似て非なる者




 子供はできないだろうと思っていた。
 亜空間人と三次元人。外見がどれほど似ていようとも、生殖的隔離機構が必ず働くだろうことを、因幡は知っていた。

「しのぶさん」
 因幡の節ばった、しかしどことなく女性的な白い手がしのぶの頬を撫でる。
 しのぶは、とても奇妙な気分だった。アクリルの毛がない、ぬいぐるみでない、温度のある因幡の手は誰か別な人の持ち物であるような気がした。そんなことあるわけないじゃないの、ねえ?と誰に問うでもなく胸の内で呟いて、だけど余計にその疑惑が強まってしまう。
 広い肩にどちらかといえば細い腕、厚くはない胸。日焼けしたところのない、色素の薄い因幡の肌が。すべて偽物で、なにか…そうだ、”人間型”の着ぐるみでも着ているように思えた。しかししのぶに向けられて固くなったグロテスクな棒が、そうではない、としのぶに告げる。そこだけが異様に生々しく、線の細い因幡の体から浮いていた。
「愛しています。あなただけを愛しています」
 因幡の目は女神サマを見るように恍惚と、うっとりと熱く、その目にしのぶの子宮は、因幡を愛しているのだと疼きだし、薄い生地がいやらしく湿る。
 あああたしは愛されている、としのぶが満足げに因幡の肩に腕を伸ばすと、因幡は噛みつくようにしのぶの唇をむさぼった。
 ウサギのように気が弱く優しく曖昧な瞳は、今や狼のように鋭い光に猛り、しのぶの隅々までをすべて食い尽くそうとしている。驚くしのぶの瞳に恐怖を見つけ、因幡はすぐに消えてしまう罪悪感を悦びで塗りつぶした。



 異次元人との恋愛。前例がないわけではなかった。
 禁忌とされ、その事実は抹消され資料として存在することはなく、タブーを犯した者の存在すらなかったことにされてはいるものの、そういった例外は、知的生命体が必ず持っている、”進化に対する飽くなき好奇心”が奪われない限り、必ずあるものだった。
 例えば進化論におけるネオテニー説を正しいと仮定したとき、好奇心を殺すことがいかに難しいかを判ずることが可能だ。ただし進化の過程は、地球人と亜空間人では異なるのだが。
 そして亜空間人の理性は地球人のそれほどには儚くはないが、”禁忌”には亜空間人とて同じく、抗いがたく甘い誘惑を抱かされ、屈する落伍者が必ず出てくる。戒めようと、それは概して皮肉な結果をもたらすことが多いものだ。
 発覚し、エデンの園を追放された者のその後を因幡は知らない。
 しかし異次元人との間に子は出来なかったという。いや、もしくは子が成されたとして、忌むべき悪魔の子として人知れず葬り去られた可能性もある。だが、生物学的見地からしても、それは難しいと思われた。
 雑種形成を妨げる、交配前の隔離機構がどう働くか。
 交配前の隔離機構としての生態的隔離は、本来ならば確立されているはずであるのだが、亜空間と三次元を行き来出来る因幡によって、それは問題ではなくなってしまった。季節的隔離はウサギ(ヌイグルミを脱げば因幡もヒトだが)とヒト、共に年中繁殖可能であるために、存在しない。性的隔離は、しのぶを愛する因幡、そして因幡を愛するしのぶには存在しなかった。それから、行為が可能か否か、の機械的隔離は問題はないように思われた。実際になかった、とも言える。お互い、同じ種の異性の性器と同じ外観をしていた。しかし、配偶体的隔離はわからなかった。運良く、精子が卵管で卵子と出会えるまで辿り着いたとして、それぞれの細胞膜が融合する可能性は低く、また、その上に核の融合、つまり受精がされることは、ほぼ不可能だと思われた。
 では受精が可能だったとする。
 接合体の発生が正常に進むのか。雑種の子が生を受けたとして、その子は正常な成長が出来るのか。そして“正常”と判別するための根拠はどこにあるのか。
 もはやそれは、マッドサイエンティストの見る夢に似てくる。
 子供はできないだろうと思った。しかし、できてしまったら。その子の行く末はあまりに暗い。
 ヒトとして満足な生を満喫できない可能性に、祝福されぬ日陰の子。うまいこと育ち、健康であればまだいい。そうすれば、因幡が亜空間人としての己を捨てれば、しのぶと共に三次元人として暮らしていけるかもしれない。しかし病気になったとき。治療法は、誰が知るのだ。死にゆく我が子をただじっと見守れというのか。実験台にさせる代わりに、いつ芽が出るとも知れぬ治療法を見つけてもらおう、施してもらおうと、探求心豊かな研究者に差し出せばいいのか。例えばその子が恋をしたとき。同じ人種は他に誰一人としていない。そしてその子は子を成す機能があるのだろうか。

 不幸な子をつくることはできないと思った。因幡もしのぶも、子を成すことは諦めていた。
 いや、しかし、そのまえに。まだ二人はまぐわったことがなかった。

* * * *


 因幡はただ呆然と眺めていた。
 立ちこめる腐臭。滴り落ちる膿汁。大火傷を負った患者のような爛れた皮膚。真っ赤な皮膚に黄色い大きな水疱。べろりと剥がれ落ちる真皮の下に直に見える細い血管。蜘蛛の巣のように張り巡らされた毛細血管はところどころ破れ鮮血が吹き出している。どろどろとだらしがない黄色い脂肪にぷりぷりと引き締まった赤と白の筋肉。どろっと流れ落ちる、ああこれは一体なんだろう。床の上に溜まり続ける黄色と赤の粘液が。なんと臭いのだろう。
 瞼を閉じることも叶わない。
 どろどろに溶けてしまった愛していた女の顔から体から滴り落ちて、因幡の手に顔にペニスに絡みつく腐った肉汁。ぼとりと今、少女の鼻だった部分が床に落ちた。てらてらと半透明の水晶のような鼻軟骨が赤い糸を引いている。落ち窪んだ右の眼窩はアメーバ状の皮膚なのか脂肪なのかよくわからぬもので囲まれ上眼静脈がぴくっぴくっと動いている。唇は既に剥がれ、むき出しの歯列に歯槽骨。大唾液腺からぴゅうぴゅうと勢いよく飛び出る漿液や粘液。少女の頭皮は美しかった黒髪ごとズルリと剥け、因幡の膝の上にひとつのカツラのように載る。
「ア………ア…ア、あ、あ、あ、ウ、あ、」
 小刻みに震える因幡のどろどろの手に、ぼとりと塊が落ちる。スープになった少女の左目。因幡の口はだらしなく開き、端からよだれが垂れている。
「アヒ…ひ……イひ…ひぃ、ヒ、ヒ、ひひひ」
 因幡はよだれをだらだらと垂らしながら粘液でべとべとの手で自らの顔を覆った。指の隙間からギョロっと目を動かし、崩れ続ける化け物を忙しない目つきで見る。因幡の顎が外れたように閉まらない口には、手にべっとりとついた愛する少女の膿汁が喉奧へと糸を引きながら滴り落ちる。
 三次元人だった女の顔の皮膚が全てこそげ落ちてしまうと、因幡は口元に歪んだ笑みを浮かべて毛細血管が筋肉の上をぴくぴくと走り這う頬部を撫でた。びくっびくっと顔面静脈に浅側頭静脈が脈打っている。

 しのぶは、生きている。

* * * *

HMV(Human Metamorphose Virus -Acclerated Mutation-)

 STD。そのように称することが正確であるかは検討の余地があるが、このウィルスによる感染症を暫定的にSTDと分類する。
 12XX年、異次元人との交配を試みたY(追放者により別記)の通報により発見される。
 感染者は太陽系第三惑星、地球のホモサピエンス、メス。発症五年後に死去。他星に感染例なし。なお他20例臨床データあり。機密レベルCにアクセス参照のこと。

 亜空間人には元から抗体のあるホストとなっていたウィルスであり、それは三次元の地球でAIDSを引き起こすHIVのように血液、精液、膣分泌液で多く見つかる。RNAを持ち、地球のヒトにおいては逆転写してDNA合成するレトロウィルス。地球におけるHIVのように感染力が弱く、熱や一般消毒薬により死滅する。一定時間外気に晒されればまた同じく死滅する。
 しかし抗体を持たない地球人の体内にそれが侵入したとき、爆発的に増加し臓器を除く非角化タンパク質を食い荒らしていく。感染細胞のアポトーシス、ネクローシスが引き起こされ急激に進行する組織障害。急性感染症。
 固い筋肉は繁殖地としてウィルスの好みではないらしく、柔らかい脂肪と皮膚等における大半で繁殖増加すると筋肉の上に黄緑色の皮膜を形成する。
 それを契機にウィルスは細胞構造を得、片手落ちだった核酸のDNAを自己生成し、この後は偏性細胞内寄生するのではなく単独増殖、エネルギー産生が可能となる。ついで重症感染症によるアナフィラキシーショックが引き起こされる。皮膜を除去することにより症状が軽減したとの報告あり。有効な治療法、ワクチン共に開発段階までに至っていない。

 このウィルスの最大の特色は、前述したようにある生物が感染することによって細胞構造を得る点にあり、高度な分子構造を得るまでに宿主を食い殺して自滅するミスを犯さない。飼い慣らすように、自らのたんぱくやエネルギーを惜しみなく作りだしてくれる宿主を殺さず生かし続け急激な進化を遂げる。繁殖地として最適であるよう皮膜をホストに形成させることで、無限に繁殖し続ける。その後ホストとなった感染者は通常の細菌性感染症を発症する。
 なぜそのようなことが可能となったのかは未だ不明。現在研究中である。
亜空間特異的感染症研究所 XX/XX/20XX



 初めての性行為で感染したしのぶは今、黄緑色の苔状の真菌に覆われている。因幡はそれをそうっと拭い取るのが日課だ。
 そうっとそうっと触れなければならない。皮膜は薄い。強く拭き取れば、そのすぐ下を這う毛細血管を傷つけてしまう。そしてせっかく再生されかけている上皮細胞までも苔と一緒に取り去ることになる。
 滅菌を施した清潔なガーゼで一日に何度も拭う。点滴の栄養剤の補充をする。
 毎日しのぶの体を気遣い、いつかまたしのぶの微笑みを見ることを夢に見、それだけのために生き、感染症研究所の所員から逃げるように、因幡は物言わぬしのぶを連れて住まいを転々としていた。
 ようやく安息の地を見つけた。しのぶと二人、静かに幸せに暮らすための、永遠の地。



 発狂するのをすんでのところで留まった因幡は、正気に戻って即座に亜空間医療センターにSOS通信を発信した。
 緊急通信を受け取った医療センターは事務的な口調で、患者の容態を尋ねた。因幡はまたしても狂いそうに暴走する思考をシャットアウトしながら、出来る限り冷静に明確に答えた。
 三次元の地球人の女性と性行為に及んだこと。その際、地球人の性器に己の体液が注がれてすぐに、その地球人が変態を来したこと。今も彼女は”溶けている”最中であること。
 通信画面に映る、どろどろと粘液にまみれた因幡の姿に毛ほどの関心も寄せていなかった局員が、途端に目をむいた。猫なで声で現在の居場所を尋ねる。因幡を労るように慰めの言葉を投げかける。その変貌ぶりに麻痺しかけていた因幡の脳が危険信号を発した。
 愛する少女の命を救うため、僅かの望みでも存在するのならば最良の治療を施してやりたかった因幡は、現在位置を告げ通信を切った。しかし不審感を拭いきれず、即座に医療センターの機密項目に不法アクセスした。
 異次元人であるしのぶと二人、幸せに暮らす方法を、出来れば法を犯さず抜け道の前例がないか探るうちに知った、知らなければならなかった情報システム侵入の経路が今役に立った。
 医療センターにSOS発信したことで、己の罪は既に上層部に知られている。
 だからもう以前のように慎重にシステム内に侵入せずともよい。痕跡を残してもよい。アクセスしている、ただこの今現在、侵入が可能であればいいのだ。不法アクセスを弾く防御システムとの競争。どちらが賢く速くコンピューター内を回れるか。
 暴力的にシステム内を食い荒らすことで、因幡は今までアクセス出来なかった最重要機密に辿り着くことが出来た。そこには追放者の行方も記されていた。
 因幡は知った。
 しのぶの感染したウィルス名。そのウィルスによる感染症は治療法もワクチンも開発されていないこと。しのぶは犯罪者として研究所の実験体になり、その存在を全宇宙人の記憶から抹消されるだろうこと。もちろん因幡の記憶からもしのぶは消えるということ。
 因幡は己がその自由を奪ったに等しい、誰より愛する唯一の少女を忘れ去り、”因幡”としての記憶を失い、のうのうと新たな人物として亜空間人として平穏に暮らしていくことになること。それが”追放者”ということ。それが禁忌を犯した者への罰則であるということ。
 その瞬間因幡は黄緑色の皮膜で覆われ始めたしのぶを抱き、時空移動をした。






 うっとりと苔生した地球人の少女を眺める瞳に、狂気の色がどんよりと鈍く光り出したのはいつのことだったろう。
 しかし因幡のしのぶへと向けられていた愛は、最初からどこか狂っていた。
 たった一人の少女のためだけに全てを投げ出す愛。少女の存在が世界の認識の証となる愛。他のどんな誘惑も誘惑として成立しない愛。生物としての本能を食い殺す愛。
 狂信者の愛をすこし後押ししたに過ぎないのかもしれない。

「ああ…今日はとてもよく食べるんですね、しのぶさん」
 ぐんぐんと目減りしていく点滴の栄養剤を眺めて因幡が嬉しそうに笑いかける。ごぷっと点滴チューブが逆流しかける。
「だいじょーぶですよ。しのぶさんは十分美しいんですから。ダイエットなんて必要ありません」
 因幡は苦笑して立ち上がり、針を抜き点滴を付け替える。
「安心してもっと食べてください」
 にっこりと微笑むと因幡はまたしのぶの足下に腰掛け、再生しつつある、くねくねと踊る眼神経を眺めた。

「そーいうあんたも栄養とりなさいよおー。いやだあ、もうっ。ガッリガリじゃないのよ〜う」

 がばっと因幡が振り返ると、そこにはコロコロと艶やかに笑う女が立っていた。見知らぬ女。
「男がガリガリなんてなっさけなあ〜い」
 真っ赤なマニキュアの塗られた細い指を真っ赤な唇に押し当てて含み笑いをする。
 因幡は負傷した狼のように唸った。
「だれだッ!!どこから入った!?」
 めざましい発展を遂げそのありきたりな結末として傲り文明が絶え資源がつき、あっけなく捨てられ死んだ星。通称、バベルの星。
 亜空間センサーが全てを探ることの出来ない、穴がところどころにあるこの星には、日の光を浴びることの出来ない逃亡者達が多く住まう。
 その中の一人となった因幡に、歪んだ義理や仁義を誓う仲間達が後ろ暗い者以外の侵入を拒む方法を教えてくれた。
 この廃屋には一見そうとは見えないが、強固な防御が施されている。その防御は当然違法な処理に基づいていて、破ろうとすれば最悪、死に至る。
「あ〜ら、ごめんなさーい。自己紹介がまだだったわねえ」
 一見して亜空間人とわかる、それも運命製造管理局の制服を女は身に纏っている。
「運命製造管理局員のミミってーの。でも名前なんてどーでもいいわ。そうでしょう?」
 因幡は黄色く濁った白目にくすんだ赤目をギョロっと動かし睨んだ。
「因幡クン。あんたの後輩なの、あたし。あんたのおかげで空きができて就職できたんだから、あたし、すごおおおお〜く感謝してるのよ。ずえ〜んずぇん就職決まらなくって、ほんっと困ってたのよお。因幡サマサマだわあ」
 女が小首をかしげ、黒い耳がぴょこんっと揺れる。
「なにしにきた。話によっては、帰せません」
 ウサギの天敵である狼のように唸り続ける因幡に、バニーガールの格好をした女がぶるるっとわざとらしく震えてみせた。
「いやだあ、そんな怖い顔しないでよお。あたし、あんたに感謝してるって言ってるじゃない?恩返しに来たのよお、あたしい〜」
 女はニヤッと笑って、豊かな胸の谷間から一つのアンプルを抜き出した。七色に発光する液体がちゃぷんちゃぷん、と容器の中で波打っている。
「じゃ〜ん!これはなっんでしょおおー?」
 女は因幡の鼻先にアンプルを突きだし、ふるふると振って見せた。因幡はぎろっと女を睨む。女は可笑しそうに嗤った。
「ねえ。もしこれが、出来たてホヤホヤのHMV解毒剤だって言ったら…………あんた、どーする?」
 角度を変えたアンプル剤がエメラルド色に光った。

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