「しのぶさん、さようなら」
 因幡はにへらっと笑って「おそ〜い!はやく〜!」と呼ぶミミの元へ急ぐ。
「もお〜なにやってんのよっ!仕事遅れるわよっ!あんな気色悪い人形、どーでもいいでしょうっ。因幡クンってばまだ人形遊びが好きなわけえ?名前までつけちゃってさあ。ガッキねえ」
「ごめんごめん。ミミさんには心配かけちゃって。でもあの人形は…う〜ん。なんでだったかはわからないんだけど、大事だったような気がするんです。でもこの年で男が人形遊びはないですよね」
 ぷりぷりと怒るミミに、因幡は生来の低姿勢で謝った。
 なにしろ一ヶ月も病気で仕事を休んでしまって、その穴を埋めてくれたのが新人のミミだったのだ。
 本当なら因幡が先輩としてミミの指導にあたるはずだったのだが、丁度タイミング悪く因幡がダウンしてしまい、因幡の仕事まで新人のミミがするはめになり、そのうえ私生活でも頼りになりっぱなしだった。

 ミミは勤務初日の夕方、因幡の元にお見舞いに現れた。因幡は世話焼きで意外と気の利くミミに、そのままずるずると世話になってしまった。そしてまたずるずると恋人のような関係になってしまった。
 因幡には恋というものが未だよくわからなかったが、懐いてくる後輩を可愛いと思ったし、大胆で積極的な露骨なアプローチも嫌ではなかった。
 小生意気ながらも元気で明るくて口は悪いが正直者のミミ。ドジばっかりで抜けているとバカにされることも多い、男としての自信が今ひとつ持てない因幡には、ミミの強引な愛情が嬉しかった。
 小悪魔的なミミにせがまれて振り回されて、病気で仕事を休んでいるというのに、熱のひかぬ体にムチうってセックスするのも、疲れはするものの、因幡とて男として満足していた。体の相性もよかった。
 これだ、というほどの”愛”の実感はあまりなかったけれど、ミミといると楽しかった。それが恋なんだろうと思った。
 たぶん愛っていうのは、そのうちゆっくりと築かれていくものなんだろう。そのうちミミを独占したくなったりするんだろう。この情けない自分が、自分より遙かに逞しいミミを守ってやりたいとか思うようになるんだろう。

 ミミはぷうっと頬を膨らませ、唇を尖らせた。
「ふ〜んだ。因幡クンはあたしより、あの不っ気味イーなお人形の方が好きなんだ?そんならあのゴミとえっちしてればいいじゃないっ!あたしよりいいかもよっ!?」
 因幡は苦笑した。
 ミミはなぜだか、因幡の不気味な人形の”しのぶさん”をライバル視している。憎んでいると言ってもいい。
 ミミは”しのぶさん”を憎悪の目で睨み、セックスするときは必ず、”しのぶさん”に見せつけるかのように、”しのぶさん”の目の前でしようとした。
 最初はそれを断った因幡だが――なぜだか不思議な罪悪感に胸が詰まり、吐き気を催したので――ミミが泣いて暴れ回り、そうしないともう二度とセックスしない、と駄々をこねたため、因幡は渋々、幼い頃からの話し相手だった人形の”しのぶさん”のすぐ目の前でミミを抱いた。
 ”しのぶさん”の前でセックスするとミミがよく鳴くので、そのうちセックスは”しのぶさん”の前で、が決まりになった。
「いくらなんでも人形となんてできないですよ」
 因幡が笑うと、ミミは真っ赤な唇をニヤっと吊り上げた。因幡の腕に自らの腕を絡ませる。
「もお〜。もっとあたしのこと大事にしてよ?因幡クンにはあたししかいないんだかんねっ」
 因幡はミミの言葉に顔を曇らせた。
「寮生活、うまくいくでしょうか…」
 住み慣れた我が家を去り、因幡は運命製造管理局の寮へ入る。
 今までこれほど遠い辺境の地から職場に通っていたこと自体が考えれば不思議なのだが、いざ引っ越しとなると、なんとなく不安だ。
 ミミが因幡の胸をばしっと叩く。
「だいじょーぶだいじょーぶ。なんかあったら、あたしが男子寮に侵入してったげるから。因幡クンはミミちゃんの夜這いを待ってればいーのよ」
 カラカラと笑うミミに、因幡は「そーですね」とにへらっと笑った。
 ミミは因幡に気づかれぬようこっそり、小さな箱のように遠くなった廃屋を振り返った。そして唇を吊り上げつぶやく。
「…ごめんねえ。やっぱり返してやれないわ。気に入っちゃったんだもん」
 ミミの言葉を聞き取れなかった因幡が「なんですか?」と尋ねる。ミミは満面の笑みで「なーんでもないっ!ねっ、因幡クン。一生あたしのこと、大事にしてね」と言った。
 ミミはぎゅうっと因幡の腕を抱き、大きな胸を押しつける。因幡は少し顔を赤くして「はい」と頷いた。



 因幡とミミの去った廃屋では、苔でびっしりと覆われた人間大の置物が残されていた。
 一ヶ月放置されたことにより分厚く岩のように角化した黄緑色の皮膜。その下から微かにすすり泣くような声が聞こえた。忘れ去られた廃墟に立つ銅像のように、しのぶは立っていた。

* * * *


 運命製造管理局、三階。喫煙所はここにしかない。先輩ウサギ達がモクモクと煙を吐くのをゲホッゲホッとむせながら、因幡は休憩所にある紅茶専門の自動販売機にコインを入れる。
 紅茶専門の自動販売機は三階の休憩所にしかなくなってしまった。コーヒー専門の自動販売機がその場を次々と奪ってしまったのだ。最近、ウサギ達の間でもコーヒー派が紅茶派を飲み込む勢いにある。五年前、スターバッ○スコーヒーが三次元人達の間でブームになったのに少し遅れて、亜空間でもブームとなったが最大の原因だろう。
 アールグレイを選び、もこもこのぬいぐるみの手でボタンを押す。じょーっと紙コップに紅茶が注がれきるのを待って取り出す。
 因幡はニッコリといい気分でアールグレイの優雅な香りを楽しみながら啜る。休憩所を出て、先輩ウサギの吐き出す紫煙も遠くなる。
 今日はなんのミスもしていない。午前の課題であった地球北半球における五十パターンの未来像のドアノブを作り終えたところだ。午後はあと残り五十パターン。それから先輩から”運命”の軌道修正――大きな規模のものでいえば、たとえば某国が滅びるとか独立するとか――の忠告が入れば、手直しする程度。
 驚くほど順調。仕事終わりに毎回行われる、”今日の反省会”で先輩にお小言をいただくこともなさそうだ。
 ニコニコとご機嫌な様子でロビーをポテポテ歩いていると、一つのドアが開きっぱなしになっていた。いつもは厳重に閉められていて、因幡は入ることを許可されていない部屋。エリート幹部達が集う部屋。ブラインド越しに光が点滅している。
 因幡がブラインドを覗き込むと、巨大な液晶を見上げ、時々脇に山積まれた書類に目をやり、それをカチャカチャと打ち込むミミの後ろ姿が目に入った。
 時折見えるミミの横顔。液晶の光に、ミミのほっそりとした頬が青白く照らされる。もともと何を考えているのかわからないような不思議な小悪魔的タイプのミミの顔立ちが、暗い部屋と液晶の光によってその印象を強められている。
 因幡と同じくヒラ社員であるはずのミミが一人、マル秘部屋でなにをしているというのか。
 因幡は少しだけぞくっとして、しかし頭をぶるんぶるんと振って思い直した。恋人のことを怖がるなんて、どうかしている。
 因幡はそっと忍び足で入ってミミを驚かすか、それとも声をかけてから入るか少し逡巡して、ミミを驚かすことにした。いつもミミには振り回されてばかりで、たまには、自分がミミより優勢な立場にたってみたい。
 ゆっくりゆっくり音を立てずに、忍び足でミミの背中に回る。液晶に影が出来ないよう、腰も下ろして半ば”ハイハイ”のような格好で。四足歩行。
 因幡はそろそろとミミ越しに液晶を見上げる。実際、このマル秘部屋でミミが何をしているのか興味があった。純粋な好奇心。
 因幡の目に映ったのは、画面半分に薄暗いボロ小屋の屋内の様子、もう半分に”HMV”というウィルスに関する情報だった。
 液晶の左半分に写し出された映像は、どこの星でその星のどこにあるのかわからぬ小屋の様子。
 取り付けられたカメラがおそらくその屋内を映し出しているのだろう。ほっそりと華奢な女性が中央に映し出されている。女性はうつむき、腕に抱えた何かを揺らしている。それにしても、女性が住むにはあまりに不衛生で寂しい場所であるが、女性はそこを住まいとしているらしく、彼女の両脇には衣服や布団、ペットボトルに哺乳瓶、皿にスプーンなどが置いてある。
 液晶の右半分に表示された、こちらは文字の羅列。
 三次元人との交合が禁忌とされているのは、亜空間人としてもちろん因幡は知っていたが、なぜいけないのか、という疑問はあえて持ったことはなかった。次元が違うし、だいたい己は運命製造管理局員として彼等の運命を担う立場にある。当然のことだと思っていたから、それ以上の問題が他にあるとは思わなかった。
 因幡は息を呑む。
 しかし、この液晶にあることが事実ならば、それは大変なことだ。三次元の地球人との交配は、地球人の体を――…。
「因幡クンッ!?」
 ミミがガタリと音をたてて椅子から立ち上がる。ミミの腰当たりからじっと蹲って見上げていた因幡は、はっとした。あまりに重大な驚くべき事柄に、因幡はミミを驚かそう、という意図をすっかり忘れてしまっていた。
 ミミはその顔に焦りと驚愕を浮かべ、見開いた目で因幡を凝視している。因幡はなぜだか胸の奥が熱くなり、なぜだかミミに怒りのような感情が沸いてきた。
 自分の突然の感情に見当もつかず、そしていけない、と思いつつもミミを責めるような口調で因幡はミミに問いただす。
「ミミさん、これってどういうことなんです?この女性はなぜこんな寂しい場所にいて、まるで犯罪者のように監視されているんですか?それに、このウィルスは……」
 温厚な因幡が普段見せない不機嫌な態度に、ミミは少したじろいだものの、因幡の言葉にほっと安堵の溜息をつき、椅子に座り直した。
「あのねえ、その前にこっそり入ってきて覗き見してたことくらい謝りなさいよお。ここは一応マル秘部屋なんですからねっ」
 ミミがおどけてそう言うと、因幡ははっとした表情になり、シュン、と項垂れた。
「す、すみません。でも、あの、この部屋のドア、開きっぱなしでしたよ」
 ミミはギョッと驚く。
「因幡クンっ!因幡クンの他に誰か、この部屋の前を通ったりしなかった!?」
 ガクガクと揺すぶられながら因幡は答える。
「誰もいなかったと思いますけど…」
「そう」
 ミミはふうっと長い息を吐くと、因幡にウィンクした。
「だってほら、ここマル秘部屋じゃない?本当はあたしも忍び込んじゃったわけだからあ。見つかったらマズイってわけ」
 因幡はにへらっと笑った。
「なーんだ。ミミさんもこっそり入ってたんですね」
「そーなのよ」
 うふふあはは、と二人は笑い合って、それからミミが「とりあえず誰かにバレないうちにさっさと出ましょう」と言った。



「さっきの映像なんだけどお…」
 ミミは因幡から紙コップの紅茶を奪って啜りながら言う。紅茶はもう大分冷えていて不味かった。ミミは因幡にコップを突き返す。
「あの女はね、三次元の地球人と不純異性交遊しちゃった犯罪者。因幡クンも見たでしょう、あのウィルス…」
「……はい」
 因幡は沈んだ心持ちで答える。相手を愛し、愛するが故にした行為が相手の人間を殺してしまうという、悲劇のウィルス。
「つまりい。あの女はあ、地球人を一人殺しちゃったってわけ。殺人犯よ殺人。まあ知らなかったらしーから悲劇ではあるけどーでも異空間人とのエッチは禁忌だって、そんなの赤ん坊でも知ってるわけじゃない?」
 ミミはいい気味、とでもいうように鼻を鳴らした。
 因幡はモヤモヤとした感情が胸に疼くのを感じた。ウィルスの存在を知らずに相手の男を亡くしてしまった、禁忌を破った女への同情だろうか。
 因幡が無言でうつむいていると、ミミが大きく溜息をついた。それから因幡にするりと腕を回す。因幡がミミを見下ろすと、ミミは上目遣いでニヤリと笑った。
「ぬわあーんちゃって。ウッソ」
「え!?」
 因幡が戸惑ってミミを見ると、ミミは回した腕をぎゅっと強めた。
「あのウィルスにはねえ、実はとっくの昔にワクチンも解毒剤も出来てんのよ。あの文書はね、ダミーよ、ダミー。異次元人との交際をね、表向き禁忌ってことにしとくための、お偉い方さん達が作ったダミーなのよ」
「なんでそんな…」
 ミミは因幡から視線を逸らしてしがみつく。
「ウィルス自体はウソじゃないからよ」
 ミミは眉間に皺を寄せて、苦々しげに吐き捨てる。
「解毒剤がなければ確実に死ぬわ。それは確かよ。それにあのウィルスに感染した人間は、世にも恐ろしい外見に崩れ落ちてしまう。本当に醜いのよ。愛して愛されて、その愛を誓った者でさえ、裸足で逃げ出したくなるくらいね」
 ミミは因幡を見上げ、イタズラっぽく笑って小首を傾げた。
「因幡クンは、たとえばあたしがそんな姿になったら、やっぱりあたしを見捨てちゃう?」
 因幡は勢い余って「そんなこと絶対ありません!!」と断言した。言った後で、それはミミへの気持ち所以なのか、それとも人間としての道理からなのか、自分でもよくわからなかった。
 ミミは嬉しそうに「当然よ!あたしだって逃げないわよ!」と笑った。それからまたミミの顔に影が出来る。
「異次元人との恋愛が禁忌なのは、表向きよ。小さい頃から教えられている”追放”だけど、そんなに酷い厳罰なんて実際はないのよ。ただね、禁忌と言っておかなければならない理由だってちゃんとあるわ。まず第一に純粋な亜空間人が少なくなってしまうこと。異次元人との関係を持った亜空間人は自分が亜空間人であることを捨てるか、相手に三次元人であることを捨てさせるかの選択を迫られること。それからウィルス感染した患者への対応が面倒くさいこと」
 ミミは淡々とした口調で語る。なぜミミがこれほどまでの重大機密を知っているのか、因幡は疑問に感じた。
「さっき言ったけど、ウィルス感染の醜さと重大さに、逃げちゃうヤツだっているのよ。そーなると放っておかれた患者は死ぬわよね。殺人だわ。それから治療して治った場合、一度感染すると三次元人にも耐性がつくからその後の性生活にはなんの問題もないんだけど。でもさあ…」
 因幡の腕に絡めたミミの腕の力がこもる。
「でも…。感染した様子を見た亜空間人は、フツー、なんの罪悪感もなく相手をまた愛せるかしら。それよりもっと外道なのは、愛する男や女の醜い姿を見て、愛が冷めることだってあるわよね」
 ミミは顔をあげて、キッと何もない前方を睨んだ。
「逆も然り。感染が怖くなって逃げ出す三次元人がいたっておかしくないわ。そんな悲劇が起きないための、抑制なのよ、あれは」
 因幡は己の腕にぶら下がるように強くこめられたミミの手に、ミミが過去、三次元人と愛し合ったのかもしれないことを感じ取った。因幡はミミの頭をぽんぽん、と撫でる。
「ぼくは逃げませんよ」
 ミミは今までで初めて見せる、弱々しい笑顔で因幡を見た。
「ごめんなさいね」
「なにがですか?」
 きょとん、と因幡が尋ねるとミミは一度視線を彷徨わせると、因幡の首もとの着ぐるみをぐいっと引っ張って唇を押しつけた。
「あたし、運命製造管理局員の他に医療センターの派遣局員やってんのよ。ナイショにしてて、ごめんなさいってこと!」
 ミミが得意げにニヤっと笑う。因幡はにへらっと笑った。
「そんなこと…。ミミさん、すごいですね」
 因幡は素直に感嘆した。医療センターといえばエリート達が集まるところで、そして暗い過去を持つだろうミミが、過去を思い出すような職場で働くことの、そのミミの強さに感じ入った。
 ミミはエッヘン、と胸をはる。
「ミミちゃんってば優秀なんだから」
 小声で「これまでのこと、他の人に言っちゃだめよ」とミミが因幡に耳打ちする。因幡はうんうん、と頷く。ミミは満足したように大きく頷くと、また因幡の腕にぶら下がった。
「逃げ出すよーなバカがいるって言ったじゃない?そういう奴らにはねえ、ご親切にも記憶を消してあげんのよ。まっさらにこれからの人生進めますよーにって。記憶を消すか消さないか。本人に聞いて選ばせてあげんの」
 因幡は大きくぶるんっとウサギ耳を振ってミミを振り返った。それではミミは自分の過去のツライ記憶を消さなかったということだ。
 ミミは肩をすくめた。
「因幡クンにはバレちゃったみたいだから言うけど…。あたし昔、三次元の地球人とそーゆーことになったわ。でねえ、彼感染して、あたし彼のことすっごく好きだったから助けてあげたくてさあ、亜空間の重要機密にアクセスしまくったわ。そんでダミーの文書につきあたってソレ信じちゃって、こりゃもーダメって思って、医療センターから逃げ回ったの」
 おどけて語るミミに因幡は胸が痛んだ。それと同時に、腹の底から渦巻く不思議な絶望感を感じた。
「でもさ、結局センターの人につかまって、んでアレはダミーだったって説明してくれて解毒剤打ってくれたわけよ。そんとき、センターの人、急いでたのねえ。彼の意識が戻る前にあたしに記憶消すか消さないかの承諾を迫ってね。あたしは消さないわよ!って怒鳴って書類に判を押しちゃったのよ。そしたらさあ…」
 ミミがぎゅっと唇を噛む。
「彼、覚醒した途端、あたしに怯えてねえ…」
 ミミの瞳の中、静かに怒りが燃えあがる。
「化け物とつき合う気はないってさあ、次にセンター局員が来たとき、迷わず自分の記憶消したわよ、ソイツ。あたしだってさあ、そんなことなら記憶消したいじゃない?でも、もう書類に判を押した後だった」
 ミミは言い終えると、正面から因幡に抱きついた。
「あたし、二度と傷つきたくないの。わかるでしょう」
 ミミは因幡の首もとにキスをすると、ぬいぐるみに顔を埋めた。
「はい」
 因幡はミミを優しく抱き留める。ミミの不幸な過去に同情しながらも、なぜだか真っ直ぐに傷ついたミミの心を包み込めない、なにか壁のようなものが立ちはだかるのを感じた。
 それからふと思い出した。
 結局犯罪者でないのなら、ウィルスのダミーの文書の隣りに写されていた、あの少女は一体なんだったのだろう。

* * * *


――ッ、しィ…ヒッ……の・ぶさ…ん…。

 しのぶは細い腕に我が子を抱き子守歌を歌いながら涙を流していた。
 日の光の届かぬ廃屋を訪ねる者は誰もいない。因幡が”外の世界”の女、ミミをこの星に入れてしまったことで、この星のならず者達は因幡を仲間から除外した。誰もこの家のことを気にかけはしない。たとえかん高い赤ん坊の泣き声や若い女のすすり泣く声が聞こえても、構いはしない。
 そしてこの廃屋は、去る間際に因幡とミミが施した防御システムによって、この家の主、つまり因幡以外が扉の開け閉めをすることを許されていない。内側からしのぶが赤ん坊を連れて出ていくことも出来ない。
 可愛い我が子のオデコにキスをして、しのぶは声をあげずに泣く。



 ミミという女は、得体のしれないアンプル剤を因幡に打った。
 しのぶの病気を一気に治してしまう奇跡の解毒剤だと言って、因幡に滅菌したガーゼとしのぶの体を覆う全ての皮膜がとれたときのために風呂を沸かし、横たわるベッドとパジャマの類を用意するよう命令した。因幡は喜んで素直にそれを聞いた。
 そそくさとしのぶのために部屋中を片づけ始めた因幡の背中を、ミミはニヤリと唇を吊り上げて見下ろした。
 その頃既に眼球が再生し、意識や思考回路における脳の大部分が正常な活動を始めていたしのぶは、一部始終を見ていた。発声器官はまだ回復していなかった。唸り声ですら出せなかった。腕も足も、ぴくりとも動かなかった。
 ミミは素早い動きで因幡の首筋に七色に光る液体を注射した。
 瞬間、因幡がガタリと崩れ落ちる。
「…ィッ……ア゛ア……きィ…ッ…カ…」
 パクパクと金魚のように因幡は口を動かし、目を大きく見開いた。
 因幡の体を跨いで因幡を見下ろし、三日月目で嗤うミミ。歪めた唇から耳障りに高い嬌声が部屋中に響き渡った。
「他人のものって、どーしてこんなに欲しくなるのかしらねえ?」
 うふっ、うふふふふ、と嗤うとミミは痙攣する因幡の頬を撫でた。
 因幡はヨダレをだらだらと垂らし目を見開きながら、ミミの陵辱を睨んで拒んだ。因幡の精一杯の抵抗だった。
 ミミはますます可笑しそうに嗤った。
「ふーん。…ねえ、弱いわよねえ、人間なんて。こーんな禁忌まで犯して、しかも恋人が生きてんだか死んでんだかよくわかんないよーになっちゃってさあ。見るもおぞましい怪物みたいになっちゃって、そんでも愛しちゃってるクセにイ…」
 キャーッハッッハッハッッハッハ
 突然のミミの高笑いがしのぶの体中に突き刺さる。ミミは因幡にぐっと顔を近づけ、ニヤリと嗤う。そして床に溜まりとなった因幡の口から垂れ続ける唾液を、長く赤い舌でゆっくりといやらしく舐めあげた。
「グア゛ッ…アアあああッ…!」
 因幡の目から涙がこぼれ落ちる。これまでに感じたことのない怒りが因幡の目と目の間、中央に集まり、全身の血が逆流する。
 ミミはペッと吐き出すと、床に転がる因幡の腹を蹴った。
「ゥグッ!」
「クスリひとつで、愛なんか忘れちゃうのよ。脆いわよねええ」
 アンタはこれから愛しの彼女をすーっかり忘れてボケボケ幸せに一生を送るのよ、わあ犯罪者のくせに図々しいぃ〜、とミミは嘲ってしのぶへと振り向いた。
「えーとしのぶサン、だっけ?あんたも心配しなさんな」
 ミミはミネラルウォーターの水がたっぷり入ったペットボトルを床から拾い上げ、ごくごくと飲んだ。細い女の喉がごく、ごく、と波打つ。
「なんかねえ、アンタの腹んなかに子供がいるみたいでねえ、そのおかげでアンタは助かるんですってよ。よかったじゃない」
 ミミはペットボトルのキャップを閉め、因幡の頭目がけて投げ捨てる。痙攣し続ける因幡が「グウッ」と呻く。
「女って残酷よねえ。自分が助かるために、自分のビョーキ、ぜーんぶそっくりそのまんま子供に押しつけちゃうんだもん。特に地球の女ってホ〜ントひどいわあ」
 ダイオキシンでしょー水銀でしょー、とミミが指折り胎盤を通じて胎児に遺す毒物を数え上げる。しのぶの再生しきっていない目からは涙も出ない。
 ミミは皮膜で覆われたしのぶにすっと顔を寄せる。因幡がそれを見て血を吐くような濁った声で呻いた。
 ミミはしのぶの体から発せられる悪臭と外見の醜悪さに、小さく眉をひそめて囁いた。
「…あんたの男、いつかちゃんと返してあげるから安心しなさい。あたしはあんたの男をとりあえず社会復帰させてあげるだけよ。それが指命なの。あたしはねえ、犯罪者は反吐が出るほど嫌いだけど、女には優しいのよ。女はいつも被害者だわ。子供が生まれる前にね、今度は本当に解毒剤持ってきてあげるから」
 しのぶが少しだけ動く眼球を動かすと、ミミは露骨な嫌悪と怯えをその表情に浮かべ、しのぶから離れた。
 しのぶはミミの言葉の意味をもっときちんと知りたかったのだが、ミミはうずくまる因幡の元へ行ってしまった。
 因幡が満足に出せない声で、しのぶの名を呼ぶ。
「ッ、しィ…ヒッ……の・ぶさ…ん…」
 ミミはかん高い声で嗤った。
「ば〜っかみたい!悲劇ぶっちゃって!!よろこばしーことじゃないの、ねえっ?人生のリセット出来んのよ。しかも幸せなコースまで用意してあげてんだから、こっちはさあ。嫌なことすーっかり忘れられてっっ!自分のエゴで女傷つけたのも、すーっかり忘れてキレイさっぱりしましたってね?犯罪者のためにさあああ?ばっかばかしぃ〜。感謝しなさいってのよ〜う」
 因幡の腹を大きく蹴り上げると、ミミは唾を吐き捨てた。






 しのぶはすすり泣き、子守歌を歌い我が子を腕の中ゆらゆらと揺らしあやしながら、微かな希望を胸に因幡を待っている。
 あの日、ミミの言った「あんたの男、いつかちゃんと返してあげる」を信じて、塗り替えられた記憶が戻らずとも、因幡の愛そのものは己に戻ると信じて、その腕に愛する我が子を抱いて待っている。
 因幡が戻ってきたその日には、この愛らしい我が子を因幡に見せてやろう。こんなに大きくなったのよ、と少し不満げにすねてみてもいいかもしれない。
 それから因幡とあたるを天秤にかけていたことを謝ろう。因幡の真摯な愛に、今度こそ誠心誠意で応えよう。

* * * *


 しのぶサン。
 だってもうあんたはこの男に十分すぎるほどに愛されたでしょう?他の男を想いながら、この男を傷つけもしたじゃない?それにまあ、この男の子供だっているじゃない?
 だったら今度はあたしの番よ。”追放者”が幸せになる権利があるってゆーんなら、あたしにだってあるわ。
 あの日、医療センターの局員に選択を迫られたとき、記憶を捨ててればよかったって何度も後悔したわ。
 あたしみたいに間抜けな後悔に傷つくオーバカもんをこれ以上出さないようにって、派遣局員になって規則無視して、オーバカな”追放者”の記憶を消す・消さないの選択なしに全部消しまくってったけど。この男と出会えたんだから、そうね。少なくともあたしの記憶は消さなくて正解だったのかもしれないわね。だからって消したヤツの記憶戻してなんかやんないけど。
 そっちのが幸せだわよ、フツーは。
 一回くらい体が溶けて緑色の苔になったからって、次のセックスからはもー耐性ついてて、もう、ぜーんぜん心配なしに”セーフティ”セックスが出来るってーのに、お偉いサン方からも「あくまでも口外しちゃだめだからね。表向きは禁忌ってことになってるんだからね。感染者増やしちゃうと面倒だからね」って、結婚のオッケーさえも出てんのに、怯えてあたしから去ってった、あのオーバカ地球人の代わりに、あたしは情の深いこの男をいただくのよ。

 この男。ダミーの機密文書にまで不法アクセスして、ほんとーにしのぶサン、あんたのこと愛してたみたいだけどさ。ズルイわよねえ。二股女がそんな一途に想われるなんて。割に合わないわよ。
 めちゃくちゃに焦ってしのぶサン、あんたを救おうと法を犯してメチャクチャにアクセスしてダミーに突き当たって勘違いして。
 ばっかみたいねえ。そんなマヌケなとこ、昔のあたしソックリ。スリルいっぱいのシステム不法侵入。あのオーバカ男を愛して愛して、救ってあげたかったのよ。そしたら見事逃げられた。ばっかみたい。
 あたしだって幸せになんのよ。三次元人さん。
 しのぶサン、あんたはあのオーバカ地球人の代わりに、贖罪を受けるといいんだわ。三次元の地球人としてね。
 そんでこの男に返さなきゃなんない分の愛を、たった一人で返し続ければいいのよ。
 ねえ、あたしって残酷かしら?でもあんたがあたしでも、きっと同じことをしたはずよ。ひとりの男に裏切られた経験のある、あたしとあんたじゃ、そこんとこ、よく分かり合えるんじゃなくって?

* * * *


 因幡としのぶとの間に出来た、その愛の結晶は、頭をまっぷたつに割りテラテラと光る赤みがかった黄色い膿を脳から垂らしながら、未だ見たことのない父親を恋しがって泣いている。
「もうすぐパパと会えるからね…」
 しのぶが持ち前の気丈さで微笑むと、赤ん坊は「ぁがあっ」と喜んだ。潰瘍・壊死しケロイド状にひきつれた皮膚を、ぴりっと破り、赤ん坊は笑った。

←前項


-end-


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