兎の罠に狐がかかりて、兎死すれば狐これを悲しまず


 キツネはその小さい胸に抱く大きな勇気を、ここで示すべきか決心しかねていた。
 荒々しい自然に生きる野生動物として、脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目(食肉目)ネコ亜目(裂脚亜目)イヌ科キツネ亜科キツネ属アカギツネとして。彼はある生物を補食する立場にある。それは自然界において、正常な食物連鎖の一環、すなわち当然の権利としてキツネに授けられた能力であり、それは太古の昔から繰り返されてきた、キツネとして己のあるべき原点である。
 キツネは後ろ足二本ですっくと立ち、前方約100m先に見える、家畜用に品種改良された、自然界では決して生き残れぬだろう、弱々しいアルビノ種を睨んだ。人間の小学校の飼育小屋で、児童が糞まみれになりながらも、かわいいかわいい、とべたべた触りまくっては弱らせ、ある日突然野犬が襲撃をしかけ食い荒らしたりしてあっけなく死ぬ、あの小動物。日本神話で、鰐を騙くらかして、最後の最後でアホウな一言を口にしたがために皮を剥がれた、あの間抜けな生物。
 確かにキツネは小学校で、”みんな仲良しこよし”のスローガンの元、種族を越えて、様々な動物たちと仲良しこよしに過ごしてはいる。
――しかし…。



「それじゃ、ぼくはこれで…」
 ウサギが、その丸まった手に持っていた学生鞄と体操袋を胸の前にかかげる。小花模様の可愛らしい体操袋に、学生鞄につけられた白ウサギのマスコットが当たって弾む。少女が折れそうなほど細く頼りない腕を、そろそろと伸ばす。ウサギを見上げる少女のふっくらとした頬は、西日で照らされ橙色に、そして心持ち赤らんで見える。
 少女はウサギから学生鞄と体操袋を受け取った。
「ええ。送ってくれてありがとう」
 小首を傾げてにっこりと微笑む少女。少女の純粋で清らかな性質を表すかのように真っ直ぐな髪が、さらさらと紺地のセーラーの襟を流れる。キツネは少女の、愛くるしく汚れのない笑顔に見とれた。
 キツネと少女との距離は10mほど。
「それじゃあ…」
 少女がウサギに背を向け、門扉に手をかける。カタ…キイ…、と扉がゆっくりと開く。キツネはトタトタと後ろ足二本で走る。斜めがけにしたポシェットが揺れる。
 ウサギに襲いかかるのはやめることにした。あのウサギは、異常なくらい図体のデカイ”小”動物だけれど、少女を宅へと無事送り届けた、親切で善いウサギだ。少女を宅まで送る、という使命を負えたウサギを尻目に、自分は少女の腕に抱かれ、部屋にあげてもらおう。ふかふかのベッドの上、少女の柔らかな笑顔を独り占めしよう。
 少女がもう一度、ウサギへと振り返る。少女の手をかけていた門扉がカタリ、と呟き、閑静な住宅街で叙情詩が詠われる。少女の赤く瑞々しい唇が開かれる。小さな口。
 キツネと少女との距離はあと5m。
「…また、いつ会えるのかしら…」
 黄昏に溶けてゆく透き通った声。少女が門扉に手をかけたまま俯く。
「……しのぶさん」
 ウサギが音もなく、静かに少女の頬へと手を伸ばす。少女はぴくりと肩を震わせ、顔を上げる。黒く澄んだ瞳に驚きの色を浮かべて、大きく丸く。ウサギを見上げる。
「因幡さ……!」
 少女は手にしていた鞄を落とす。少女の白いスニーカーをかすめて、ドサリと倒れる黒い学生鞄。少女の華奢な腰が、強く、ウサギの腕に引き寄せられる。夕陽色のキャンバスに、少女の背が柔らかく弓なりに描かれ、少女はウサギの腕の中へ落ちていこうとする…。
 コーン…とキツネの哀しげな鳴き声が少女の耳に届く。

「しのぶっ!」

 キツネはどろん、と人間の男の子に化けた。
 途端に、ぱっと弾かれたように、少女とウサギが離れる。
 少女もウサギも、夕焼けで誤魔化せぬほどに頬を紅潮させている。第一、キツネの哀願に振り返った少女とウサギは、沈みゆく太陽を背にしているために、陽は逆光となり、その頬が赤く照らされることはないのだ。
 キツネは左後ろ足で、思いっきり地を蹴った。キツネの体が宙に浮く。心は今にも果てしない闇へと堕ちていくほどに、重く沈みきっているのに反し、キツネの体は重力を感じさせぬほどに軽々と自由に、ただ一人の少女の元へと飛んでいく。

「キツネちゃん!」
 少女はウサギの胸を力強く、どんっと押すと、飛び込んでくるキツネのために大きく腕を広げた。ウサギが向かいの家の塀に、みし…とめり込む。キツネは躊躇いなく、少女の胸に飛び込む。少女がキツネを包み込む。ウサギはめり込んだまま、ぴくぴくと足を痙攣させている。
「しのぶっ!会いたかった」
 キツネの耳と尻尾の生えた男の子。愛らしい声に言葉に、少女は嬉しそうに微笑む。きゅ…っと優しく込められた腕の力に、キツネ耳の男の子は少女の愛情を全身に感じ取る。半キツネの男の子は完璧なキツネに戻る。
「あたしもキツネちゃんに会いたかったわ」
 少女はキツネを右手で抱えたまま、屈んで足下の鞄を拾う。キツネはパタパタと小さな尻尾を振る。ウサギは未だピクピクと痙攣している。
「よくきたわねえ。今日は泊まっていってね」
 キツネは小さな胸に抑えきれぬ愛しさを込めて、コーーン、と長く鳴いた。少女が嬉しそうに小首を傾げ、さらさらと髪が流れる。微かにシャンプーの香りがした。
 少女は後ろ手に、鞄を持った手で門扉を閉める。「鍵を開けるから」と少女はキツネを肩にのせ、鞄を探る。キツネは少女の細い肩に大人しく座りながら、ちらりと後ろを振り向いた。
 閉められた門扉の向こう、ようやく意識を取り戻したらしいウサギが、塀から頭を抜こうと手を突っぱねている。しかし深くめり込んだ顔がなかなか抜けようとしない。キツネは無言で、鍵を見つけだした少女の手元へ視線を戻す。
「あったあった」
 少女が鍵穴に鍵を差し、扉がガチャリと開く。「ただいまー」という少女に続けて、キツネはコーン、と鳴く。少女が玄関に鞄と体操袋を置くと、奥の方からパタパタと少女の母親がやってくる気配がした。
「あらあらキツネちゃん。よくきたわねえ」
 キツネはコーン、と鳴いて少女の母に挨拶をする。少女の母は、おたま片手にエプロンの出で立ちでキツネに微笑みかける。
「ねえママ。今日はキツネちゃん、泊まっていってもいいでしょ?」
「ええ…そうねえ…。でもその前に、ちゃんとキツネちゃんを洗ってらっしゃい。前にも言ったけど…」
 少女の母の顔が曇り、キツネの胸に暗い影が出来る。少女は母親の言葉を受け継いで頷く。
「わかってるわ。エキノなんとかでしょう」
 少女はキツネを覗き込むと「ごめんねキツネちゃん。ちょっと冷たいけど、お外で体、洗いましょうね」ともう一度、玄関の外へ出た。キツネは体を洗われることへの少しの恐怖と、少女と共にいられることへの安堵に、小さくコン、と鳴いた。
 少女は庭を回って、蛇口を捻る。キツネはタライに水をためる少女から、向かいの塀へと視線を移す。ウサギはもう少しで塀から頭を抜け出せそうだ。ウサギはプルプルと無様に震えていた。
「さあキツネちゃん。この中に入って?」
 少女がキツネに手を伸ばし、キツネは素直に冷たい水で満たされたタライに入る。少女が石鹸を泡立て、スポンジでキツネの体を優しく洗う。キツネが目を細める。少女がうふふ、と笑う。

 キツネはいい匂いのする泡に包まれながら、少女の鼻歌に揺蕩う。じゃばじゃば、という水の音と少女の軽やかな鼻歌の中に混じって、塀の向こうから微かに聞こえた声に、キツネは気づかなかったことにした。今、キツネは少女の笑顔を独り占めしているのだから。


-end-


≪戻る