瑠璃が鳴く




 一羽の瑠璃は美しい鳴き声を秘めたまま、満足に囀ったことがない。
 彼女が一鳴きすれば、瞬くうちに数多の雄瑠璃が集うことを、彼女は本能で知っている。けれど彼女はその囀りを披露しようとしない。
 一羽の瑠璃は美しい湧き水のある深い渓へと逃げようと思えば、容易に逃げ出せた。けれど彼女は水差しに茶色い濁った水しか差し出されない、干からびた草をついばむことが最大の幸福となりうる、腐った木で組み立てられた鳥籠に留まっている。
 一羽の瑠璃の側には驚くほどの美声の持ち主が四羽いた。
 一羽は中国種の雌で翼に見るも艶やかな朱斑がある。一羽は脇腹が橙色の、穏やかで上品な雌。一羽は翼に大きく象徴的な白斑を示す豪奢な雌。
 残る一羽は、どこまでも蒼い羽を有し、雌を魅惑する美声で鳴き続けることを使命とされた美しき雄。自然界の摂理として、どの雌よりも美しく気高く強い雄である彼は、しかし時折、自然界の摂理に反して、尾に淡い海色を載せただけの薄汚れた灰色と生成り色の雌に変態する。
 一羽を除いて皆雌であったが、唯一の雄である彼が変態し雌となったとき、彼女たち四羽は雌でありながら、揃って誰にも負けぬ美声を有していた。それは未だ囀ったことのない一羽が持たぬ声だった。
 彼女は美しい鳴き声を秘めていた。けれどそれは彼女の周りを飛び交う四羽には到底及ばないと知り、声を封じた。
 一羽の瑠璃はぶつぶつと低い唸り声を不穏に漏らすことで、羽にまとわりつく四羽の美しい囀りを振り払っていた。
 彼女が一鳴きすれば彼女は解放され、それまで彼女を虐げていたあらゆる人々が彼女の囀りに胸がやぶれるほどの懺悔で慟哭するだろう。
 時折彼女は、いつか必ず来るだろうその日を虚ろな瞳で夢想する。そうして穏やかな眠りにつく。

----

「あかね…だいじょうぶかい?」
 昨晩、けたたましく天道家に鳴り響いた電話をかすみが取り、その瞬間すぐに受話器を落としたかすみに早雲が代わり、その間に慌ただしくバタバタと階段をかけおりてから未だ一言も口にしないあかね。
 早雲は哀しみと疲れ切った顔で無表情な末娘を見た。
 彼等の周りでは黒い服を着た人々がいくつかの塊をつくって、ひそひそとやっていた。鼻を啜る音や噛み殺した泣き声と、襖向こうでは慌ただしく駆けつけた親戚や友人達の足音がする。弔問客と一通りの挨拶を交わす親戚の抑えた声。
 祭壇には位牌に遺影にお膳。盛台には供物。
 故人が好きだった甘いケーキは昨日あかねが故人のお気に入りのカフェで買ってきた品で、盛菓子や盛果物の中、浮いている。

 祭壇が葬儀屋によって整えられると、無言であかねが前に出、昨夜のうちに故人が食すはずだったケーキを供物台に供えた。ケーキのクリームを親指につけ、家族の輪に戻ってきたあかねをかすみが抱きしめた。かすみもまた無言だった。クリームがかすみの礼服についた。

 生花で囲まれた遺影は故人の稀に見せる精悍さをとらえた写真。遺影の写真選びに大した時間はかからなかった。
 まともな表情で写っているものが少なく、場に合うものがこれくらいしかなかったということ。普段から隠し撮りされ続けていたために、数年前の最早別人にしか見えないような写真の中から、これならまだ最近の故人に似ている…いやいやこれの方が…と苦心して選ばなくてよかったこと。
 なびきがこんなことなら、らんまちゃんの写真を優先すべきではなかったわ、と苦々しげに呟いて遺影用の写真を大量に提供した。
 その大量の写真の中から、のどかが一枚を抜き取りそれに決まった。

 ご霊灯の灯りがゆらゆらと虚ろな玄馬と気丈なのどかの顔を照らす。
 通夜には親しい者だけを、とは言っても故人の交友は広すぎて深すぎて、どこで区切ればいいのかわからなかった。けれど、誰が伝えたのでもなしに、いつの間にか故人を取り巻いていた友人達は訃報を聞きつけ集まってきた。
 海を越え中国からも、弔電だけに留まらず本人が空を文字通り”飛んで”来る者も数人あった。
 それから皮肉な贈り物も届いた。呪泉郷ガイドとサフランから連名で、四斗樽の男溺泉(ナンニーチュアン)
 玄馬が納棺の前に届いた男溺泉全てを使って故人の体を清めた。騒々しい弔問客達が訪れる前に。無益な争いを生む前に。

「なんでや…なんで…」
 学ラン姿の麗人が大きなヘラを背負ってフラフラあかねの側へと寄ってくる。一塊りの弔問客達が大きなヘラを見て眉をひそめた。継いで右京が女であることに気づいて、学ラン姿にまた眉をひそめる。
 あかねのガラス玉の瞳にうつる右京の頬には幾筋もの涙の痕とへばりついた髪。
「…あかねちゃん」
 あかねの陶器のような頬を撫で、それから顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、あかねの首に抱きついた。あかねは右京の体当たりによろけ、腰を畳にうちつける。右京はあかねの人形ヅラに胸が突かれた。
「あんたまで!あんたまでどこいく気や!!」
 ぎゅうぎゅうと回した右京の腕があかねの首を締め上げる。あかねが小さくむせた。

「殺す気か」

 冷たい声が安っぽく高ぶった部屋の空気を切り裂いた。
 ここは故人を偲び嘆き悲しむ場所である、と感情を強制される下地が出来上がっていた場所に、右京の泣き声がそれを加速させていた。
 露骨な嫌悪感を表情に浮かべ、シャンプーが短い簡素な動きで右京をあかねから剥がす。
「あかねが乱馬追う、許さない」
 漆黒のチャイナドレスは妖艶で、喪服らしくない。シャンプーの後ろでは同じく漆黒のチャイナを身に纏い、長い髪をひとくくりにしたムースが護衛のように控えている。
「乱馬はわたしの男ね。あかねが追う、許さない。乱馬が汚れる」
 シャンプーは目を細めてあかねを見下ろす。あかねの視線の先はシャンプーの瞳にあったが、目が合う感覚をついにシャンプーは得られなかった。
「…乱ちゃんはあかねちゃんの許嫁や。最期くらい、認めたらどうや」
 うちかて許嫁やけどな、と右京がシャンプーの肩にぶつかって霊前へ向かうのをシャンプーはつまらなそうに一瞥した。ムースはシャンプーの横顔から乱馬の遺影へと視線をうつす。
「なんてことじゃ…」
 ぼそりとつぶやくムースの声にシャンプーは小さく嘲った。

「乱馬…ッ…きさまッ!あかねさんをしあわせにするのが、きさまのッ!きさまの役目なんだろう…ッ!」
 良牙の鼻声があまりに大きかったために、祭壇のろうそくの火が揺れ、ぽたりと鑞が垂れる。
「良牙さま…」
 大きく逞しい背中を丸めて泣く良牙の背に、あかりが白い手を添える。

「無事、お通夜に間に合ってよかったですね」

 良牙がカツ錦の腹に拳を沈めた。カツ錦が倒れ、襖を破る。あかりが「カツ錦っ!」と叫んで良牙から離れる。
 背中からあかりの手が剥がれ、僅かな体温が逃げていった。
 しかし、あかりがいなければ、事実良牙はこの場にたどり着けなかっただろう。方向音痴のコントロールは感情如何によるものではないのだから。

「…あかりちゃんにあたるんは、お門違いやで」
「………」
 右京は良牙の隣りに膝を折り、遺影を見上げた。
「あのこはエエこやで。乱ちゃんいなくなったせいで、あかねちゃんフリーやって、どないしたらええか不安なってるアホについてきてくれるんやからな」
「……黙れ…」
 右京は白装束の故人をおそるおそる目にし、すぐに視線を外した。
「乱ちゃんの前でウソつくんやめ。そっから見とるわ」
「………」
 良牙の拳がきつく握られたのに右京は気づき、立ち上がった。
「あんたは最低や」

 あかりがカツ錦と共に良牙の元に戻ってきた。

「乱馬さま」「乱馬」「乱馬くん」「早乙女」「オカマ野郎」
 故人の名を呼び、霊前に(たか)る羽虫達をあかねのガラス玉の瞳が捉えた。

----

 一羽の瑠璃はその日初めて、美しい声で鳴いた。彼女の囀りはそれまで彼女を虐げていた者の心を強く揺さぶった。
 一羽の瑠璃は、彼女の周りを飛び交う四羽がその美声を失くしてようやく、自由を得た。響き渡る己の美声に酔い痴れながら、彼女は囀り続け、彼女は唯一の瑠璃になった。

――彼女が一鳴きすれば彼女は解放され、それまで彼女を虐げていたあらゆる人々が彼女の囀りに胸がやぶれるほどの懺悔で慟哭するだろう。

 しかしその予言は外れた。
 彼女の囀りは彼女を虐げていた人々の憎しみを買うのみで、彼女を虐げながらも虐げていたことに気づいていなかった多くの者達の心を黒く塗りつぶしてしまった。

 唯一の瑠璃が鳴く。
『こんなに幸福で美しい日はない。ああわたしは幸せです。世界は美しい。わたしは声の出る限り歌いましょう。讃えましょう。この素晴らしき自由を』
 自由と幸福を噛みしめ謳う瑠璃の一鳴きに、それまで彼女を虐げていたあらゆる人々の胸は憎悪に満ち、彼女は解放される唯一の最期のチャンスを逸してしまった。
 彼女は復讐の叶わなかった事実に気がつき、そして復讐されたのは自分であることを悟った。

 両手からこぼれ落ちるほどの幸福に溺れながら、他者を妬み羨み、温もりを忘れ些細な不満を大仰に嘆き恨み、自ら声を封じた、卑屈者の瑠璃が鳴いた。
 一羽の瑠璃は、自らの一鳴きによって彼女の足についていた奢った足枷を砕かれた。足枷を奪われ、彼女の貧相な姿が露わになった。そして、彼女はそれまで彼女が嘲り恨んでいたあらゆる人々へと、胸がやぶれるほどの懺悔で慟哭した。

----

「乱馬ああ……ッ」
 あかねのガラス玉の瞳が揺らいで、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝うのを、早雲は侮蔑と冷え切った面持ちで眺めた。
 香が仏前の香炉に薫じる。向こうの透けて見える薄く細い、白い煙の先が遺影に届く。



-end-


≪戻る