謹賀新年



「さあ、しのぶさん。もう行きましょう。こうしていては日が暮れてしまいます」
「だって…」
「むこうで二人も待っているんですよ」
「わかってるわ。でも…」
 丁寧な口調の面堂の声には、わずかに苛立ちの色が混じっている。しのぶは申し訳なく思いながらも、頷くことができない。面堂は対女性用の紳士的なスマイルをどうにかこうにか保ちながらも、口の端が歪むのを留めることは出来なかった。
「しのぶさん、さあ!」
 面堂の表立った苛立ちは、しのぶの泣き出したい気分をそれいけ、とばかりに後押しした。
(あたしだってわかってる!我が儘言って困らせてるってことくらい!でもっ!でもっ!!無理よ!行けっこないわ!こんな、こんな…!)
 しのぶは、ラムと了子に揃ってちょうだいした台詞を思い浮かべ、ぎりっと唇を噛み、涙を滲ませた。
 一方面堂は、強情なしのぶに苛立ちと疲労を感じるとともに、違和感を感じ始めていた。我が儘は女の特権、とはよく言われるものだけれど、しのぶはどちらかといえば、物分かりのいい方だ。地球の常識に疎いがために、また生来の寛容さによって「そうなのけ?」と何でも頷いてくれるラムほどではないにしろ。
 女子高生らしくぴいぴいと、先生!男子が!女子が!とか、男女差別だわ!とか、くだらぬことを喚いたり泣いたり、と、うるさいときもあるが、最終的にはなんだかんだ理不尽なことにも納得したフリで受け入れてくれる女だ。
 そう、だからぼくだって………、と思い始めたところで面堂は勢いよく頭を振った。そんなことより、目の前でぐずる少女をなんとか説得しなくては、せっかく用意した賽銭が無駄になってしまう。一昨年に水乃小路家より奪った――日本各地の社寺への寄与額はもとより――賽銭寄付額首位という華々しい地位を、昨年は水乃小路家よりたった百円下回ったことで奪還されるという、如何ともし難い屈辱を味わった。新年新たに縁起の良い、この輝かしいタイトルを、今年こそは面堂家がいただく、とばかりに面堂家をあげて二百五十億円、全て新札で用意させた。面堂家の表向きの総資産は五百億であるから、正直、けっこうつらいなあ、と面堂家現当主は考えたのであるが、愛息子のため、また、その息子に旧くよりの敵手、水乃小路家に勝つためである、と熱く請われれば、まあ仕方なし、と頷いたのである。しかし息子には面堂家の資産をよくよく勉強してもらいたいものだ、と感じた。らしい。
 という事情により、縁起よく新札で揃えた巨額の賽銭を一月一日の今日、元旦に捧げることができないとなると、この賽銭額競争においては、どれほど非常識な額を寄付しようと、それは無効となってしまうわけなので、面堂は焦りに焦っていた。
「しのぶさ〜ん!本当に!頼みますよう…」
 面堂の声は、もはや涙声であった。


◆ ◆ ◆


 ここ面堂邸では厳寒の砌、睦月だというのにも関わらず、緑青々と木々が葉を茂らせ、未だ葉を散らさぬワンテンポ遅れた紅葉樹は、所在なさげに風に身を任せ、寂しく枝をしならせている。
 季節感もへったくれもないな。
 本来、日本独自の四季によって織りなされる自然を愛でるはずの日本庭。季節を表すのは失敗しとるが、品性だの風流だのご大層な口上を垂れる割りにまったくもって悪趣味な、センスのまるで欠ける家主をよ〜っく表しとる。あたるは面堂家の裏庭を散策しながら深く頷いた。
 それにしても、とあたるは、面堂としのぶがいるはずの、この新春建てたばかりの面堂邸別棟を振り返った。聞くところによると面堂が次期当主として管理を任された別邸らしい。どうせ連れ込み邸にでもしようと考えとるんだろ。あたるは目を細めた。
 しかし、それにしても遅い。面堂家に足を踏み入れたのは確か明け方近かったはずだ。が、太陽は既に真上まで到達し、そろそろ傾いていこうかという頃合いだ。
「いったい、あの二人は何をやっとるんだ?」
 重そうな振り袖を振りかざし宙に浮くラムが、偵察を終えあたるの元に戻って来たので、あたるはすかさず偵察の成果を尋ねた。
「しのぶが行きたくないってダダこねてるっちゃ」
「行きたくない?四人で初詣しようなどと言い出したのはしのぶではないか」
 けろっと答えるラムに、あたるは顔を顰めた。
 大晦日。ミカンの積まれたコタツに手足をつっこみ、紅白歌合戦に興じ、除夜の鐘を耳に年越しそばを啜り、さて新年明けましたね、おめでたう、と挨拶した後はそのままうとうと眠りにつき元日の昼過ぎに目を覚ましたら、大晦日の夜の延長でぬくぬくとコタツの中退屈な正月番組でも眺めていよう、と考えていたあたる。加えて言えば箱根駅伝を見終えるまでは、意思によるコントロールが不可能な生理的な事情以外にあたるをコタツから出す用途は何もない予定だった。
 それなのに、日も昇らぬ朝も早よからラムの電撃で叩き……いや、感電起こされ、「ダーリン、日の出だっちゃ!キレイだっちゃ!」とはしゃぎ喜ぶラムの隣り、日の出まで拝まされ、新年早々見たくもないツラを見に、嫌味ったらしいくらいデカく威圧的な面堂邸くんだりまでやってきたと思えば、面堂の「どうせ諸星、貴様はまともな着物一つ持っておらんのだろう。仕方ない、貴様が身につけたとなると、すぐさま捨てねばならんが、高貴な身分のぼくが、庶民の貴様に施してやる。新年を期して、一日一善というわけだ。まあぼくは常に善行を心がけているし実行しているから、諸星。わざわざ貴様のような下劣な男にまで親切にしてやる必要もないのだが、なにしろぼくは寛大だからな」などという嫌味タラタラを聞き流さねばならず、七五三でもあるまいし、しち面倒な袴(面堂家のひょっとこ家紋入り袴、という代物だけはご遠慮願った。勿論、あたるの意思以前に、面堂終太郎その人が許さなかったのだが)を着させられた。
 あたるがこんな羽目に陥ったのは、混雑を極める元日の明○神宮で、地獄の鬼もかくや、と思われる形相で賽銭箱に詰め寄る群衆を掻き分け掻き分け、参拝しようと、ひっじょ〜〜〜に迷惑な提案をした、しのぶのせいである。まあ、大晦日からずっと四人で、などと言われなかったあたりは感謝しているのだが。しかし、しのぶが『大晦日から四人で』と言わずに『元旦は四人で』と言ったことが、あたるは少々気に掛かっていた。
 大晦日の晩から外出し通しなどという試練に耐える気は毛頭なかったし、ラムからの、大晦日はダーリンと二人っきりで年越ししたいっちゃ、という、あたるにとってみれば試練も試練、究極の嫌がらせだ、という申し出は即座に却下したものの。
(なにかあるな…)
 あたるはジトっと陰険な視線を面堂邸別棟に送った。
「ダーリン、うちらで先に行くっちゃ。終太郎も先に行ってていいって」
 おかしい!絶対におかしい!あの面堂がラムとおれを二人きりにするのを許すばかりか、先に行かせようとするなど!あたるはラムの伝言を聞き、疑いを確信に変えた。
「それよりダーリン。うちの晴れ着姿はどうけ?似合う?」
 ラムは鮮やかな朱色の振り袖を翻し、あたるの目の前で舞ってみせる。ラムに着物姿の如何を問われるのは、これでもう幾度めか知れず、という回数になるのだが、あたるは顔をばさっと打ち覆ってきた袖を振り払うとラムをじいっと眺めた。それこそ食い入るように、真剣な眼差しで。
「な、なに?」
 普段と様子の違うあたるにラムは一瞬戸惑い後退ったが、すぐさまパアっと顔を輝かせ、胸の前で手を組んだ。
「うち、そんなに綺麗け?」
 なかなかにない、あたるが自分に見蕩れる、という感動に、潤んだ瞳でラムはあたるに顔を寄せる。あたるはぐっと後ろに退いた。ラムが眉をひそめる。
「ダーリン?」
「うむ。馬子にも衣装じゃ。ところでラム」
 馬子にも衣装、の言葉の意味がわからないラムは、あたるが褒めてくれた、と子どものように素直に喜んだ。あたるは少しばかり良心に胸が痛んだ。が、今はとりあえずそれは脇に置いておくことにする。
「その着物は面堂んちのだったよな?」
 ラムはこっくりと頷いた。
「なんでも了子のために作らせたそうだっちゃ。でも一度着た着物はもう着ないとか、了子の趣味じゃないとかで、い〜っぱいあったっちゃ。色とりどりの着物が部屋い〜〜〜っぱいに広げられてて、壮観だったっちゃよ」
 部屋いっぱいに広がる着物の海を、ラムは両腕を大きく広げて表す。あたるは顎をしゃくりながら、ふんふんと聞く。
「うちもしのぶも選び放題だったっちゃ!でもうち、着物の選び方とか着方がよくわからないから、了子としのぶが選んで着付けてくれたっちゃ」
 ダーリンが褒めてくれるなんて、了子としのぶに感謝だっちゃ、と嬉しそうにくるくると回り、振り袖を見せびらかすラム。溌剌と艶やかで豪奢な着物はラムの魅力をいっぱいに引き出し、太陽の光のもと、くるくるとあどけない笑顔で舞うラムは素晴らしく魅力的だった。了子としのぶの選択眼は確かだったと言えよう。しかしあたるはそんなラムにはさほど関心なさそうに、事務的な口調で尋ねた。
「面堂はおまえの着物姿を褒めたか?」
 ラムはあたるの質問にう〜ん、と首を傾げると「そういえば言われてないっちゃ」と答えた。あたるはやはり!とますます強まる黒い陰謀の影に胸を高鳴らせた。
「でもダーリンが褒めてくれれば、終太郎に褒められなくってもどうでもいいっちゃ!」
 もしかしてダーリン、妬いてくれてるのけ?にこにこ笑うラムに、あたるは淡々と質問を重ねた。
「しのぶはどうだった?」
 ラムは途端に不機嫌な顔をする。パリパリと不穏な静電気がラムの身を包んでいる。
「しのぶのことが気になるのけ?」
 ここでラムの機嫌を損なってはならぬ、とばかりにあたるは即座に否定した。
「そうではない。早とちりするな」
「じゃあなんで、そんなこと聞くのけ」眉を吊り上げたまま、ラムは問う。「それにしのぶがどうだったって、なにが『どう』なのけ」
 ラムは身を纏う静電気を解除しないまま、緊張をほんの少し解いた。
「いや、面堂がしのぶの着物姿を褒めたかどうかということじゃ」
 ラムは即座に「褒めてないっちゃ」と断言する。あたるはチっと舌打ちした。
「終太郎が褒めるわけないっちゃ。だってしのぶは…」
 ラムはぶつくさと文句を言いかけてはっと止まった。あたるは神妙な顔をしてラムの言い分を聞いていたのだが、ラムが話途中に顔を上げたので「どうした?」と尋ね、先を促した。ラムがあたるをじい〜っと見つめる。
「なんでそんなこと聞くのけ?終太郎としのぶがどうかしたっちゃ?」
 ラムは目をキラキラと輝かせ、「うち、もしかしたらいいこと知ってるっちゃよ」と言う。
「よくやった!」
 あたるはパチンといい音で指を鳴らし、来い来い、とラムを手招きした。ラムはふよふよとあたるの側に近寄る。
「実はな…」
 あたるは意味深長に片眉をあげ、声のトーンを落とした。ラムはあたるの小声を聞き取ろうとぐぐっと身を寄せる。









「わっ!」


 なんの疑いなく近寄ってきたラムの耳元、大声で叫ぶと、あたるははっと我に返った。ラムはキーンと鳴る耳を押さえながらも、ふるふると怒りに震え、青白い閃光を爆発させんとしている。
「……ダーリン」
「いや待て!ラム!今のはちょっとした悪戯心で…」
 わたわたとラムの怒りを静めようとするあたるに、ラムは容赦しなかった。
「ダーリンのぶわあああかああああ〜〜〜〜っ!!」
 ぴっしゃーん!
 面堂家の裏庭に、一筋の蒼い稲妻が走った。誠に縁起の良い、美しい初物の雷であった。

◆ ◆ ◆


「ラムさん達には先に行っていただきました」
 面堂はコホン、と空咳をすると、さてどうしたものか、と思案した。莫大な金額を賽銭に、今年こそは水乃小路家に、否、トンちゃんに勝たん、と父親に頼み込むまでの意気込みではあったものの、依然として意地を張る少女を目の前に、なんだかバカらしくなってきた。
 ぼくも丸くなったものだな。面堂は己を軽く叱責しながら、一方でどこか妙な満足感のようなものを感じていた。もちろん、その理由はわかっている。しのぶは淡い水色と薄紅色がグラデーションになった、可憐な振り袖に、その小さな身を包んでいた。
 よし、ぼくも男だ。面堂はぐっと目を瞑ると、心を決めた。
 しのぶは涙の滲んだ真っ赤な目元を隠すためにすっかり俯き、顔を上げられないでいた。
 面堂がラムに「お二人で先に向かっていてください。都合がつきましたら、ぼく達も後から向かいますから」と小声で伝言するのを、しのぶはこっそり、耳をそばだてて聞いていたから、あえて面堂に言われずとも知っていた。
 面堂がラムとあたるを二人きりで先に行かせた、という事実が、しのぶのしょげかえった心をだいぶ暖かくしたのだったが、しのぶは未だ、いじける卑屈な思いを払拭できずにいた。ラムが面堂の前をちらつかないでくれるのは救いだったが、だからといって、ラムの艶やかな晴れ着姿が、面堂の脳裏から消えたとは思えない。
 抜群のプロポーションで健康的な色気を振りまくラムは、その恵まれた容姿によって、どんな服装でも着こなしてみせたが、しっとりと落ち着いた着物も存外よく似合った。あの着物の方がラムの朗らかさを表してる、だの、こっちの着物の方がラムの色気を引き立ててくれる、だの、了子と共にラムに似合う着物を選ぶのは楽しかった。これぞ、という一着が決まり、着付けてみて、思った以上に美しく様になった着物姿のラムに、しのぶは心から喜んだ。そのときは。
 あたしってお人好しだわ、としのぶは悔いた。
「えーと、その。ははは…。いやあ、二人きりになっちゃいました…ねえ…?」
「………」
 面堂はだんまりを決め込んだしのぶを見下ろし、生唾を飲み込んだ。
「その…しのぶさん?」
 面堂は明後日の方向に視線を投げ、ごほごほと空咳を繰り返す。ごくり、と大きくもう一度生唾を飲み込むと、面堂は口を開いた。
「あの…。着てくださった…んですね、その着物」
 インケン!しのぶはぎゅっと唇を噛んだ。大声で泣きたかった。泣きわめいてグズって、陰湿で残酷な仕打ちをした面堂に復讐してやりたい、と思った。でもそうすることで、これ以上面堂に嫌われてしまうのはいやだ、と思った。惨めで情けなかった。
 あたしが泣こうが泣くまいが、面堂くんはあたしのことなんか、なんとも思ってないのに。それでも面堂のちっぽけな憐れみが施されるのを期待する、浅ましい恋心が心底情けなくて仕方なかった。
 面堂が口を開く、その空気をひゅっと吸い込む音がしのぶの耳に届いた。しのぶは耳を覆いたかった。
「え、えっと…。お、お似合いですよ」
 言った!言ったぞ!面堂は達成感に心打ち震えた。よくぞ言った、面堂終太郎!やはりお前はやればできる男だ!
 面堂は己を存分に讃える。面堂の脳内では、カラーンコローンと祝福の鐘が鳴り響き、不細工な天使が籠から花弁をまき散らしたり、ファンファーレを鳴らしていたりする。
 面堂の脳内は早くもお祭り騒ぎで、目を閉じ、じいぃ〜〜んんんと浸っていた彼は、目の前で起きている実際の現象を捉え損なっていた。
「……やめてよ」
「えっ?」
 絞り出すような声。しのぶの声は低く、震えている。面堂は驚いてしのぶを見た。しのぶは小刻みに肩を震わせていた。
「やめてよっ!わざとらしいお世辞なんかっ!わかってるもの!あたし……っ!」
 しのぶは感情が爆発するのを、もう止められなかった。見上げると面堂が目を丸くしてしのぶを見下ろしている。しのぶは強く面堂を睨め上げた。
「ど、どうしたんですか?」
 面堂は狼狽えてしのぶの肩に手を置く。その面堂の大きな掌から伝わる温もりにほだされそうになり、一方ではラムと了子からの…いや、了子の台詞が騙されてはいけない、としのぶの胸を刺す。浅ましく両極に揺れ動く心。
 もういやだ!しのぶは面堂の胸を力の限り思い切り、どすこーい!と叩いた。途端、面堂は廊下の向こう彼方へと勢いよくすっ飛んでいく。しのぶ自身忘れていたが、というより考えないようにしていたのだが、しのぶは少しばかり普通の女の子より力があったのである。
「ちょ、ちょっと面堂くん?大丈夫?」
 慌てて面堂の元に駆け寄ると、面堂は目を回して意識を失っていた。もしかしたら肋骨やら腕や足の骨やらが折れているのかもしれない、という奇妙な体勢で倒れている。
 このまま面堂を放って出ていこうかという考えがしのぶの脳裏をよぎる。どうせここは面堂の住まう家。帰りがけ、家の人に面堂が廊下で倒れていることを伝えれば、すぐさま誰か介抱に向かうだろう。いや、もしかすればあのテキトーなサングラス部隊のこと、しばらくはうち捨てられたままかもしれない。だが面堂の驚異的な回復力を考えれば、たいして心配はないだろう。へんなところを打ったかもしれない、などという心配は、これまでの面堂の遭遇してきた災難によって、ほとんど必要ないことになっている。
 でも、と間抜けな顔で仰向けになっている面堂を一瞥し、しのぶは躊躇う。
 でも、面堂くんをこんな目に遭わせたのはあたしなのよね…。
 はああっとしのぶは大きく溜息をつくと、巾着の中に入れておいたハンカチを取り出した。軽く見渡し水場を見つけると、よいしょ、と腰を上げた。
「あーあ。あたしってつくづくお人好しなんだわ…」
 独りごちて水場へと足を向けるしのぶの背を、面堂は薄目を開けて見送った。なにがなんだか、面堂にはさっぱりわからなかった。
(しのぶさんは一体どうしたんだ?)
 着物姿を褒めて殴られるとは、女心は難しい。面堂は遠のいていくしのぶの後ろ姿に首を捻った。すると激痛が脳天を突き抜けると共にゴリっと首の骨が嫌な音を立て、元の位置に修復された。
「うぐっ…」
 唸る面堂の耳元、廊下の床が激しく揺れ、振動するのが感じられた。身体のあちこちに痛みが走る状況で、ばたばたと慌ただしい物音は非常にこたえる。しかしそれ以上にこたえるのは…。
「まあ!おにいさま!」
 また一つ災難が。面堂は背筋に冷や汗が伝うのを感じた。だいたいなぜ了子がこの別棟にいるのか、面堂には量りかねた。ここはわざわざ新年に間に合うよう(主にすけべえな目的で)作らせた、面堂家次期当主、面堂終太郎の持ち低である。ラムに着物を貸すのに、了子の衣装庫を無断で拝借したものの、了子付きで借りたわけではない。
「いかがなさったのですか!おにいさま!こんな廊下で生き倒れているなんて…」
 この悪魔め!面堂は声にならぬ罵声を妹に向けた。兄の身を労ってヨヨヨとしおらしく泣き崩れる了子ではあったが、その了子が膝をついているところといえば、満身創痍の面堂の腹上である。
「ああ、おにいさま!おいたわしや!でもおにいさまが悪いんですのよ!」
「なぜ、ぼくが悪い!」
 聞き捨てならん、と勢いよくガバっと起き上がると、面堂の体中の骨がバキバキボキボキ、素晴らしい音色を奏でた。
「うぎぎぎ」
「ああ!なんと痛ましいお姿!」
 見ていられません!了子は着物の裾で涙を拭きつつ、黒子に命じて面堂を壁に張り付けにした。その際、面堂のねじ曲がった手足の骨を『荒々しく』元に戻してやる親切を忘れぬよう、了子は黒子にしっかり言づけた。面堂は世にも恐ろしい悲鳴を上げた。
「離せ!了子!だいたい、なぜおまえがここにいる!」
「まあひどい。血を分けるおにいさまに、日頃の感謝と共に、新年改めてご挨拶にうかがって参りましたのに」
 白々と面堂を責める了子は、黒子に用意させた墨汁と筆を手にし、面堂の顔へ近づける。面堂は近付いてくる恐怖の筆から、思い切り顔を逸らした。筆先がぴっと面堂の、日本人にしてはわりと高い鼻先をかすめ、鼻のてっぺんが間抜けに黒く染まった。
「それが感謝しとる態度か!」
 ぐぐぐ、と力の限りよじった面堂の顔に、了子はなんの問題もなく筆を近づけ、頬に『インケン』と見事に達筆な筆運びで記した。
「だっておにいさま。おにいさまったらで(わたくし)に内緒で衣装庫を盗っていかれるのですもの。私てっきり、強盗に入られたのかと恐ろしくて恐ろしくて…」
 面堂はギクリと身を固まらせた。
「そ、それはおかしいな。ぼかー確かにおまえ直属の黒子に伝言を頼んだはずなのだが…」
 はっはっは…、と冷や汗を垂らし空笑いする兄を、了子は完全に無視して話を進めた。
「あまりに恐ろしいので、間抜けな痕跡を残したサングラス部隊のあとをつけさせ、」
「最初からわかっとるんじゃないか!」
 わめく面堂のもう片頬に、了子は『フケツ』と、またもや達筆に書き記した。
「おにいさまの腹黒い企みを暴こうと潜んでいたのです」
 了子はふう、と溜息をつくと、墨汁に硯、筆等々を黒子に片づけさせた。
「企みもなにも、そんなものはない!黙って借りる形になってしまったことは、あー…そのだな、遺憾に思うが、しかし!ラムさんに着物を貸してさしあげるためだ!他に他意はない!」
「なんですって!」
 了子は大打撃を受けたように、大袈裟によろよろと崩れた。面堂はふん、と鼻を鳴らした。
「おにいさまなんて…おにいさまなんてっ…!」
 女の敵よ〜〜〜〜〜〜〜!!特大木槌で面堂の脳天をかち割ると、了子はむせび泣きながらその場を走り去った。
「な、なにが女の敵…がくり」
 了子の捨て台詞の意味を量りかねた面堂は、くらくらと歪む視界の中、ぐわ〜ん、ぐわ〜ん、と重く、頭で鳴り響く鐘の音に、昨晩耳にした除夜の鐘の音を思い出していた。煩悩をそぎ落とし、心身清らかなりて新年を迎えん、とする除夜の鐘ではあったが、常日頃、諸星あたると競るほどの煩悩の持ち主、面堂終太郎にとって、昨晩ほど、煩悩のいや増した日はない、と断言できるものであった。
 それもそのはず。昨晩は家族を始めとする親族に本社の重役達、傘下やら系列やら、はたまた懇意の企業やらの重役達等々の集う、大規模なパーティーではなく、彼が初めて極々個人的に迎える、こじんまりとした、それも異性とたった二人きりで迎えた年明けであった。
 ひとつ、ふたつ、と打ち鳴らされる除夜の鐘に、神聖な心持ちで静かに耳を澄まし、心洗われてゆくしのぶとは対称的に、面堂の心は、ところ狭しと煩悩がいや増してゆく。そしてその増しゆく煩悩の強さは、ひどい女好きの面堂にしても類を見ないものであり、また類を見ないほど非常に限局され、その分濃縮されたようでもあった。
「うむ…。その、なんだな。しかし、うむ」
 意味のない繰り言をむにゃむにゃと口ごもり、顔を赤らめたかと思うと、面堂はゴホン、と空咳をした。
「それにしてもあの了子が、たったこれだけの嫌がらせでよしとしたことには感謝せねばなるまいな!」
 くるり、と後ろを振り返り、面堂は倒れていた元の場所へと腕を組み、目を閉じながら歩いて戻る。
「そろそろしのぶさんも戻って来られる頃だし…」
 よいしょ、と面堂は寝そべろうと身体を倒した。



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