手のひらを見つめていると、そのうち視線の先だけが黒く焦げるような気がして、しのぶは目を伏せて、ため息をついた。
こうなることは、予感していたのだ。ラムが地球に現れて、馬鹿馬鹿しい鬼ごっこを始めた日から。たぶん。
しのぶは、まるで未来を透視する予言者にでもなったような過去の自分の予感への後付けと過大評価に嗤った。
ばかばかしい。
「あたるくんとラムに運命論を持ってくるだなんて、あたしったらばかね」
しのぶの大好きな占いに、地球外生物との運命なんて含まれているはずがなかった。
そんなもの、想定外なのだ。タロットカードも占星術も易占も、それ以外のどんな占いだって、ラムの出現なんて言い当てていなかっただろう。
その証拠に、しのぶの恋は保証されていた。ラムが地球に降り立つ前までは、全ての占い雑誌で。
「占いって当たらないのね」
声に出すと、一層間が抜けて響いた。
しのぶは昔あたるが可愛い、と言ったワンピースの裾をつまんで弾いた。
しのぶらしい、大きめの赤と白の水玉模様のフレアワンピース。胸元にはシャーリングとふうわり揺れる大きなフリル。しのぶの少し寂しいバストをカバーしてくれる、優秀で清楚なドレス。
姿見の前でポーズをとってみて、しのぶは頷いた。
――ちゃんと可愛い。あの日と同じように、あたしは可愛いまんまだ。
あの日、手を繋ごうと言えなかったのは、自分の中のまっ黒い嫉妬のせいだった。
あたるだってたいがい、バカでいい加減で浮気者で、上っ面の謝罪と言い訳がとびっきりの特技で、誠実さなんて欠片もないような、どうしようもない男だったけれど、いつも優しかった。優しい人だった。
臆病で小心者で。
ヘンテコな見栄とプライドを取っ払ってしまえば、あたるの卑屈な弱さが見えた。その弱さが優しさの出所だったけれど、しのぶのことをちゃんと、あたるなりに大事にしていてくれていることは充分にわかっていたし、好きだった。
なんだかんだ、全部受けいれられた。
ああして欲しいとかここを直して欲しいとか、そんなのは怒鳴って殴ってしまえば、全部どうでもよくなってた。その繰り返しだった。
二人してバカみたいに、ぎゃあぎゃあと痴話喧嘩のポーズをとることが、お互いの幼い恋心を確かめる手段だった。本当にガキだった。二人して勘違いしてた。
あたるは本当にバカで本当に女好きで本当に節操がなかったけれど、でも、そういうことがしのぶの気を楽にさせることも知っていた。しのぶが自由に笑って怒って泣けるようにする諸刃の。たぶん最初のうちは勘だけで。偶然だったのかもしれない。
あたるの自分への言い訳が、あったとしたならば、それだった。ラムが現れるまでは、あたるにとってしのぶが大事にするべき一番の他人だったから。
あたるには、理性で抑えつけられぬ程の貪欲で危険な野放しの本能なんてないことを、しのぶは知っていたから。
ふつうの人よりずっと巨大な、宇宙一の煩悩の持ち主で、その中でも最も肥大化した性欲をあたるが持っていることは事実だ。しのぶはよーくよーくわかっている。あたるは 歩く性犯罪者だ。
だけどあたるの根っこのところは、笑えるくらい古風で、卑屈な常識と理性が凶悪な力であたるの心臓を握っていた。だから、しのぶも往復ビンタをしたあとは、あたるがやけに愛おしくて、いつまでたってもどこか不器用で唐突な手が、しのぶの後頭部を這うのを許した。
しのぶがうっとりと目を閉じて身を任せてくるのが嬉しくて、あたるは出来るだけ優しくしようと努めた。雑誌やビデオで見知った欠片を集めて、新しいことを盛り込んで、しのぶが気持ちよくなるように必死だった。ときどき、しのぶのツルツルとした真っ直ぐな黒髪を指と指の間に挟んでひっぱってしまったけれど、しのぶが甘ったるい吐息を頬にあててくるから、全然気がつかなかった。
しのぶの苦労は、痛みに寄りそうになる眉を抑えることで、そんなことを我慢する自分がすごくいい女だと思った。
そうしたあとで、キスするのが好きだった。喧嘩のあとのキスが一番よかった。
それからまた、あたるが誰彼構わずナンパしてセクハラして、しのぶがあたるを殴って。
あたるの浮気性へのストレスが、暴力とキスだけでしのぶの中から消し去れたと信じて疑わない、無邪気なあたるのヘラヘラ顔にしのぶは苦笑した。しょうがないわね、と大人びた微笑を浮かべようと口を歪ませた。トレンディドラマの中で女優がやる、影のある寂しげな表情を真似た。
二人して、相手を気遣っているつもりでいた。そんな優越感に浸りながら、喧嘩するのが二人の絆だった。
だけど、あたるはしのぶ以上にしのぶのことを知っていた。しのぶがあたるを許すときの優越感を、あたるは黙って知らないフリをしていた。
それなのに、しのぶがそれにちゃんと気がついたのは、あたるがラムに惹かれてしまったあとだった。悔しいことに、しのぶは自分ばっかり大人でいる気がしていた。
悔しいことに、手元から離れて気がついた。間が抜けている、としのぶは思った。
――なんでそんなところばっかり。
思い出を作らせて、しのぶの記憶の中に埋め込んだあたるを恨んだ。過去はどうしたって変えられないものだから。
あたるは、ラムに怯えている。
ラムにキスもしない。抱きしめない。他の女に擦り寄ったことの、言い訳もしない。謝らない。ラムが転んだときに手を差し出すことすら、躊躇う。
あたるは裸足でラムから逃げ出したくなるくらい、ラムにがんじがらめだ。
しのぶのサラサラ髪をからませて毛の先に団子をつくった指は、今は、テンのモチモチ頬っぺをつまんで引っ張ったり、面堂の振りかざす刀を真剣白刃取りしたり、しつこく聞きかじった女の子のアドレスをメモったり、サクラのくびれたウェストにスリスリしたりしている。
その指先が何を求めているのか、しのぶじゃなくたって一目瞭然なのに、あたるはそれも承知でラムから逃げる。
代役で抱きつかれたらヒステリックに泣き叫んでやれるかもしれないのに、しのぶにセクハラするときのあたるの指先に、劣情の欠片もないのだから、殴ってやるしかできない。
それなのに、あたるはしのぶに時々、昔のような痴話喧嘩をしようとふっかけてくる。ラムと毎日繰り返しているみたいなやつを。できるわけないのに。
できるわけがない。
あたるの手は線が細いけれど、ゴツゴツしている。真夏の炎天下以外は大抵、乾燥してカサカサしている。それからいつも右手の親指のわきにサカムケがある。
男の子の手はあたるに限らず甘美なものだけれど、親指のサカムケがエロティックなのは、しのぶにはあたるだけだった。
キスの後、しのぶのしっとりとした頬を包むあたるの手にしのぶは自分の手を這わせた。そのときいつもの親指のサカムケが人差し指に触れた。
つん、と固いサカムケの先がしのぶの情欲を掻き立てた。理由なんてしのぶにはわからなかったけれど、強く衝動的だった。
しのぶは突然の衝動を抑えることなく、いきおいよく親指のサカムケをむいた。
「うぎゃっ!」
しのぶの乱暴な手つきで、あたるの指からは当然、血が滲み出た。
「なにすんじゃい!」
涙目でしのぶに訴えるあたるは、いつものように潰れたカエルみたいな、ブサイクな顔で怒ったけれど、一瞬、戸惑った表情を見せた。
「おーおー。血が出とる。まったく。……これはしのぶちゃんが嘗めて治してくれにゃ、止まりそうにないわい。なあ、しのぶ」
切り替わる瞬間のらしくないシリアス面が、鼻の下をびよーんと伸ばしたスケベ面よりずっと笑えて気持ち悪くて、しのぶは腹を抱えて大笑いした。上体を垂直に折り曲げたとき、あたるのカサカサした指先がしのぶの頬をかすめた。
あたるは血の滲む親指をくわえて、しのぶを睨んだ。
「なにがそんなにおかしい。女っちゅーもんはわけがわからん」
あたるはおもむろに左腕でしのぶを引き寄せた。しのぶはバランスを失ってあたるの胸になだれ込む。
してやったり、とニヤリ笑うとあたるはしのぶの髪に指を差し入れ、まさぐった。ゴツゴツした指の通りの、不器用な愛撫だった。
そしてキスをした。
「せっかく(ろまんてぃっく)に(むーど)を作ってやったのに、台無しじゃ」
吐き出される甘い息と柔らかい低音がしのぶを酔わせた。
「ひょーっとして、しっのぶちゃんは、おれのキスがあんまりにも気ん持ちよくって、恥ずかしくてこーんなことしたのかな〜?」
んん〜?としのぶの顔を覗き込んでから、あたるは「生娘でもあるまいし」とカラカラ笑った。
カッとして、しのぶはあたるの束縛を振り解いた。その勢いのままあたるの両頬をはり、トドメにみぞおち一発くらわせると、「生娘なのよっ!」と怒鳴った。
女の子になんてこと言わせるの、としのぶが肩をいからせると、あたるは「そんなこたー知っとるわい」とゲホゲホむせこんだフリをした。そして、しのぶをまた抱き寄せた。
「今も昔も、しのぶはおれのもんだ」
あたるは、しのぶの赤く染まった瞼を親指の腹で撫でると、今度はさっきのよりずっと念入りにキスをした。愛情より劣情が上回るキスで、なにがムードよ、と息継ぎの合間にしのぶは薄く笑った。
血の味とか鉄の味とか、そんなものはちっとも味わえなかった。あたるは、指をくわえてチューチュー血をすっていたはずなのに。
しのぶには、欠片も残しておいてくれなかった。
ロミオはジュリエットのための毒薬を一滴も残さなくて、ジュリエットはロミオを「ひどいひと」となじった。だからジュリエットはダガーを自らの胸に突き刺すしかなかった。
あの日、悔しい、と泣いてやればよかった。
だけど、「ズルイ」とラムに叫べもしないあたしが、どうやって泣けばよかったのだろう。だって、あたるくんはあたしのことを「未来もおれのもん」とは言わなかった。
ラムが来る前ですら。
子供のようにくだらないことで泣きじゃくることも、女の武器の泣き真似も、全部全部ひっくるめて、泣くことは得意だと思っていたのに、あの日、あたしは泣くことが出来なかった。
目頭があつくなってしまうことを、なによりも恐れてしまった。
最後に困らせてしまうのが、怖かった。それだけが、あたしがラムに勝てる唯一のことだと思った。