていたのだから、それは信念でもなく、当然の、あえて意識するまでもない自然な思考だった。それだから、帯刀は他の誰でもない、なびきを妻に娶ることに執心した。それだから、反吐が出るほど厭う男の支援をすることを、決めた。
 その指し示すものが、己の浅ましい選民思想とブルジョア行為であると、一方で嫌悪してもいたけれど。

 小太刀から、大概のあらましは聞いていた。恐らくそれぞれがそれぞれに、見事空しくすれ違った故の、無惨な顛末であったのだろうことも、何とはなしに感じられた。
 だが興味はなかった。同情の余地もない、と思った。それは乱馬のみではなく、彼の両親に対しても、帯刀はさほど同情しなかった。
 兄として確かに変態女であると認めざるをえないが、妹・小太刀を理不尽に侮辱した男。口八丁手八丁、自分以外の何もかも馬鹿にしくさった、胸くそ悪い高慢傲慢で、この世を渡ろうとする男。不都合な事態に陥れば、好いた女すら非情に振り払って、脱兎のごとく、振り返りもせず、自己保身に汲々とする男。気骨など全くない男。
―――あんな男とは縁を切ることが、天道あかねの幸せだ。
 しばらくは、つらいのかもしれない。悲しいのかもしれない。だが、あんな男のことは早く忘れて、ふさわしい男と一緒になることが、最終的には幸福へと繋がるのだ、と帯刀は思った。その、あかねのふさわしい相手となる男とやらが己であれ、と願うことはなかった。その位置は既に、天道なびきが占めていた。天道あかねが占めていたものよりずっと広く、また強大な力で以て、帯刀を捕らえていた。
 なぜ。いつから。
 問いは無粋でしかない。ただ、帯刀にとって、唯一の存在と為りうる女は、天道なびきに他ならぬ、と悟った。不服はない。
 だが、なびきは乱馬への憎悪を募らせると共に、思い悩んでいた。あかねの生気を失ったような様に、心を痛めていた。
 なびきは帯刀に、あたしがもっと、うまく立ち回ってやれれば、と言ったことがある。かの天道なびきが弱音を吐くという珍奇な光景を目の当たりにしたことに、帯刀は狼狽えた。
「あーあ。私の智慧を以てすれば、どんな難問だって解けないものはないはずなんだけど、今度ばかりはこのなびきさん、ヘタをしちゃったみたい。千慮の一失、弘法にも筆の誤り、釈迦にも経の読み違い、河童の川流れ、猿も木から落ちる…。なんでもいいわ、もう。心理学なんてご大層な学問、お金を払ってまでするものじゃない、なんてバカにしてたけど、私が進むべき研究室は、経済学なんて大風呂敷広げたものじゃなかったのかも」
 ちくしょう。
 おどけて見せながらも目を爛々と光らせるなびきを前に、帯刀は決意した。
 最終的になびきの出した結論は、乱馬とあかねを再会させること。互いの負債を一切合切精算し、形ばかりといえど、スタート地点に強制的に戻し、そこで改めて、結論を出させること。その上で再び道を分かたれるなら、それもいいだろう。
 いいだろう、と帯刀は不敵に笑った。
 天道なびきが望むのなら、いいだろう。このぼくが叶えてやろう。
 だが、と帯刀は思う。だがそのときは、天道なびきが九能帯刀の半身となるだろう。通わせている互いの心だけでなく、名目の上においても。
 それから帯刀は既に決まっていた、当主襲名の儀を早めるべく、以前にも増して打ち込んだ。なびきは、何かに追い立てられるかのように必死の形相でがむしゃらに、貪るように学ぼう習得しようと飛び回る帯刀を不審に思いつつ、家の事情かと詮索はそこそこに、遠目で眺めていた。
 また帯刀は、気が遠くなるほど地道なことながら、節約にも励んだ。もともと帯刀は己自身のために散財するような性質はあまり持ち合わせていなかったから、これに大した成果は見られず、尚一層の努力をせねば、と帯刀は目に見えて貧乏くさい、みみっちい努力を試みた。その様を、妹・小太刀に目撃されていたことには気がつかなかった。しかし、気がついたとして、帯刀は何の羞恥も感じなかっただろう。
 小太刀が不審に思ったような、なびきが帯刀に金銭を貢がせていたというようなことは、事実になかった。なびきはむしろ、帯刀の提案する、帯刀がロマンティックだと信ずる、多少出費のかかるデートプランを退け、ほとんどカードもキャッシュも不要に済むようなプランを代替案として出してきた。帯刀の考えるロマンティック、というものがそもそも怪しいものだったが、だからといって、なびきが積極的に帯刀の資金を貪ろうとしない理由にはならない。それならば、同額でなびきの望む高級なデートをするか、もしくは貴金属の類を貢がせればよい。
 だが、なびきは望まなかった。
 デパートの地下で試食品を、これは美味しい、この店はケチだ、と評し合いながら食べ歩くことが、これほど楽しくロマンティックなデートになるとは、帯刀は知らなかった。
 美しい装いを試してみたければ、試着室でファッションショーをしてみる。十分に堪能するコツは、一般庶民ではおよそ手が届かないような、また、九能家嫡男であっても、容易にいくつも購入するには少しばかり値がはるような、そういった所謂高級ブランド品を、呆れるほど盛り沢山、身につけてみること。試着室から出れば、何の未練もなく、それら装飾品を返却する。そうすることで、身近に高級品を置かぬ事でこそ、夢うつつ、虚構の世界に憧れ、楽しむことができるのだ、となびきは言った。
「手中にしちゃったら、夢も見られないじゃない。そんなの願い下げよ」
 世の中、何よりも金、私は金の奴隷、と公言して憚らない女の口から出た台詞とは思えん。女の考えることはよくわからん、と帯刀は頭を捻った。
 なびきが未だ、どこぞの馬の骨とも知れぬ男から金品の類を貢がせ巻き上げていることは、帯刀も薄々察していたものの、帯刀の前でなびきがそういったものを身につけてくることはなかった。貰った端から、なびきが質屋に売り払っていたことまでは、つい最近まで知らなかったが。
 帯刀はそれだから、なびきと心が通っていることを、不遜なく知っていた。
 心は通っている。だが、それだけでは足りない。
 欲しいのだ。天道なびきが欲しいのだ。心だけでは足りぬ。体だけでも足りぬ。名も何もかも。天道なびきが、九能帯刀の半身であるという、未来永劫、断ち切られぬ絆であるという、動かぬ証が欲しい。
 二人の愛が永遠ならば、紙切れ一枚の契約、役所の事務手続きなど不要で不純だ、などという戯れ言は笑止千万。そんなまやかしで事足るロマンなら、帯刀も幾度、幾人へ恋しただろう。

 九能家がいくら資産家といえど、帯刀がその嫡男といえど、まだ家督を継がぬ身では、早乙女親子への融資金を全額一度に用意することは難しいと思われた。小太刀がどれほどの給与を乱馬に与えているのかも、乱馬の返済がどれほど行われているのかも不明だった。
 当初の負債金と、それからもし、コロンが利息を請求していたのであれば、そもそもの負債金の数倍の額を利息分として。全て整うと帯刀は、なびきにプロポーズをした。ただ純粋に、実直に愛を告白する求婚。なびきはエンゲージリングを受け取りはしたものの、家督襲名と婚礼の儀を同時に挙げることに頷かなかった。
 いずれ、という言葉で婚約を了承したなびきに、早乙女親子への融資金の準備があることを畳みかけて結婚を迫ることはやめた。
「万が一、いつかそういう日もくるかもしれないから、九能ちゃん。せっかく用意したんだし、指輪、つけとけば?っていうか、何で自分の分も用意してんだか、私にはよくわかんないんだけど。結婚指輪じゃあるまいし。婚約指輪なんでしょ?…まあ九能ちゃんにしては、センスいいの選んだじゃない。私もつけておいたげるわ。この大きさなら、邪魔にならなそうだし」
 なびきは帯刀が指にはめてやろうとするのを断り、自身の手でするすると指輪を指に通した。蓮っ葉な物言いとは対称的に、頬を染めて指輪をかざすなびきに、帯刀はしばしの間、浸っていたかった。無粋な問題を介入させることなく、ただ二人、幸福な者達として。
 なびきがそもそも、素直に結婚を承諾できる性分でないと、帯刀は推量していたし、乱馬に援助するということはつまり、あかねに繋がることだ。
 なびきがあかねに負い目を感じていることを、帯刀は知っていた。その理由は、件の問題のみに始終することではないこと、自惚れてもよいのならば、帯刀自身も元凶となっていること。
 それら全てを金で解決しようとする我が身よ。帯刀は自嘲した。世の中金が全て、と嘯くなびきの、なんと清らかなことか。


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 帯刀は立ちつくしたまま、動かぬ乱馬を睨め上げた。
 生き方がまるで違う。
 帯刀が乱馬と相容れることはない。それでも肉眼に映る、この情けなく卑小な男の背格好に、決意したかのような眼差しに、僅かとはいえ、卑屈な憧憬を抱いていたことを、帯刀は認めた。
―――このクズにか。くだらん。
「いい加減、座ったらどうだ」
 帯刀の言葉に、使用人の女が乱馬のために用意されてあったと思われる座椅子を、乱馬に向けて軽く引いて見せた。乱馬は軽く礼をし、膝を折る。
「ご苦労だった。下がれ」
 女は一礼し、襖を閉めた。足音もなく、女の気配が遠くなっていくのが感じられた。乱馬は握りしめた両拳に、じんわりと汗が滲むことを無視しようと努めた。
 帯刀の背には、乱馬には預かり知れぬ、捕らえどころのない気が立ちのぼっていた。おそらく、帯刀の武力そのものは、かつて対峙した時に遠く及ばない。乱馬の格闘家としての実力も、当時より格段に上がっている。恐るるに足らず。
 しかし、乱馬が持ち得ない何かを、帯刀から強く感じられた。
 帯刀は、口を開かず微動だにせず、乱馬を睨み続けている。いくつもの角を曲がって消えていこうとする、先程の女の気配を、乱馬は苦し紛れに追う。
 呼び出したのは帯刀だ。乱馬ではない。帯刀が用件を切り出さねば、何も始まらない。
 ただじっと待つということ。受け身に徹するという、ただでさえ苦手な行為であるのに、その上正面切って対峙している相手が、九能帯刀であるのだからたまらない。
 いい加減カッコつけてないで始めろよ。内心悪態を吐くものの、その切り出されるはずの内容そのものが、乱馬には皆目見当もつかないのだから、腰が落ち着かない。
 帯刀と睨めっこをしながら、乱馬が入ってきた側とは逆の方向へ、意識を投げかける。
 途端、乱馬の顔色が変わった。
「まさか…」
 乱馬の引きつった声色に、青ざめた顔に、帯刀は頷いた。
「襖向こう、一枚隔てた部屋で、待っていてもらった」
 間違えようのない気配。乱馬は動揺を隠せなかった。なぜ、九能の家に…。
 乱馬は一度、襖を突き破って透視しようかという程、強い眼力で視線を向こうへ投げると、すぐに帯刀の双眸に戻した。乱馬の目には、先程の力漲る強さは、欠片も感じられなかった。動揺に揺れる、幼い男の目。
「断っておくが、ぼくは今でも貴様が嫌いだ。だが、卑怯な手段をとることは、もっと嫌いだ」
 混乱に焦燥、苛立ち。乱馬の目の色は、目まぐるしく変わる。
 さすがに意地が悪すぎるだろう。
 帯刀は乱馬の背中越しの、乱馬が胸中穏やかでいられぬ理由の存在する側とは逆の、乱馬が入ってきた側の襖に目を遣る。襖が開けられることを待つ。
 どう切り出し、どう話を進めるか。
 なびき発案のこのシナリオは、細かい立ち振る舞い、仕草といった演技まで求められた。帯刀は呆れながら、脚本・監督を担うなびきの指示に従い、使用人総動員しての念の入ったリハーサルまで行った。乱馬を帯刀の待つ部屋まで案内する役の、古顔の使用人は、以前からなびきと意気投合していたことも手伝って、底意地の悪い演技を極めん、と、ああでもないこうでもない、なびきと嬉々として演技論を熱く交わしていた。
 帯刀は悪趣味な女だ、とボヤきながらも、乱馬が入室してくるまで、それから乱馬を威嚇するところまでは、なびきの演出に付き合ってやった。
 しばらく居心地の悪い沈黙の中、乱馬の身を置かせる。さすれば乱馬は、気を紛らわせようと、あちこち気を飛ばすだろう。そして武闘家の乱馬は――マスコミに持て囃され奢ったスターではなく、未だ真の武闘家であれば、の話だが――隣室の気配を感じ取るだろう。
 が、もういい加減、なびきが入室してきてもいい頃だ。だいたい、その先の台本は、帯刀にはもう用意されていないのだ。先ほどまで堂々と構えて尊大ですらあった男が狼狽える哀れな様を、帯刀は見るに堪えない、と感じた。
「だから、こんないたぶり方は、ぼくの趣味ではない」
 そう言うと、帯刀は目を瞑り、深く息を吸い込んだ。そしてカッと目を見開き、この広大な屋敷中に響き渡る怒声を張った。
「おい!いい加減出てきたらどうだ!天道なびき!」
「へっ?」
 乱馬が目を丸くすると、天井の隅に取り付けられたスピーカーが、ざーっというノイズを発する。ぶつっぶつっと途切れるノイズ。そして間延びした女の声。
『まったくせっかちねえ。今なびきさんが、お二人のためにおいし〜いお茶菓子を用意してあげてるところなんだから、ちょっと待ってなさい』
 乱馬は金魚のように口をぱくぱくさせ、帯刀を見た。帯刀は嘆息した。
「そういうことだ」
―――どおいうことだよっ!
 乱馬には何が何だか、まったく皆目わからなかった。

「あーあ。久能ちゃんったら、もうネタ明かししちゃったわけえ?つまんないわねえ」
 茶菓子の乗った盆を脇に置くこともせず、足で襖を開けるなびきは、逆光を浴び、不満を吐きつつ乱馬の頭上、登場した。
 ネタ明かしも何も、乱馬にはさっぱりわからない。一方帯刀は渋面を崩さぬまま、黙って懐手を解き、立ち上がってなびきの手から盆を取る。その帯刀の流れるような自然な所作に、乱馬は目を見開いた。この二人はいったい…。
 先刻からお預けを食らったがままのような、わけのわからぬ展開はもとより、あたかも痴話喧嘩のように見える二人の関係にも興味が惹かれる。そういえば、あの感じの悪い女は、帯刀が当主となると同時に、祝言を挙げる予定だと言っていた。もしやその相手とは…。
 そこまで考えが及んだところで、なびきが突然キッと乱馬を睨んだ。乱馬は思わず身がすくむ。
「乱馬くん。もうわかってるようだから、こちらにおわしますは誰それ、だなんてまどろっこしいこと、しないわよ。早く行ってらっしゃい。乱馬くんのこと、ずっと待っててくれてるんだから」
 もう何年もね。なびきはそう言うと、乱馬に背を向け、各白磁に湯を注ぎ、温める。急須を温める前に玉露の茶葉を入れてしまった帯刀に、「ああもう、また…」とブチブチ言うも、一心不乱といった真剣な表情と不器用な手つきで、こぽこぽと茶釜から急須へ湯を注ぐ帯刀を見守る。そして湯の注がれた急須を帯刀の手から受け取って、茶碗に茶を注いだ。
 帯刀はなびきから茶碗を受け取ると、乱馬へと振り返った。
「なんだ。まだいたのか」


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