Under the Rose



「しのぶさん…」
「因幡さん…」
 ぼんやりとした影がふたつ。
 ひとつは頭のうしろからウサギの耳がひょっこり伸びていて、ぼんぼりシッポが可愛らしくついている。もうひとつはウサギ影より一回り小さくて、フレアスカートが膝下で途切れすらりとした足が伸びている。なんだかちょっぴりちぐはぐな、だけどちょっぴりロマンティックな、おとぎ話のよーなふたつの影。
 淡いピンク色のスモークがふたつの影を囲んで…、ああ、なにやら小さなつるばらがハート型に伸び、フレームにおさめようとしているらしい。クリームイエローとコーラルピンクのつるばらアーチ。小さなトゲを生やして細い枝が絡み合い絡み合い、つるばらはハートフレームでふたつの影を囲う。
 ふたつの影はちょっとずつちょっとずつ、その距離を狭めていく。ふたつの影が寄り添うにつれて、つるばらはカサコソひそひそ、ふたつの影に気づかれぬようにちょっとずつちょっとずつ、ハートフレームを小さくしていく。余ったばらの花は外側に向かって、その愛らしいイエローやピンクを振りまき、余った葉っぱと蔦はくねくねと複雑に幾何学的な模様を描き出す。
 "Under the Rose"
 つるばらは、ふたつの影に密やかな愛を約束する。ああ、そしてつるばらはふたつの影をとうとう、ぴたり寄り添わせてしまった。ふたつの影はもう、その切れ目を窺うことがむずかしい。ゆっくりゆっくり、ウサギ耳の影が沈んでいく。おかっぱ頭の横顔の影は微かに震えて、薔薇の下の約束を待っている。
 ふたつの影のくちびるがそうっと重なろうとする……。



――ジリリリリリリリリリリ!
――PiPiPiPiPiPiPiPiPiPiPi!



 こちら亜空間、亜空間ベクトル○△□。
 オレンジ色のにんじんベッドから転がり落ちるようにして朝のお目覚めを迎えたのは因幡クン。けたたましい目覚まし時計が因幡クンの浮かれきった”あ・はっぴーあんどすうぃーとすりーぴんぐ”をぶち壊す。
 因幡クンはベッドから落ちて痛めた腰をさすさす、腕をのばしてベッドの上の目覚まし時計を叩く。いやらしい目つきをしたウサギの目覚まし時計は、「いたいなあもう!」と文句を言ってから、ジリジリ言うのをやめ大人しくなった。
 目覚ましウサギが小脇に抱えた懐中時計を因幡クンはねぼけまなこで覗き込む。
「…うーん…。何時だろー…むにゃ」
 せっかくいい夢だったのに、とがっかりする気持ちと、ぼくはしのぶさんになななななななんてことを、と不埒な夢に申し訳なく思う気持ちがぐちゃぐちゃと混ざりあいながら因幡クンはあくびをした。
 因幡クンの目がぎょっと飛び出る。目覚ましウサギが因幡クンの驚いた顔を嬉しそうに、いやらしい目つきで笑う。目覚まし時計を覗き込むのに寄りかかっていたベッドから、がたん、と落ちて因幡クンがしりもちをつく。
「わああああっ!遅刻だっ!!」
 ぽいぽいっとウサギのきぐるみパジャマを脱ぎ捨てると、因幡クンは運命製造管理局の制服をファスナー開けっ放しの人参模様ファンシーケースから取り出した。急いでつまさきを通す。
 はやくはやく。今月に入って二度目の大寝坊。前回の寝坊は、その前日にガールフレンドのしのぶちゃんと映画を観たときだった。あまーいあまーいラブストーリーに、しのぶちゃんはレースのハンカチを濡らしていたっけ…。
 ああ、いけないけない。因幡クンは夢の世界につっこみかけた足を急いで引き抜く。今日もまた遅刻してしまったら、意地悪な先輩のこと。「一般人の少女とはもう、会ってはいけないね」なんて言い出すかもしれない。そんなことになったら大変だ。
 焦る心が因幡クンの足がするりと制服を抜けるのを拒み、因幡クンは制服に足をひっかけすってんころりん。ぐしゃっと潰れると、因幡クンはわたわたと立ち上がり、今度はうまく制服に体を滑り込ませ、じいーっとチャックを喉元まで引き上げた。
 転んでぶつけて真っ赤になった鼻をつまむと、因幡クンはベッドの上に立てかけた写真立てを手に取る。
 振り向きざまにシャッターを切っただろう写真。女の子のさらさら真っ直ぐの黒髪が、風になびいている。きょとんとしたドングリまなこ。きらきら好奇心に満ちてとってもキュートだ。桜色のちいさなクチビルはふっくらつやつやみずみずしくって、マシュマロのようなほっぺはふんわりやわらかなピンク色。
 しのぶちゃんのおともだちのラムちゃんにお願いして、隠し撮りしてもらったスナップ写真。
 しのぶちゃんの写真がほしいなと思った因幡クン。しのぶちゃんに切り出したものの、しのぶちゃんに「やだあっもうっ!」と遠いお空のお星様にされてしまってもらえなかったものだから、ラムちゃんにお願いしたのだ。
 ラムちゃんはイヤな顔ひとつせずに「うちのお願いきいてくれるなら撮ってきてあげるっちゃ」とニコニコ快諾してくれた。因幡クンはラムさんっていい人だなあ、と思いながら、ラムちゃんの交換条件をナイショで了解した。「ダーリンとうちが幸せになる未来をつくるっちゃ」という、ほんとーは規則違反のお願い。
 やっぱり頼んでよかったなあ。因幡クンはにへらっと笑うと、「行ってきます」とペコリおじぎをして写真にご挨拶。そんで急いで玄関の鍵を閉めてバタバタと出ていった。
 冷蔵庫の中には昨日の夜のうち、お昼のお弁当に持っていこうと用意しておいた、一度水洗いしたにんじんが忘れられたまんま残された。

* * * * *


 こちら三次元、地球の日本。友引町の三宅さんちのしのぶちゃん。
「う〜〜んっ」
 ぐぐ〜っとのびをすると、しのぶちゃんはPiPiPi鳴っている目覚まし時計を止めた。
 気持ちのいい朝。シャッとカーテンを開けると、朝の白い日差しが部屋の中を満たしていく。しのぶちゃんはお布団をキレイに整えて部屋を出る。
 あーあ、もうちょっとだったのにな。しのぶちゃんはこっそり溜息をついた。ぱたん、と後ろ手に閉じられた部屋にめいいっぱい広がる白い光。ベッドで枕と仲良く並んだ白ウサギのぬいぐるみの毛が、日を浴びてキラキラ光った。

 すっかり身支度を整えて朝食につくと、ママはお台所でおみそ汁を茶碗によそい、パパは新聞を広げ「株価が下がっとるなあ」と渋い声を出していた。
「おはようございます。パパ、ママ」
「おはようしのぶ」
 パパがばさり、と新聞をおろしてニッコリ笑顔を見せる。ママはパパのおみそ汁を手にやってきて「おはよう」と笑った。
 しのぶちゃんは一度ひいた椅子を「あっ」と言って戻すと、ママの脇を抜けてお台所へ失礼。冷蔵庫を開く。冷気がしのぶちゃんのふっくらほっぺをかすめ、しのぶちゃんは冷えたプディングをていねいな手つきで取り出す。
 プディングプディング。黄色くて甘いぷるぷるの、あのカスタードプリンとはちょっと違う。干しぶどうたっぷりの、アーサー王のプディング。 一週間たっぷり寝た、だいじょうぶ、ブラックプディングじゃない、動物の血は一滴もつかっていない、だけど正統派英国風プディング。プラムプディング、クリスマスプディング。干しぶどうにオレンジピール、レモンピール、ドレーンチェリー…たっぷりのドライフルーツとくるみにアーモンド、たっぷりの木の実をラム酒にブランデーで漬けて、ケンネ脂、小麦粉、食パン、スパイス類、砂糖、卵にブランデー、よく混ぜる。一晩じっくりねかせて半日蒸しましょう。そしたら一週間、因幡クンに会う日まで。冷蔵庫でおやすみなさい。
 しのぶちゃんはにっこり笑顔でプディングを手に、テーブルへ戻ってくる。ママは少し呆れ顔。
「すいぶん凝ったお菓子つくっちゃって…。この一週間、冷蔵庫に入れっぱなし。じゃまでしかたなかったわ」
「ごめんなさいママ」
 しのぶちゃんが肩をすくめるとママは眉をさげて溜息ひとつ。それからママ、やれやれとしのぶちゃんの朝食をテーブルに並べて尋ねる、最近のしのぶちゃんのお菓子作りのこと。
「しのぶったら最近、お菓子作りに夢中ね」
「まあね。うふふ」
 嬉しそうに答える娘にママの目がきらりといたずらに光る。
「もしかして好きな男の子でも……」
「ぬわあんどぅわとぅおおおおおおおおーーーーーーっ!」
 パパの大絶叫にママもしのぶちゃんも驚いて、しのぶちゃんは危うく自信作のプディングを床に落としてしまうところだった。しのぶちゃん、慌ててパパに取り繕う。
「や、やあねえ。パパったら。そんな人…」
 しかしパパ、がっしりしのぶちゃんの肩を掴んで、しのぶちゃんの言葉を遮る。目尻には涙がじんわり滲んでる。
「よかった…!ほんとーによかった!!」
「は?」
 しのぶちゃん、パパの歓喜が理解できない。思わず口にした冷たい疑問の声。パパはおいおいと流す涙をワイシャツで拭き拭き、もう片方の手で愛娘の肩をしっかり掴む。
「よかった!諸星くんとの腐れ縁が一生続いたら、パパどーしよーかと…!ボーイフレンドができたんだね、しのぶ!諸星くんじゃないんだね!?ね!ね!」
 おーいおーいとワイシャツを濡らすパパに、しのぶちゃんは「はははは…」と乾いた笑いを浮かべるばかりだった。ママもこっそりほっと胸をなで下ろしていた。

* * * * *


 しのぶさんに会える、とウキウキモップをかける因幡クン。今日のデートこそは、この前のような失態をせぬよう絶対に避けたい。
 前回のデート。今日と同じように遅刻した日の前日にしたデート。映画館を出てしのぶちゃんと喫茶店へ向かっていた因幡クン。そこへ仏滅高校の総番、化物がドドドドドドドドドッと突進してきた。バケモンは許せないことに「しのぶさ〜〜〜ん!好きだああ〜〜〜〜〜!!」などと絶叫している。しのぶちゃんはピクピク眉を動かして不機嫌極まりない様子。
 因幡クン、ここで男を見せねばとばかりにしのぶちゃんを庇って立ちふさがる。すっくと立ち、きりりと口を結び、向かってくる異様な生物を一睨み、立ちふさがった。が、その瞬間にぷちっと潰され哀れ因幡クン、意識を失ってしまったのだった。
 次に目を覚ましたときには、どーやらしのぶちゃんがデッカイバケモンを遠く彼方へぶっ飛ばし終わったところで、しのぶちゃんの勇姿に街を行き交う人々は足を止め、拍手を送っていた。
 しのぶちゃんはふんっと鼻息荒く髪をばさっとかき上げると、通路にのびていた因幡クンを介抱しにしゃがみこむ。因幡クンの意識が戻っていることにしのぶちゃん、安堵して、「だいじょうぶ?因幡さん」と優しい声色で心配してくれた。
 守ろうとした女の子に守られて「だいじょうぶ?因幡さん」だなんて心配されちゃったものだからたまらない。因幡クン情けなくて情けなくて。今日こそはかっこよく決めてみたいと思ってしまう因幡クン。今朝はあんな夢まで見てしまったことだし。

「因幡クン、お昼だよ」
「はいっ」
 遅刻してきた罰としてトイレ掃除をしていた因幡クン。先輩の呼びかけに元気よく答えて既にみんな揃っているテーブルにつく。
 局員達は皆めいめい好みのにんじんをテーブルにナプキン敷いて並べている。細くて長くて色濃い東洋種、太くて短くて橙色のスーパーでおなじみの西洋種。お互いのにんじんの鮮度に点をつけあったり。わいわいわいわい、見比べる。そこで先輩局員気がついた。因幡クンのナプキンの上、なーんにもない。
「因幡クン、お弁当はどうしたのかね」
「いやあ、忘れてしまいまして」
 にへらっと笑う因幡クンの腹がぐうううううううううーっと鳴る。きょろっと因幡クン、もこもこ手を口にあて先輩のお昼ご飯を眺める。先輩達はささっとにんじんを隠す。
「ふーん。まあ因幡クンは仕事が終われば、あの一般人の少女とデートだからね」
「そーか。それならね。ひもじい因幡クンにお弁当わけてあげようかと思ったけどね」
「恋に胸がつまってにんじんも喉を通らないんだろうからね」
「いらないね」
「いらない、いらない」
「そんなこと…」
 因幡クンの目の前にニンジンが翳され、因幡クンが手を伸ばす。と、その途端、先輩ウサギはニンジンをさっと引っ込めた。
「うん、いらない」
 わっはっはっと笑いながらにんじんを齧る先輩達。因幡クンの腹はあいかわらずぐうぐうう〜っと鳴る。じいいっと先輩達がにんじんを齧るのを身を乗り出して眺める因幡クン。先輩達は「因幡クンってばしあわせ者だなあ〜」なんて笑いながら、ほっぺにぴったりくっつくくらい顔をすり寄せてヨダレを垂らす因幡クンを無視する。
 因幡クンは最後のにんじんのカケラが先輩の口に入るその瞬間まで、ヨダレを垂らしてじいいっと眺めていた。

* * * * *


 友引高校2年4組ではいつもの風景がしのぶちゃんの目の前で繰り広げられていた。時計を見ると16時を回っている。いつの間にか六限終了のチャイムは鳴り終えていたよーで、しかしゴッと口から火を吐く危険なお子様テンちゃんの乱入に、黒こげにされた男子生徒諸君の反乱、日本刀を振り回す面堂くんとそれに対するは木槌振り上げる諸星くん、簀巻きにされて転がる温泉マークらによって、チャイムの音はまったく聞こえてこなかった。
 しのぶちゃんはふうっと溜息をつくと巾着袋を手に教室の戸をカラカラと引く。竜之介くん、そっと出ていこうとするしのぶちゃんに気がついた。
「しのぶどこ行くんだ?まだ授業中だぜ」
 しのぶちゃんは時計を指さすことで竜之介くんにすでに放課後であることを教えてあげると、ぱんっと両手を叩いた。
「そうだ。竜之介くんも一緒に家庭科室に行きましょうよ」
「家庭科室?」
 竜之介くん、しのぶちゃんと一緒に教室を出ていく。簀巻き温泉マークがごろごろと転がりながら、ふたりを呼び止めよーと声を張った。けれど虚しく彼の声は廊下のふたりには届かないのであった。

「プディングつくってきたの。食べる前にフランベするのよ。竜之介くん、プディング好き?」
「ぷでぃんぐ………。ふらんべ………」
 竜之介くんうつむいてブツブツ考え込む。しのぶちゃん、竜之介くんの手を引いて家庭科室へ。だーれもいない薄暗い家庭科室の電気をパチパチっとつけてしのぶちゃん、巾着袋からアルミに包んだ切り分けのプディング四つ取り出す。電子レンジをセットしてさあ、あとは蒸されるまで待つしかない。
「プディングは、そうねえ。プリンというか…蒸しケーキみたいなものね。イギリスではクリスマスに必ずつくるのよ」
「いぎりす…」
 竜之介くんは、しのぶってやっぱり女らしいなあ、と尊敬のまなざしを向ける。しのぶちゃん、家庭科準備室のロッカーにかけてあるエプロンを失礼して、そんでブランディーも失礼しちゃったりする。
「フランベっていうのは…あとでやってみせるわ」
 にっこり微笑むしのぶちゃんとレンジから漂ってくるブランデーの香りに、竜之介くんの胸は高鳴った。
 どんなうまいもんなんだろーなあ。親父のやろう、ぜってえ食ったことねえんだろーな。なにしろ”いぎりす”の”ぷでぃんぐ”だぜ!しゃれてるぜ!

* * * * *


 しのぶちゃん、エプロン姿でぽつりと家庭科室の椅子に腰掛ける。窓からは夕陽の最後の粘りのオレンジ色が差し込んで、きっとあともう少しで沈んでしまう。外はもう、ほとんど暮れかかっている。
 ふらんべってなんだ?と言う竜之介くんに青い火ゆらゆらのプディングにブランデーバターを添えてごちそうして、うまいうまいとガツガツ2切れ食べて少し酔った竜之介くんが家庭科室を出て行ってから三十分。約束の時間から三十分。因幡クンは現れない。
 友引高校に迎えに来るというから、それならば家庭科室をポイントにしてねと昨晩電話で伝えたしのぶちゃんだったけれど、時空オンチの因幡クンのこと。それはちょっぴり難しいことだったのかもしれない。しのぶちゃんは溜息をついてプディングを見つめる。フランベして青い火ゆらゆら揺れながら、あったかいまんまのプラムプディングをどうぞ召し上がれ、と出すために家庭科室をポイントに時空移動してもらうことにしたのだけれど。ちょっとわがままだったかしらとしのぶちゃん、ションボリうなだれる。
 そこへにゅうっとウサギの耳がなにもない空間から現れる。しのぶちゃん、ぱっと顔を輝かせて立ち上がる。
「因幡さん!」
 ぐしゃっ。
 ウサギのぬいぐるみが床に潰れる。しのぶちゃん慌てて駆け寄って抱き起こすと、へろへろと崩れ落ちる因幡クンの顔をビシバシ往復ビンタ。ぷく〜っと腫れ上がる因幡クンの両頬。
「し、しのぶさん…。遅くなってすみません…」
「いいのよ、そんなこと」
 意識を取り戻した因幡クンにほっとして、しのぶちゃんニッコリ微笑む。因幡クンのお腹がぐうう〜っと鳴る。
「おなか空いてるの?」
「いやあ…お弁当忘れて、お昼食べてなくて…」
 ははは、と力なく頭をかいて笑う因幡クン。しのぶちゃん、すっくと立ち上がって手を洗う。しのぶちゃんの膝に頭をのせていた因幡クン、ガツンと床に頭を打つ。
「しのぶさん?」
 頭をさすりながら因幡クン、しのぶちゃんの後ろ姿に尋ねかける。プディングとブランデー手にしのぶちゃん振り返り、にっこり微笑む。
「待ってて。いまお菓子作ってあげるわ」



「おいしいっ!!」
 ガツガツと味わう素振りを見せずにプディングをかっこむ因幡クンに、そんな因幡クンをうふふと幸せそうに見守るしのぶちゃん。因幡クンの口のまわりにはベッタリとブランデーバターがついている。ふとしのぶちゃんの脳裏によみがえる今朝の夢。
 しのぶちゃん、う〜ん、と少し顔をしかめて頭をゆっくり振る。バターべっとりのあぶらっこいくちびるとキスするのは趣味じゃない。
 因幡クン、よーやく食べ終わってしのぶちゃんを見ると、なにやらしのぶちゃん、うつむいて何か思案している。憂いを帯びたその瞳に、ふと因幡クンの脳裏によみがえる今朝の夢。
 因幡クン、わわわわわ、ぼくはなんてことを!と真っ赤になって頭をブンブン振る。清楚で可憐なしのぶさんにぼくはなんてふしだらなことを!
「…どうしたの?」
 ぶるんぶるん頭を振る因幡クンを不審そうにしのぶちゃんが覗き込む。しのぶちゃんの顔のアップにますます真っ赤になる因幡クン。
「いっいいえっ!なんでもありませんっ!」
「そーお?……あ。もしかして口に合わなかった?」
 しのぶちゃんの顔に影が差し、因幡クン慌てて訂正する。
「そんなことないですっ!すっごくすっごくおいしかったですっ!」
 なんだかいい気分にふらふらしてきた頭をぶんぶん振って、因幡クンの頭ん中、ますます酔いが回る。しのぶちゃんは「それならいいんだけど」と微笑む。因幡クンの瞳にうつる少女はまるで女神様のよーに映る。後光まで差している。きらきらきら。
「そーいえばねえ。プディングつくってたらママが好きな男の子でもできたのかって」
「ええっ!!」
 どきっと飛び上がる因幡クンにしのぶちゃん、ニッコリ笑って、それから今朝のパパの様子を思い出してクスクス笑う。
「それでパパが驚いてね…」
 ”パパ”の言葉の響きに心臓ばくばくの因幡クン。女の子の父親。避けては通れない最大級の関門。しかも因幡クンったら都合の悪いことに異次元人ときてる。ただでさえ愛娘のお相手は気に入られにくいっていうのに…って、いやいやその前にしのぶちゃんと因幡クンってそーゆー関係になれるのだろーか。
「あたるくんと縁が切れてよかったーって喜んでたわ」
 うふふ、と笑うしのぶちゃんに因幡クン。あははと笑ってみたものの、なんだか複雑な気分だ。因幡クンの会ったことのないしのぶちゃんのパパは諸星くんとしのぶちゃんの仲をきっときっと知っていて、でも因幡クンは知られていない。ついぽろりと出てきた言葉は「あたるさんとは家族ぐるみだったんですね」。
「家族ぐるみというか……まあ幼馴染みだしねえ…」
 しのぶちゃんは苦笑する。ついうっかりの失言に後悔する因幡クン。だって諸星くんとしのぶちゃんは幼馴染み。因幡クンとしのぶちゃんは………恋人、だと思いたい。けれどもしのぶちゃんがどう思っているのかわからない。因幡クン、慌ててしのぶちゃんを見るとしのぶちゃん、目を輝かせている。
「そうだっ!パパを安心させてあげるためにも今度因幡さん、うちにいらっしゃいよ。因幡さんならきっとパパも安心して………とは言っても、そのときはぬいぐるみを脱いでもらわなきゃ困るけど」
 嬉しそうに微笑んで因幡クンの手をとるしのぶちゃんに、因幡クン、ぱあああああああっと一面心に花が咲く。ぼくはしのぶさんの恋人なんだ〜〜〜〜〜〜〜!
 じ〜〜〜んと感動する因幡クン。ブランデーがほどよく回った頭にしのぶちゃんの笑顔がほわわわわわんと滲んでいく。天使の微笑みでしのぶちゃん、パパに会ってね、と因幡クンに言った。パパに会う→「娘さんをください」→結婚→キス。そうだ、そうなんだ。今朝の夢はきっと予知夢だったんだ…。
 因幡クンはぐっと拳を握りツバを飲み込むと決意する。今日のデートこそは、男らしくかっこよく決めてみせねば。
「因幡さん?どうかした?」
 黙りこくってしまった因幡クンにしのぶちゃん、不審に思い覗き込む。夢の世界からはっと我に返った因幡クン。にじり寄ってきたしのぶちゃんのまんまるの瞳に吸い込まれる。しのぶちゃんの大きなまんまるのきらきらうるうるオメメ、ぷっくりつやつやのくちびるが因幡クンを待っている。
 女の子のしのぶちゃんにこーまで積極的に出られたら因幡クン、ここで決めなきゃ男じゃない、男じゃない、男じゃないっ。
「しっしのぶさんっ!」
「えっ?」
 ぐわしっとしのぶちゃんの肩を掴む因幡クン。戸惑うしのぶちゃん。真っ赤っかな因幡クンのくちびるにはべったりとブランデーバター。

* * * * *


「しのぶさん…」
「因幡さん…」
 ぼんやりとした影がふたつ。
 ひとつは頭のうしろからウサギの耳がひょっこり伸びていて、ぼんぼりシッポが可愛らしくついている。もうひとつはウサギ影より一回り小さくて、フレアスカートが膝下で途切れすらりとした足が伸びている。なんだかちょっぴりちぐはぐな、だけどちょっぴりロマンティックな、おとぎ話のよーなふたつの影。
 クリームイエローとコーラルピンクのつるばらアーチ。小さなトゲを生やして細い枝が混み合い混み合い、つるばらはハートフレームでふたつの影を囲う。



 因幡クンはその晩悪夢にうなされたのだった。
 薔薇の下で地中深く、頭から突き刺さった因幡クン。ついさっきまでロマンティックにうっとりと因幡クンに体をあずけていたしのぶちゃん。ふんっと髪をかきあげ睨みあげ、くるりと背を向けると颯爽と立ち去っていく。因幡クンが地上に出ている足をピクピクと痙攣させながら「し、しのぶさ…ん…」と呼び止める。因幡クンの声は土の中、こもって響いている。
 しのぶちゃん、ぴたっと立ち止まりくるっと振り返って嫌悪感いっぱいの表情で吐き捨てる。
「きたないわねっ!!」

 その頃しのぶちゃんも同じく悪夢にうなされていたのだった。
 薔薇の下でせまりくるバターでギトギトのくちびる。いつもは端正で爽やかな因幡クンの顔がびよ〜んと鼻の下のばして…、いつのまにやらむくむくと顔かたちを変え、仏滅高校の総番になっている。バターでぎっとぎっとの分厚いたらこクチビルに口の中には、もあ〜んとした薔薇柄のトーン。
「ひいいいいいっ!いっいやああああ〜〜っ!!」
 ばきっ、どおおおおおおおん、とぶっ飛ばすとバケモンが薔薇のアーチを突き抜け、そして重力にしたがってしのぶちゃんの華奢な体に覆い被さろうと落下しながら絶叫する。
「しのぶさ〜〜〜〜ん!好きだっ!好きだっ!好きだああ〜〜〜〜っ!」



 "Under the Rose"
 つるばらは、ふたつの影に密やかな愛を約束する。


-end-


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