革命ケーキ



 「もう覚悟は出来たわ。」
 彼女はぎゅうと握りしめていた右手のこぶしを僕の鼻先でグー、パーと数回開いたり閉じたりしてみせ、強張った顔で笑いかけた。
 少しむくんだその手はじっとりと汗ばんでいて、長時間きつく握りしめていたためだろう、ツメの痕がくっきり、と痛々しく、白く柔らかそうな肉の上に波打った一本の赤い線となって刻まれていた。

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 ついさっきまで坂田真弓はずいぶんと思い悩んだ様子で、狭いリビングと洗面所とを行ったり来たり、何度も往復していた。血管の透けて見える白いキメの整った肌が、どす黒く染まるまできつく、右手にこぶしを結んだまま。

 何かを言いたげに、しばらく僕をじいっと見つめて口を開きかけてはつばを飲み込み、自由な左手でぐしゃぐしゃと乱暴に頭をかく。そしてまた洗面台へと戻り、鏡に映る自分の顔を、焦点の定まらぬ虚ろな瞳でぼんやりと眺めては口元をごもごもと動かし、何かつぶやいているようだった。
 彼女の規則的な反復運動を黙って見つめ続けていたのだが、ふと時計に目をやると、時間はあれよと過ぎていったようで、僕がこの家に来てから、夜が明け、半日ほど経ってしまっていた。
 女の子の部屋にしては暗い色の、重たく、ぶ厚いカーテンで締め切られたこの部屋では、外から昇ってきた太陽の光などほとんど差し込まず、時計を見なければ、今が一体何時であるのか見当もつかないものだから、確かに長い間、僕はじっと座っていたようではあるけれど、まさか夜が明けてしまっていたとは思わなかったのである。
 もっとも、このアパートは元来日照条件が悪いから、カーテンで締め切らずとも光は差し込まないのかもしれない。

 落ち窪んだ瞳に目の下の青黒いクマ、かさかさに乾き皮のめくれた唇、鳥の巣のようにぐしゃぐしゃな髪の毛、ねずみ色のフリースの上下にはあちこちに染みが出来ていて、ようく見てみると、小さな食べかすやら何やらくっついている。
 今では見る影もないが、真弓はそれなりに可愛らしい女性だった。色白で、童顔ながら少し彫りの深い、整った顔立ちに、風にふうわりとなびく猫っ毛のロングヘアー、背は小さく、華奢な手足というその容姿は、二十歳という年齢よりずっと若く、思春期の少女のようにさえ見えた。際立って美人、と呼べる程ではなかったのだが、天性の、毒気のあるあどけなさと危うさが真弓を美しく見せていた。
 しかし、目の前でふらついている真弓の姿は毒気どころか毒そのものの、腐臭すら漂う、行き場のない浮浪者だ。
 真弓はそれでもまだ、女であることでの羞恥心というものを捨てきれないでいた。
 恋人、と呼んでよいものなのか、真弓自身判断のつきかねているのだが、真弓が一瞬の歓喜、快楽と、持続的な絶望、孤独を感じ続ける原因となっていた、田島保という男の目に一体どう映るのか。真弓の中に僅かながら残っている羞恥心と向上心は、保の存在によってぎりぎりしがみついているものであった。
 保は華奢で艶やかな女が好きだったから、真弓はもともとはぽっちゃりとしていた体を引き締めるため、何度も断食のようなハードなダイエットをしたり、本屋で暇潰しに目を通すくらいでしかなかったVOGUEのような、背伸びしたファッション雑誌を月に三、四冊は必ず購入してチェックをしたりと考えられる限りの美しくなるための努力につとめた。今では、バランスのいい痩躯の最も映えさせる動作がわかるようになって、動き自体も自然に、魅力的に見せることが出来るようになったし、流行ではない自分のスタイルというものもわかってきた。ブランドものなんかじゃなくたって、いいものを見抜く目も、備わった。
 全て、保のために、と積み重ねた努力で得られたものだった。

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 可哀想だとは思うけれど、僕にはどうしようもない。出来ることといえば、ただじっとリビングで彼女の返事を待つだけだ。

 長い間、それは何度も繰り返された反復運動の中で一番長い時間だった、一時間ほどだろうか、彼女は僕の顔をじっと見つめ、それから、僕と一緒に初めてこの部屋に招待された近所のスーパーのでかい買い物袋が、無造作に二つ三つ転がっている台所へと立ち上がって行ってしまった。
 僕は、黙って彼女が戻ってくるのを待った。

 真弓はガス栓を開け、やかんに水を勢いよく入れ、ぼうっとしていたのか暫くやかんから水が溢れ出ていることに気が付かなかった、そのやかんを火にかけた。ステンレスの上ではぴちゃり、と、きつく締めた蛇口から漏れる水滴が音をたてて、底を打っていた。
 灰色の煙の立ちこめた、形の崩れたババロアがぎゅうぎゅうに押し詰められたようなこの部屋を、やかんの汽笛がまっぷたつに切り裂いた。
 そこで真弓は、まな板の上についていた肘を上げ、絡ませていた足をほどき、ごちゃごちゃに置かれた食器棚からアフタヌーンティーのガラスのポット、ティーカップ、ソーサーのひと揃いとセイロンの葉を背伸びして取り出した。
 どこにもないはずの光が透明の磨かれたポットとティーカップに反射するのを見て、真弓は微笑んだ。
 強張った頬はそのとき初めて緩み、それは、コーヒーショップにゆったりと腰掛けていたときの真弓を思い出させた。

 白いカシミヤのタートルネックセーターに若草色のアンゴラのカーディガンを羽織り、ボトムはくすんだ青緑色のぴったりとしたブーツカットのジーパン。足下は細いストラップのついた黒のローヒール。
 紀伊国屋で買ったばかりの新しい、カバーのついたままの文庫本を、マニキュアの塗られていない、細くつるりとした肌色一色の指でめくっていた真弓。
 真弓の顔の横のガラスを保がこつこつと二回叩くと、真弓はさっと顔を上げ、そのときも長時間の読書で固まってしまったらしい頬を緩やかにほぐして、静かに微笑んだ。

 口元までたっぷりと紅茶を注いだティーカップをソーサーにのせ、彼女はそれを丁寧に両手で持ち、僕の方へ、ストレートのセイロンをこぼさぬよう、ゆっくりと歩いてきた。
 音も立てずに静かにソーサーを僕の横に置き、床のほこりや何かの食べかすのような残骸を手で払い、安っぽい色あせたような赤色のビーズクッションをソファーから落として、その上に腰を下ろした。
 そして、彼女は、今度は強張った表情のまま笑って、僕に言った。

「もう覚悟は出来たわ。」

 真弓の胃には、薫り高いストレートのディンブラと、スーパーの安売りお徳用パックのキットカットに、タイムセールスの冷たい惣菜やらが次々と休む暇なく、ペースト状ではなく固体のまま1,2cmくらいの大きさに噛み砕かれて、落とされ続けた。
 そして、最後に、スーパーのビニール袋に無造作に詰め込まれていた食料品とは別に、きちんとテーブルの上で、ラッピングの施された箱に二つのドライアイスと一緒に入れられたまま、お行儀よく座って待っていたTop’sのチョコレートケーキ (大)が胃に納まると、ぱんぱんに張った腹に腕を回し、腰を曲げながら台所へよたよたと向かった。ポットを手に戻ってきて、ティーカップに残りの紅茶を注いで一口飲み、床に転がった煙草を拾って火をつけた。
 その瞬間、真弓の頭から保の存在が、天井にぶち当たって消える煙に溶け込んで、なくなった。


- end -


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