小望月夜の僕等



 夜の帳がおり、昼間の騒々しさがウソだったように、学校は沈黙に支配されている。
 一歩進むごとに、踵を踏みつぶした上履きが、きゅっきゅっと小さく悲鳴をあげる。ワックスをかけたばかりの廊下。闇を照り返している。
 今日の見回りは温泉マークが担当だった。
 奴に見つからないように保健室のベッドに潜り込もう。渚と同じ空間で、枕をならべておちおち安眠なんぞできるか。渚はあんなナリをしていても男なんだし、悔しいけれど腕っ節もかなわねえ。渚が怖いってわけじゃねえけど、おれは女なんだ。
 むかむかとこみ上げる怒りをおさえて廊下を歩く。蛍光灯がちかちかと点滅して、少しの間ぷつりと光が途絶える。親父の言っていたことを思い出す。
 今晩は宿直室で温泉マークと二人、酒盛りをするから遅くなる、と。
 明日の朝は、おそらくおれが朝飯をこしらえることになるだろう。
 渚は居候のくせに、いつまでたってもおさんどんをしない。おれが叩き起こすまで、布団をはね除け、腹を出し、いい気な寝息をたて続けている。幽霊のくせに人のうちの家計も知らず、ばかばかと馬畜生のように飯を食らう。
 親父は親父で、二日酔いにもならねえ図太い神経してやがるくせ、酒臭えアクビをおれの鼻先にかまして、父を労れ、とかほざくのだろう。
 竜之介、お前も男ならつき合いとゆーものを理解せねばならん。お前もいずれ男のつき合いというものを知る身なのだから。
 冗談じゃねえ。おれは女だ。

 窓からはライトに照らされた運動場が見える。もう野球部ですら練習をしていない。放り出されたバットやボールが見える。
 そういやおれを野球坊主にはさせなかったんだな、親父。
 普通、男のガキが出来たら――おれは女だけどな――男親ってやつはたいがい、キャッチボールで”こみゅにけーしょん”をとって、少年野球のチームに入れたがったりするものなのだと聞いたことがある。誰だったろう。暑苦しい男が紙いっぱいに描かれた、絵ばっかりの妙な本を読んでいた。巨人の星を目指せ、とかなんとか。
 少し意外な気もする。おれを男らしくさせるためならなんだってやりそうな奴が。貧乏だったってだけかもしれねえけど。
 武士は食わねど高楊枝。渇しても盗泉の水を飲まず。
 そう言って親父の野郎は、おれ一人、飯を我慢させて、自分は近所の飲食店を片っ端から襲撃して食い逃げしやがった。うちだって飲食店の端くれだってえのに。
 親父の言うことやることは、みんな滅茶苦茶だ。
 おれが物知らずなのは、親父のせいだ。最近までケーキも食ったことがなかった。
 しのぶがこの前、調理実習で作ったから、と、くれたケーキは、いい匂いがして甘くてふわふわしていて可愛くて、うまかった。まるでしのぶのようだと思った。
 親父の野郎。薬などとぬかして独り占めしやがって。あんな、うめえものを。
 あいつは親なんかじゃねえ。

 向こうの曲がりから、ぼうっと光が漏れている。暗がりに浮かび上がる、仄暗いグラデーション。大きな円状の黄色。おれのクラスのある方だ。
 温泉マークの野郎だろうか。奴だったら、知らぬフリをして保健室に行くべきだ。見つかったら、説教付きで購買部兼自宅に戻されるか、酒の席につくことになる。だけど野郎が教室に用があるとは思えない。
 妖怪の類か。
 いっちょ腕試しとでもいくか。両手を組んで、ばきばきと指を鳴らす。いい音だ。
 最近、親父との小競り合いの他には大した事件も起こらなくて、ちょっと退屈していたところなんだ。おれは足音を忍ばせてじりじりと壁伝いに歩く。

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 女だ。
 光の元は、二年四組だった。背中を壁にぴったりと沿わせて、首だけを回し教室を覗き見ると、真っ暗な窓の外を眺める女の後ろ姿。椅子に腰掛け、頬杖をつく女の背中は小さく華奢で頼りない。
 おれの喉がごくりと音をたてて唾を飲み込む。女心は妖怪よりわけがわからねえ。
 なんだってこんな時間に学校にいるんだ。身動きひとつしない姿勢にひるむ。こんな夜中に窓の外なんぞ眺めて。星一つ出てやしねえってのに。
「おい」
 女がゆっくりと振り返る。真っ直ぐな髪がさらさらと流れる。
「あら…」
「どーしたんだよ、こんなところで」
 きゅっきゅっと床を踏む音。近付くおれを見上げる大きな目。しのぶの白い頬。
「もうとっくに最終下校時刻は過ぎたじゃねえか。真っ暗だぜ」
「そうね」
 しのぶはふうわりと微笑むと、小首を傾げる。
「もうこんな時間なのね」
 妙に苛々する。窓の外を眺めていたんだから、そんなことわかっていただろうに。
 チッと舌打ちして、しのぶの横の席の机に重心を僅かに掛ける。
「女の一人歩きは危ないぜ。親御さんだって心配してるだろうしよ。送ってってやるから、家に帰ろうぜ」
 おれがくいっと顎と親指で廊下を示すと、しのぶは「うん」と頷いた。
 やれやれ。ほっと安堵の溜息を漏らして、しのぶに背を向け、教室の出口に向かう。



「おい」
「………」
「しのぶ」
「……あ。ごめんなさい。今用意するから」
 そう言いながら、しのぶは立ち上がらない。困ったようにはにかんで、出口に手を掛けるおれを見上げた。
 じいっと。真っ直ぐな視線。深部を覗き込むような、射るような。おれの値踏みをするような。
 きらきらと大きな瞳が、蛍光灯を反射している。
 沈黙に我慢がきかなくなるのは、いつだって男だ。
 そんなことを、しのぶと一緒に見た映画で学んだ。しのぶは、おれにはよくわからねえ恋愛映画で、幸せそうに笑ったり、悲しそうに泣いたりした。画面と一緒にくるくる変わるしのぶの表情。
 今のしのぶは、まるで能面のように無表情で、向けられた目だけが強い生命力を放っている。
 おれは耐えかねて口を開く。
「な、なんでえっ」
 どもってしまう。
「ねえ…」
 しのぶが視線を窓の外へと逸らす。途端にぎこちなかった心臓の鼓動が元に戻る。
 壁にかけられた時計がカチッカチッという正確なリズムを刻む。おれは壁に左半身をもたれ掛けながら、しのぶの次の台詞を待っている。
 だけどしのぶはそれきり、口を開く気配がない。
 ちくしょう。なんだってんだ。
 おれの口から溜息が漏れる。
「…竜之介くん。渚さんと、もう、キスした?」
「なっ……!」
 突然口を開いたしのぶの声に動揺して、それからその内容にまた動揺する。
 なんだよ。わけがわからねえ。
「すっ、するかよっっっ!!」
「そっか」
 おれの怒声が教室に響く。ひらりとかわした、しのぶの答えに力が抜ける。
 ちくしょうちくしょう。わけがわからねえ。
「じゃあしばらく、渚さんの姿を見なかったのは、成仏したからじゃなかったのね」
「………」
 そういえば、そんな巫山戯たことを渚の野郎は言ってたっけか。チッと舌打ちすると、しのぶはガラス玉みてえな生気のない瞳と口調で続けた。
「竜之介くん。あたしねえ。今日、キスしたの」
「へ、へえ。そりゃ、よかったな」
 何がいいのか、よくわからねえ。でも、何を言えばいいんだ。何を言ってほしいんだ。しのぶは、おれに何を期待しているんだ。
 しのぶの横顔が窓に映っている。
「そうね。よかったわ」
 窓に映るしのぶの表情は変わらない。
「ファーストキスだったのよ。ロマンティックだった」
「そうか」
「うん。さっきまでね……ああ、もうさっきじゃないわねえ」
 くすりと笑ってしのぶが振り返る。肩の上で揺れる黒髪。桃色の唇がいつもより紅く見える。
――あたしねえ。今日、キスしたの。
 悪戯に笑うしのぶがやけに、意地悪く見える。いつも優しくて可愛い、清楚な女の子らしいしのぶの、桃色の唇。
「だ、誰と?」
「え?」
 きょとん、と目を丸くするしのぶに、いつものしのぶを見つけてほっとしながら、しまった、と後悔する。
「い、いや。誰だっていいよな。な、なんでもねえや!は、はは、ははは…」
 しのぶは丸くした目を細める。口元に手を当て、うふふ、と幸せそうに笑う。
 今日のしのぶには、妙に、苛立つ。
 何を考えているのか、さっぱりわからねえ。
「…因幡さん」
「え?面堂じゃないのか?」
 ひとしきりクスクス笑うと、しのぶは着ぐるみ野郎の名前を口にした。
 ウサギの着ぐるみを被った、軟弱そうな男。しのぶより弱そうな男。
 あんな男と?
「なんで面堂くんなの?」
「いや、だってよ…。しのぶは面堂のことが好きなんじゃなかったのか?」
 驚いた顔のしのぶに、間の抜けた言い訳じみた言葉を返す。
 おれはてっきり、しのぶは面堂を好いているのだと思っていた。
 諸星とラムと面堂と。四人でよく出掛けていたから。浜茶屋にも連れだって顔を出してくれていたから。
 そうでなければ、しのぶがあの三人とつるむ理由がない。諸星とラムとは昔、ゴタゴタがあったと聞いている。
 そういえば、しのぶはファーストキスだと言った。じゃあ諸星とは……。
「ざーんねん。面堂くんはラムに首ったけだもの。あたしの出る幕なんてないわ」
 しのぶはぺろっと舌を見せた。しのぶの声に、下卑た憶測を慌てて頭から払う。
「竜之介くんだって知ってるでしょう」
「ま、まあな」
「んもうっ。それならそんなこと言っちゃだめよ」
 人の傷口をえぐるもんじゃないわ、としのぶは可笑しそうに笑った。
「わ、悪い」
「いいのいいの」
 しのぶの明るい声と笑顔は、あたしは今幸せなの、と言っているように見えた。
 諸星にしろ、面堂にしろ。あの二人は無節操で助平で女好きのどうしようもないアホどもだから、しのぶは苦労するかもしれない。それならば、軟弱そうな変態男の方がまだマシなのかもしれない。
 しのぶが幸せなら、いいさ。
 ふんと鼻を鳴らす。
「…あたしがこんな時間まで、ここにいたワケ、わかる?」
 急に消えた表情。さっとシャッターの降りる音が耳に聞こえてくるかと錯覚するほど、あからさまに。ギラギラとしのぶの目が強い力でおれを捉えている。
 宿直室からだろうか。調子っぱずれな歌声が、微かに聞こえてくる。
「教室から誰もいなくなったのを見計らって」
 しのぶの唇がゆっくりと動いて言葉を紡ぐ。
「キス、したの」
「へ、へえ」
「デートの約束のときにね。今日は絶対に迷わないで遅刻しないで行きますからって。随分力を込めて言うもんだから、なにかあるんだろうとは思ってたけど」
 なんでしのぶは顔色一つ変えないのだろう。青白い頬は染まらない。
 おれだけが恥ずかしい思いをしているのだろうか。それとも女の子って、そういうものなのだろうか。そういえば、女はよく寄り集まって、きゃあきゃあと恋の話をしている。おれにはそんなこと、話を聞くだけでも耐えられそうにない。
 今だって逃げ出したくてたまらない。
「ロマンティックだと思わない?」
「そ、そお〜だな〜。お、おれにはよくわからねえけど、よかったじゃねえか」
 ははははは。乾いた笑い声が喉からカサカサと出てくる。早く帰りたい。
「うん。だから余韻に浸ろうと思って、因幡さんには先に帰ってもらっちゃった」
「………」
「よくわかんねえな、って思ったでしょう?竜之介くん」
 しのぶがクスリと笑う。表情が戻ってきた。
「隠したってムダよ。ヘンな顔してた。今」
「ちょ、ちょっとな」
 ほっとして苦笑する。
 心臓に悪い。いつも通りのしのぶと、何を考えているのかわからないしのぶと。
「そうよね〜〜。だって、あたしもわかんないんだもの!」
「は?」
「わかんないわよ、あたしだって。なんで、キスされて殴っちゃったのか」
「殴った!?」
 しのぶはおれから視線を逸らして、また窓の外を見る。相変わらず空は真っ暗だ。月すら見えない。いや、今日は新月だったか。よくわからない。
「…なんでなんだろう。だってあたし、憧れてたのよ。ずっと」
「………」
「ちょうど日が落ちてきてね…そうそう、窓から差し込むオレンジ色の夕陽が凄く綺麗だったわ。誰もいない教室っていうのも、ロマンティックだった。いつもはここでみんなと勉強してるんだって思うと、なんていうか背徳感……って、あ。竜之介くん、わかる?背徳って言葉の意味」
「おれだってそれくらい、わからい!」
 ムキになって言い返すと、しのぶはくすりと笑った。
「…イケナイことをしてるみたいで、よけいにドキドキしたわ」
 しのぶはゆっくりと腕を持ち上げ、机の上に右肘を付き、頬杖を突く。さらりと黒髪が襟を掠める。
「因幡さんはきっとね、そ〜いうこと、全部考えてきてくれたんだと思うの。あたしのために、たくさんたくさん考えてきてくれたんだと思うの」
 もしかしたらヌイグルミ相手に練習もしたかもしれない、としのぶは言った。柔らかい声。
「あの、奥手の因幡さんが、トチらないでキス出来たんだもの。すごく大変だったと思うわ。本当にロマンティックにすんなりいったのよ」
 しのぶは、やはり面堂のことが好きで、それで。
「嬉しかった。あたし、因幡さんのこと、好きだったし。好きな(ヒト)とロマンティックなファーストキス。ずっと憧れてた」
「………じゃあ」
 そこまでわかっていて、相手は好きな男で。それならどうして。因幡とかいう野郎が気の毒になってくる。
「なんで、でしょう?」
 しのぶが頬杖を外す。
 目が合う。
 黒い。肩越しに見える闇よりもなお、黒いしのぶの瞳。
「なんでなんだろう」
 ぎょっとした。
「しっ、しのっ……!」
「なんでなんだろう。竜之介くん、なんでなんだろう」
 狼狽えるおれに、しのぶは構わず続ける。もしかしたら自分で気づいてもいないのかもしれない。
「わかんない。わかんない。あたしにもわかんないのよ…」
 青白いしのぶの頬を照らす、蛍光灯。透き通る、陶器のような肌の上を滑る、真っ直ぐな黒髪。
 窓の外が、微かに明るくなる。雲に隠れていた月がそろそろと、姿を現した。ちょうどしのぶの頭の上。
 小望月。
 あとほんの少しで満ちる、ほとんどまん丸の、しかし一欠け、決定的に足りない。赤みがかった月。

「夢見てたファーストキスの相手は、男の人のはずだったのよ」
 しのぶの頬を伝うのは、月の滴。

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「…しのぶ」
「なあに〜?」
 数メートルおきにある街灯は、ほとんどが点滅するか、消えているかで、まるで役に立っていない。こんな危険な夜道を一人で帰ろうとしていたのか、と思うと、腹が立つ。
 しのぶは確かに腕っ節が強くて気丈で、変態野郎に襲われてもすぐに落ち着いて、相手の男を完膚無きまでに叩きのめすことができるだろう。
 その光景を思い浮かべると、笑える。
 絶対だ。絶対に、しのぶは相手の男にやり込められることはない。すがすがしいまでに、気持ちよく。全戦快勝するだろう。しのぶはふんと、髪をかき上げ、手を出そうともくろんだ馬鹿野郎は夜空の星屑に消えていく。
「おれはさあ、女なんだよ。おめえと一緒でさ」
 女なのに。しのぶは、そうやってなんでもかんでも、自分で決着をつけていかなくてはならなかった。
 誰か。男に頼ってやり過ごすことが出来ずに、誰より女の子らしいのに、一人で我慢して、なんでもないことのように笑って。そんなのはまるで男みてえだ。
 しのぶがおかしそうに笑う。
「そんなこと知ってるわよ」
「そうか」
「そうよ」
「そんならいいんだ」
 おれとしのぶは手を繋いで、月夜の下を歩く。
 しのぶのスカートが翻って繋いだ手にあたる。湿気を含んだ生ぬるい風が、短いおれの髪と、肩までのしのぶの髪を揺らす。明日は雨だ。雨の前日にする、生ぐさい懐かしい匂いがする。
 しのぶの手はやわらかい。砂糖菓子のように甘い。

 男みてえだな。
 男みてえな気性と腕っ節のしのぶと、男みてえに女の子を家まで送り届けるおれ。
 どっちかが男だったらよかったんだ。おれが、男だったらよかった。
 空に浮かぶパズルの、足りない一欠けがはまったら、満月になるだろうか。
 今夜は小望月が空に浮かんでいる。野犬の遠吠えが聞こえる。
 しのぶを無事、家まで送り届けたら、おれは月夜の下で一人、もと来た道を辿るだろう。街灯は頼りないから、学校に戻るまで、出来れば雲には月を隠さないでおいてほしい。
 それからこっそり忍び込むおれに、親父と温泉マークと渚が気づかないことを願う。温泉マークはそれとも家に帰っただろうか。

「ほんっと〜〜に、うちに泊まっていかなくていいの?保健室よりは寝心地いいと思うわよ。うちのベッド」
「保健室で寝るのはやめた」
「でもっ!こんな真夜中に一人で学校に戻るなんて!竜之介くんは女の子なのよ」
 夜道は危ないって、自分で言ったんじゃないの、としのぶが目を吊り上げる。
「いいさ。おれに敵う男なんているわけねえからな」
「…そう」
 しのぶは渋々頷く。
 おれより強い男がいるのは、おれだって知ってる。
「まあ、なんにもないとは思うけど」
 今晩は、渚と同じ部屋で寝てやってもいい。

 おれ達二人は、誰より女々しく、幻の男の背中を追い続けていた。
 門扉の向こうへと、宵闇に溶けていく、しのぶの小さく細い背中。一度だけ振り返って、おれは明かりの灯らない街灯の下を歩いていく。


-end-


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