Scooby Driver



 深夜ふけてから帰宅すると、妻が玄関で仁王立ちしていた。
 吊り上げられた目尻には、細かく浅い縮緬皺が、渓谷から流れ出る水流のように、放射状に刻まれている。若い頃には、光彩陸離たる瞳が無知を振りかざし、世間知らずのあどけなさを象徴していたものだったが、目を縁取る褐色のクマとともに、時を刻んだことを気づかされる。今でも指で梳けば、するすると指の間を流れ落ちる見事な長い髪に、白いものが混じっている姿を見たことはないが、一ヶ月に一度の頻度でかかりつけのサロンへ通い、黒く染め上げていることも知っている。ストレッチと呼ぶには、荒々しい野生の熊並に運動量の多すぎる、その日々の鍛錬をしてさえも重力に抗えなくなった皮膚や、脇腹に多少の肉がついてきたことも。超常現象に親しんだ身として、ごく自然な現象を受け入れるのに、理不尽だと戸惑うことがなかったわけではないが。
 上着を脱いで妻に手渡す。無言で受け取る妻の目尻がさらに上がった。ネクタイを緩めて、いつだったか誕生日祝いだと知人から貰った安物の、趣味のいくらか悪いピンを外す。安物だと知りつつ身につけるのも、老けたせいだろうかと気づかされる。
「なにか言いたいことがあるなら、言いなさい」
「わたくしから申し上げなければ、おわかりになりませんか」
 今では使用人を一掃した、浅薄な我が測量とその未熟を恨んでいる。
 結婚と同時に、一切の後ろ盾を失った。一から出発しろ、というのが家訓であり餞であると、我が実家からも、また妻の実家からも告げられ、若い夫婦二人、路頭に迷うようにして生活を始めた。何も知らず何もできない我が身の不甲斐なさに、一緒になって悔し涙をのんできた。互いを責めて罵り合ったこともある。互いに若く、情熱もあった。不屈の精神だけで乗り越えられると、半ば突然の悲劇に見舞われたヒーローヒロインを気取ることに酔っていた。不幸自慢をするにも、元の恵まれた境遇では誰が同情するはずもなく、せいぜい日頃の鬱憤の憂さ晴らしをされるのが関の山で、また心からの同情を寄せてくれるような友人に泣きつくには、高すぎる自尊心が邪魔をした。まるで小公女だな、とぼくが笑い、妻も笑った。
「どんなことがあっても変らないことが、一つあるわ。いくらわたくしが襤褸や、古着を着ていても、わたくしの心だけは、いつでもプリンセスだわ」と、妻はバーネットのそれを引用したりもした。引用部分のヒロインの台詞で、『マリーアントワネット』を『セーラ』に差し変えるユーモアを、妻は次第につけていった。それではぼくはベッキーか、とおどける余裕を、ぼくも次第に身につけていった。
 浮世離れした二人が地に足をつけ結束を固めるのには、なにか予測し得ぬ大きな障害がなければ空中分解していたことだろうと、いまさらながら双家の前当主方、関係者方には頭が下がる。荒治療だったとは思わない。ぼく達はそれほど社会から乖離していた。
 そういう事情もあって、二人でなんとか人並みの生活が出来るようになった時分、頃合いをはかっていた前当主方がぼく達に席を譲ろうとしたとき、有り難く家名を継ぐ一方、これまで築いてきた『ホーム』というやつを手放す気にはなれなかった。まさに血と汗の結晶であると胸を張りたかったのだ。見分けることも名前を覚えることもできないほどの大勢の使用人が、ホームにすし詰めにされている筈がない。ということは、妻と共に学習してきたことだ。
「ぼくにもわからないことくらいある。万能ではないんだ」
 おまえも知っているだろう、と二人の間だけで通じる、一種のジョークのつもりで。妻は鬼のような形相をつくると踵を返した。やはり使用人の一人でも置いておくべきだったかと悔やまれる。戦友といえど、逼迫した戦いの地から遠く離れてしまえば、それぞれの育ちとも言うべき我が生じるものだ。
 脱いだ靴を揃えるために腰をかがめる。こんな他愛ない仕草ができるようになったことに、屈辱に代わって喜びを感じるようになった日から、大分遠のいた。立ち上がって腰を一、二度軽く拳で叩く。起立にいちいち呻き声が漏れるのは、持病となった腰痛のせいではあるが、それを隠そうとする気概が、近頃消えつつあるとも感じている。

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 一通りの書類に目を通すと、目の前で熱弁を振るう若者の言葉に耳を傾けるという苦行以外、道は残されていなかった。口角泡を飛ばして、左手にあるレジメを握りつぶすように振り回すことで彼は、自分より経験も悪知恵も上回る、老獪な上役達の心を射止められるとでも考えているようだった。彼の振るう熱弁に応えるかのように、重役の一人がにこやかな微笑みを送ると、彼はまるでうら若い乙女のように頬を薔薇色に染め、鼻腔を膨らまし、高い声がますます上擦った。
 ぼくはそれに助け船を出すわけでもなければ助長するわけでもなく、形式だけのくだらぬ会議が早く終わることを望んだ。会議の名を借りた、若さを妬む枯れ葉族の陰湿な若者イジメを目にする度に、過去の己を蒸し返されるようで、双方ともに鬱陶しい。勢いだけで進もうとする傲慢な青臭さに、羨望を覚えることはあまりない。かといって過去を悔いているのかも不明瞭で、とりあえずと保留している。昔を懐かしむにはまだ早い、と老け込むことに歯止めをかけている。
「それでは以上をもちまして、本日の…」
 閉会の辞が終わるのを待たず、席を立つ。またか、という重役達の胡乱な視線を背中に感じる。彼等からすれば、ぼくもまだまだ未熟な若造だ。だからこそ、最後まで席を立たずにどっしりと構える要があるのだろうが、生憎ぼくはそこまで人間ができていない。ささやかな反抗は若者に許される特権だとばかり、行使するのを憚らず内部に敵を作る。愚かしい。
「社長!」
 ばたばたと慌ただしく廊下を駆けてくる音。振り向かずとも、独特のかん高い声で、あの青年だとわかる。思わず溜息を漏らすと、重役の一人が仔細あるように「お疲れさまです」と、なんとも嬉しい労いの言葉を投げ捨て、すれ違って行った。遠からず同類、という括弧で括られることに、また不愉快になる。
「なんだ」
 足早に歩を進めながら、彼に尋ねる形だけはとる。青年は若干息を切らしながら必死についてくる。
「あの、先程、」
「先の会議で君が挙げていた企画について、ぼくは直接関わるところではない。君の企画案が通ることになれば、自然ぼくの耳に入ってくるだろうから、それまで待ちたまえ」
「違います。そのことではありません!」
 振り返ると、青年は口をへの字にきつく引き結び、真っ赤な顔をしていた。話を促すため頷いてみせると、彼は勝ち誇ったように顔を輝かせた。
「先程、社長にお会いしたい、という方がお見えになりまして。なんでも社長とは高校の同級生だとか…」
「それは諸星とかいう下卑た猿ではなかっただろうな」
 一瞬青年は目を丸くすると、大仰な仕草で首を振った。
「とんでもない!とても上品なご婦人でしたよ。たしか、三宅…ええと、三宅…」
「三宅しのぶさんだ。伝言を頼まれたのなら、先方の名前くらいしっかり覚えておけ。失礼だろう」
 露骨にムッと顔をしかめる青年を尻目に、懐かしい友人の顔を頭に描く。最後に会ったのは、いつだったろう。多忙を理由に高校の同窓会は勿論、友人知人の結婚式にも出向いていない。まさか高校の卒業式が最後ということはないだろうが。
「それで、その三宅しのぶさんですけど」
 ふてくされた声色で青年が言う。
「よかったら昼食を一緒にどうか、ということでした」
「わかった。ご苦労だったな。君も昼食を摂りに行くといい」
 元来た道を戻り、足を一歩踏み出す。
「あの!」
「なんだ。まだ何かあるのか」
「あのう、先程の企画のことなんですが…。その、社長から何かアドバイスをいただけたらなあ、と思いまして」
 へらへらと笑う青年の顔に、常人では考えられぬほどの図太すぎる神経構造を持った、懐かしくもない同級生の顔を重ね合わせた。

「お忙しいでしょうに、無理言っちゃってごめんなさいね」
「いえ。お会いできて嬉しいですよ。美しい方と食事をご一緒する、なんて幸運には、最近ではめっきり出会えないものですから」
「嫌だわ。面堂くんったら、相変わらず口がうまいのね」
 口元に細く白い指を遣って、小さく笑う。そうだ。しのぶさんはこんなふうに笑う人だった。
「それにしても驚きました。しのぶさんが起業なさっていたとは…。女性お一人のお力で…。いやあ、すごいな。うん、すごいとしか言葉がない」
「なに言ってるのよ。こんな大企業の社長さんが。あたしなんか、片田舎のちっぽけな女事業主。抱える事業も責任も苦労も、規模が違うわ」
 苦笑を返すと、しのぶさんは片眉をあげ、悟ったように頷いた。
「ここでちょっとばかり、チクリとやってみてもいいんだけど、素敵な奥様のおかげで女の底力も実感しているだろうし。勘弁するとしますか」
 今度こそ、ぐうの音もでない。冷や汗が額を伝った気がして、思わず額をハンカチで抑える。しのぶさんは目を細めて笑い、少しずらして重ねた掌に、小さな顎を載せる。左手の薬指が、店内の照明を浴びて光った。
「そういえば、先程うちの者に言付けられた際、」
「三宅って言わなきゃ、通じないかもしれないと思ったから」
 ぼくの言葉を遮り、面堂くんのところの社員さんを信用してないわけじゃないんだけど、と言った。
 実際彼女の心配は杞憂ではなかった。あの若者は、聞かされたうちの氏しか覚えていなかったのだから。それだけで足る、と考えている思慮の浅さに歯噛みしたくなる。私事と公事ではもちろん異なりはするものの、相手方が丁寧にフルネームで名乗ることは稀少であるにも関わらず、その重要性に気がつかなかったということだ。女性がなぜ、フルネームで名乗るのか、またあえて旧姓で名乗るのか。彼に限らず、我が社でも理解できていない者が多すぎる。
 しかし自分と彼等とを隔てがちな自分にもまた、反省すべきところがある。結局のところ、彼等は我が社を組織する上での担い手なのだ。責任の帰属するところはどこか。明瞭だ。我関せず、などというトップがあるものか。まったくぼくは相も変わらず、我が儘なおぼっちゃんだ。
「あ、ごめんなさい。人の話を遮るのはやめなさいって、最近夫からも注意されてるのよ。ダメねえ。仮にも上に立つ者として、これじゃあ失格だわ」
 ぼくにも思い当たる節がある。妻に小言をされたことはなかったが、先程の若者と相対した際も、ぼくは彼の言葉を遮った。君の言わんとするところはわかっている、という傲慢。が、今回に限ってのしのぶさんの頭の回転のはやさには、彼女の気遣いを感じた。最後まで口にすれば、ぼくはとんでもなく俗なことを尋ねるところだった。セクハラだと声高に糾弾されてもしかたのないことを。それ以上に、無情だと恨まれても。
「いいえ。しのぶさんが相変わらず、機転のきく方だと感心したくらいですよ」
 どうにも上から物を見る口振りになってしまう。地獄のようだと渦中には感じた試練も、ぼくという人間を根本からたたき直すには至らなかったのかもしれない。
「それでは、ご結婚されたんですね」
「ええ。晩婚もいいところだけど、先日ね。この年で式も披露宴もあったものじゃないから、今流行のジミ婚よ」
「おめでとうございます」
「ありがとう……その様子だと、あたしがめでたく人妻になったこと、知らなかったのね?」
 上目遣いで覗き込むしのぶさんの視線に、後ろ暗いことなど何もないにも関わらず、過去がフラッシュバックするかのように言葉が詰まる。
「実は結婚しましたってカード出したのよ、面堂くんのお宅に。でもお返事が返ってこないから、律儀な面堂くんにしてはおかしいなって思ってたの」
 脳裏に浮かぶ妻の横顔。妻が近頃塞ぎがちに見えたのは、そのせいなのだろうか。昨晩もあのあと結局、なんの会話をすることなく、妻は寝室へ入ってしまった。多少気になってはいたものの、女性の不都合というものだろうと、あえて尋ねはしなかったし、二人でゆっくり話すような、そんな時間もとれなかった。
 ここ数年、妻との間で会話は減少している。仕事人間の夫の家庭の不在だとか熟年離婚だとかいう単語を耳にすると、胸にひっかかることも多くなった。その度に、一緒になって以来苦労を共にし続けた二人が、世間一般の夫婦と同様であるはずがないと答えを落ち着かせてきた。
「郵便事故にでも遭ったのかしらね?」
 しのぶさんの真っ直ぐな眼差しには、そうではないと確信している様子が窺われた。
「そうかもしれません」
 何やら先刻から、普段意識せずにいる、しかし身に覚えのあるものをつつかれているようで縮こまってしまう。そういえば、彼女の前でぼくは常に醜態を晒していたような記憶もある。
「ねえ、面堂くん」
 しのぶさんが薬指の指輪をくるくると回す。ぼくの視線に気がついた彼女は、「なんとなく、落ち着かなくてね」と弁明した。
「これまで長い間…本当に長い間、指輪なんてつけることもなかったから」
「謝罪するべきなのか、ぼくには判断がつかない」
 しのぶさんが顔をあげる。拍子抜けする。彼女は柔和な微笑みを浮かべていた。昔の彼女だったら、こんなぼくの失言に、泣いて怒って。それで。
「面堂くんにもし、謝る必要があるのなら、あたしだって同じ。でも謝るというより、あたしは感謝してる。ありがとうって、ずっと言いたかったわ」
「ありがとう?」
 ぼくはずっとしのぶさんに負い目を感じてきていた。妻と一緒になり苦楽を共にして、苦汁を喫してから、ぼくは考えまいとしてきた過ちを認める気になった。
 吐露してしまえば、同窓会も彼女と共通の友人の結婚式も、欠席し続け、その代わりに顔の見えない無機質な、電報祝電を送り続けた理由は、彼女に会うことが怖かったからだ。過去の自分の繕いがたい無知と無情を直視するに耐えられなかったのだ。
「そうよ。あたし、ずっと面堂くんにありがとうって言いたかった。でもあなたはあたしのことを避けてたでしょう。別れてから……随分昔のことだわ。変なかんじ」
 小さく笑う。目尻に小さな皺を見つける。昔はありもしなかったその皺に、不思議と高校生の彼女との共通性を感じる。すっかり洗練されて、『昔とまったく変わらない』とは形容しがたい淑女となった彼女の中に。
「高校生の頃だって、あたしと二人きりになるのを避けよう避けようって必死だったでしょ。アレ、傷ついたわよ、けっこう。なにも取って食いやしないのに」
「こちらが取って食いそうで、自分の理性の脆弱さが怖かったんですよ」
「いいわよ、そんなお世辞なんか」
 互いに目と目を見合わせて噴き出す。ぼくには戦友がもう一人、ここにいたのだ。
 運ばれてきた料理においしそう、と感嘆し、しのぶさんはスプーンを手にする。続いてぼくもフォークを取りランチに手をつけることにする。
「面堂くん、ずいぶん大人になったみたい」
「まあ少しは。昔のままでは、この二十数年はいったい何だったのだろうって、このぼくでもさすがに悩みますね」
「ほら、そういうとこ。高校生の頃だったら、絶対誓ってもいいけど、あなた、そんなこと言わなかったわよ」
「しのぶさんは、そういう鋭いところ、変わらないみたいですけど」
「あら、あたしは昔っから成熟してたのよ。まるで仙人みたいに達観してたものだから、つい、ヒステリーも起こしてしまうってものだったわ」
 肩が小刻みに震え、手にしたフォークがカチャカチャと行儀悪く食器を鳴らす。笑いを堪え見上げると、しのぶさんは満足げに笑っていた。空咳をして、何事もなかったかのように食事を口に運ぶと、しのぶさんもスープを一口、口にした。
「こうして笑いあえるのって、格好悪いけど、格好悪いことを一緒にしたからよね」
「それと、認めたくはないですけど、歳を重ねたからでしょうね」
 ゆっくりとスプーンを持った手が下ろされ、円熟した大人の女性の余裕が表れる。先に聞いた、しのぶさんの「ありがとう」が緩徐的に胸に染み渡る。
「時々思うの。今だったら、もっとうまくつきあえたんだろうって。知ったかぶりで『男の人ってどうせ』なんていう、表面だけの物分かりいいフリをするんじゃなくて。勝手に我慢してるつもりになって、自分から好んでため込んで、最後には喚き散らすんじゃなくて」
「ええ。ぼくも今だったら、必要とされることに、喜びを感じるでしょう。心からね」
 しのぶさんが頷いた。煩わしさの一切が存在しないというのは、つまり、信頼も絆も、個人対個人の関係性の一切がないということだ。
「ようやくあたし達、仲直りできたみたい。あとは面堂くん。あなたがすることは、今日中に飛鳥さんと仲直りすることよ。あたしに言ったことが真実なら、受け止められるでしょう?」
 ぼくは、しのぶさんとの長いランチの後、会社を早引けすることを決意した。我が儘なおぼっちゃん社長が無責任にも仕事を放り、つまらぬ私事で早退する。いいだろう。言いたいヤツには言わせておこう。その通りなのだから。

 しのぶさんは別れる間際、「今後、事業のことでお世話になるわ」と名刺をくれた。人脈って大切よね、と強かに笑う彼女に、昔の戦友として、そして今も戦地を隔てた盟友としてエールを送る。互いに守るべきものがある。戦わねばならぬものがある。
 高校生の頃、ぼくは一人の女性に縛られることを受け入れるなど、到底出来なかった。未来は輝いていて、見果てぬ夢があった。実家は日本有数の資産家で、人並み以上の容姿に恵まれ、多少勉学に時間を費やせば、すぐに吸収したし、若さ漲る体力もその使い途をうまくコントロールできる器用さもあった。手に入らぬものなど何もないと思っていた。神をも畏れぬ不遜にヒビが入ったのは、ラムさんと出会ってからだ。ぼくが持っていた様々な美徳を、ことごとく何も持たない、魅力の皆無とも言える男を、彼女は追いかけた。もちろん不満だった。納得などできるはずもなく、しかし、いつからか「宇宙人の感性は地球人とは異なるのだ」という、傲慢極まりない結論を出していた。そんな自己完結の中で、潔く消え去ることもない未練と憎悪がくすぶり、恨む相手を誤った。妬ましい男が、ラムさんの他もう一人、特別扱いしていた女性を手に入れることで、復讐でもしているつもりだったのだろうか。
 どこにでもいるような平凡な女の子一人だけに愛を誓うなど、冗談じゃないと思った。その通り言葉にした。いい加減うんざり疲れて、冷笑に口の端を歪めながら、しのぶさんから貰ったチョコレートを包みごと投げつけた。そうだ、バレンタインだ。例年のごとく、誰からもチョコレートと愛の告白を軽薄に受け取り、それに応えようとして、彼女は嫉妬した。それまで束縛の類を一切口にもせず、素振りも見せなかった、それどころか何があっても周囲に交際を隠し通せという要求も呑んでいた彼女の悋気に、ぼくは失望した。なんと彼女もごく普通のつまらない少女だった、と。
 別れを告げたときの、彼女のくしゃくしゃに歪められた泣き顔が鮮明に思い出される。ずっと忘れていた。
 もう一つ、思い出したことがある。彼女は翌日、毅然とした表情で、ぼくの前に立ち、贈った指輪を目の前に差し出した。初めて共に一夜を過ごした後日、結ばれた記念にと贈った、まるで商売女を相手するような、あまりに胡散臭い、軽薄で非情な指輪。ぼくがしたように乱暴に投げつけるのではなく、ジュエリーケースに入れられたそれを、呆然とするぼくの掌に握らせて。そっと両手で包み込むように、返された。
 そして、しのぶさんは微笑んだのだ。

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「ただいま」
 廊下の奥からぱたぱたと慌てて駆け寄る音が聞こえてくる。スリッパのぱたぱたという音が背中で途切れる。
「お帰りなさいませ。ずいぶんと…その、お早いお帰りですけど…。どうかなさったんですか」
 妻の声には、気遣わしげな気配が滲んでいる。しゃがんで靴を脱いだまま、声をかける。
「おまえに、どうしても言いたいことがあってね。それで早退してきた」
「わたくしに、言いたいこと?」
 靴の踵を揃えて振り返ると、妻は小首を傾げていた。僅かに怯えているようでも期待しているようでもある。
 白い肌に、流れるような黒髪。大きな瞳と小さな唇。昔のようにあどけない表情で小首を傾げる妻を、久しぶりに名前で呼ぶ。「おまえ」でも、「きみ」でも、「ちょっと」でも、「おい」でも、なく。
「ああ、飛鳥に」
 抱きしめると、この腕に馴染んだ飛鳥の温もりを感じた。




-end-


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