照明はチープなオレンジ色。
ガチャガチャとグラスや食器の鳴る音に、一気コール、口笛、サラリーマンの唸り声、OLのヒステリックな愚痴。声を張らなければ真向かいの席にも、声が届かない喧噪。
甘く生ぬるい酒の臭気に、安っぽい使い古された油の匂いはどろっと重く、窓のない地下店内の空気は停滞している。
げ、元気みてえだな、と蚊の鳴くような声で答える竜之介に、しのぶは、あ〜らそう、そりゃまたよかったわ、と返した。
「そりゃそーよねえ。元気に決まってるわ。なんたって九人ですからね、九人」
ネチネチと恐ろしいしのぶの嫌味から、竜之介を救ってやらねばとは思うものの、あたるもラムも面堂も、さすがに九人の子供を生んだという話には、興味をそそられないわけにはいかなかった。
“あの”竜之介と渚である。いったいなにがどうして、そうなったのか、まずその馴れ初めからして好奇心が疼いてしまう。これまでそういった話は、竜之介にも渚にも、はぐらかされていたのだ。
残る三人は、竜之介に気の毒そうな視線を向けはするものの、しのぶが竜之介に問いただすのを、わくわくしながら見守っていた。
「しのぶさん」
場違いに清潔な男の声。穏やかで控えめな声が、しのぶ達の陣取るテーブルに届いた。
眼の縁赤く、淡いグレーの滲んだ瞼を半目に。口の片端を吊り上げ、竜之介に微笑みかけていたしのぶは、はっと目を見開いた。
声の主へと五人いっせいに振り向くと、ウサギの着ぐるみに身を包んだ、異様な姿がざわざわと周囲の視線とを買っていた。
「おお!因幡ではないか」
久しぶりだなあ、相変わらずろくでもない未来でも作っとるのか、おれのハーレムはどうなっとる、とあたるが笑いかけると、因幡は苦笑いを浮かべて、クビになりました、と言った。
「クビ?おまえ、何かしたのけ」
あんなちゃらんぽらんな職場、他ではなかなかお目にかかれないっちゃよ、とラムは目を丸くした。
驚いた声をあげるラムの隣りで、あたるはなるほど、と頷いた。
因幡のやつは、昔からどーにも鈍くさかった。時空オンチだったというのもいただけんな。凡ミスを許容範囲を超えて繰り返しすぎたのではなかろーか。しかしラムの言うとおりだとすれば、可哀想に、因幡のやつは再就職の望みは薄かろう…。
「ええ。しのぶさんの未来。こっそり作りかえちゃったんです」
それがバレちゃいまして、と因幡は嬉しそうに笑った。
嫉妬に憎悪、嫌悪や憤怒、絶望の後の自嘲に虚脱感。因幡の顔には、それまで長年抱き苦しんできたであろう、そういった負の翳りの一切が窺われない。さっぱりとすがすがしかった。
「でも後悔してません」
ああそうかい。あたるは面白くなさそうにぼやいた。
そら、そんなマヌケな顔して頭に花を咲かせて笑っとる男が、後悔なんぞしとるわけがなかろう。
そう毒づきながら、あたるはぬるく間の抜けたビールを口に運ぶ。ジョッキから漏れたビールが一筋、唇から伝うのを、グイと手の甲で拭い、思わず緩んだ口元を隠した。
「当然よ。後悔なんかしてたら、ぶっ飛ばしてやるんだから」
勝手にこっちの未来を変えといて、としのぶは腰に手をあて、因幡を睨んだ。
高校時代、あたると対峙するときに見えた、瑞々しい可憐な素顔が、因幡を据えるしのぶの目に覗くのを、面堂は気がついた。
穏やかで憐れみ深くて、淡い哀しみと憂いを帯びた目。昔、面堂の前に立つしのぶは、そんな目をしていた。
大勢の前では威勢のいい台詞を途切れなく発する口が、面堂の前では、微笑むばかりだったことを思い出す。
「因幡さんのおかげで、あたしはフラれちゃったんですからね!それも、竜之介くんのときとおんなじよーに、男にとられちゃって!」
しのぶが少しだけ傷ついた顔をする。
それはそうだ。恋人と別れて、しのぶはもちろんとても傷ついて、とても悲しんでいる。
ぐでんぐでんに酔っぱらったように振る舞い、醜態を晒してみせているのは、あながち道化のみとは言えない。とはいえ、チクチクどころか、ズブズブの嫌味は、勘弁してほしかったが。
因幡の色素のないアルビノの、穏やかな赤い目が、初めて、鋭く光ったように竜之介は感じた。
しのぶの別れた恋人が、自分と似ていたということは知らなかったが、しのぶがどれほど、その女を大事に思っていたのか、竜之介は知っていた。
いつの日だったか、渚がしのぶに電話をかけた日。そのときのしのぶの口振りを渚から聞いたことがあった。
「でも、これからはぼくがいます。しのぶさん」
他の人達と違って、ぼくはずっとずっとずっと!しのぶさんだけです、と因幡はしのぶの肩に手を置いた。
「まあそうね」
しのぶは肩の上に置かれたぬいぐるみのモコモコした手に、自分の手を重ねる。
「しっかし、せっかくクビになったというのに、なぜそんな暑苦しいぬいぐるみを着とるのだ」
あたるの疑問に、因幡としのぶを除く皆が、そうだそうだ、と頷いた。
因幡は困った顔をしてしのぶをチラリと見る。しのぶは愚問だとばかりにテーブルにつく友人達を見た。
「ウサギだからこそ、因幡さんなんじゃない」
当然、とばかりに胸を反らすしのぶに、誰も彼もが疑わしげな視線を向けた。
昔、因幡の非常識な装いにぼやいていたのは、しのぶに他ならない。
因幡が照れくさそうに笑うのを、あたる達は見咎め、それからしのぶに視線を戻した。
しのぶはぐっと一瞬詰まると、諦めたように溜息をついた。
「…それに、これから大事な旦那サマになる人に、どっか馬の骨とも知れないアバズレに、岡惚れされちゃーたまんないわっ」
そっちが本音か、と思いつく間もなく、あたる、ラム、面堂、竜之介の四人は叫んだ。
「「「「旦那様っ!?」」」」
驚愕の表情を浮かべる友人達に、しのぶはしれっと言い放った。
「あら。た〜いせつな話があるから、絶対今日欠席なんかするんじゃないわよ、って言ったわわよね?あたし」
しのぶは、そうよね?とツヤツヤとした唇に人差し指を当て、小首を傾げた。
ああ聞いたとも。聞きましたとも。ドスの聞いた声で、半ば脅しのように三宅しのぶさんは言いましたとも。
そして居酒屋で席につくやいなや、大量の酒と大量のつまみを他の誰の意見を伺うでもなく、勝手にじゃんじゃんと注文し続け、息つく暇もないほどの怒濤の愚痴が展開されたんじゃ、あーりませんか。
「ぼくはてっきり…その…」
いつもはピシっパリっと着こなしている、高級ブランドのジャケットを肩からずらし、面堂はボソボソと口ごもった。
「あ、ああ…。おれもてっきり、その、なんてえんだ。フラれた腹いせを…、むぐっ!」
呆然とした顔で、誰もが心に浮かべていたことを正直に声に出した竜之介を、あたる、ラム、面堂がとっさに羽交い締めにした。
「い、いや!なんだな!よかったな!しのぶ!おめでとう!!」
「心からお慶び申し上げますだっちゃ!」
「そうそう!しのぶさんのお幸せ、これほど喜ばしいことはないですよ!」
慌てて祝辞をたたみかける三人に、しのぶは胡散臭そうな視線を向けるも、すぐにニッコリと笑った。
「みんなそう言ってくれると思ったわ。ありがとう。ところで祝ってくれるってことは、もちろん、この場はみなさんの傲りよね。まあ嬉しい。ありがとう」
しのぶは両手を合わせてしなをつくり、ニコニコと笑った。
四人はひきつりながら、テーブルにまだ残っているグラスや皿を見た。店員が下げた分は、これの倍以上。そしてそのほとんどを平らげたのは、しのぶ。
あたる、ラム、竜之介は、しかし、まあいいか、と内心つぶやいた。どうせ面堂財閥の当主がここにいることだし…。
三人が面堂に視線を向けると、面堂はすぐさまそれに気がつき、途端にビクリと肩をあげた。顔色はしのぶに嫌味でつつかれていたとき同様、真っ青で切羽詰まっている。
(ちょ、ちょっと、みなさん、何考えてるんですか!ぼくは、ぼくはですねえ。財布のヒモを女房に握られてるんです!自由になる金なんてこれっぽっちもないんですっ!)
ボソボソと小声で訴える面堂に、三人はだからといって、素直に頷かなかった。頭を低くして、激しい口論が飛び交う。
実のところ、あたるだけは同じく妻に尻に敷かれる者として、少しばかり、面堂に同情していたのだが。
(そんなこと言われたって、うちの家計は火の車だっちゃ!ダーリンの稼ぎが少ないから、うちらは貧乏だっちゃ!うちらは、ずうえええええったい、そんなお金、出せないっちゃ!)
あたるはラムの怨念のこもった反論に、小さくなった。
(おめえらのとこなんか、まだいいぜ!ラム、おめえだってパートに出てるじゃねえか。捻り出せねえってことはねえだろう!うちは絶対に無理だ!育ちざかりのガキが九人いるんだぜ!それも渚は元幽霊だから、鬼籍はあっても戸籍はねえし、マトモな職なんかつけねえから、稼ぎだってねえしよ!)
それもそうだ、と頷く男性陣に、ラムはキっと目を吊り上げた。
(そんなの、竜之介と渚が計画性もなくボコボコ子供をつくるからだっちゃ!しのぶの言う通りだっちゃ!年がら年中、なに考えてるのけ、九人も!猫の子じゃあるまいし!ヒトならヒトらしく、理性で考えるべきだっちゃ!)
竜之介が顔を真っ赤にして押し黙ると、ラムは、
(とにかくっ!そんなのはうちには関係ないっちゃ!うちはうちで、大変なんだっちゃ!財布を逆さに振っても、ビタ一文ないっちゃよ!)
キイキイと、下世話な反論をする妻に、あたるはそれこそ、情けなくていたたまれなかった。
金がない。
それはなんと悲しいことだろう。金がないということは、ここまで人を貶めるものなのか。
ぴゅうっと風に吹かれ、あたるが涙を流すと、面堂があたるの肩を叩いた。ポンポンと。
(諸星…きさまの気持ちは、よおおおおおく、わかるぞ)
ふっと自嘲気味に笑うと、面堂は哀愁を肩に背負って目を閉じた。
(金がないということが、こんなに惨めだとは………。面堂家に生まれてこのかた、味わったことがなかったというのに)
あたるは、そんな面堂をじっと眺めたかと思うと、面堂の手をがっしりと握った。
な、なんだ?と慌てる面堂を、あたるはキラキラとつぶらな目で見つめた。
「そうかっ!面堂!払ってくれるか!!!!」
大声を張り上げるあたるに、面堂は「わーわーわー!何を言い出す、きさま!」と怒鳴り返した。
「そおか、そおか。いいやつだなあ、おまえって!」
わっはっはっ、と笑うあたるに、ラム、竜之介はもちろん、しのぶと因幡の目も面堂に注がれた。
「いやあ、金が唸るほどあって、使っても使っても使い切れないって?みなさんが喜んでくれるなら、こんなはした金、喜んでぼくは、差し出しますって?そおかそおか。いやあ、いいなあ、やっぱり。金持ちってのは!」
面堂はぶるぶると震えて、快活に笑うあたるの首を絞めた。
「き・さ・まああああああ〜〜〜〜!なにを言い出すかあああああああああっ!」
あたるはカラカラと笑い声をあげながらもランランと光る目で、額に汗を流し、己の首を締め上げる面堂の首を締め返した。
「まああああ!そうだったわね!面堂くんがいたんだったわ!」
よかったわ!ね、因幡さん。
きゃっきゃっと喜びの声をあげるしのぶに、面堂とあたるは、はたと我に返った。
しのぶは困惑気味の、しかし嬉しそうな因幡の手を取り、はしゃいでいる。
「ほら、因幡さん、お仕事クビになっちゃったじゃない?だから、お式の費用がねえ。どうしようかしらって思ってたの。このまんまじゃ、あんまり豪華にできないわねえって」
因幡が申し訳なさそうに微笑んで、面堂を見る。面堂の背中を冷や汗が伝う。脇の下はイヤな汗でぐっしょりだ。
「でもよかった!!面堂くんがいるんですもの。ね?」
しのぶは手を叩いて喜んでいる。
なにが、「ね?」なんだ、と面堂は思った。面堂の脳裏に、瞳にお星様のきらめく、愛妻の顔が通り過ぎていく。
「面堂くん、あたし達のこと、喜んでくれるって言ったわよね?ああよかった!これから式場のこととか、いろいろと話し合いましょうね。とりあえず、数点、希望の式場やドレスなんかはピックアップしてあるの。そんなに長いこと、時間はかからないから。ええと、それじゃあ、いつが都合がいいかしらね…」
ペラペラとまくしたてるしのぶに、面堂は完全に凍った。
しのぶはエルメスのケリーバッグから、エルメスのクシュベルの手帳を出し、ペラペラとめくる。
式の費用が足りないのは、そんなブランドものを身分不相応に身につけてるからだ!と面堂は思った。
地味な庶民がバカみたいにブランド品をひっさげるんじゃない!だいたい、いい年こいて、豪華な結婚式なんてする必要がどこにある!!恥ずかしくないのか!それともなにか?ドレスをとっかえひっかえ、アホみたいに着せ替え人形になるつもりか?あああああ。もしかして、胸元がばば〜んと開いたドレスでも着るつもりか?やめろっ、やめておけ!
「この日は仕事があるからダメねえ……この日は?面堂くん……あっそうか。この日は因幡さんとデートだったっけ………ああでもまあいいわよね?因幡さん………」
久しぶりの二人っきりでのデートだったものが、面堂夫婦と共に、結婚式に関する計画を練ろうと予定の変更されるのを、因幡は後ろ髪ひかれながら、はい、と答えた。
因幡がちらりと見やると、面堂は魂が抜けたように、生ける屍になってしまっている。ほんの少し、申し訳なく思いながらも、因幡はそんな面堂を無視することにした。
しょせん面堂は因幡にとって、にっくき、しのぶの過去の男である。それに、恐妻がどうだろうと、金がないわけではないのだ。あたるの言う通り、唸るほどあるには、ある。
貧乏な新婚夫婦のための、僅かばかり早めの祝儀だと思えば、大した罪悪感も沸いてこない。
「というわけで。それじゃ、みなさん。お式で会いましょう。ごきげんよう」
しのぶはキンピカの万年筆(モンブランのパトロンシリーズ限定品、ローマ教皇 ユリウス2世の、きんきらきんの例のアレ)を取り出し、勝手に決めた日付欄に、「面堂夫婦と式場探し」とロイヤルブルーのインクで記すと、しのぶはパタンと手帳を閉じ、足取り軽やかに去っていった。
因幡はペコリと頭を下げると、そのまましのぶの後についていく。
こぼれた酒とつまみでベトベトのテーブルには、飲みかけのグラスやジョッキ、食べかけのつまみの載った皿が、無惨に残されている。
残された四人は、さよならを言うことができなかった。固まってしまっていたのだ。
「ぬわああああああああにが、『我が儘が言えなくて…』じゃっっっ!」
ようやく、我に返ったあたるが、散々、好き放題言いやがって!と呻いた。
「ええ…。ぼくも昔のことをネタに、随分、いろいろと…。その…」
その台詞の続きを、残りの三人は、なんとはなしに汲み取ることができた。
面堂に少しばかりの、ちょっとした罪が、しのぶに対してあるにしろ――とは言え、それは罪とは呼べない、青春時代のありがちな過ちであるのだが――面堂の妻の、あの、人間離れした剛力を思い出せば、しのぶの暴露に戦々恐々としているだろう面堂を、あたるにラム、竜之介は、気の毒に思った。
おそらく、今度の結婚式のことも、そんなふうに事が進められるのだろう。面堂がどれほど抵抗したところで。
「ああ…これからしばらく、小遣いなしだ………いや、それだけで済めばいいが済むわけがない……ああ!なんて言い訳したらいいんだ……!」
竜之介が頭を抱える面堂に、同情の視線を向けると、面堂はパっと顔をあげた。
「せっせめてっ!この席は他のだれ…!」
「それによ。なんだかんだ言って、因幡の野郎がいるんじゃねえか」
竜之介はぐいっと面堂の哀願から目をそらし、強引に話を遮った。
面堂はがっくりと項垂れたが、竜之介の言葉に、あたると共に深く頷いた。
(いいのか本当に!その女でいいのか!?因幡よ!)
陽気な足取りで出ていくしのぶの後ろ姿を、あたる、ラム、面堂、竜之介の四人は、見送った。
顔を真っ赤にし、この世の幸せ全てを満喫しているかのように笑う因幡の腕に、しのぶは艶めかしく腕を絡ませ、こちらもまた幸せそうに笑っている。
「結局、誰が不幸だっちゃ?」
ラムの疲れた、しかし他の者に比べればだいぶ呑気な声に、三人は答える気力もなかった。
そして夜は更けてゆく…
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