明日になってもいい、このままあたるくんといられたらいい。

 あたしはぐずぐずと席から立てずにいた。
「あら、あたし携帯落としちゃったみたい。ねえ、テーブルの下にない?」
 あたるくんはしょうがねえなあ、とでも言うように肩をすくめ、テーブルクロスをめくって屈み込んだ。
「うーむ。ないぞ。すべすべのおいしそうなしのぶの脚以外、おれの目には何もうつらん」
 なにばかなこと言ってんのよ、ばか、とあたしが言うと、あたるくんはテーブルクロスからにゅっと顔を出して、「試しにしのぶの携帯鳴らしてみるか」と言った。
「いいわ。テーブルの下にないなら、ここで落としたんじゃないもの」
 あたるくんが「でも」と口を開きかけたのを合図に、あたしはさっさとテーブルをあとにした。
 豪華なクリスタルの柱あたりで、あたるくんがあたしの横に並んで、「本当にいいのか」と顔を覗き込む。
「いいの」
 きっぱり断言すると、あたるくんは、そーか、と一言つぶやき、あたしの歩調に会わせて真紅の絨毯を踏み、無駄に豪奢な扉の外へ向かった。
 携帯は、家に置いてきたのだ。


希望紫煙


 唇をカップから剥がす。ベタリ、と鮮やかなローズが真っ白の陶器に痕を残した。ディオールの565番。あたしはこの口紅を何本分くらい食べたのだろう。眉間を寄せて、煙草をボックスから一本引き抜く。
「ラムさんが帰ってくるそうです」
「まあ、嬉しいわ。あたるくんもきっと大喜びね」
 くわえたタバコにフリントウィールを回して火をつける。メンソールの煙が目に染みたのか、因幡さんが目をしぱしぱさせた。
「いいんですか」
「いいに決まってるじゃない。喜ばしいことよ」
 ああでも、面堂くんは悔やむかもしれないわね、飛鳥さんと結婚しないで待ってればよかったって、と冗談を言うと、因幡さんが曖昧に微笑んだ。

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 悪い意味で居心地がよかった、だけの関係だなんて薄笑いの憶測なんかで決めつけられるのが嫌で、あたしはあたるくんとの友情から遠く離れた、それでも恋人ではない愛情にケジメをつけるつもりで、最後の晩餐を気取ることにした。
 待ち合わせの場所を告げてすぐに電話を切って、テーブルの上に乱暴に放つ。マスコットのストラップと、もう一つ、ビーズのストラップが絡まってかしゃん、と音がなる。不思議の国のアリスの象徴とも言うべき、時計を片手に丸眼鏡を鼻にかけた、白ウサギのストラップ。あたるくんと一緒にディズニーランドに行ったとき、あたるくんが買ってくれた。
 因幡に似とるなあ、なんて言いながらクルクルクルクル、キーホルダースタンドを回していた。なんてイヤミなこと言うのよ、と拗ねたフリして、あたるくんの手をぺしっと払うと、あたるくんはちょっと真剣な顔をして、「因幡が恋しくなっても、このストラップで我慢しとけ。しのぶの男はおれだけで十分じゃ」と言った。そして本当にレジにマスコットを持っていって、あたしの手に押しつけた。
「恋人のストラップが恋敵そっくりのマスコットって、あんたいつからそんなに悪趣味になったの」と口を尖らせると、あたるくんは笑った。恋人、の単語ひとつを言うのに、あたしの唇は震えた。あたるくんは否定しなかった。

 軽く見渡して目に入ったハンドバッグをたぐり寄せ、もうあと数箱しか残されていないカートンの箱から、煙草を二箱抜き取る。お財布も化粧道具も入っていないスカスカのバッグの中に落とす。傷だらけの携帯は持っていかないことにする。不思議の国の白ウサギがテーブルの上でころん、と転がった。
 部屋をぐるりと見渡すと、ラルフローレンのロマンスのボトルが目に入った。ああそういえば香水をつけかえなくちゃならないんだった、と思い返して服を脱ぐ。すぐに香水を変えられるよう、香水は肌には直接、つけないことにしている。あたるくんと会うとき以外。
 すとん、と脱いだままのカタチで床に放っておかれたワンピース。真っ黒でシンプルで、喪服のようなワンピース。背中のチャックを下ろすとき、微かにブルガリブルーの香りがした。
 ウェストと太股の内側に”ロマンス”をひとふきする。それから袖がふんわり丸く膨らんだライトグレーのワンピースドレスにつま先を通す。ついでにイヤリングをティアドロップのダイヤからパールに変える。少女趣味が捨てられないあたしの、そしてあたるくんが好きなスタイル。
 鏡を覗いて、軽くローズの粉を頬にはたく。濃い口紅を拭き取り、パールピンクのグロスを塗る。シャドーはこのままで平気だ。髪型は…もう時間がない。でもこれだってなかなかイケてる。
 あたしはさっき脱いだばかりの、フェラガモの定番ヴァラパンプスを下駄箱に入れて、代わりにミュウミュウのラウンドトゥパンプスを引き出した。ウッドヒールと色を合わせて、フロントのリボンとストラップが淡いピンクベージュに切り替えになっている、シルバーラメのパンプス。あたしはこの春新作のパンプスにつま先を滑り込ませて、玄関の鍵を閉める。

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「今がさあ、ずっと続いたら幸せだと思うんだな、うん。こーしてしのぶがおれの隣りにおれば、それだけでおれは世界一幸せな男になれるのだ。だからしのぶ。おまえはずっとおれの側を離れるなよ」
 誰の面影を見てるのよ、と泣きたくなった夜だった。初めての夜だったのに、あんたはあたしじゃなくて誰を見てるの。
 でもあたしの口からそんな言葉は紡がれなかった。あたしもずっとあたるくんの隣りにいられたら、それだけであたしは世界一幸せな女になれるのよ、と言った。宇宙一とは言えなかった。あたるくんも言わなかった。
「ねえ、だから絶対に浮気なんてしないでね、もう二度としたらいやなんだから」
 そう言うとあたるくんは「おまーな、おれくらい誠実で信用のできる男が他にどこにおる」と、優しく口づけをくれた。

 ずっと変わらないだとか、一緒にいられるだとか、そんなことを本気で信じていたわけではないけれど、あたるくんの言葉は魔法のようだった。あたしはその魔法にかかっているのが、好きだった。あたるくんの本心じゃなかったとしたっていい。あたしは少しだけ、これまでのことの余韻に浸ることが出来るのだから。



 階段を下りていくと、さっき因幡さんと別れてから踊り場ですれ違ったカップルが、まだいた。片割れがこちらを一瞥して、それからまた一つの影になる。
 暗闇に重なった影は個人を特定しない。誰と誰だなんて本人同士だってわかっちゃいないのかもしれないのに、腕に胸に足に感じる体温が愛しくて仕方ないんだ。何かで満たされていたいって、たったそれだけのこと。
 あたしはそれをあたるくんで補おうとしただけだ。だから別に、それがあたるくんじゃなくなって他の誰かに、たとえば因幡さんになったとしても、あたしは構わない。そしてあたるくんは、もうあたしでその寂しさを埋めなくて済む。あたしじゃ埋めきれなかった、大きすぎる穴を、あの娘がすっぽりと覆い尽くしてくれる。
 家々から漏れるテレビの音量と笑い声がまるで効果音で、異次元にいるかのよう。郊外の夜の匂いを嗅ぎ、ヒロインの気分を噛みしめるのも、悪くない。駅前にぱらぱらと散らばって停めてある自転車とバイクもいい具合に雰囲気が出ている。蛙の鳴く田圃とウンチ座りしてたむろって煙草をふかす少年達のコントラストも、一昔前の青春映画のよう。最近変えられたばかりの明るすぎる電灯の光が、彼等を余計に遠い景色としてしまっている。
 時間は両手でかかえる浜辺の砂のようで、使い切ることができるわけでもないし、望む通りにはいかない。だけど彼等は何も意識することもなく知らずに、自分を小さな、とても小さな部屋に押し込んだままにしていくのだろう。酒をひっかけて煙草をふかしてバイクに乗って万引きして女を孕ませて、それから真面目に就職して、大きな自分になったつもりで。

 あたるくんに会うまでに色々なものを見よう。例えば足下のガムの黒くなった痕だとか、オレンジ色の月を覆う暗雲だとか、全部そのままの状態で密封パックしよう。話のどこかでつまづいても、煙草をうまく口にくわえられなくなっても、すぐに圧力から逃れられるように、すぐに空想の世界を思い描けるように。

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「…おめでと。よかったな」
「ありがとう」
 あたしは飲めないワインを唇の間に流し入れる。あたるくんは片眉をあげて、それからナプキンをあたしに差し出した。
「飲めんくせに、無理をするな」
 けほけほとむせるあたしを、あたるくんが呆れた目で見る。ワインなんてどこがおいしいのか、全然わからない。仕方なしにエスプレッソを口に運ぶ。
「だって呑んでみたくなったんだもの。おめでたいことだし」
 あたるくんは口を開きかけて閉じた。どっちのことだ、と言いかけたんだろう。口まで開きかけるなんて、あたるくんにしては、随分と無神経だ。
 あたしはあたるくんがまだ食べているのにも構わず、煙草に火をつけた。
「因幡さんとの結婚。それからお腹の子供のことよ」
 ふう、と紫煙を吐き出し、あたるくんに笑いかける。”シェフのおまかせディナーコース”の最後を彩るドルチェ、ティラミスの上に広がるメンソールの煙。
「もちろん、ラムが帰ってくることも嬉しいわよ?」
 ほんとに久しぶりよね、彼女、きっとものすごい美人になってるわよ、よかったじゃない、と軽口を叩くと、あたるくんはデザートフォークをかちゃりと置いた。
「腹の子に悪いから、煙草はやめとけ」
 あたしの手からするりと火のついた、パールグロスべったりの煙草を抜き取り、あたるくんはクリスタルの灰皿に押しつけた。じゅっと火が消える。
「あたしに煙草の味を教えたのはあたるくんのくせに」
 あたるくんはあたしの言い分を無視して「女は煙草なんか吸うもんじゃない。ましてや腹に子供がおるんだぞ」と言った。そして自分は12mmもする煙草を吸う。煙草くさいティラミスはもう、食べるのを諦めたようだった。
 きっとあたるくんは、あたしの言った意味をあんまりよくわかっていない。煙草を吸うのは、あたるくんと会う前日当日翌日だけなのだ、ということを。そして煙草なんて今も昔も大嫌いなのだということを。
「あたるくんは気を遣ってくれないの?」
「おれの子じゃないんでな」
 嫌味ったらしく流し目をよこし、一口深く吸い込むと、あたるくんは煙草をすぐに揉み消した。一口吸うフリは、あたるくんお得意のポーズだったのだ。なんて面倒な男。
「そうね。この子はあたるくんの子じゃない」
 そうだったら困るのはあんたでしょう、ラムが帰ってくるのに。
 あたしはニッコリと微笑む。あたるくんは少し躊躇って口を開いた。なんでこの男は、言わなくていいことを誰よりも冷静に判断できるくせに、結局言葉にしてしまうのだろう。
「…なあ、本当に腹の子は…」
「因幡さんの子よ。ごめんなさいね。あたし、浮気してたのよ。というか、浮気相手があたるくんだったんだけど」
 あたるくんの言葉を最後まで聞きたくなかった。あたるくんは「そーか」と言って視線を逸らした。
――浮気もなにも、恋人でもなかったわね。あたし達。あたるくんの心にあたしはいなかったものね。
 あたしは自嘲に唇が歪みそうになるのを堪え、まだ目立たないお腹をさすった。あたるくんは「因幡によろしくな」と言った。
「ふられた女の結婚式に出られるほど、おれは図太くないんでな」
 ふられたのは、あたしじゃないの。それも、二度も。

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 車のドアを開け左足を地面につけたとき、じっとりとした想いを切り離すのに必死だった。変わっていく景色。今のこの慣れ親しんだ時間を捨てたくない。このまま明日になったっていいのに。
 ドアを開けたときの外の世界は、今を決別し、そこから未来に繋がる入り口になっているかのように感じて、潔く出て行けない。
 さよなら、の途中まで出かかった喉の奥がひりひり痛くて熱かった。下唇を前歯で噛む、乾いた唇の皮がめくれそう。
「また今度ね」
 そう言ったあたしは、頭のてっぺんから爪先まで地球上の重力を一身に受けたみたいだった。薄笑いの憶測が、正解だったってことになってしまう。
 またって。今度って。”今度”は今日と同じであるわけがない。今度会うとき、あたるくんの隣には、もうラムがいる。
「おやすみ」
 あたるくんはいつものように助手席のガラスを下まで開けて、運転席から助手席まで上半身を傾け、あたしの顔をきちんと見てさよならを言う。
 あたしは頷くと背を向け、そのまま階段を上った。車が走り去る音を背中で聞いた。
 いつものように手をふったり車が走り去るのを見守ったり、今日は楽しかったよメールを送ったり、そんないつものことはせずに別れた。大袈裟な、恥ずかしくなるくらいドラマティックなさよならを演出するのも、これからはもうあまりないのかもしれないと思った。

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「しのぶさん、結婚しましょう」
 因幡さんは煙草をプカプカやってるアバズレ女をじっと見つめてそう言った。尊大な仕草で煙草を(くゆ)らせるばか女を、どうして彼はそこまで庇おうとするのだろう。
「この子はあなたの子じゃないのよ?…わかってるでしょうけど」
 あたしはあたるくんしか知らない。因幡さんと寝たことは一度もない。キスをすることも手を繋ぐこともなくて、でも時々デートだけはした。映画を見たりお茶を飲んだり。残酷だと知りつつ、因幡さんの誘いを断ることが出来なかった。そのくせ”お友達”を強調しようとして、決してレディファーストを実行させる隙を与えなかった。
「わかっています。でもぼくはしのぶさんを愛しています。しのぶさんの子供なら、ぼくは愛せます」因幡さんの声の調子が、僅かに強まる。「あなたとあなたのお腹の子供を、ぼくに守らせてくれませんか」
 あたしは煙草の煙をもわっと吐き出して揉み消した。濃いローズの紅が醜く残った残骸。灰皿に一本の煙草と細かい灰。因幡さんがじっとあたしを見ている。
「…お人好しも過ぎると嫌味だわ」
 因幡さんはあたしの台詞に微笑む。
「嫌味くらい、言わせてください。ぼくはずっと、あなただけを見ていたのだから」
 涙が少しでもちらつかないよう、軽くまぶたを閉じ、あたしは深呼吸をする。目頭があつくなりやすいのは厭な癖だと、それを武器にしていた過去の幼い自分を恨む。もう泣いてわめいて、それが可愛いと許される年でもないのに。目を開けると因幡さんが今頃になって顔を真っ赤に染めていた。思わず頬がゆるむ。
「実は強情よね、因幡さんって」
 因幡さんは少しだけ強ばっていた頬を緩めて、そして目尻に涙を浮かべた。
「しのぶさんのことは誰にも譲れませんから」
 あたしは因幡さんの頬を伝う涙をハンカチで拭い、頬にキスをしかけて退いた。因幡さんがキョトン、とそれから、不満そうに少し口を尖らせる。
「どうしてやめちゃうんです?」
「だって……煙草くさいもの、あたし」
 因幡さんは泣き笑いの顔で笑って、あたしの手首を掴んだ。もこもことしたぬいぐるみの手は暖かかった。
「いいんです。煙草のにおいがすっかり消えるまで、ぼくはずっとあなたのことを待っています」
 因幡さんのちょっぴり乾燥して、柔らかい唇が触れて離れる。目を閉じる間もない、とても短いキスのあと、因幡さんは「煙草のにおいが残ってるしのぶさんにキスできて、嬉しいです」と囁いた。あたるさんから、やっとしのぶさんを奪えたんだって、実感できるから。因幡さんはそう言って、また静かに泣いた。
 因幡さんの初めて見せる独占欲に、あたしはあたるくんにさよならを告げようと、決心した。メンソールのにおいをまとうのは、今夜が最後だ。






 ごめんなさい。あたるくん。このお腹の子は因幡さんの子供じゃない。あたしとあたるくん、あなたとの子なのよ。
 ごめんなさい。あたるくん。この子はあたしの、ただひとつの希望の子なの。この子はいつか、きっと幸せな恋をするでしょう。幼馴染みの、ばかでせこくて女好きでどーしよーもない男の子に、宇宙一幸せな女の子にしてもらうの。
 そしてあたしと因幡さんで、とびきり愛して、宇宙一幸せな子供にするのよ。
 どうか、どうか許してちょうだいね。あたるくん。あたしの初恋のひと。



-end-


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