中編

 しのぶはハアハアと息を切らしながら、走り続けた。校庭裏の木陰に辿り着くと、ずるずると木の幹にもたれてうずくまる。恥ずかしくて情けなくて惨めで仕方がない。
――あたし、なにやってんだろ。
 十人並み以上には可愛いって思っていたのは、ただの思いこみだったのかもしれない。本当は、少しの魅力もない、つまらない女なのかもしれない。自分を買い被りすぎていたのかもしれない。それなのに、誰か想っていて欲しい、想われているはずだなんて、自信過剰もいいところで、そのせいで八つ当たりして。大好きだったあたるを手に入れて、その上たくさんの人から慕われるラムに嫉妬して。下駄箱に一通のラブレターもないこと、自惚れを指摘されて、逃げ出して。
――男運が悪いんじゃなくて、性格が悪いのよ。
 しのぶはじわっと浮かび上がる涙をスカートに押しつけた。

「おい、どーした?」
 ずずっと鼻をすするしのぶの頭上から、声変わり前の少年の声がする。凛と正義感に満ちた、少年特有の潔癖さを含ませた声。しのぶはゴシゴシと涙をスカートの膝になすりつけ、顔をあげる。
「ちょっとお腹が痛くて。心配してくれてありがとう、竜之介くん」
 にっこりと微笑むしのぶ。真っ赤な目が竜之介の目にとまる。
「なにいってやがんでい。そんなに目え腫らして。なんかあったんだろ?」
「目?」
 しのぶはキョトン、とした顔で尋ねる。
「ウサギみてえに真っ赤だぜ」
 しのぶはスカートのポケットからコンパクトを取り出すと、パチン、と開いた。右目に焦点を当て、鏡を覗き込む。
「あら。ほんと。真っ赤だわ」
 いやあねえ、としのぶが頬に手を当てる。予想外の反応に、竜之介は戸惑う。
「いやんなっちゃうわ。これだからこの季節って嫌いよ」
 竜之介の頭にぴん、と閃くものがある。
「花粉症か?」
「そうなの。今年からなっちゃったみたい。やんなっちゃう」
 しのぶは溜息をついて、目薬とシルクのレース&刺繍付きハンカチーフをポケットから取り出す。スカートの小さなポケットから、色々なものが、まるでドラエモンの四次元ポケットのように次々と出てくるのを目の当たりにし、竜之介は、女ってすげえ、と感心する。
――そうか!女はポケットに、何か特別な細工をするんだな!
 竜之介がぐぬぬ、と拳を握る。しのぶは親指と人差し指で上瞼と下瞼を開き、目薬を垂らした。ぱちぱちと目薬を目に馴染ませる。
「竜之介くんこそ、どうしてここに?」
 竜之介はケッと吐き捨てると、しのぶの隣りにどっかり腰を下ろした。
「親父の野郎が…」そこまで口にすると、竜之介はぶるぶると震わせていた拳をおろし、溜息をつく。しのぶは竜之介の口元が切れていることに気づき、ハンカチーフで血を拭う。ポケットから絆創膏を取り出してペタリと貼り、竜之介の傷ついた拳を、血を拭ったのと反対に裏返したハンカチーフで包んだ。しのぶがせっせと竜之介を介抱するのを、竜之介はじいっと眺めていた。
「はい。これでよしっと。でもあとでちゃんと保健室行かなきゃだめよ。バイ菌が入ってるかもしれないんだから。それに顔に傷なんか作っちゃダメ」
 竜之介はしのぶが丁寧に巻いたハンカチーフを見つめる。
「…しのぶは女らしいな」
「そんなことないわ」
 しのぶは絆創膏のゴミを小さく丸める。竜之介が顔をあげる。
「優しくて可愛くて。女ってのは、しのぶみてえじゃねえといけねえ」
 いつもだったら嬉しいはずの竜之介の賛辞。しのぶは素直に喜べない。
「そんなことないったら」
――あたしに魅力なんて、ないもの。
 しのぶはスカートをはらって立ち上がる。
「ね。竜之介くん。一緒に保健室行きましょ。あたしもお腹痛かったし、ちょうどいいわ」
 しのぶが竜之介の手を取り、竜之介が立ち上がる。二人は仲良く肩を並べて渡り廊下へと遠ざかる。しのぶが背もたれていた木の葉が風でざわざわと揺れる。葉が揺れるたび、葉と葉の隙間に、白と赤がちらちらと覗いた。

 裏庭から人の影が消えると、木の枝からすとん、と白い巨大なぬいぐるみが着地した。元々だらん、と垂れ下がった長い耳が、今は地についている。項垂れたウザギは、見えなくなった黒髪おかっぱの少女の行方を視線で追い、ぽつりと呟く。そして亜空間の(ひず)みにすうっと消えていった。
「ぼくはバカだ…」



 ピンクとクリーム色の縞々模様を描く惑星が足下を照らす。人の背丈ほどもある巨大なホトケノザの下、因幡はトボトボと歩く。脳裏に浮かぶのは、仲睦まじく寄り添う少女と少年。しのぶは気遣わしげに少年の口元の傷を拭っていた。少年は健気なしのぶを愛おしげに見つめ、「可愛い」と言い、しのぶはそれに照れていた。
 丸まったぬいぐるみの手を、さらにギュっと丸め、因幡は涙が零れそうになるのを食いしばって耐えた。
――後でしのぶさんにちゃんと、謝らなきゃ…。
 因幡はノロノロとサボタージュしていた職場に戻った。先輩局員にネチネチと文句を言われるだろうことを思うと、憂鬱さが一層増す。

「因幡クン」
 チッチッチッと、先輩局員が人差し指を立てて舌を鳴らす。因幡を説教するウサギの後ろで、わらわらと他の先輩局員が集まってくる。
「怠慢だね」
「まったくだね」
「因幡クンのくせにね」
「生意気だね」
「調子づいてるね」
 ひそひそと大きな声で陰口をたたく。因幡はしゅん、としょぼくれて先輩局員の嫌味に耐える。因幡の説教担当のウサギが大きく溜息をついた。
「因幡クン。近頃のきみの態度は目に余るものがあるね。鍵はなくすし、一般人は巻き込むし、仕事中はボーっとしてるし、作るノブは使い物にならないし、扉は壊すし、時空オンチには磨きがかかっているし」
 ヤレヤレと先輩ウサギが頭を振る。その後ろでうんうん、と他の先輩ウサギが非難の色を示して頷く。
「何より朝の遅刻はなんとかならんのかね。もーすぐ昇級試験だとゆーのに、このままじゃ、試験を受けることすらかなわなくなるのだよ」
「そんな…」
 因幡のすがるような目に、鋭い目を光らせていた先輩ウサギの目の色がふっと和らぐ。すすすっと因幡に近付くと、先輩ウサギが因幡に耳打ちした。
「因幡クンがあの、一般人の少女に恋していることは知っているよ。毎朝きみは、あの少女の元へでも行っているんだろうね」
 因幡が驚いてぴょんっと飛び退く。一般人との恋愛など、運命製造管理局員に許されるわけがない。知られてはいけない。因幡はぶるんぶるんと目が回っても頭を振り続ける。
「ちっちちがいますっ!ぼっぼくは…!」
「いいから、だまんなさい」
 先輩ウサギがブルブルと否定する因幡の頭をパコン、と殴って、長い耳をぐいっと引っ張り、因幡を引き寄せる。そしてまたヒソヒソと小声で話す。なんだなんだ、と他の先輩ウサギ達が二人…二羽を取り囲む。因幡はドギマギしながら、こそこそと告げられる先輩ウサギの言葉に耳を澄ます。ふんふん、と他のウサギ局員達も同じように耳を澄ます。
「いーかね。因幡クン。きみがあの少女に恋しよーが、毎朝仕事前に挨拶に行こーが、我々としては一向に構わないのだよ」
 既に一人称が”わたし”単数形ではなく”我々”複数形になっている。周りのウサギ達はウンウンと頷く。
「因幡クンの遅すぎる初恋だしね」
「あまりに遅すぎて、もしかしたら変態なのかと心配していたくらいだしね」
「よかったね。因幡クンが女の子を好きになれて」
「ホントーだね」
「我々も安心だね」
「襲われなくてすんだね」
 因幡はぎょっとした顔で先輩ウサギ達を見回す。説教担当ウサギが因幡の耳を引っ張って、ぐりん、と前を向かせる。
「仕事に支障を来さないのなら、別にきみの”ぷらいべーと”など、どーだっていーのだね。たとえば今朝、因幡クンはヤギのようにムシャムシャと紙切れを美味しそうに食べていたよーだけどね。キミの味覚が変わろーが、どーだっていーのだね」
 その言葉に因幡は顔を真っ赤にした。先輩ウサギがニヤリ、と意味深長に笑う。
「いーや。わたしは知らないよ。きみの食べていた紙切れに、誰かさんの名前らしきものが見えたことなんて」
 ふっふっふっと笑って先輩ウサギが去っていく。どやどやとそのウサギの後ろを他の先輩ウサギがついていく。
「因幡クンは紙切れを食べていたのかね?」
「人参より紙切れが好物になったのかね?」
「ふっふっふっ。因幡クンはどーやらヤギになりたいのだそーだよ。毎朝手紙を食べるのが習慣らしい」
 遠ざかっていく先輩局員の言葉に、因幡は声にならない悲鳴をあげた。
「どーいうことだね?」
「我々としても知りたいところだね」
 ざっざっざっとウサギ達は因幡を残して去っていく。因幡は顔を真っ赤に染めながら、放り出した仕事に戻る。そしてしのぶに宛てる謝罪の文面を考える。じんわりと浮かぶ涙。せっかく先輩達が意地悪ながらも応援してくれた初恋だけれど、因幡の想う女性には、既に他の男がいた。因幡が姑息で卑怯で情けない行為をしなくても。しのぶには心を決めた少年が他にいた。因幡が毎朝遅刻をしようと、しのぶには決して、その想いが届くことはなかったのだ。

* * * * *


 ばこん。
 しのぶの手がピタリ、と止まる。くりくりと愛らしい、黒目がちの彼女の瞳は、じいいっと真っ直ぐ前を見つめている。左手でスニーカーの踵部分をつまみ、浮かせる。しのぶの大きな目が見開かれる。それから、しのぶはちょっぴり屈んで、下から覗いてみた。
「うぃっす。しのぶ。腹は平気か?」
「え、ええ。コースケくん。もう平気よ。ありがとう。それじゃあ、また明日」
「おー」
 ニッコリと笑顔を作って帰りのご挨拶。しのぶは急いでスニーカーと白い封筒を抜き出し、下駄箱を閉めた。そそくさと立ち去るしのぶ。コースケが乱暴に下駄箱の取っ手を上げる音を背後で聞いた。

 校門まで全速力で駆け抜けると、しのぶはきょろきょろと辺りを見渡し、誰か――錯乱坊(チェリー)とか、錯乱坊とか、錯乱坊とか――が居ないのを確認した。小さく頷くと、しのぶは崩れかけた廃墟に忍び込む。そこでもまた、誰か――錯乱坊(チェリー)とか、錯乱坊とか、錯乱坊とか――が居ないのを確認した。ガタリ、と二階から音がする。しのぶはビクっと大きく肩を揺らして、下駄箱に入れられていた手紙を鞄に仕舞い、そろそろと音を立てずに階段を上がった。
 埃くさい空気にむせるのをなんとか堪え、しのぶは今にも抜け落ちそうな階段を上る。
「きゃあっ!」
 ずぼっと右足がはまり、その拍子に階段が抜け落ちる。しのぶはぎりぎり手すりに掴まる。ぶらーん、と体が振り子のように揺れ、その度にぎしっぎしっと、頼りの手すりが悲鳴をあげる。しのぶは自分より先に床に叩きのめされた学生鞄を見下ろし、ごくりと唾を飲み込んだ。腐った材木と鞄とが重なり合っている。
 しのぶのつま先から地上まで、二メートルもない。これくらいなら、うまく着地できる。たとえ着地した床が腐って抜けても、足を捻るくらいで済む。しのぶはえいっと大きく体を振って手すりから手を離した。
「しのぶさんっ!!」
――え?
 しのぶが落下しながら振り向くと、目の前をさっと白い毛玉が通り過ぎた。なんだろう、と思う間もなくしのぶの体が床にたたきつけられ―――ずに、ぼわん、とトランポリンのように腰が浮く。
「ぐえ゛っ゛」
 ふかふかとしたトランポリンらしきもの――それは潰れた蛙のような声を出した――に弾かれると、しのぶはスチャッと立った。足は揃い、地面に垂直。両腕は真っ直ぐ伸び、地面と平行。体操なら十点満点の着地。
 しのぶはくるりと振り返ると、すぐ足下に、ぴくぴくと片足をあげて痙攣しているウサギのぬいぐるみがあった。
「因幡さん!」
 しのぶは俯せに潰れて目を回している因幡をぐるっと表に返し、ウサギ頭を膝に乗せた。びしばしと鋭い音をたてて往復ビンタする。因幡が「ううっ」と唸り、息を吹き返す。
「どーしたの、こんなところで!」
 因幡の意識が戻ったのにほっと安堵すると、しのぶは因幡の顔を覗き込んでギュっとその手を握った。因幡はハッと目を見開いて、慌ててしのぶの膝から飛び退いた。ぴょんっと長い耳が揺れる。
「すっすすす、す、すみません!」
「謝るのはこっちのほうよ。因幡さんをクッションにしちゃって…ごめんなさい。重かったでしょう?」
 因幡がぶるんぶるん頭を振る。
「とんでもないっ!そんなこと!」
「そう?」
「はい!」
 因幡は元気よく返事すると、途端に項垂れた。
「因幡さん、ずいぶんお久しぶりだけど、何かあっ…」
「しのぶさん、本当にすみません」
 因幡はぐいっとウサギのフードを深々と鼻先まで下げる。しのぶはその張り詰めた空気に呑まれて、口を閉じる。因幡はすっと立ち上がり、材木の下になっていた、しのぶの学生鞄を抜き取った。ガタ…とスカスカの柱が転がる。
「もう二度と、しのぶさんの前には現れませんから…」
 因幡の体が小刻みに震えている。しのぶは手渡された鞄を受け取る。因幡がなぜ、自分にこれほどまで謝るのか、理解できない。口を開こうにも、因幡の真剣さに呑まれて、なにを言うべきかわからない。
 因幡がしのぶの学生鞄を指さした。
「その手紙…。ぼくからです。本当にすみません!」
 因幡はそう言うと、走って出ていった。しのぶは呆然と、目の前の事象を眺めていたが、因幡の後ろ姿が見えなくなったところで、はっと意識を取り戻し、因幡を追った。
「ちょっと待って!どういうことっ!?」
 しのぶが玄関の扉に手をかけると、因幡のまん丸のシッポが丁度、亜空間の歪みに消えていくところだった。
「な、なんなのよ…」
 しのぶは黄昏れていく夕陽を背に、戸惑うほかなかった。


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