ドロップは溶けてゆく



 以前二人で過ごしたときのことが、時折、思いもかけずにふと顔を出す。
 女の人が目に入れば、そのあとをついていこうとするあたるくんを引き留めようと、手のひらの上で溶けかけた、ベトベトのドロップひとつで気をひいたこと。あたしに無理矢理付き合わされた飯事遊びで、泥饅頭を泥だらけの手で大事そうに包み込み、「しのぶちゃんのご飯を毎日食べられるなんて、しあわせだな」だなんて、どこで聞きかじったのか意味はわかっているのか、ませたことをさらりと口にする、あどけないヘラヘラ顔。小学校も高学年になって、男子と女子が意識されるようになって、二人きりで登校するとき以外にも、大勢のクラスメイトがいる中、何の邪気もなくそれまでと一向に変わりない笑顔で幼なじみへと手を振るあたるくんに、気恥ずかしくなって顔をそむけたこと。とても胸が温かくなって安堵のため息をつきながらも、素直に手を振り返せなかったこと。学生鞄を肩に引っかけ前を歩く、ひょろりとした後ろ姿が、暢気に跳ねるように一歩一歩、体が傾いで揺れていたこと。呼びかけると振り向く、夕焼けの金色に縁取られた、あたるくんの輪郭と、真っ黒に塗りつぶされた正面顔。そんな他愛のないこと。それから、二人の間に濃い、親密な色合いが差し始めたときのこと。
 たとえば、顔を上げてすぐ目の前、鼻先をかすめる、あたるくんの厚いとはいえない胸板。夕方近くの汗の匂いと安物のコロンとが混じり合う、甘い体臭。
 強く二の腕をつかまれ、引っ張られたことがある。反作用が働かず、あたるくんの胸の中にすとん、と落ちていったとき、あたしは女なのだ、ということを全身で感じ取った。頭のてっぺんからつまさきまで、体の芯からびりびりと震えた。魂が飛び出ていきそうな震えが怖くて、両腕で自分の体をしっかと抱きしめても、止まらなかった。稲妻に打たれたような、とか、そういった表現がぴったりの啓示だった。あたしがあたるくんより小さい存在であることを知った。あたしとたいして変わらない背丈。肩幅も広くはない。腕も脚もひょろりと頼りなく、少年の域を出ないあたるくんが、突然男の子になった。
 あたるくんの声が掠れ始めた日をおぼろげに覚えている。真面目な話をしようとしても、高低が定まらずに時折裏返ることをからかうことで、あたしは逃げ道を見つけた。あたるくんの真面目くさった顔が近寄ると、あたしがあげたドロップの、グレープの甘ったるい匂いが鼻先にかかった。興奮していることを、もしくは緊張していることを隠そうと抑制しようとしながらも漏れ出る、あたるくんの鼻息は不規則なリズム。唾とドロップの混じり合う甘い匂い。シャツに振りかけられたコロンと、シャツの下から立ち上る汗の匂い。声変わりの最中の、フラットがかった半低音とシャープがかった半高音の往復。
 大きく上下する喉仏のを見守るあたしに、あたるくんの口は開かれた。口蓋と舌を結ぶ、唾液の銀糸が双眸に映った。


***

 誰がつけたのかわかるはずのない指紋や、雨粒の乾いた白い痕、埃で汚れた窓ガラスをフィルターに、オレンジと紫と濃紺のグラデーションが教室内に入り込む。頬杖をつき、ぼんやりと黒板を眺める。黒板消しが乱暴にかけられ、チョークの曇りでムラがかった、退屈な黒板消しを退屈だと眺めるより、手垢に塗れた窓ガラスの外を眺めれば、ドラマティックなワンシーンを拝める。
 地平線へと落ちて溶けていこうとする金色の夕陽と、それを待ち構えて手を伸ばす褐色の大地の抱擁がいかに叙情的な美しさをたたえているか、ということ。そして、退屈せずに人を待つために、これほど適するものは他にないということは、知っている。
 待ち人が変われど、あたしは大概人を待つ側になることが多いので、そして大概その待ち時間も長く、夕陽を拝める時間まで待っていることも―――そこにはまったく一切の比喩をはさんだわけでもなく、誇張したわけでもなく―――少なくなかったので、落ちゆく夕陽を眺めて時間を潰すことは、慣れたものだ。
 紫、ピンク、オレンジ、水色。夕陽には色々なバージョンがあるけれど、あたしが一番好きなのは、何より金色の落陽。金色のドロップが溶けて、どろり、とろり、とろとろ。ぽたり。ぬったりと蜂蜜が滴り落ちるみたいに、地平線へと流れ出る金色の帯。世界中を包み込む母性をたたえた、輝かしい金色が大地へと交ってゆく様は、得も言われぬ美しさに満ちている。空と地との幻想的な交わりは、神々の壮大な交わりであるようにも思え、生きとし生けるもの全ての生死、殺生、歴史であるようにも思え、もしくはたった今、あたしが待ちぼうけを食らわされている相手との絆という、ごく小さな交わりであるようにも思える。そんな風に、恍惚とした夕陽から美しかったり残酷だったりするドラマを得て眺めることが、いつの間にか癖になっていた。待つ間中、苛立ちに支配されるよりずっと精神衛生によく、息を弾ませ遅れてきた相手に、開口早々怒鳴り散らさなくて済む。待たせる側を演じてみたいと、たまのロールチェンジを思い浮かべても、やっぱりそれはそれで腰が落ち着かないのだろう、とも思う。
 今日の夕陽はあたしの好きな、金色のドロップをいくつも滴らせている。退屈に曇って引っ掻き傷の残る黒板をよりずっと、眺めていたかったものではあるのだが、金色の輝きが目をチクリと差し、痛みを覚え始めたので、瞳に休憩を取らせることにしたのだ。目薬は生憎持っていなかった。うたた寝でもしようかと瞼を閉じかけ、長時間片側で頬杖をつくとフェイスラインが崩れるということに思い当たった。頬杖を外してみると、机に押しつけていた右肘がじんじんと痺れていた。
 そして廊下から軽く、弾むような足取りの暢気な足音が聞こえてくる。
 ぺったんぺったん。おそらく足音の主は、上履きの踵を履き潰している。上履きのラバー部分が廊下に吸着しては離れる、ぺっとりとした音。それは軽快なリズムを刻むことで、粘着質でいやらしい色合いに染まることを拒絶していた。足音が近づくにつれ、途切れたり微かだったりした、ひゅうひゅうと風の吹き抜ける音、その高低がきちんとしたメロディを形作り始め、そうしてようやく、あたしはそれが口笛であることに気がついた。
「っと、しのぶ、まだ帰っとらんかったのか」
 がらっと勢いよくドアが開いて、その勢いのままドアがレールの上をスライドしていき、大きな音をたててぶつかる。反動でドアは後退りする。口笛は中途半端な物語のように、形を為さぬままのじれったい場所で途切れた。
「あたるくんこそ。珍しいわね。こんな時間まで学校に残ってるなんて」
「そうか〜?」
 心ここにあらずの適当な相槌をしてこちらに背を向け、あたるくんは机の脇にあるフックにかけてあった学生鞄を手にする。ぺしゃんこに潰された学生鞄。あれだけぺしゃんこでは、教科書の一冊ですら入るかどうか怪しい。
「ええ。珍しいわ」
 振り返ったあたるくんの顔には、ハテナマークが浮かんでいた。正確に言えば、ハテナマークが脳裏に浮かんでいることを隠すような、あたしの言ったことをきちんと聞いていた、理解できた、というフリをするときの、曖昧な笑顔もどきの表情。
 理解不能、と顔中全面に描かれた、曖昧で飄々とした笑顔もどき。そんなことも見抜けない程、短い付き合いではない。あたるくんとあたし、誰よりもお互いのことをよくわかっている他人同士だった。それは、そんなに遠い昔の話ではない。そうでしょう。あたるくんは、そんなキョトンとした顔をして、それで「しのぶだったら騙されてくれるもんだ」と、油断しているかのようだ。もうすっかりあたるくんの心情の機微を表情から汲み取れない程、もしくは、汲み取りながらも追求も出来ず触れられない程、遠くまできてしまったのだと。あれほど近しかった二つの人型は彼方へと遠のき合い、分岐点で手を振ったことも遠い過去の逸話となり、影の手と影の手が触れることもなく、それどころかすれ違うことすらないと。そう思っているのだろうか。その他大勢に対峙するときと同様の、そんなやり方で、そんな逃げ方で、この場をやり過ごそうと思っているのだろうか。
「珍しいわよ。こんな時間まで」とあたしは言った。そして椅子から立ち上がった。椅子がかたり、と小さな悲鳴をあげる。あたしは続けた。
「何をしていたの?たった一人、学校で。たった一人で、あたるくんにすることなんて、あるの?今のあたるくんに、あるの?」
 あたるくんの顔はいつの日かのように、真っ黒に塗りつぶされて、輪郭だけが夕焼けの金色に縁取られていた。あたるくんの背中では金色のドロップが地平線へとその手を伸ばし、滴っている。
 ラムが側にいないあたるくんが、学校で一人、こんな時間までいる意味など。こんな時間までラムなしで過ごすことなど、今のあたるくんに、できることなの?
 金色に縁取られた真っ黒な人影へと一歩脚を踏み出す。人影は真っ黒に焦げてしまった、ただの炭のように微動だにしない。指で触れてみたら、消し炭に触れたときのように、指が黒く染まるだろうか。
「ねえ、何をしていたの。何かできたの」
 真っ黒な人影、もしくは人型の炭へ手を伸ばす。この指先が真っ黒く、炭で塗りたくられることを期待し、恐怖し。心の片隅を占める理性が、止まれ、と言っている。そして「しのぶ、あなたは何がしたいの」と尋ねている。でもあたしはその問いに答えられない。なぜなら答えを見つけようと積極的に思索することで得られる利益など、ないとわかっているから。
 人影が揺らいで、真っ黒だった人型の炭が、あたるくんになった。目を射貫かんばかりにまばゆい金色の光が、窓から差し込んで教室内を踊り回った。曖昧な笑顔もどきの表情が、またよく見えるようになった。あたしは伸ばしかけていた手をおろした。
「早く帰らんと、日が沈むぞ」とあたるくんが言った。
 誰もいなくなった教室には、金色のドロップと安っぽいコロンと汗の混じり合った匂いが残った。あたしはグレープのドロップと唾の混じり合う匂いを反芻しようとした。
 何かできるの。いいえ。まったく。ゼロ。マイナスすら存在しない。ラムなしのあたるくんも、ラムなしのあたしも、ゼロ。がらんどう。空っぽ。でも風だけは吹く。


 亜空間の歪みがにゅうっと突如出現して、待ち人来たる。因幡さんは「遅くなってすみません」と頭をかいた。
「ううん。お仕事お疲れ様」
 強張った表情筋を努力してフル起動させる。笑顔を浮かべ腰をあげると、因幡さんの表情が曇った。
「今日は仕事がおしてしまって…もっと早くあがれる予定だったんですけど」
 あたしはにっこりと笑って「そんなこと気にしないで。お仕事のあとにこうして迎えにきてくれることが、嬉しいわ」と言った。今度の笑顔はうまくいったはずだ。何度も鏡の前で練習したとっておきの位置に口角はおさまったし、首を傾げたタイミングも媚びをほとんど感じさせない程度の自然さで流すことができた。因幡さんの眉間に皺が寄った。
「帰りましょう。しのぶさん。送ります」
 因幡さんがあたしの手を引いた。モコモコと手触りの良いぬいぐるみの手は、そっと優しく微かにあたしの手を斜め上、挙上させた。
「今日は、どこへも寄らないのね」
 断定するように問いかけると、因幡さんは「ええ。もう遅くなってしまいましたから。夕陽もほとんど落ちてしまった」と言って、首を後ろに捻って窓の外を見た。窓の外では、ほとんど溶けてなくなってしまった金色の帯が、微かに弱々しく発光していた。
 ねえ、と呼びかけると、因幡さんは振り向いた。その顔には曖昧な笑顔もどきが浮かんでいた。嬉しいのか楽しいのか悲しいのか寂しいのか、何も考えていないのか。
「抱きしめて」
「え?」
 戸惑う因幡さんにあたしは畳みかける。
「抱きしめてほしいの」
 優しく握られていた手に、因幡さんの動揺が伝わってくる。動きのない因幡さんと、まるでただのぬいぐるみに話しかけてお人形遊びをしているだけのような自分の姿と、そう知りつつ繰り言をもう一度口にするだろう自分に悲しくなりながら、因幡さんを見つめ返した。そして小さく息を吸い込んで、口を開いた。「因幡さん」
 因幡さんは、抱きしめてくれた。優しく握っていたあたしの手をそのまま優しく引き寄せ、逆の手で優しくあたしの頭を撫でるように引き寄せた。ぬいぐるみの毛の頬のかすめ方ががくすぐったかった。ねこじゃらしでくすぐられる猫のようにもどかしい。
「もっときつく」
 着ぐるみにこもるあたしの声に、因幡さんの体がびくりと跳ねた。頬に柔らかなぬいぐるみの毛が当たると、綿飴のような甘ったるい匂いと草原の青臭い匂いがした。
「しのぶさん?」
 困惑の滲んだ因幡さんの声で、より一層加速する、虚ろな悲しさ。ぽたりと落ちた染みが広がっていく。お気に入りの真っ白なスカートにぐんぐん広がっていく墨汁のようだ。あたしは握られた手ではない方の、空いている方の手を因幡さんの胸元に当てた。着ぐるみにしがみついた。
 ため息のような、息の漏れる音と微かな風を頭上で感じた。そして強く抱きすくめられた。あたしの望んだ通りの力強さで。ぬいぐるみの下の因幡さんの胸は、とても熱く固く広かった。ラムが出現する前のあたるくんより、あたしを抱き留める因幡さんのずっと逞しいことが意外なようで、でも当然のことだと感じた。
「しのぶさん」
 頭上に因幡さんの声が降りてくる。無感情で抑揚のない、掴みがたい声色。因幡さんはあたしの頭に手を回し、ぐっと胸に押しつけ、あたしの手を握っていた手は、あたしの腰に巻き付けた。痕が残ることが予測される、強い力だった。
「因幡さんは、いつも優しいのね」
「たぶんぼくは、しのぶさんが思っているほど優しくはないですよ」
 因幡さんの声は乾いていた。窒息を思わせるような強さであたしは再度、因幡さんの胸に押しつけられる。因幡さんの着ぐるみを湿らすあたしの息。自分の息で頬が湿った。
「ぼくはただ、しのぶさん。あなたを愛しているだけなんだ。あなたに愛されたいだけなんだ」
 あたしは幸せなの、あの頃よりずっと、という言葉が今、頭の中をぐるぐるとものすごい速度で回転し続けている。ブレーキのきかなくなったコーヒーカップのように、半音ずれた不気味な短調を延々と流し続けるメリーゴーランドのように、その言葉は出口を見つけることができない。砂嵐に辿り着かないレコードが回転し続ける。
 延々回り続ける言葉はその遠心力によって単語へと振りきられていき、次第にひとつの音ごとに断ち切られ、そのまま回り続けて溶けていく。ちびくろサンボのバターになったトラは、ホットケーキになった。マンボもジャンボもサンボも、ペロリとたいらげた。全部で二百枚を軽く超えた。蜂蜜にメイプルシロップ、お好みの金色のドロップは温かなホットケーキの上に滴り溶けてゆく。


-end-


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