エス


 昔からロマンティックなラブストーリーが好きだった。

 制服を着て学校に通うオトコノコとオンナノコ。
 たとえば彼は陸上部。走るのが得意。だらだらと流れる汗が飛沫となり風に舞って、隆起した筋肉の、日焼けした足が大地を力強く蹴る。真っ赤な夕陽に照らされたトラックは白いラインが引かれていて、ところどころ、線は途切れている。彼は沈みゆく太陽に向かって何度も何度もトラックを駆ける。ちくしょうちくしょう、と歯噛みをして、両膝を両手でぐっと掴み、ぼたぼたと垂れ落ちる汗がトラックに色濃い染みをつくる。彼の熱気を冷たい風が奪って、トラックの側にぽつんと残されたパイプ椅子の上には、風に吹かれて積もった薄い砂の膜。
 たとえば彼女は吹奏楽部。小学生の頃はコルネットを演奏していた。中学に入ってからはトランペット。コルネットに決まった小学生の頃も、コルネットだったのならトランペットだね、と言われた中学生の頃も、高校生になった今も、本当はトロンボーンがやりたかったのだけれど、ジャンケンで負けてしまった。ジャンケンに負けてコルネットになった小学生のときと同じように、少し気の弱い彼女はヒトの好さそうな笑顔で「いいの。だってあたし腕が短いから、低い音が出せそうにないもの」と申し訳なさそうに向き合う少女達に弁明した。部活動の時間が終わって仲間達が解散して、誰一人いなくなった音楽室。窓をしっかりと閉めきる。辺りをキョロキョロと見回して、彼女は誰の物でもない、学校のトロンボーンを準備室から抜き出す。マウスピースに唇を押し当てスライドを動かし自分だけの音域を探る。窓の外には、オレンジ色の三日月。四拍子ごとに音の外れるムーンライト・セレナーデ。
 オトコノコはたった一つ、光のともる音楽室を見上げる。頬を滑る一筋の冷たい汗。
 オンナノコは窓に寄り添って、トラックを見下ろす。一人佇む、半袖短パンの伸びやかな四肢。
 必然の出来事。

 オトコノコに恋い焦がれるオンナノコ。切なさと愛しさに張り裂けそうになった小さな胸。オンナノコは朝練で早いオトコノコより早く、登校する。溢れて止まらなくなってしまった恋心をラブレターに託して、下駄箱に入れる。手が小刻みに震えて、真っ赤な顔は怒っているかのように、ぎゅうっと口をへの字に結んでいる。
 一向に上がらないタイムと、二ヶ月前から放課後風にのって聞こえてくるようになったムーンライト・セレナーデが寝ぼけた頭の中、ぐるぐると回る。オトコノコは靴紐の解けた泥まみれの靴を持って下駄箱を開ける。踵を履きつぶした上履きを抜き出すと、すとん、と白い紙が床に落ちる。
 運命に導かれて校庭裏、オンナノコは涙でぐしゃぐしゃな、真っ赤な顔でオトコノコに笑いかける。破裂しそうな胸。その理由は不安から幸福に変わっている。

 オトコノコに胸をときめかすヒロインに、あたしも一緒になって胸をときめかせていた。
 いじらしいヒロイン達はいつでも可愛かった。あたしはそんなヒロインになりたいと思っていた。そんなオンナノコになりたいと思っていた。
 ラブロマンスのヒロイン達は、いつでもあたしの理想の姿だった。

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「その雑誌、そんなにおもしれえのか?」
「そうね…たぶんね…」
「…話聞いてねえだろ。しのぶ」
 ふうっと竜之介くんの溜息が耳にかかる。
 暖かい吐息がこそばゆい。どきどきする。
 本当はちゃんと聞いている。あたしの夢中を奪う雑誌に、小さくヤキモチをやく竜之介くんが可愛くて、あたしはこうして意地悪をする。
 あたしの視線は雑誌を彷徨って、頭の後ろについた意識の視線は竜之介くんの一挙一動をつぶさに観察している。
 なんて可愛いんだろう。
 ぼすっと布団に沈む音がする。ベッドの上、枕を抱きしめてころころと転がる気配がする。
「……いいにおい」
 ああもう。本当に、なんて可愛いヒトなのだろう。
 ぼそりと呟いた竜之介くんのハスキーな声に、あたしの胸はぎゅうっとしめつけられる。
 だけどあたしはやっぱり気がつかないフリをして、雑誌を一ページめくる。
 竜之介くんがじれったそうに、ベッドの上からあたしを覗き込んでいる。肩の上に感じる竜之介くんの体温。湿った短い髪から薫る、あたしとお揃いのシャンプーの匂い。
 竜之介くんがあたしの髪を浚う。さらさらと音を立てて頬を掠める。
 くすぐったい。
 頬が、胸が。くすぐったい。
 開いたページを見せつけるように、大きく見開く。原色の派手な光と影が、ページを彩っている。
「竜之介くん、明日のデート、新宿にしない?」
「いいぜ。映画?買い物?でもよ、この間のバーゲンのときみてえなやつはごめんだぜ」
 ベッドに伏せてあたしの髪を弄んでいた竜之介くんの手が止まる。見上げると顔をしかめていた。
 あたしと竜之介くんの両手をふさいで、それでも足りなくて首からショッピングバッグを二つずつぶらさげて、人で溢れかえるデパートを上へ下へと何度も往復。
 そのときのげっそりと疲れ切った竜之介くんの青い顔を思い出して苦笑する。
「買い物じゃないわ」
「ふーん」
「この間はごめんなさいね」
「別にいいけどよ。ぶらじゃーも買えたし…」
 竜之介くんがパジャマの襟元を摘んで、中を覗き見る。顎を引いて、鼻先まですっぽりとパジャマで覆われる。
「へへっ。おれ、一生ぶらじゃーなんて出来ないと思ってた」
 ずぽっとパジャマから顔を出して竜之介くんは笑う。
 どーせ脱がすんだったら、ブラジャーのホックよりサラシをぐるぐるやる方がエロティックでいいのに、とは思うけれど口にはしない。竜之介くんは本当に嬉しそうだ。
「それにお揃いのパジャマも買えたしね」
「お揃いはいいけどよ〜。レースが邪魔でよ〜〜。寝返りをうつたんびにカサカサ、なんかが当たってよう、起きちまうぜ」
「でもあたし、竜之介くんとお揃いのパジャマ、どうしても欲しかったんだもん」
「そ、そーか」
 竜之介くんの胸元のレースをそっと撫でる。
 竜之介くんのパジャマは水色。あたしのパジャマは黄色。
「うん。竜之介くんがうちに泊まるときだけは、石鹸もシャンプーも下着もパジャマもベッドも、全部お揃いになりたかったの 」
 指先を竜之介くんの頬に這わせる。柔らかくて、すべすべしていて、しっとりしていて、触れたところからピンク色に染まっていく。
「しの…」
 赤い唇が開いて、それをぴったりとシールする。音を成そうと空気を震わせるための振動で、あたしの唇が震える。漏れ出る、音になりきれなかった、音。



「それでね、明日のデートなんだけど」
「お、おう」
 あたしは自分がエスだということを、竜之介くんとつき合うようになって知った。
 サドのエス。
 いままではむしろマゾ寄りだと思っていた。幼馴染みとはいえ、あんな男とママゴトをしていた。
 もうひとつのエスは、好奇心旺盛なクラスメイトがあたしを指してそう言った。
 でもあたしはエスなんかじゃない。予行練習はあたるくんでとっくに済んでいる。
 オンナノコはオトコノコを好きになるのがフツウ、と教わってきていたから、じゃああたしはあたるくんが好きなんだ、と思った。一番身近で、一番気の置けないオトコノコだったあたるくんを、オトコノコだから好きな人はあたるくんなんだ、と思った。

 蒸気で赤らんだ頬と潤んだ目があたしに何を訴えているのか、全てわかった上であたしは雑誌に視線を落とす。
 竜之介くんの性格では絶対に、あたしの望むような言葉を聞けないことをあたしはよくわかっていて、薄情で鈍感なフリをする。追いつめられたときの表情が見たくて、可愛くて、あたしは何度も意地悪く笑う。
「イベントに行きたいなあ、と思って」
「いべんと?」
「ええ。オンナノコだけのイベントがあるの。これなんだけど」
 雑誌を竜之介くんの鼻先につきつける。竜之介くんの眉間に皺が寄る。あれっと思う間もなく、竜之介くんは雑誌から顔を背ける。
「おれは行かねえっ!」
「どうしたの?」
 ぶっきらぼうで乱暴な口調が、漂っていたはずの余韻を切り裂く。
 竜之介くんが体を起こして胡座をかく。
「竜之介くんが行きたくないならそれはそれでいいのよ。だけど、どーしてそんなに不機嫌なのか教えてくれないかしら。あたし、竜之介くんを怒らせるよーなこと、言ったつもりはないんだけど」
 もしかしてヤキモチかしら、と淡く期待する。
「あのね、イベントとは言っても、あたしはそこで新しいパートナーとの出会いが欲しいとか、そーいうことじゃなくって、ほらおんなじよーな境遇の子達と仲良くなりたいっていうか、色々お話ししてみたいとかそーゆー…」
 竜之介くんが汚いものを見るように、あたしの手中にある雑誌を睨みつける。吐き捨てるように言う。

 そしてあたしは、力無く微笑んだ。

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「まだ買い物すんのかよ〜〜〜〜」
 うんざりした顔。繋いだ手がだらーんと後ろに引っ張られる。
 不機嫌にひそめられた、形のいい眉と前に尖らせた桃色の小さな唇。少し日に焼けた、でもふわふわのほっぺたときゅっと小さい顎。
「まだまだ!勝負はこれからよ!」
「昨日、買い物は行かねえって言ってたじゃねえかっ!」
「ふ〜〜んだ。誰かさんがあたしのデートプランにケチをつけたからじゃないのよ!今日はとことん、買いまくるわよ〜〜!覚悟しなさいっ!」
「あ〜〜〜〜くそっ!」
 竜之介くんの繋いだ手の力が弱まって、あたしは強く握り返す。
「帰りにパフェ奢ったげるから。ね?」
 ちぇっと嬉しそうに舌打ちする竜之介くんに、あたしは恋をしている。

 あたしがラブロマンスを好きだったのは、ラブロマンスのヒロイン達に恋をしていたからだ。
 ラブロマンスのヒロイン達は、いつでも可愛かった。

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「それはよ、”えす”ってやつらの集まりなんだろ?」
「エスとはちょっと違うと思うんだけど…」
 シスターのエス。
 オネエサマとイモウト。
 単に男への意識過剰だったり、男性恐怖症だったり、身近でてっとり早い同性と、本番の恋愛のためのシミュレーション。もしくは思春期の同性への淡い憧れ。「普通ではない」と思いたがる、風変わりな自分を演出しようとする特別意識。
 エスだとか百合だとか。竜之介くんも誰かに言われたのだろう。
「気色わりい。女と女なんて変態でえっ!」
「……………………え?」
 竜之介くんは、顔を真っ赤にしてうつむく。布団の上でのの字を書いている。
「おれは女が好きなんじゃねえ。しのぶが、す、好きなんでいっ!」
「………嬉しいわ。あたしも竜之介くんが好きよ」
「だ、だからよ!好きになったのが、たまたま女だったってだけで……しのぶだったってだけで……。おれは女が好きってわけじゃねえんだっ!」
 竜之介くんがくるりと背を向ける。膝を抱えて小さくなっている。
 あたしは雑誌を閉じてカーペットの上に置く。ゆっくりと立ち上がって、細い首に腕を回す。竜之介くんの白いうなじと真っ赤な耳が視界に入る。はっと息を呑む音が、すぐ耳の側で聞こえる。
 あたしの胸の底には冷たいものが落ちたままだ。
 柔らかな肌と熱っぽい吐息を感じても、冷たいものが溶けてくれない。竜之介くんの赤く染まった頬にあたしの冷たい頬を擦り寄せ、温もりを探る。
「嬉しいわ。竜之介くんは、あたしが男でも女でも、好きでいてくれるってことでしょう?」
 竜之介くんが、交差したあたしの腕に手を添える。
 振り向いた竜之介くんの唇に、あたしは唇を押し当て、舌で軽く開いていた唇をこじ開けた。初めてのディープキスだった。
 蛇のように這いずり回って、温もりを求める。熱い舌が絡み合って、淫らな音が時々漏れ出る。苦しそうに歪んだ竜之介くんの眉を見て、ようやく解放する。
 戸惑い、不規則な息づかいに肩を揺らし、大きな目を潤ませる竜之介くんに微笑みかける。
「可愛かったから、つい」

 あたしはいつものよーに、意地の悪い笑顔を作れていただろうか。
 やっぱり、胸の底に落ちた冷たいものは溶けてくれなかった。

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 きっと竜之介くんは、いつかオトコノコに恋をする。
 そうなればこれから先、竜之介くんがオンナノコを好きになることはないだろう。
 舌を引き抜いたとき、名残に引き落ちた銀糸。竜之介くんの瞳に浮かんでいた嫌悪の色。竜之介くんは、肌が触れ合う以上の接触を好まない。

 好きになったのがたまたま同性だった、なんて、そんな綺麗な台詞をあたしは信じない。
 先天的な性と後天的な認識としての性が、人のアイデンティティーを少なからず形成している。
 人生で選ばれ選んだ性が、グラデーションとしての微々たる移動ではなく、はじめから全く別な場所に位置づけられていたら。そのように生きてきたとしたら。それはもう、その人じゃない。
 竜之介くんがオトコノコだったら、竜之介くんじゃない。
 竜之介くんがオトコノコだったら、あたしは恋に落ちていない。
 あたしは女で、女の竜之介くんが好きなのだ。

「この間、素敵なカフェを見つけたの。今日はそこにしましょう」
「おー」
「おいしいわよお。パフェもいいけど、ケーキが可愛いのっ!」
「ふーん…。食ったことあんのか?」
「ないわよ。でもフランスでナントカって賞を取ったパティシエが作ってるらしいし、おいしいって評判なんだから」
「…食ったこと、ねえのか…」
 ぼそりと呟かれた、小さな落胆とも呆れともつかない声を微笑ましく聞く。



 取り返しのつかない大きすぎる傷になる前に。胸の底に落ちた冷たいものがナイフに変わる前に。
 突き放そうと竜之介くんの前に立っては、それでも繋いだ手を振りほどけない。
 竜之介くんのお父さんの存在の都合の良さに、甘い期待をして、だけど有り得ない未来だとわかっている。竜之介くんの優しさと純粋さにつけこんでいる。
 でも大丈夫。
 あたしからは振り解けないでいる手を、いつかその日が来たら、なんのためらいもなく振り解いてみせる。罪悪感に揺れる竜之介くんの瞳には、一粒の涙も写さずに、飛び立つ背中を笑って押してあげる。
 竜之介くんの明日からあたしが消えるまで、あたしの明日から竜之介くんが消えるまで、いつまでもあたしは竜之介くんの頼れるお姉さんでいよう。

「とゆーことで、さあお買い物、お買い物!」
 はあ、と溜息をつく竜之介くんの手をぶんっと勢いよく振り上げる。
 細い指がしっかりと絡み合って、竜之介くんが隣りに並ぶ。あたしと同じシャンプーの匂いがする。
 信号が青に変わり、どっと流れ出る若者の群れ。オンナノコのバッグを持つオトコノコと、オトコノコの腕に腕を絡ませるオンナノコのカップルが、あたしの前をのんびりと歩いている。



 これから先、竜之介くんと別れても、オトコノコに恋をすることはないだろう。
 傷ついた胸を抱えて、わたあめのようにふわふわで甘くて柔らかくていい匂いがして、脆くて残酷で強かなオンナノコに恋をするだろう。
 竜之介くんがオトコノコを想うヒロインになる日まで、あたしは竜之介くんのお姉さん。それはなんて切なくてロマンティックなラブストーリーなのだろう。



-end-


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