後編

「あーあ…やってらんねーぜ」
 竜之介はイテテ、と頬に手を当てボヤく。口の中を切ったせい。しのぶは顔に傷を作るな、と言った。竜之介はただ、”ぶらじゃあ”が欲しかっただけだ。年頃の女として。
 口の端には、消毒液をつけた後、しのぶに貼り直しててもらった絆創膏。左手には同じく消毒液をつけた後に巻き直してもらったガーゼ。どちらも女の子らしい細やかな心配りで丁寧に手当てされている。
 竜之介は胸ポケットからしのぶのハンカチーフを取り出した。女の子らしい、うすい生地のツルツルのすべすべの、その上、端にはレースがあしらってあって、”shinobu”と小さなお花の刺繍まで施されている。
「あーゆーのを女の子って言うんだよなー」竜之介はしのぶのハンカチーフをぎゅっと握りしめる。「へっ…。おれとは世界が違わあ!」
 カンッといい音をたて、空き缶を蹴り上げる。竜之介はくるりと後ろを向いて、元来た道を戻るべく、足を一歩踏み出した。
「い゛たっ」
 竜之介が声のした方へ、首だけ振り返ると、そこには頭だけニューっと何もない空間から突き出している、ウサギの着ぐるみを被った変態男がいた。
「な、なんでいっ!てめえはっ!」
 竜之介は拳を構えるとハッとした。そういえば昼休み、クラスの女子が”ウサギの着ぐるみを被った変質者”について噂していた。話によるとそいつは、よりにもよってしのぶの下駄箱に不埒な置物をしたという。一限をサボり合った竜之介としのぶだったが、あとで級友に聞くと、やはりしのぶは腹痛などではなく、なにかに傷ついて教室を出ていったらしい、と当て推量されていた。しのぶが頑固に腹痛だと言い張るので、他の誰もそれ以上の詮索はしなかったが、竜之介は単純に”腹痛”と”花粉症”を信じ込み、その上手当てまでしてもらい、挙げ句の果てには自分のくだらない愚痴にまでつき合わせたことを、心底後悔していた。
 竜之介の拳がぶるぶると震える。
「てめえだな…。しのぶを泣かせたのは…!この変態野郎っっっっ!!」
 竜之介は飛び上がって、ウサギ男の頭に蹴りを入れる。ウサギ男は「ま、待ってください!」と叫びながら、ずるり、と地に伏せった。竜之介は目を細めて、変態ぬいぐるみ男を見下ろす。
「二度としのぶに変なマネすんじゃねーぞ。わかったか」
 竜之介がクルリと背を向ける。因幡はずるっずるっと這って、震える右手を上にあげ、竜之介を追った。
「ちょ、ちょっと、話を聞いてください…」
「あんだよ!」
 竜之介がギロっと睨む。因幡はびくっと怯えると、こほん、と空咳をした。そして真摯な目を真っ直ぐに竜之介に向ける。
「あなたのおっしゃる通り、ぼくはもう二度としのぶさんの前には現れません。でも…」
「”でも”なんだよ」
 因幡はきっと竜之介を睨んだ。
「絶対にしのぶさんを、誰よりも幸せにしてください!しのぶさんを泣かせたりしたら、ぼくだって許しません!」
 竜之介はポカン、と口を開けて足下で這いつくばるウサギ男を眺めた。
「……ちょっと待て。てめえ、なに言ってるんだ?」
 竜之介は人差し指をこめかみに当てる。因幡はムッとしてぎゅっと拳を握り、竜之介に詰め寄る。
「言い逃れしようなんて卑怯ですよ!あなた、しのぶさんの恋人なんでしょう!!」
「…誰が誰の恋人だって…?」
 因幡はなおズイっと身を乗り出す。
「あなたがしのぶさんのです!他に誰がいるんです!」
 竜之介のこめかみにある、ぶっとい血管がブチブチブチッと切れた。
「おっおれは女だーーーーーーーーーーーっ!!」
 キラリ、と薄暮の空に、因幡は「それじゃあ、しのぶさんはフリーなんですねええええええええぇぇ……」と、喜びを隠しきれない笑顔で飛んでいく。竜之介は肩を大きく上下させて、空の彼方へと消えていく変態ウサギを睨み続けた。

* * * * *


 しのぶはフウ、と溜息をつくと、勉強机脇に置いた鞄を開け、白い封筒を取り出す。ベッドに腰掛け、糊付けられた部分をぺりぺりと丁寧に剥がす。
「なんなのかしら…」
 さきほどの因幡の憔悴して項垂れた姿を思い出し、しのぶは憂鬱な気分になる。下駄箱に手紙があるのを見つけたときは、あんなにもウキウキしたのに、今は見ることが怖い。一体なにが書かれているというのだろう。ラブレターでないとゆーことは、間違いない。
 しのぶは最後のペリペリを剥がすと、そこで手を止めた。
「…やっぱりお風呂入ってから見ようっと」
 手紙を机の上に置くと、しのぶは階段を降りる。ちょうど最後の一段を降りるところで、玄関の電話が鳴った。
「はい、三宅です」
「い、因幡です。しのぶさん、ご在宅ですか」
 カチコチに緊張した声が受話越しに感じられる。しのぶはますます憂鬱になる。
「しのぶはあたしですけど…。因幡さん、よくうちの電話番号わかったわね」
「ええと、それは…」
 因幡がモゴモゴと口ごもる。しかし、しのぶはすぐに「あ、そうか」と納得した。因幡は亜空間の人間だ。物理が大の苦手なしのぶには、よくわからないけれど、とにかく物理法則が普通とは違うのだ。未来まで作っている職場で働く因幡のことだ。なんだかよくわからない経路で電話回線にでも侵入するのだろう。
「で、どうしたの?」
 因幡は深く問いつめられなかったことに、ほっと安堵する。「実はこっそり学校に忍び込んで、生徒名簿を覗きました」なんて、これ以上怪しい印象を持たれたくない。実際は、その怪しさレベルはしのぶの憶測の怪しさ具合と、そうは変わらなかったのだけれど。
「ええと…。しのぶさん、あの、もしかして…。もう手紙、読んじゃいました?」
 受話器の向こうで因幡がごくり、とツバを飲み込むのがわかった。しのぶは、なんなのよ、と苛立ちながら答える。
「いいえ。まだよ」
「ほっほんとーですかっっっ!?」
「え、ええ…」
 きゃっほー!とでも叫び出しそうな勢いで、因幡が明るい声を出す。
「しのぶさんっ!それ、読まないでください。絶対、読まないでください!」
「えええっ?」
「今からしのぶさんのお宅に伺います!それじゃっ!」
「ちょっちょっと!」
 しのぶが因幡を呼び止めるも、電話はブツっと切れた。しのぶは釈然としない気持ちで受話器を置く。
「なんだってのよ…」
 しのぶはブツブツと呟きながら、階段を上る。読むな、と言われれば読みたくなるのが人の性というもの。だいたい、あの手紙はしのぶ宛てにもう受け取ったものなのだから。
 しのぶは机の上の手紙に手を伸ばす。

 ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴り、しのぶはびくっと手を引っ込める。しのぶは溜息をつく。手紙を持って玄関へ向かった。
「あ、しのぶさん。突然すみません」
「いーわよ。そんなこと。で、どしたの?今日の因幡さん、挙動不審よ」
 因幡は「はあ、すみません…」と言うと、ギョっとした表情になる。
「し、しししししししししの、しのぶさん!」
「え?」
 因幡がしのぶの手元を凝視している。しのぶは「あ、これ?」と因幡に返そうとすると、因幡は真っ青になった。
「読んでしまったんですね…!」
 因幡は気の毒になるほど、その顔の血の気を失っている。しのぶは慌てて否定する。
「いえ、違うのよ。これは、読もうと思って封を開け……」
「すみませんでしたっっっ!!!ホントーにホントーにすみませんっっっ!」
 因幡が、がばちょと頭を下げる。しのぶはあまりの剣幕に口を出せない。それに加えて、ちょっとした好奇心が沸く。因幡がきりっと真剣な顔をしてしのぶを見つめる。
「手紙に書いた通りです。ぼくは、最低なことをしました。いくらしのぶさんを好きだからって、してはいけなかった…」
 因幡が、くっと鋭く嘆いて俯く。
「ちょ、ちょっと待ってよ。なにがなんだかわからないんだけど…」
「しのぶさんを好きだからこそ、してはいけなかったんです!他の方がどれほど、真剣にあなたを想っているか、ぼくにはよくわかるから……!」
 因幡はしのぶの手をぎゅっと握る。しのぶは頭の上にハテナマークを幾つも幾つも浮かべながら「はあ…」と因幡の話に耳を傾ける。
「最初はそんなつもりはなかったんです。しのぶさんに手紙を、と何度も何度も、手紙を下駄箱に入れようとしては、やめて…。そのとき、しのぶさんの下駄箱に、手紙が入っているのが見えてそれで……」
 そこまで因幡が言うと、しのぶは頭上のハテナマークを振り払った。
「ちょおおおっと待ったっ!」
 しのぶが、突然地を這うように低く、ドスのきいた声を出す。因幡はびくっと肩をあげ、言葉を止めた。怖々と因幡がしのぶの手を離す。
「あのね、因幡さん。あたし、まだその手紙、読んでないのよね」
 しのぶがニッコリと笑う。因幡の背筋に悪寒が走る。
「だからねえ。あなたの言ってること、あんまりよくわからなかったんだけど」
 しのぶはニコニコと笑顔を絶やさずに言う。
「もしかして、こういうことなのかしら?」
 因幡はぶるぶると震える。
「あなたはあたしの下駄箱に手紙を入れようと思って、下駄箱を開けた。でも結局それはやめることにして、あたしの下駄箱に入ってたらしい手紙を…」
 しのぶがニコっと笑う。因幡が引きつりながらヘラっと笑い返す。カアカア、とカラスが遠くで鳴いている。空は下の方に、微かにギリギリ橙が滲んでいる。下の方だけがちょびっとだけ、紫のグラデーション。藍色に覆い尽くされそうな、日没の空。しのぶが大きく肺に息を吸い込む。
「盗ってったってわけっっっっっっっっ!?」
 しのぶが怒鳴りつけると、因幡は「わー!すみません!すみません!」と謝る。しのぶはヘコヘコと謝り続ける因幡をじろっと眺めると、疲れたように大きく溜息をついた。
「…まあいーわよ。それはもう」
 それほどあたしのことが好きだってことだしね、としのぶは内心こそっとほくそ笑む。因幡がしのぶの顔色を窺う。
「で」
「で?」
「その因幡さんが預かってる手紙、持ってきてくれたんでしょう?」
 しのぶは少し顔を赤らめて早口でまくしたてる。
「なっなにも、その人達とつき合うってわけじゃないのよ?ほら、やっぱり返事をしないっていうのは失礼だし…あ、だからといってあたしは別に、因幡さんに返事をしないとかそういうわけじゃなくて、っていうかほら、つき合おうとか言われたわけじゃないし……」
 なんの返事も返さない因幡を不審に思い、しのぶは「ん?」と因幡を見る。因幡の顔は真っ青なままだ。しのぶは嫌な予感がした。
「もしかして…」
 因幡がへらっと笑う。しのぶの手がプルプルと震える。
「すみませんっ!食べちゃいました!!!!!」
「たっ食べたああああ〜!?」
 とんでもない答えに、しのぶの怒りが一瞬吹っ飛ぶ。食べた…食べたって手紙を?因幡はウサギではなかったのか?それとも耳の長いピョンピョン跳び回るヤギだったのか?
「た、食べたって…。どうしてまた…」
 因幡は青白い顔でヘラヘラ笑いながら、半ばヤケクソになってしのぶの問いに答える。もとより、しのぶの家に来ることを決めた時点で、洗いざらい告白するつもりではいたのだ。
「つい、しのぶさんの下駄箱から取ってきてしまって、どうしよう、やっぱり戻しにいかないと…と、狼狽えてるところを先輩局員に見つかりそうになって……。それでとっさに……。隠せる場所、って考えたとき、もう夢中でぱくっと……。あの……一ヶ月くらい…」
「……い、一ヶ月」
 しのぶはハハハ、と乾いた笑いを浮かべる。既に怒る気も失せる。一ヶ月もそんなことを、と思うと、目の前で引きつり笑いをするウサギが哀れに思えてくる。
「まあ…当然、差出人の名前なんて…覚えてない…わよね?」
 しのぶが「まさかよねー、うふふ」と笑うと、因幡はへらへらと「まさかですよー、あはは」と笑う。しのぶと因幡は声を揃えて笑い声をあげる。
「じゃあ…どれくらいの手紙があったかなんてことも………。わっかるわけないわよねー!おほほほほ」
「やだなあーしのぶさん。数を数える時間があったわけないですよー!あははははは」
 あっはっはっ。いっひっひっ。うっふっふっ。えっへっへっ。おっほっほっ。一人と一羽はひとしきり笑い合った。その笑い声は広く、友引町に響き渡った。

 その日、因幡が亜空間に無事に帰宅できたかどうかは、定かでない。

* * * * *


 しのぶはクリスマスプレゼントを貰い損ねたような、その代わりにお年玉を貰ったような、妙な気分を持て余していた。憤懣やるかたないのに、そわそわと浮き足だつ。うまくコントロール出来ない感情に嫌気が差し、不貞寝を決め込むことにする。ばさっと大仰に布団をめくりあげ、ベッドに入った。
 しのぶはしかし、眠りにつく前にやっと安堵を得た。というのは、今日因幡がしのぶに告白し謝罪したことで、因幡はもう、下駄箱のラブレターを盗まない。明日からは”正常に”しのぶへのラブレターが届くのだ……そう思うと、しのぶはようやく穏やかな眠りについた。
 夢の中でしのぶは、友引高校には決して存在しないような、超美形・超大金持ち・超秀才・超運動神経抜群…とにもかくにも世の中の賛辞という賛辞を一身に集めたよーな、人間離れした、タイプ様々な王子様達に言い寄られていた。彼等は皆、オロオロと戸惑うしのぶに対して、実に積極的にアプローチする。しのぶは「そんな、いけないわ」と彼等が自分を求めて争うのを、うるうると涙を湛えて、懸命に、しかし遠巻きに止める。
「ああっ。あたしのために争うなんてやめてえっ」
 しのぶはオロオロと彼等の激しい闘いを見守る。闘いに敗れた男達が、激闘の輪から弾き飛ばされて、遠く彼方へと飛んでいく。しのぶはお空の星と消えていく彼等に、「ごめんなさーい。しあわせになってねー」とハンカチをひらひらと振った。
 暫くすると、やっと最後の勝負が着いたようで、よろよろ、と一人の男がしのぶに近付いてくる。しのぶは両手いっぱい広げて、真の勝者に駆け寄る。
――ああっ!あたしの王子様!
 しのぶに言い寄ってきた男達は、どれを選んでもハズレくじはなかった。しのぶは何の心配も躊躇いもなく、王子様の胸に飛び込んでいく。
「あたしのためにっ…!」
 そう言ってしのぶは広い胸に飛び込んだ。
「しのぶさん…」
 しのぶの耳元に、低くて甘い声がささやかれる。しのぶは、ほうっと吐息を漏らす。王子様は逞しく、モコモコの手触りのいい腕で―――……もこもこ?
 しのぶがガバっと顔をあげると、そこには前歯の一本抜けた口でニヘラっと笑う因幡の顔があった。
「しのぶさん、ぼく、やりました!」
「いっ因幡さん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」

* * * * *


「どーーーーして、あなたがっっっっっっ!?」
 しのぶは大絶叫と共に目覚めた。はあはあ、と息が切れる。心臓がドクドクと激しく脈をうっている。バタバタと慌ただしく両親が階段を駆け上がり、乱暴にしのぶの部屋の扉を開けた。
「どうしたのっ!?しのぶっ!」
「パパ…ママ…」
 しのぶは半泣きの顔で母親にしがみつき、それから「どーしてなのー!?」と泣きついた。



『白ウサギさんたら読まずに食べた。仕方がないのでお手紙書いた。さっきの手紙のご用事なあに。』

 しかし、しのぶの下駄箱にラブレターが入ることは、卒業するまでほとんどなかった。白ウサギさんたら、読まずに食べて、お手紙を書かなかったのだ。
「三宅しのぶは、何度ラブレターを出しても、決して返事をしてくれないそーだ」
 そんな噂が学校中を駈け巡るのに、一ヶ月は十分過ぎる長さだった。


終わり


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