今日も今日とて排泄処理。

 これは儀式。あかねが女神であり続けるための。
 儀式には必ず神への御供が必須で、そしてその贄は俺が食わなければならない。
 これは神の与り知らぬ処で行われる、厳かな儀式だ。


薄氷


「乱馬あ、わたし帰るね。ひいばあちゃん、そろそろムース使て探しにこさせる」
 トイレでゲエゲエやってる俺に、シャンプーはご丁寧に挨拶をして天道家を出ていった。足音も玄関の戸が閉まる音もしなかった。
 もとより挨拶を返す気などない。「気をつけて帰れよ」なんていう偽善じみた台詞は、ゲロゲロ吐いていなかったとしても、言うつもりなんぞ毛頭ない。
 女の上擦った声が耳に入ると、更に吐き気が増す。嘔吐物が気管に詰まり、ごぼごぼと逆流する。苦しい。酸っぱい臭いが脳を覆い尽くす。体液のなすりつけられた体がどうしようもなく不快だ。皮膚ごとベロリと削げ落としたい。次から次へと、原形を留めぬ食物だったもの、が胃から沸いて出る。
――うるせえ。いちいち帰るなんて言わなくていいんだよ。黙ってとっとと帰れ。
 さすがに面と向かって言えはしないが、いつもそう思っている。シャンプーにしろ、ウッちゃんにしろ、小太刀にしろ。



 始まりは確か、シャンプーだった。
 おじさんと親父とおふくろが町内会の旅行に出掛け、かすみさんもなびきもあかねも、友達の家に遊びに行ったとかで不在。ジジイはいつもの通り、どっかで下着漁りでもやっていて、これまた居ない。
 道場で汗を流して、風呂に入る。かすみさんの作り置きのカレーを温めて食う。テレビをつけると、くだらないバラエティ番組が映った。

「イ尓好!」
 縁側の障子が破られる。部屋の光が逃げていく。庭先の池が波紋を描いている。人影が飛びあがって後退する。置き石に色濃い女の影。
「あんだよ、シャンプー。障子張り替えたばっかりなんだぜ?また怒られるじゃねえか」
 シャンプーが置き石から縁側に飛び移る。手にした岡持に光が反射する。
「今夜あかねいない。天道家、誰もいない。なびきに聞いた」
 シャンプーは岡持からラーメンとスープと箸を取り出す。香ばしいにおいが鼻腔をくすぐる。カレーで満たされたはずの腹が鳴る。
「そうだけど…。あ、このラーメン俺に?サンキュー!」
 ぱきり、と割り箸を割る。どんぶりに箸を入れようとしたところで、シャンプーは俺の目の前からラーメンを奪った。カツッ、と箸が机に刺さる。
「なっ!」
「ラーメン、乱馬のために私つくた。今夜、乱馬ひとり。邪魔者いない」
 シャンプーの目が光る。猫の目だと思った。その瞬間、全身に鳥肌がたった。
「乱馬、私の特製ラーメン食べる。私、幸せになる」
 シャンプーの目が三日月の形になる。
「乱馬、それでもよかたら食べるよろし」
 ぐいっと差し出されたラーメンに浮かぶ脂は虹色。俺はニイッと吊り上げられた、シャンプーの紅い唇を見た。
 開け放たれたままの障子。藍色の空に浮かぶのは、赤みがかった月。シャンプーの頭上に浮かぶ三日月とシャンプーの目。

「…いただきます」

 それが始まり。

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 女がダメなのか、と思った。
 考えたくなかったが、もしかしたら、このフザけた体質のせいで、俺は男が好きになっちまったのかもしれない、と思った。だから九能センパイと寝た。九能センパイの愛しい「おさげの女」の姿で、抱かれてやった。
 先に結論を言う。わかったことは、俺は男に抱かれて悦ぶ趣味はない、ということだ。

 九能を誘惑して布団に入るまでは順調だった。
 九能は大爆発を脳天で起こすと、噴火したままの頭で俺を横抱きに抱え、風呂へ投げ入れ、自分はせっせと布団を敷いた。俺は乳白色の湯に浸かりながら、こみ上げる吐き気をなんとか我慢していた。九能の呼ぶ声が聞こえ、女の姿になるために水を頭から被って、用意された、趣味の悪い真紅のガウンに身を包み、風呂場を出た。部屋で待つよう言われ、九能が風呂からあがるのを待った。真っ白に輝くガウンに身を包んだ九能が俺に覆い被さり、俺の乳房が冷たい空気に触れた。
 そこまでが限界だった。
 俺はあまりのおぞましさに行為の最中にゲロリンと吐き、その嘔吐物が気管に詰まって呼吸困難に陥り、意識を失った。絶頂寸前の、さあラスト一発ぶち込もう、と腰をひいた九能は哀れにも、それをぐっと堪えなければならず、己の腹にぶちまけられた嘔吐物をぬぐい、それから、三途の川を危うく渡りそうになっている俺を介抱した。
 あの九能にもプライドがあったのだろう。抱いた女にゲロを吐かれたなどと他に吹聴するわけにもいかず、俺が九能に抱かれようとしたことは、なびきでさえ知らない。
 別に、九能が何を言おうが誰も信じやしないのだから構わなかったけど、なんの事も起きないのならそれに越したことはない。面白がって事を荒げるのが得意のなびきは正直、怖い。



 性欲がないわけではない。
 男の姿でいるときは、女の細い腰を掴んでガンガン打ちつけたくなるし、女の姿でいるときは、乱暴に奧まで突いて欲しい、と夢想する。我ながら無節操極まりないと思うが、どちらの姿でいようと抑えきれない性欲は表に出てくる。正常な頻度のオナニーもする。漫画に出てくる、ちょっとエッチなシーンで俺の股間は場所を弁えずに勝手に盛り上がる。仕方なしにこっそり処理しなければならない。
 性欲はある。
 女がダメとか男がダメとか、そういうことじゃない。まあ男がダメだというのは、死にかけたくらいだから、女よりダメに違いないんだけど。

 俺の性欲は条件付きだ。
 
 オナニーするには、なにかオカズがほしい。そうでなければいけないわけじゃないが、あった方がいい。いくら水に濡れると女になろうが本来俺は男なわけで、男としての性欲の方が勿論強いから、これから脳内で犯す女がオカズ。
 オナニーを始める。俺の右手の動きと共に、犯されている女が嬌声をあげる。女の口は開いている。
 そこで条件その一。
 女のあげる声に濁点が入ってはいけない。「ぐ」とか「あ゛」とか「う゛」とか「い゛」とか、なんでもいいけど、全部その濁点を取り払われていなければならない。エロ漫画の描写に濁点があったら、その瞬間に萎える。吐き気は少しだけ。
 条件その二。
 さらに言えば、その音は「あ」でなければいけない。「い」も「う」もダメだ。瞬間ではないが、徐々に萎える。吐き気はなし。
 条件その三。
 これは濁音以上に絶対で、絶対に一定の音階でなければいけない。興奮と共に「ド」の音が半音あがる、というように、音程が上がってはいけない。その音に愉悦の色が混じってはいけない。できればリズムも一定であってほしい。メトロノームのように。これが守られなければ、俺はすぐさま便器にリバースだ。
 つまり、俺はAVでは絶対にヌけない。
 もう、あとは箇条書きだ。
 毛穴があってはいけない。むだ毛があってはいけない。産毛もダメ。肌の色がまだらではいけない。アザがあってはいけない。黒ずみがあってはいけない。瘡蓋があってはいけない。肌荒れがあってはいけない。余分な脂肪が腹や背中についていてはいけない。体臭があってはいけない。体温があってはいけない。
 そして最も重要なこと。

――汗も血液も唾液も尿も、愛液も乳汁も。体液は全て、分泌されてはいけない。

 単語を口にするだけで気持ちが悪い。映画でエイリアンやらプレデターやらが粘液をベトつかせて画面いっぱいに登場したとき、大抵の人は不快感を催すだろう。それとまるきり同じだ。
 緑やら黄色やらの粘液を塗りたくったグロテスクで醜悪な顔。乳白色の粘液を塗りたくったグロテスクで醜悪な性器。どこに違いがある。同じように鼻をつく臭いの粘液を分泌して、そんなものを舐めろだと?フザけるなよ。

 二次元の女しか愛せないヘタレた男と、俺は大した違いがないのかもしれない。と気づくのに、そう時間はかからなかった。

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 軽石で擦っても、皮膚に浸透した分の汚れが取りきれない。何度体を洗っても、手形が残っているような気がする。そこからジワジワと腐っていくような気がする。便器にぶちまけて、もう出せるものは全て出し切ったのに、また嘔吐感に襲われる。口を手で覆う。
 もうもうとした白い蒸気が俺の体を包む。その中にバクテリアも混じっているのかもしれないと思っても、それを空気と一緒に吸っているのだと思っても、吐き気は催さない。人間ばかりがあまりに醜い。

「はあ…」
 ぐったりと両腕を風呂の浴槽に投げ出す。
 なんで俺は、こんなにも必死にゲロを我慢して女を抱くのか。抱いている最中もそうだが、情事後の、この倦怠感と虚脱感と罪悪感と嫌悪感と絶望感と怒りは、もうどうしようもない。
 きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。きたねえ。
 頭の中を呪文のようにグルグルグルグル、ずっと「きたねえ」が連呼される。「きたねえ」の対象は俺じゃない。その日抱いた女。俺に抱かれたがる女全部。

 ざばり、と湯からあがる。皮膚がふやけるまで湯に浸かっていても、こびりついた汚物はとれないと知っている。
 籠に入れられたバスタオルで湯と汗を拭う。蒸気で鏡が曇る。
 そういえば俺は風呂に入る前、バスタオルを用意してなかった。いつの間にか、かすみさんが用意してくれたのだろうか。「タオルおいておきますね」とか、一言いってくれてもいいのに。知らないうちに覗かれていたようで気分が悪い。かすみさんも結局、女だから。
 それにしてもいつ、かすみさんは帰ってきたのだろう。シャンプーと行き違いになってなければいいけど。
 俺は黄色のチャイナに腕を通す。ベタリとチャイナが体にへばりつく。洗面所のドアを開く。半袖から突き出た腕に冷たい風が触る。






 なぜ俺が吐き気と闘いながら女を抱くか。
 それは、俺があかねを好きでいなければならないからだ。
 俺に性欲はある。その性欲をどう処理するかは、マスターベーションが本当のところ、一番いい。不快感も面倒も一番少ない。ちょっと虚しくてもいい。実際の女と体を重ねる地獄よりはずっとマシだ。
 けれどこれは儀式で、あかねを好きでいるためには、あかねと比べて他の女がどれほど醜いのか、己に知らしめなくてはいけない。身を以て知らなくてはいけない。

 シャンプーと寝た日。俺の童貞喪失記念日。
 あかねはその翌朝、天道家の面々のうち、一番に帰ってきた。元気に「おはよう」と言うあかね。無邪気になんの疑いもなく俺の前に立つあかね。
 そのあかねの顔を見て、俺が真っ先に感じたのは、罪悪でも恐怖でもなかった。
――酷い嫌悪だった。

 俺は知った。あかねが薄汚いメスブタになりうることを。
 だから俺は言い寄ってくる女を抱いて、その汚い性器に排泄し続けなければならない。

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「あ、乱馬。ただいま」
 頭をタオルで拭きながら、茶の間に入ると、あかねがいた。煎餅を食っている。
 テレビの中では、アイドル歌手がピラピラした衣装で下手な歌を歌っている。
「おう。おめーいつの間に帰ってきたんだ?」
「さっき。誰もいないのかなーって思ったら、お風呂から音が聞こえて。こんな時間にお風呂入るなんて、あんたぐらいって思って…」
「え?かすみさん帰ってきてないの?」
 俺があかねを遮って聞いた言葉に、あかねが不思議そうな顔をする。唇に煎餅の欠片がくっついている。
「かすみお姉ちゃんは今日、旅行だって言ってたじゃない」
 あかねの眉間に皺が寄る。不穏な空気。
「そうよ。だからあたしが夕飯作るって言ったのに、乱馬もお父さんも出前とるとか言い出したんでしょっ!あんた、昨日自分が言ったこと覚えてないわけ?」
 思い出した。そうだ。あかねの料理を食わされるなんて絶対ゴメンだ、と言い張って昨晩喧嘩した。
 あかねがプイっとそっぽをむいて、八つ当たりに煎餅を齧る。
「なによ!どうせ乱馬のことだからバスタオル用意してないんだろうなって、箪笥から引っ張って持っていってあげたのに!」
 ああ。かすみさんじゃなかったのか、と納得する。そうだ。かすみさんだったら必ず何か言うだろう。あかねだったのか。尚更、悪い。
「えーと…。覚えて…るかなあー…なんて…」
 俺はへどもどして応えを返す。あかねが俯く。
「…なによ。あたしがなんにも知らないと思って…」
 あかねの肩が震える。嫌な予感がする。テレビからは、相変わらずヘタクソな歌が流れてくる。
「さっき帰ってくるとき、シャンプーを見たわ。うちから出てきたみたいだった。そしたら乱馬はお風呂に入ってるし…」
 あかねの声が鼻声になる。

 だめだだめだ。これ以上何も言うな。あかね。
 何も言わないでくれ。俺に夢を見させてくれ。
 お願いだから。何も言うな。何も。

「はあ?何言ってんだ、おめー。言ってる意味がわかんねー」
 あかねの肩の震えが止まる。卓袱台の上のボックスティッシュから一枚、ティッシュを抜き取る。
「…わかんないの?」
 非難めいた色と戸惑いの色があかねの声で共存して揺れている。
「しつこいっっ!!シャンプー見たのと俺が風呂入ってるのと、なんの関係があんだよっっ!?」
 あかねが鼻をかむ。ヘタクソな歌手の歌が終わる。拍手。司会者の投げやりな賛辞。CMに切り替わる。途端に大きくなる音量。ときどき時計の針の音が微かに存在を知らせる。
 濡れた前髪から水が垂れる。タオルで拭く。



 あかねはかんだティッシュをごみ箱に投げ入れると、振り向いた。
 笑っていた。
「ごめん。なんでもないの」
 肩からどっと力が抜ける。
「ったく。なんなんだよ」
 俺は頭をガシガシとタオルで拭きながら、あかねの向かい側に座った。新発売のポテトチップスのCM。
「ごめんってば」
 あかねが嬉しそうな声で笑う。
「ふん。じゃーお詫びとして、俺の宿題やること!」
「ええー!なんでよ!」
「なんでじゃねえ。意味わかんねーことでケチつけやがって」
 こうなったらもう安全だ。
「だって…」
「だってじゃないっ!」
 あかねの目の前から煎餅を引ったくる。
「…わかった。今回だけよ」
 バリンと大きな音を立てて、俺は煎餅を砕いた。

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トントン
 二回のノック。ノックをしないで部屋に入ると殴られる。扉に「AKANE」と彫られたルームプレートが掛かっている。
「はーい」
「あのよー。宿題…」
 右手のノートをあかねに突き出そうとしたところで、俺の手は止まった。
「ああ、それね………で………だから………」
 あかねが何か言っている。口が動いている。その唇は赤い。濡れている。
――ああ。やってしまった。
「…乱馬?」
 あかねが顔をあげて俺を見る。
 髪が濡れている。額にくっついている。頬が染まっている。鼻の下に汗が浮かんでいる。汗か蒸気か、肌が湿って薄いネグリジェがへばりついている。風呂上がりの熱気が体から発せられている。
 風呂あがりだ。
 あかねが俺を見る。
 俺を。
 見るな。

 寄るな寄るな寄るな寄るな。

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 俺とあかねは絶対に結ばれなければならないらしい。俺はあかねを好きでいなければならないらしい。
 俺はあかねを好きでいたい。あかねを好きだと思わせてほしい。
 俺は誰かを好きでいたい。誰かを好きになれると信じたい。

 薄氷を踏む俺、とその延長、遙か彼方で悠然と笑むあかね。

 俺は一生あかねを抱かない。
 抱いたら二度と、あかねを愛せない。


-end-

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