※ WARNING! : オリジナルキャラクター視点 / 百合

Passion
〜 宇多田ヒカル”Passion”に寄せて 〜



「まあ!お久しぶりね!元気だった?……え?あたし?元気よ。うん、うん……。そうねえ、忙しくって。渚さんからみんなにヨロシク言っておいてもらえると助かるわ。あ、そういえばどうやって知ったの?うちの番号。………ああ、あたるくんね。なかなか手こずったでしょう、厳しく口止めしておいたから………え?そんなに簡単に教えてくれちゃったの?…もうっ!あとでちゃんと言っておかなきゃ!」
 我が愛しのしのぶ嬢は受話器を耳に押し当て、わたしに背中を見せ続けている。
 白く滑らかな背中をわたしの目の前に晒し続けて、しのぶに関することには一欠片もないわたしの忍耐力が、どれだけ続くと思っているのだろうか。どんなに愛し合っても成熟しきらない、青い果実のような背中が、冷たくわたしを拒んでいる。

 日曜の昼間、穏やかな風を入れるために窓は開けて、直接日の光を肌に浴びないようにカーテンを閉めきる。生暖かい湿気を孕んだ風がクリーム色のカーテンを揺らし、汗ばんで束になった髪をほぐしていく。その都度、カーテンの遮光しきれなかった分量が漏れ出して、ちらりと鋭い光が丸みを帯びたシーツを照らす。
 ティーシャツも下着も身につけずに、二人分の汗をたっぷり染みこんだシーツの上でまどろむことが、人生最大の幸せだ。
 この人と出会う前の自分が、愛も欲望も安堵も憎悪も激情もなく、どうして生きてこられたのかわからない。ひたすらにこの人の体と心を貪りたいと思う。そんなことを考えて、毎日セクハラに満ちた前時代的で封建的な会社に出勤して帰宅して、目と耳をふさぐように息を殺して過ごしながら、誰の邪魔も入らず愛し合える週末が来るのを待っている。
 シングルベッドで互いの肌をまさぐって、快楽の果てに辿り着いたら腰にしがみついたまま眠って、夜中にふと目覚めて安心しきった寝顔を見つめてまた眠りに落ちる。
 愛しくて愛しくて、ときどき殺してやりたくなる。いつまでたっても少女のような、可憐で切ない喘ぎ声が、彼女の首にかけた手の握力を強めてしまいそうになる。
 しのぶ。
 しのぶしのぶしのぶ。
 だけどしのぶ。あなたの居ない世界など、わたしには考えられない。

 しのぶの柔らかい背中を指でなぞる。しのぶが小さく身を捩る。
 しのぶは振り返りもせずに、わたしの手を背中から引きはがす。
 引きはがされた手を、凝りもせずにまた背中に這わせ、今度は肩胛骨の下を強く吸う。鬱血させて痣をつくる。しのぶが小さく呻く。
「……もうちょっとだから、我慢して」
 溜息をついてしのぶがようやく振り返る。
 わたしはふん、と鼻を鳴らしてしのぶの背の中央を舐める。
 しのぶは眉間に深く皺を寄せて「怒るわよ」と言った。わたしはそれを合図にぴたりと動きを止める。
 しのぶは溜息をついて受話器をまた耳に押し当てた。「ごめんなさいね、うちのネコが」と言い訳をして、またわたしの知らない誰かとの会話に戻っていく。
 わたしはしのぶの腰を撫で回したい気持ちをぐっとこらえて、サイドテーブルに手を伸ばす。無印良品のアルミのスタンドライトを手の甲で押しやって、向こうに押しやられていたバージニア・スリム・デュオ・メンソールの細いパッケージを、人差し指でちょいちょいと引き寄せる。一本引き抜くと、ディオールのようなパッケージの中に、もう一本も煙草が残っていないことに気がついた。
 くすくすと笑い声をあげながら長電話を続けるしのぶを睨みながら、ぐしゃりと箱を潰す。
 息苦しい毎日をなんとかやり過ごして、ようやく訪れた休日をしのぶとじっくり愛し合って過ごしたいのに、しのぶはわたしのことなどどうでもいいのだ。
 しのぶの手から受話器を奪い取ってしまいたいけれど、しのぶの本気の力にわたしは勝てない。しのぶより力があれば、わたしはとっくにしのぶをねじ伏せている。だけど喧嘩をして、顔中体中、ひっかき傷を作って鼻血を出すのは、わたしの方なのだ。身に染みてわかっている。
 ずるいと思う。
 こんなに惚れさせて、お預けを食らわせるの?それがあなたのやり方なの?わたしは我慢ならない。全部奪い尽くすまで、わたしは止められないのに。

「何よお、最初に言いなさいよ!もう……。そっか。とうとうパパかあ、おめでとう。ちゃんと労ってあげるのよ……とは言っても、渚さんなら心配ないわね。渚さんも女みたいなものだものー……え?どういう意味かって?…ふふ、わかってるくせに」
 穏やかで暖かい声を滲ませて。ずるい。そんな声をわたし以外に聞かせないでほしい。
 だけれど、パパ、という言葉に安堵する。
 もし電話の相手が男じゃなくて女だったら、わたしはきっと、その後のしのぶの報復と惨劇も考えずに、電話線を引っこ抜いているところだ。
 しのぶの男友達は少ない。同性愛者であることを理解する必要があるから、しのぶの魅力に惹かれてフラフラと寄ってきた男達は自然、淘汰されていく。だからだいたい高校時代のうちの数人に絞られる。その上でこうして親しげに会話を続けられる人物となると、わたしの知るうちでは一人しかいない。
 諸星あたる、とかいう、しのぶの幼馴染み。しのぶの最初の男で、最後の男。とてつもなく幸運な、そして、とてつもなくバカな男。
 諸星あたる以外の、しのぶの純粋な男友達をわたしは知らない。渚、という男をわたしは知らない。
 わたしはシーツをパタパタとはためかせて、ライターを探す。サイドテーブルにライターは載っていなかった。ベッドに落ちたのだろう。
「……え?あたし?………ううーん……。まあ、そのうちね」
 しのぶが苦笑いをする。
 何を言われたのか大体見当がつく。どうせ結婚しろとか子供を作れとか。同性愛者であるしのぶには、決して出来そうにないことを薦めてきたのだ。
 なんて愚かな男だろう。こういうバカな男は一生かかっても理解できないのだから、しのぶもさっさと縁を切ってしまえばいいのだ。
「ううっ、それを言われると痛いわね」
 ライターを探す手を止めて、しのぶの横顔を覗き込む。
 あたしは女の人が好きだから無理なのよ、といういつもの台詞を、なぜ言わないのだろう。
 しのぶがわたしを軽く睨んで、どいていなさい、と目で合図する。
「………うん。じゃあ、竜之介くんによろしく」
 しのぶが受話器を置く。
 わたしは硬直したまま、二つに分かれた黒髪から覗く、しのぶの細いうなじを見つめる。
 しのぶが溜息をつく。
 いま、なんて言った?しのぶは、なんて言った?
――竜之介くん、と言わなかったか。

「お待たせ」
「…………」
 ぎらぎらとしのぶを睨みつけて、丁度手に当たったライターで煙草に火をつける。
「ちょっと」
 しのぶが眉をひそめて吐き出した紫煙を睨む。
 そんなこと構うもんか。わたしは思い切り煙を吸いこむと、肺に到達させずに口腔内に留めてから吐き出した。
 しのぶの顔が白い煙で揺らめく。
「部屋の中で煙草を吸わないでって、何度言ったらわかるの」
 しのぶが窓の外を指さす。聞き分けのない子供を前にしたときのように、諦めたような弱々しさでわたしを諭す。その頼りなさに苛立つ。気が強くて、頑固で、ともするととてつもなく偏見に満ちて閉鎖的なしのぶが、弱々しい声を出すなんて許せない。そんなのは卑怯だ。
 わたしはたっぷり煙を吸い込んでから、しのぶの黒髪を掴む。痛い、と非難するしのぶの開いた口に、煙を吹き込む。
「何するのよ!」
 わたしの体がベッドから転げ落ちて、強かに腰を打つ。右手には、引き抜いたしのぶの黒髪。しのぶが憤怒の形相でわたしを睨んでいる。青白い頬と、赤い眼の縁を吊り上げられた瞳は、爛々と炎を燃え上がらせている。白く痩せた体が薄桃色に染まっている。
 ベッドからたたき落とされたときに左手から落ちた煙草を腰を曲げて拾う。胸の中央についた平手の赤い痕をさすって、ベッドの上に戻る。深く煙草を吸い込んで吐き出す。
「……いい加減にしなさいよ」
「なによ、わたしの匂いを残して欲しくないってわけ?他の女でも連れ込みたいの?この部屋に」
「いないわよ。そんな女。何度も言ってるでしょう、部屋がヤニ臭くなって壁が黄色くなるのがイ……」
「あ。そっか。女じゃなくて男か。そうだった、しのぶは男ともヤれるんだもんね。しのぶが初めて寝たのは男だったよね。どんな声で啼くのよ、男に組み敷かれてさ」
 あっという間にしのぶに組み敷かれる。ゆらゆらと揺れる黒髪がしのぶの青白い頬にかかる。ゆっくりと近付いてくるしのぶの唇を避けて、顔を背ける。しのぶがわたしの手首を解放する。
「今日は聞き分けが悪いのね」
 しのぶは起き上がって溜息をつく。額にかかっていた髪をかき上げる。疲れたような表情をしながら、髪をかき上げる仕草はとても丁寧で少女らしい外見を際立たせて、不釣り合いなエロスがとてもセクシーだ。
 唇をきつく噛む。
「しのぶが悪いんだよ」
「電話が長引いたのは謝るわ」
「そうじゃないよ。あんたが話してたのは一体誰?」
「高校のときの友達。女じゃないわよ」
「男だってのはわかってるよ。でもそれ以上にタチが悪い」
「どうして?あたしは男に興味なんかないって知ってるでしょう」
 わたしは床下に転がるバッグから携帯灰皿を取り出して揉み消す。
「あんたの初恋の女の旦那なんでしょ、電話の相手」
 しのぶはわたしの目をじっと見つめて、小さく息を吸う。何でもない風に装うことが得意のしのぶ。表情は少しも変わらないけれど、たった一度の深呼吸が動揺を明らかにしている。
 胸の底から深い絶望感がヒタヒタと迫り上がってくる。
「違うわよ。初恋はあたるくんだって……」
「ノンケのフリなんかするんじゃないよ」
 しのぶがわたしの頭を撫でる。わたしは泣き出していた。

-----

 しのぶに出会ったのは、バカな火遊びを繰り返していた頃だった。
 当時つき合っていた彼女の家に、ナンパで引っかけた高校生の女の子を連れ込み、ベッドでよろしくやっていて、仕事から帰宅した彼女がベッドで抱き合うわたし達を見つけた。彼女は狂ったように女子高校生を殴り蹴飛ばして部屋から追い出すと、「やっぱり若い子が好きなのね!」と陳腐な台詞を吐いた。わたしはせせら笑って「あんたに飽きただけさ」と彼女の家を飛び出した。
 せっかく拾った女子高校生を逃したわたしは、自分の安アパートに大人しく戻る気にもなれず、新宿に向かった。いつものバーに寄ろうか迷って、以前彼女が「新しく出来たらしい」と教えてくれたバーに足を運んだ。
 そこでしのぶを見つけた。
 一人静かに隅の方でウィスキーのロックを飲んでいた。肩までのおかっぱに愛らしいくりくりとした瞳、小さくて形のいい鼻と唇。ふっくらとした頬。未成年がなかなか渋いことしてんじゃないの、とわたしは口笛を吹いた。
 子供が背伸びしようとすると、どこかボロが出て、その懸命さが可愛らしいのだけど、ウィスキーをあおる少女はどう見ても未成年なのに、その仕草がしっくりいっていた。
 可愛らしい顔はかなり好みだったし、その愛らしい顔に似合わぬチョイスにからかい半分、声をかけた。
 振り返ったしのぶは、わたしのへらへらとした軽薄な表情に露骨な嫌悪を示した。そんなことは初めてだった。

 なんとか口説き落として、落ち着いた別の店に場所を移すことに成功した。わたしは内心有頂天になりながら、大人びた仕草の少女をしげしげと眺めた。
 しのぶは24才だと言った。わたしのふたつ年上だった。
「よく間違えられるの。まあ若く見られるってそんなに悪くないけどね」
 くすりと笑うしのぶは、本当に無邪気な少女のようで、手にした厳ついロックグラスが本当に似合わない、と思った。
「こういう店にはよく来るの?」
「ううん。初めて。大学行ってるときは、お金なかったから。なんとか少しでも稼げるようになって、そのご褒美みたいなものかな」
「ふーん。で、お好みの子はいた?いなければわたし、立候補するんだけどな」
 少女が大人びた顔でクスリと笑う。わたしの心臓がドキリとはねる。ビアンバーには初めてだと言いながら、目の前の少女はかなりの場数を踏んでいるように見えた。
「そうね、お試し期間っていただけるのかしら」
「そんなのないよ」
 適当でいいよ楽しく遊ぼうよ、と言おうとした口が、切羽詰まった声でしのぶにすがった。わたしは恋に落ちてしまった。

 一ヶ月くらい経って、しのぶは申し訳なさそうに告白した。わたしの顔が、昔好きだった女の人に似ていたのだと。だからバーでわたしの顔を見て驚いた、他の男と幸せになったくせに、こんな場所で何をしているのかと腹が立ったのだ、と。
「今でもわたしにその子を重ねて見てるの?」
 しのぶは「ばかね」とわたしの髪を撫でて微笑んだ。
「顔はともかく、性格は似ても似つかないわよ。全然違う」
「そうだよね。わたしほどいい女、なかなかいないよ。わたしを引き当てられて、しのぶは本当にラッキーだったよ」
 コロコロと笑うしのぶの薄い胸に顔を埋めて、わたしはこみ上げる吐き気を懸命に堪えた。
 しのぶは、その女とはレズゴッコで終わった、と言った。その女は行き場のない思春期特有の閉塞感を、しのぶでやり過ごしたのだろう、と。それから、その女とはもう連絡をとっていない、と。

-----

「しのぶの高校の卒業アルバム、見たんだ」
「そう」
「わたしと同じ顔した女が学ラン着てた。男子生徒扱いされてたけど、わたしと同じ顔の美少女が男なわけないでしょ」
「言うわねえ」
「当たり前でしょ。しのぶだってわたしの顔が好きなくせに」
 しのぶが溜息をつく。
「ねえ、それは昔の話だし、竜之介くんと似ているから好きになったわけじゃないわ」
「やっぱり竜之介って、その女だったんだ」
 ボロボロと涙を流してしのぶを睨む。しのぶがわたしの頬を舐める。
「ええ。でも、竜之介くんとはとっくの昔に縁が切れてるし、結婚もしてるのよ。何を心配することがあるの?」
「あんたの初めて好きになった女が気にならないわけないよ!それもわたしと似てるなんてさ!」
 しのぶの細い体をぎゅっと抱きしめる。しのぶがわたしの背中をさする。
「どうしてその女に、”あたしはレズなんです。レズゴッコじゃなくて本気で女が好きなんです。”って言ってやらないの!?そんなにその女に嫌われたくないのっ!?」
 血がほとばしるほどに振り絞った声。声帯をびりびりと震わせて、しのぶにむしゃぶりついた。
 足を絡ませて引き抜いて絡ませて。ベッドの上でのたうち回る。
 わたしは騙される役には向いていない。しのぶに会うまでは、楽しく遊んで入れ込まれたら適当にあしらって、捨てる方だった。けれど今、わたしの悲鳴はセックスに辿り着いてしまう。



「子供がほしいんだったら、適当な男でも拾って結婚すればいい。この前、しのぶに言い寄ってきた男、まだ諦めてないみたいだしさ。それに八年越しのウサギもいる」
 天井を見上げてぽつりと言うと、しのぶが腕を伸ばしてわたしの頬にキスをする。汗まみれのシーツと髪の毛がへばりつく。
「しないわ、結婚なんて」
「してもいいんだよ。別れてはやらないけど、愛人でもいいんだ、わたしは」
「なおさら無理よ」
「親に言われてるんでしょ、早く孫の顔が見たいってさ」
 しのぶは黙ってわたしの髪を撫でる。
「わたしはさ、もう親に勘当されてるからいいんだ。自分の血を引く子供なんてグロテスクなもの、欲しくもないし。でもしのぶは違うでしょ。しのぶは子供欲しいんでしょ。それにしのぶの親はまだ、諦めてない。普通の結婚して家庭持ってほしいんだって、この前言われたよ」

 勝手なことを言っているのはわかっている、だけど娘のためにも君のためにも別れてくれないか、今は一時の感情に溺れているだけで、いずれ女同士は間違っていたと気づく、病は治る、女は男に守られ男を支えて、子供を産んで幸せになるものだ、それが昔からの決まり事で、それだからこそ、君もこの世に生まれてきたのだろう。
 理解してくれとは言わない。どうせわたしも、あなた達のことは理解できない。それに、汚物を見るように蔑まれ罵倒されたりするより、ずっと冷静にわたしに語りかけてくれた。わたしを人間として扱ってくれた。
 だけど、愛するヒトの両親に泣きつかれたら、わたしの胸がどれほど傷つくのか、彼等は知っているのだろうか。彼等の苦しみとわたしの苦しみ。どうして彼等が勝ると言えるのか。

 しのぶの目が吊り上がる。
 しのぶが静かに怒っている。それを見てわたしは嬉しい、と思う。しのぶを傷つけたくないから、黙っていようと思っていたけれど、わたしは今、とっておきのカードを使ってしまった。
 しのぶがわたしの額を音を立てて吸う。しのぶの可愛らしい乳首が鎖骨に当たる。
「子供。作っちゃおうか?」
「はあ?」
 わたしは脱力してしのぶを見る。しのぶは悪戯っぽく笑う。
「できるわけないでしょ、女同士で」
「すごくえっちなことをすれば、できるかもしれないわよ」
「いつもしてるじゃん。それにどうせ出来ても想像妊娠だ。腹の中は空っぽだよ」
「それでもいいわ」
 穏やかに笑うしのぶに泣きたくなった。

-----

「実はね、竜之介さまが子供を授かったの」
「え?誰との子?」
「ひどいわ!しのぶちゃん!あたしと竜之介さまの愛の結晶に決まってるじゃないの!」
「ふふふ、冗談よ」
 受話越しに渚が真剣に嘆く。しのぶは嬉しそうに笑った。
「しのぶちゃんったら意地悪なんだから!…それでね、お産は今年の冬あたりになりそうなの」
「何よお、最初に言いなさいよ!もう!薄っぺらな世間話なんかで引き延ばしちゃって。……おかげでネコがぐずっちゃったわ」
 トーンを落とした声でしのぶが渚に文句を言う。渚が苦笑する。
 しのぶは電話をきったらすぐに、背後で拗ねている気まぐれなネコのご機嫌取りをしなくては、と思う。産毛を撫でるように這わされた、鳥肌の立つ手つき。強く吸われた肩胛骨の下、ざらりとしたネコの舌で舐められた背中が疼いている。
「なんとなく切り出しにくくて。ごめんなさい。猫ちゃん、平気?」
「ええ、まあ。なんとかするわ。……でも、そっか。とうとうパパかあ、おめでとう。ちゃんと労ってあげるのよ……とは言っても、渚さんなら心配ないわね。渚さんも女みたいなものだものー」
 受話器の向こうから、渚の必死の反論が返ってくる。しのぶは笑った。



 来年はしのぶの実家に、家族が一人増えた藤波家から年賀状が届くことだろう。年賀状は写真付きかしら、としのぶは微笑む。
 今度渚に電話をして、このアパートの住所を知らせよう、としのぶは思った。実家ではなく、アパートにお年賀を送ってもらおう。
 ずっと忘れられなかった。けれど、もうしのぶの横には、しのぶだけを見つめてくれるネコがいる。
 しのぶは風に揺れるクリーム色のカーテンを見つめた。



-end-


≪戻る