「因幡さんはあたしのどこが気に入って、好きだと思ってくれてるの」



 先々月、運命製造管理局で一人の先輩局員が辞表を出した。同じ地球担当チームのメンバーだった。
 老後は三次元で過ごすのだよと、以前から聞いていた。「そのときにはおれの運命をよろしく頼むね、因幡クン。老後じゃ運命なんてものでもないけどね」と冗談を交わしていた。老後なんてまだまだの、働き盛りの先輩。
 先輩はいつも飄々としていたけれど、ああたぶん本気なのだろうなあ、と薄々感じていた。
 亜空間人であることを捨てて、ある星へと永住することを決意させたのは、運命をつくるという役割における責任の重大さに、圧迫され続けていたということもあるのだろうけれど(これはたぶん、職業病だ。それを防ぐためか、小学校の教材「お仕事シリーズ1808 運命製造管理局員編」で適性として、楽観・愛他主義であることが挙げられている)、最終的に先輩を後押ししたのは、恋だった。
 ぼくも人ごとではなくて、先輩の迷いを、きっと他の誰よりもわかっていたと思う。そして、たぶんぼくもいずれ先輩と同じ選択をするだろう。でもぼくに、先輩のような迷いはない。
 亜空間と三次元空間とを往復する生活は不可能だ。今はまだ大目に見て貰っている。だけど運命を紡ぎ出す立場にあって、その上地球担当のぼくが、運命製造管理局員として生涯、三次元の一般人と暮らすわけにはいかない。そしてしのぶさんに、住み慣れた地球を離れ、亜空間に来て欲しいとは言えない。いや、”地球から離れる”という言葉は、誤解を招く。離れるんじゃない、亜空間は地球のどこにでも存在している。つまり三次元人同士が星間物理移動するのとは違う。国や星同士の政治問題以前に、次元が違う。

 先輩の任されていた仕事は、地球で過去起きた出来事を”時間”の形でデータ化してコンピュータに打ち込むことで、このデータを他の各担当メンバー達が統計、分析処理した資料を基に、ぼくは”運命”をつくっていた。そしてそれをまた担当メンバー達が管理する。あとは、ぼくのような凡局員には預かり知れぬ方法で、エリート局員が全宇宙像としてまとめていく。
 ぼくの仕事は、そんなに難しいことじゃない。ベテラン局員達が打ち込んでくれたデータによって、コンピューターが自動的に細部を連結してくれる。ぼくは全体像を作り出せばいい。たとえば、みんなが平和で幸せでいられる世界を思い描き、作られたその大筋の運命を辿るように、それぞれ三次元人達がそれぞれの個性で彩りを加えていく。何年何月何日何時何分何秒に、○○が起きる、ということまでは作らない。それは三次元人達が自分たちの力で作りあげていく。その都度、担当メンバーが軌道修正したり、不要になった扉を廃棄したりする。
 だから、大雑把でそんなに難しいことじゃないはずなのに、ぼくは未だにメンバーの足をひっぱっている。イメージがバラバラで、混沌を作りだして、使い物にならないこともよくある。しのぶさんにぼくの運命を見いだしてからは、とくに。
 だからぼくはきっと、いずれ先輩と同じように、亜空間を抜けるだろう。

 先輩の抜けた穴の埋め合わせは、新しく派遣されてくる人材を得るまで、ぼく達地球担当チーム全員の力を合わせて、何とか凌がなければならない。ぼくはチーム内で一番下っ端で、そのために分担された仕事量も他のメンバーより大分多かった。
 度重なる残業に休日出勤。食事も睡眠もろくにとれず、体が悲鳴を上げる。ようやく新任者が派遣されると、ぼくが彼に仕事を教えるよう言われた。
 おぼつかない説明を新メンバーに施す。ぼくも人のことを言える立場ではないのだけれど、この新しい仲間は僕と同様かそれ以上に飲み込みが悪かった。ぼくの教え方が悪いことが最大の原因なのだ。
 チーム人数が規定通りに揃っても、ぼく達の仕事量はほとんど変わらなかった。先輩メンバー達は、ぼくとその新メンバーの効率の悪さに呆れながらも、わざわざぼく達のために手を空けて、手伝いにきてくれた。
 そんな中で、親切な先輩達が、ぼくに久しぶりの休暇を与えてくれた。一日ゆっくり、休んでくるといいよ、と。
 ぼくは先輩達の心遣いに感謝しながら、しのぶさんに電話をかけた。一ヶ月以上、彼女の声も聞いていない。
 ぼくの体を気遣ってくれた先輩達には、本当に申し訳ないけれど、この久しぶりの大事な休暇は、しのぶさんと過ごすことだけに使おうと、はじめから決めていた。
 ぼくは(かつ)えていた。
 しのぶさんの声に、香りに、繋いだ手のぬくもりと重さに。しのぶさんを構成する全ての要素に、ぼくの心と体は餓えていた。

* * * * *


 しのぶさんはアイスティーを、ピンクのストライプ模様のストローでかき回す。氷がカラカラとグラスに当たり、レモンの果肉がくるくると一緒になって回る。
 ぼくが「ぜんぶです。しのぶさんのすべてが好きなんです」と言うと、しのぶさんは寂しそうに微笑んでうつむいた。しのぶさんの白く細い指はくるくるくるくる、ストローを回し続ける。
 僕は紅茶をすする。真摯に伝えたつもりだったけれど、もしかしてぼくは、ニヤけた顔をしていたのかもしれない。
 久しぶりにしのぶさんに会えることが嬉しくて。抑えきれない喜びが、昨晩からずっと僕の顔をニヤけさせているのだ。
 今朝も鏡を覗くと、ヘラヘラと笑う自分が映った。まぬけな顔がいつも以上に間が抜けていて、「みっともない」と頬をバチンとはったのだけど、ダメだった。 体中の、蓄積された疲労も目の下にできたしぶといクマも、しのぶさんに会える喜びの前では完敗だ。
 ぼくはニヤける頬をギュッと引き締めて、うつむくしのぶさんを見つめた。
「可憐で清楚で美しくて、凛としていて。しのぶさんの優しさ、繊細さ、強さ――…だけど、守ってあげたい弱さも全部、ぼくにとって、しのぶさんは全てなんです」
 しのぶさんは顔を上げずにストローをいじっている。ぼくは、うまく言葉に言い表せない語彙の少なさを恨む。どう言えば、この想いをしのぶさんに伝えられるのだろう。
 しのぶさんの全てが尊くて愛しくて、しのぶさんのためならどんな無茶も障害も、無茶や障害でなくなるのに。しのぶさんの側にいられることだけが、ぼくの存在理由だと、一目見たときに悟ったことを、どう言ったらわかってもらえるのだろう。
 しのぶさんは、ぼくの運命の人だ。そのことに理由なんてない。
「あたし、そんなたいした女じゃないわ」
 ストローを回すスピードが速くなる。
「因幡さんはきっと、あたしの中に理想を見ようとしているのね」
「見ようとしているんじゃなくて、しのぶさんが理想なんです」
 喫茶店の出入り口につけられた鐘が、カランカランと客の到来を告げる。しのぶさんはストローをかき回すのをやめて、頬杖をつく。買い物帰りの、紙袋を幾つも肩にさげた若い女性が、しのぶさんの双眸にうつる。
「あたし、因幡さんの考えていることがわからないの」
 しのぶさんの横顔に、これといった表情は浮かばず、視線は窓の外へ投げかけられたまま動かない。
「簡単です。しのぶさんのことだけです」
「そういうことじゃないのよ」
 淡々とした口調からは、しのぶさんが今、どんな気持ちでいるのか判断することが出来ない。
 しのぶさんは頬杖を外して、正面を向く。目が合う。しのぶさんの黒目がちの大きな瞳は澄みきっている。ぼくはどぎまぎして紅茶をすする。
「因幡さんがあたしを大事に思ってくれているのはわかるの。これ以上ないってくらい、本当によくわかるの」
 しのぶさんが微笑む。ぼくは少し照れくさくなって頷く。
「わからないのは、それがどうしてなのかってこととか、どういうふうにってこととか……どう言ったらいいのかしらね。なんというか、掴みどころがないのよ。わからないの。因幡さんの一番根っこになってる部分が。どういうふうな考え方をするのかしらって。言葉の意味はわかるんだけど、実感としてわからないのね」
 しのぶさんはぽつりぽつりと言葉を選び、小首を傾げる。その仕草にぼくの胸はぎゅっと締め付けられる。
 ぼくの考える事なんて、こんなふうにとても単純だ。
 しのぶさんがうつむく。
「まっさらに、生まれたときみたいに戻ることはできないもの」
 しのぶさんがそっと目を伏せる。長い睫毛が頬に影を落とす。ぼくの心臓がどきりと大きくはねる。ちくりと胸が痛む。
「ぼくもしのぶさんが今、どんなふうに考えているのかわからないんですけど、でも、今ぼくが考えているのは、どうしたらしのぶさんを喜ばせてあげられるのかってことです」
 しのぶさんはうつむいたまま、「ちがうのよ…ちがうのよ…」とかぶりを振った。
 ぼくの右手と左手は戸惑って宙に浮いている。小さく震える肩が頼りなく、抱きしめたい欲求に駆られる。だけどそれは、しのぶさんが嫌がったりしないだろうか。
 ぼくは情けなく手と腰を浮かせたまま、しのぶさんを見る。しのぶさんがぽつりと言う。
「因幡さんのお仕事が忙しくなって、しばらく連絡が取れなくて…」
 口を開きかけたぼくに、しのぶさんが微笑んで制す。
「いいえ。お仕事を頑張っている因幡さんは素敵よ。そりゃ、さみしくないわけじゃなかったけど、それはお互い様だわ」
 そう。しのぶさんの言うとおり、ぼくはしのぶさんに会えないことが寂しかった。寂しいなんて言葉では言い表せないくらい、肉体的などんな問題より、何より辛かった。
「さみしかったわ。でもあたし、因幡さんのお仕事が忙しくなって、連絡も長い間取れなかったのに、浮気してるんじゃないかとか、あたしに愛想尽かしたんじゃないかとか、そんなこと一度も思わなかった。因幡さんを信じないことなんて一度もないの」
「ぼくには、しのぶさん以外にいません」
 しのぶさんが「ありがとう」と頷く。しのぶさんの微笑みと信用が嬉しい。
 ぼくは浮かせたまんまだった腕を膝にのせて、同じように浮かせたまんまだった腰を椅子に下ろす。
「この前、ラムに会ったの。高校を卒業してからは、あんまり会うこともなかったんだけど」
「なかなかお互いの都合がつかなくてね」としのぶさんが言う。ぼくは「はあ」と間の抜けた返事をする。
「それでねえ。あたるくんが相変わらず浮気ばっかりだとか、全然大事にしてくれないとか、散々愚痴を聞かされたわ。あたるくんが今、大学のゼミで合宿に出てるから余計にねえ」
 しのぶさんは「どうせなら、ラムも大学に行けばよかったのよ。高校に通ったみたいに」と、困ったように微笑んだ。
「そうですね、ラムさんならどこまででもついていけるでしょうね。あたるさんがいないラムさんは考えられないですから」
 ラムさんの時間は、あたるさんを中心に回っている。ぼくにとってのしのぶさんがそうであるように、きっとラムさんにとってのあたるさんは、ラムさんの全部なんだ。
 しのぶさんは「そうなのよ」と溜息をつく。ぼくは紅茶を飲もうとティーカップに手を伸ばした。
「そうなのよねえ」
 顔を上げると、しのぶさんはじっとぼくを見つめていた。心臓がものすごい早さと強さでバクバクし出す。
「あの……」
「あたし、あたるくんの気持ちがわかったの」
 しのぶさんがぼくを遮って言う。
「今までだってわからないでもなかったわ。長いつきあいですものね。でもね、そうじゃないのよ。もっと違う、あたるくんの恐怖みたいなもの……そうよ、恐怖だわ。実感としてよくわかったの。あたしもあたるくんも、地球人だから」
 ぼくはしのぶさんの瞳に吸い込まれるような錯覚がした。ぼくから決してそらされない、しのぶさんの大きな瞳。

「あなたは、ラムと似ている」

* * * * *


 どうして、しのぶさんを好きだということに、理由が必要だったんだろう。
 ぼくは、しのぶさんの全てが大切で、かけがえがなくて、何を引き替えにしても、しのぶさんだけは守りたくて。
 ぼくが生まれてきたのは、しのぶさんに会うためだけだということが、それともぼくの拙い言葉では、しのぶさんにうまく伝わらなかったのだろうか。



「あたしはわからないのよ。きっとあたるくんもそうなんだわ。あたし達はどうやっても、わからないの。応えられないの。自分を信じることが出来ないの。だから怖いの。でも、あたるくんはあたしより強いのね。あたしは、逃げ切れない」
 しのぶさんの声がずっと、離れない。
 しのぶさんの声が、ぼくを動けなくする。呼吸が止まりそうなくらいに。

「あたしはいつか、必ず、因幡さんを裏切ってしまう」
 それでもいいのに。それでもぼくは。






 しのぶさんが去って、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。目の前の紅茶はとっくに冷えて、茶渋がカップに輪を描き、カップの底に色濃く溜まりが出来ている。
 テーブルの端に、伝票と千円札が一枚。向かいには氷の溶けたアイスティーのグラス。汗をかいてテーブルに小さな水溜まりができている。折れて曲がったストローが、テーブルの脇を誰かが通るたびに揺れる。
 時々、客やウエイトレスが、ちらちらとぼくに視線を向ける。たぶんウエイトレスはぼくに出ていって欲しいと思っているだろう。
 ぼくも伝票と、しのぶさんの置いていった千円札を手に、立ち上がりたい。もし、まだしのぶさんが街を歩いているのなら、走って追いかけて、抱いたことのほとんどないその肩を抱き、連れ去ってしまいたい。
 なのにぼくの体は、まったくいうことをきかない。
 肩幅ほどに開かれた膝にそれぞれの手がのせられ、顔は真っ直ぐ正面を向いたまま、ぼくの体はピクリとも動かない。



「因幡さんのことが、好きだったわ」
 唇に残る、少し湿ってやわらかい、感触。



-end-


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