主人公の望んだ結末



 好きよ、と消え入りそうに小さい声が突然思い出されて、家を出ることにした。読みかけの雑誌を放り投げ、食いかけの煎餅を口の中に全部詰め込む。湯飲みに残っている茶を一口で飲み下す。すでに冷えきっていた。
 ズボンについた埃と煎餅の欠片を手で払い、タンスを開ける。端の方がほどけたマフラーと、黒のダウンジャケット。ケツのポケットに財布をねじりこむ。ラムの視線が背中に刺さるのを感じた。
 階段を降りて玄関の、汚れで曇った鏡を覗き込む。肩越しに目を吊り上げたラムが写る。ダーリンどこ行くっちゃ、と頭上でラムがわめくのを五月蠅い、の一言と投げやりな手の振りで追い払い、スニーカーを履きつぶす。
「またガールハントだっちゃね!」
 トントン、とつま先を蹴りつけ、玄関のドアを開ける。びゅうっと突風が玄関に入り込む。
「やっぱりそうだっちゃね!うちという者がありながら〜〜!」
 そういえば、昨夜のニュースで春一番が吹いたと言っていた。風は強いが、どこか日差しも暖かい。う〜ん、とノビをすると、ラムがおれの耳を引っ張った。
「何をする」
「ダーリンがそのつもりなら、いいっちゃ!うちだって考えがあるっちゃ!」
 切れ長の目を細め、ラムがおれを見下ろして睨む。春の強い風がラムの長い髪を浚い、レコードの裏のような色でラムの髪が光る。
「おまえはいつもいつも、おれの邪魔をしおって!おれがこの週末、普段の束縛、虐げから逃れ、ゆっくりと羽を伸ばし、心安らかに女の子達とデートしようというささやかな楽しみを!おまえは鬼じゃ!」
「ぬわ〜〜にがささやかだっちゃ!それにうちはもとから鬼だっちゃ!」
 いつものトラ縞ビキニしか身に纏っていないラムの体から、パリパリと静電気が走る。
「そーか。だからおまえはこの世ならざる嫉妬ぶ、」
 ぴしゃーん、と青い雷が落ちる。
「誰がこの世ならざるだっちゃ!」
 這いつくばった地面から見上げると、ラムはふんっと鼻を鳴らし一度家に戻っていった。ダーリン、そこで待ってるっちゃ、と捨て台詞を残して。おれは冷たい地面に這いつくばったまま、あの声を思い出す。ラムが二階の窓から出てくるのが見える。赤とオレンジの縞模様のマフラーがたなびいている。
「ダーリン、いつまで這いつくばってるっちゃ」
「おまーがやったんだろーがっ!」
 立ち上がり、食ってかかると、ラムは嬉しそうに笑った。本当に待ってるとは思わなかったっちゃ、と。
「待っていたわけではないわ」
 ズボンについた砂を払う。
「ふーん」
 にこにこにこ。ラムは右腕に手を絡ませておれの顔を見上げる。
「今日はガールハントできないっちゃね?」
「そーとは限らんぞ」
「いいっちゃ、いいっちゃ」
 ラムは歌うように言うと、さてどこに行くっちゃねーと腕を引っ張る。ラムはこの間の買い物で、無理矢理おれに選ばせた、オレンジ色のダウンジャケットを着ていた。
 ピンクとオレンジ、ダーリンはどっちがうちに似合うと思うっちゃ。どっちでもいいわい。
「うちら、ペアルックだっちゃ!」
 ラムがにっこりと笑う。

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「あれ?しのぶだっちゃ」
 ラムが額に(ひさし)をつくって公園の先を歩くしのぶを見つける。しのぶは強い風に煽られながら、髪を手で梳き、木立を仔細ありげに眺めていた。ラムがきゅっと、絡めた腕の力を強める。
 ラムの手を振り払うつもりはなかった。ラムがしのぶを見つける前からとっくに、おれはしのぶの姿を認めていた。何年幼馴染みをやってると思っとる。
「…ダーリン?」
 ラムが不思議そうにおれの顔を見る。仕方ない。
「やあっ。しのぶじゃないか!今日も君はなんて可愛いんだろう」
 ラムの腕をすり抜け、しのぶに擦り寄る。
「あらありがとうっ!嬉しいわっ!」
 ところで離れなさいよ、としのぶが身を捩る。
「なにしてるっちゃ〜!」
 ラムの電撃を避け、しのぶに頬ずりをする。胸に突っ張ねられた、しのぶの細い腕。そして悲鳴。
「しのぶは因幡のものだっちゃ!人の女に手を出すんじゃないっちゃ〜〜!」
 なぜしのぶはおれを振り払わないのだ。
「ああっ!しのぶ!君がもう他の男のものだなんて!考えたくない!ないったらない!」
 しのぶの腕に力がこもる。いつも通り。しのぶが怒鳴る。いつも通り。ラムが怒鳴る。いつも通り。おれが縋る。いつも通り。
「あんたねえ〜〜!わかってんだったら、他人(ヒト)の女に手を出すのやめなさいよっ!」
 ばりっとおれを剥がすと、しのぶは肩で呼吸する。ラムから留めの一撃が降り注ぐ。辺り一面が青く光り、耳をつんざく音で囲まれる。霞む視界でしのぶの小さな口が動き、ノイズの混じる耳に途切れ途切れに消え入りそうな声が聞こえる。
―――…なーんて言いたいとこだけど。独り身じゃそんなこと。言えやしない。
 デジャヴュにも似た。
 ラムの手が止まる。おれは一人、叫び続ける。
「どういうことだっちゃ」
 しのぶは、はっとしたように口を手で覆い、逡巡する様子を見せる。ラムは「なにかあったのけ?」と顔を突き出す。しのぶが顔をあげる。肩をすくめる。両眉を下げて笑う。諦めたとき見せる、投げやりなソレを、おれは何度見たことがあっただろうと思い返してみる。
「実は別れちゃったのよ、因幡さんと」
 おれはようやく叫ぶのをやめる。真面目な顔でしのぶに向かい合うラムと、おどけた様子のしのぶ。
「いつのことだっちゃ」
「そうねえ〜。ちゃんとはっきりさせたのは、さっきのことなんだけど」
 ラムが眉をひそめ、泣き出しそうに見える具合に顔を歪める。ラムがしのぶに聞きたいこと。ラムの、リップで薄く色づいた唇が開く。 「なん、」
「しのぶッ!やっぱりぼくの元に戻ってきてくれるんだネ!」
 咄嗟にしのぶの腰に腕を伸ばす。ラムがぼんやりと開いた口を閉じもせず、おれへと振り返る。これでいい。ラムが怒鳴ってヒステリックな嫉妬に雷を落とせば、いつもの日常。いつも通り。
 大きくしのぶの瞳が揺れ、真っ直ぐな髪がパラパラと舞う。昔と変わらないシャンプーの香り。しのぶの目の中に、おれの、「しまった」という顔が写っている。しのぶは懐かしそうに目を細める。そして目の色が変わる。憤怒と嫌悪の赤と青が、いつか見た日のしのぶを遮る。
「どわああ〜れがアンタなんかと!」
 おれを引っぺがして、びーっと舌を出すしのぶ。ラムは電撃を出すべきか迷ったまま、結局出せずに終わった。ほっと胸をなで下ろすおれ。情けない、というのは、こういうことだろうか。
「そんな!ぼくときみとの仲じゃないか!」
 胸元で手を組み、しのぶを見ると、しのぶは目をキョトンと「どんな仲よ。どんな」
「目を潤ませて、なにバカなこと言ってるっちゃ!」
 ラムはおれを睨みつけると、しのぶに向き直る。じっとしのぶを見つめるラム。しのぶはラムの肩を近所のおばちゃんみたいに、ぽんぽん叩く。きゃらきゃらと笑う。
「なあ〜んて顔してんのよ、ラム!あたしだってねえ、あんたには負けるかもしれないけど、これでけっこうモテるのよ!まんざらでもないんだから!あたるくんだけのあんたと違って、よりどりみどりよお。羨ましいでしょ?」

 じゃーね、と手を振り、小さくなっていくしのぶの後ろ姿。ラムはしのぶの背中を目で追い、おれはそんなラムの背中を見ている。ラムの肩が小さく上下する。ラムの小さく頼りない背中が示すもののせいで、一瞬のうちに消え去った筈の、居心地の悪い、ざらざらとした、あの感覚がまた戻り、一帯を取り囲む。なぜ、と腹立たしさすら感じる。ラムは、なぜ、嫉妬に怒り続けないのだ。無駄な徒労に終わった、虚脱感。
「ダーリンは無神経だっちゃ…」
 思わずかっと頭に血がのぼる。誰がだ、おまえこそなあ、と言いかけてやめる。舌打ちをしてうつむく。
―――おれとしのぶは、やっぱり似ていたのだろうか。
 そんなことを言ったら、しのぶにぶん殴られるに決まっている。見えなくなったしのぶの後ろ姿を追い続けるラムの肩に手を伸ばす。しのぶの、動揺に揺れて、懐かしそうに細められた目。やっぱりやめる。伸ばしかけた手をズボンのポケットにつっこむ。
 おれとしのぶ。幼馴染みって似ちまうもんなのかな。それとも、もとから似てたのか。そんなことを言ったら、しのぶにぶん殴られるに決まっている。
 胸をはって気丈な笑顔。軽く電信柱も振り回す怪力で、大きく肩を反らして、だけどその細い肩はおれにはやっぱり頼りなく映るんだよな。そんなことを言ったら、それこそしのぶに半殺しにされる。
 理性の力を振り切りおしやって、口の端がにんまりと上がってしまう。無力感に支配されながら手のひらで覆い隠す。しのぶの後ろ姿に心が痛む。嘘じゃない。だけどしのぶの小さな肩が、いつまでも頼りなくおれの眼に映り続けるのを、おれは心底望んでいた。
 ラムが前によろける。背中を強い突風に押され、長い髪が頬を撫で、毛先が目元を掠める。風に押し戻されたマフラーを、ラムが巻き直す。マフラーには小さな、枯れて乾燥した灰色の葉っぱがついていた。
「ダーリン、うち……」
 消え入りそうに小さい声が上塗りされて、消えていく。


-end-


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