opening theme 〜the monster is coming


 見たい映画があると言うと、乱馬は「明日は修行すっからパス」と言った。

「なびきでも誘えばいいじゃねーか。俺は行かねえ」
 乱馬がくるりと宙を舞う。指の先からつま先まで神経が行き届いた、しなやかな動き。地に降り立つときの音はほとんどない。あたしの足が一歩前に出ると道場の床がきしんだ。
「あんたも見たいって言ってたじゃない」
 なびきお姉ちゃんから二割引で買った映画のチケット。値引きできたのはきっと、あたしと乱馬がデートするって情報をどっかの誰かさんに売るつもりだからだろう。もしかしたら後をつけて写真でも撮るつもりかもしれない。ヒマだったらだけど。
 乱馬は逆立ちの格好で首を傾げる。片手でとる重心。支える体は揺れもしない。
「そーだっけ?」
「そーよっ!!」
 ぐしゃり、と握りつぶされる二枚のチケット。乱馬が逆立ちをやめる。ひょい、と顔を突き出してあたしの手を見る。
「ぐしゃぐしゃじゃねーか。それじゃあもう無理だなー」
 おめーはガサツだから、と乱馬が嬉しそうに丸められたチケットを見る。道場に乱馬の口笛が響く。
 ぷるぷると震える体。ギュッと噛んだ唇の血の気が失せる。
 道場の外では荒れ狂う風の声。視界に入る、空を舞うチラシの切れ端。

 こぶしをあげようと手をあげて、あたしの手がぴたりと止まった。脳裏に浮かんだ、幼い顔をした先生。可愛らしい声で乱馬を呼びとめる。
「………?」
 顔の前に腕を掲げて構えを取った乱馬が不思議そうな顔をする。おそるおそる、構えた腕を下ろす。
「どーした?」
 開け放った扉の向こうから突風が入り込む。びょーう、びゅおーう、と風が唸り、道場がガタガタと揺れる。
 あたしの唇が片端吊り上がる。血の気を取り戻した赤い唇が開く。
「あんたそーいえば、ひなこ先生から宿題出されてたわよね」
 乱馬の表情が「忘れてた」を示して歪む。あたしは「やっぱりね」と手を叩きたいのを堪える。
「あたし、アンタの代わりにやってあげてもいいわよ」
 周りに花が咲いたように、乱馬の顔が明るくなる。単純。ずいっと上半身を乗り出して、乱馬があたしの両手をがっしり包み込む。
「ほんとかっ!おめーいいヤツだったんだなあっ!」
 乱馬は嬉しそうに笑うと満足して「サンキュー」と言った。あたしの手は再び外気に晒される。
 チケットはさっきよりもっとぐしゃぐしゃに丸められていた。
「ただし」
 背をむきかけた乱馬の動きが止まる。こちらを向いた乱馬の顔。片眉があがる。

「明日、一緒に映画、見に行ってくれるならね」

-----

「あら。あかね。ご機嫌ね」
「そお?」
 玄関先に買い物かごを下げたかすみお姉ちゃん。階段を上がろうとあたしの右足が一段目に載っている。
「何かいいことでもあったの?」
「ううん。なんにも」
 あたしの右手に収まる映画のチケットがカサリと悲鳴をあげる。かすみお姉ちゃんの視線があたしの右手に移る。かすみお姉ちゃんは目を細めて柔らかく微笑む。
「これからお夕飯の買い出しに行って来るから、あかね。お留守番よろしくね」
 ドギマギとあたしは右手をスカートのポケットに突っ込み、チケットから手を離す。
「うん。あ、でも買い出しならあたし行くよ?」
 かすみお姉ちゃんが頭を振る。ゆったりと結った髪がリボンと一緒に揺れる。
「ううん。いいの。あかねちゃんにはお留守番を頼みたいのよ」
 かすみお姉ちゃんが居間の方へ振り返る。あたしはその視線を追う。障子が破れ、争ったあとがある。
「お父さんと早乙女のおじさまがね、おじいさんを追って出掛けてしまったから、きっとしばらく帰ってこないわ」
 畳が焦げて返されているのは、おじいさんの仕業なんだろう。お父さんとオジサマは下着ドロでも止めるつもりなのかもしれない。
「乱馬くんは道場に居るけど…。何かあったらコレ」
 買い物かごからぬっと引き出される金属バット。一体どこにこんなものが入るスペースがあったのだろう。あたしはかすみお姉ちゃんから、ズシリと重量感のあるそれを受け取る。
「じゃあお願いね」
「うん。行ってらっしゃい」
 あたしは手を振ってかすみお姉ちゃんを見送る。金属バットがスカートに触れる。ポケットにうずくまる映画のチケットがカサリと声をあげ存在を主張する。
 かすみお姉ちゃんが門をくぐるのを見届けると引き戸を閉めた。階段を上がって部屋へ向かう。明日の映画のためにすべきことをする。電子辞書をなびきお姉ちゃんに貸していたことを思い出して、自分の部屋の前になびきお姉ちゃんの部屋に入る。すっきりと片づけられてシンプルな部屋。窓の外では強い風が吹いている。やはりかすみお姉ちゃんに代わって買い出しに行けばよかったと後悔する。






 乱馬の部屋から苦しそうな呻き声が聞こえたような気がして、手を止めた。
 乱馬の部屋といえば、今は誰もいないはずだ。おばさまは近所のお茶会に出ている。今朝「今度あかねちゃんも一緒にどう?」と誘われた。それを隣りで聞いていた乱馬が「おふくろ、やめとけ。こいつが行ったら…」まで言葉にして、それ以降の台詞はあたしのパンチで消えた。
 なびきお姉ちゃんは九能センパイにらんまの写真を売っているところだろう。校門あたりで二人が肩を並べて何かヒソヒソと密談しているところを見かけた。まだ帰っていない。
 お父さんとおじさまはおじいさんを捜索中だし、かすみお姉ちゃんは商店街。乱馬は道場で修行中のはず。
 でも、もしかしたらいつの間にか道場から戻ったのかもしれない。
 乱馬の部屋から漏れる呻き声は、乱馬か、それとも不審者か。どちらか。
 机に手をついて立ち上がる。ころころとシャーペンがノートの上を転げ落ちる。



 音を立てずに階段を降りる。手には金属バット。つま先をそろりと床につけ、かかとをヒタリと下ろす。同じように意を払って、かかとからつま先へと床から足の裏を剥がす。ひゅっと息を吸うたびに張り詰めた空気が警報を鳴らす。
 低く高く。呻き声は微かに、だけど確かに聞こえる。バットを握る手に力がこもる。

 目の前の(ふすま)は固く閉ざされている。僅かばかりの隙間も望めない。
 呻き声は途切れ途切れに襖を震わす。低く。高く高く。
 左手を金属バットから外す。ぬるりと手が滑り、大量の汗をかいていたことを知る。鼓動が早くなる。無意識下の怯えを目の当たりにして、急速に体中を回る恐怖。浸食されていく勇気。
――乱馬が倒れていたらどうしよう。
 脳裏に浮かぶ乱馬の姿は、額に脂汗をかき、お腹を抱えてうずくまっている。苦悶に歪む青ざめた顔。満足に出せぬ声。
 そんなのいやだ。
 あたしは震える左手を襖にかける。唾を飲み込む。左手首にぐっと力を込める。襖を一気に引いて「乱馬あ!」と叫ぶ構えを取る。

「あっ………んっ………うぐ…」

 鋭い違和感があたしの手を止めた。何かが違う、と感じた。襖の向こうに感じられる恐怖。予想していた種類と違う恐怖だと本能が告げる。
 女の、声。熱に浮かされたような。苦しそうな、首を絞められた蛙のような。
 芯が冷えるような恐怖はなりを潜め、黴臭い恐怖が滲み出る。付随してイタズラな好奇心が沸く。襖越しに感じる背徳の気配。陰気な期待に満ちる肺。
 そうであるはずがない、とあたしは思い、それ以外にあるはずがない、とあたしが思う。
 襖を抜けるかん高い嬌声。ぴたりと沿わせたあたしの耳管を伝う。空気を震わせていた微かな振動が、静かにあたしのつま先まで震わせていく。
 窓の外では豪風が激しく唸り声をあげてのたうっている。まるで蛙を飲み込む蛇のように。蛙を探して町を這いずり回る巨大な蛇。

-----

「宿題出来たか?」
 ニコニコと邪気のない笑顔。ノックもせずに乱馬が部屋に入ってくる。あたしは椅子を回転させて乱馬を見る。乱馬は何の躊躇いもなくあたしのベッドに腰掛ける。
 シャーペンを握る力が増す。眉間に皺が寄る。鼓動が一度、大きく飛び跳ねて静まった。
「もしかしてまだ?」
 早くしろよなー、と乱馬の顔が曇る。黙ったままのあたしに、その拒否を得たと思ったのか、乱馬は小さく舌打ちしてあぐらをかいた。乱馬の視線が床に移る。ベッド下を転がる金属バットを見咎めて手に取る。
 あたしは椅子をくるりと回転させて机に向かう。乱馬は手にした金属バットを右へ左へと弄んでいるところだった。太くて節くれだって陽焼けて褐色の、かさかさとした指。
「おめえ、まーた誰か殴ろうとしてたのか?」
 被害の対象は間違いなく自分だ、と乱馬の口調は不機嫌そうだ。
 あたしはじっと耐える。背中越しの乱馬の軽口に、あたしの足が震える。足の根本からゾクゾクが伝わって止められない。
 乱馬の動きが止まる気配がした。
「…ひょっとして、じじいが来たのか?」
 あたしを気遣う乱馬の低い声。抑えられた調子の声が誘う足の震え。背後でベッドがぎしりと音を立てる。不穏な空気。
 あたしは自分の唇が歪むのに気がついた。
「あかね」
 ひたり、とこちらに近付く足音。乱馬の声は少し苛立っている。
 あたしは頑なにシャーペンを握って、広げたノートを見ている。ノートには既に模範解答が敷き詰められている。足が震えて止まらない。
「おーい。あっかねちゃーん?」
 乱馬の声が段々険しくなる。たぶん乱馬は何かを勘ぐっている。たとえばあたしの身に起きたかもしれない不穏な出来事。あたしが傷つかざるを得ないような事故。おじいさんがあたしの下着を盗んだとか、それどころで終わらなかった何か。それから乱馬が無意識におかした過失。ぐるぐると目まぐるしく、乱馬の脳みそは動き回っているんだろう。
 あたしが知るはずがない、と信じ切っている一つの動かし難い罪悪感とともに。

「おいっ!いい加減にしろよっ!!」
「さわらないでっ!」
 ぱしん

 小気味のいい音が生ぬるい空気を引き裂く。乱馬の目が大きく丸く見開かれる。
 ああ。右手が熱い。足が震える。
「なっ……。なんだよ急に!?」
 乱馬の目に浮かんだ戸惑いの色。一歩後ずさりしたかと思うと、乱馬はずいっと前のめって口角泡を飛ばした。
 乱馬の背中越しに見えるベッドはシーツがよれている。
「さわらないでって言ったのよ」
 愉しそうに舌の上を転がる言葉が、乱馬の顔を歪ませる。足の震えが止まる。熱い。熱い。
――あたしは乱馬が罪を感じる理由を知っている。
 子宮が疼いている。

-----

 両手でゆっくりと襖を引く。かたりとも音は立たない。一本の細い光の線が向かいの壁に映る。限度はここだ。そうっと左目を隙間に当てる。右手の金属バットが音もなく襖にあたる。バットが揺れぬよう足の間に挟む。心臓が早鐘のように高鳴る。
 風がガタガタと窓を鳴らしている。葉が窓をたたく乾いた音がする。あたしの左目に小さく背中を丸めて横たわる女が一人映る。部屋の丁度真ん中に夕日が差し込んでいる。横たわる小柄な女から長い影が伸びている。
 血の気の失せていくあたしの蒼白い指が襖に沿い、震えている。金属バットを右手で支える。両足が震える。膝がわらう。唇がわななく。
 耳に届く、声。左目に映る女の背中が仰け反る。だらりと垂れたおさげが床を滑る。無造作に投げ出される細い腕。力の抜けた長くツルリとした指の先に、夕陽の橙が触れる。鼻腔をかすめる濃い黴の匂い。
 女の長い、溜息。

-----

「俺が何したってんだよっ!?」
 乱馬のドスの利いた低い声。眉間に寄せられた深い刻み。赤くなっていく顔。
 乱馬の目に映る女の唇が吊り上がる。赤く艶やかな唇。細められていく目。真っ直ぐに伸ばされる腕。罪を摘発する指。ショートカットの髪が揺れている。
 机の片隅に寄せられた映画のチケット。一度丸められて引き延ばされた皺。カレンダーの明日の欄に印された赤丸と、見る予定の映画のタイトル。床に転がる金属バット。よれたシーツ。唸る風。落ちかけた太陽。疼く子宮。

 蛇がついに隅に隠れて震える蛙を見つけ出す。エデンの蛇がすすめるものはただ一つ。林檎を食えと唆す。


-end-

≪戻る