甘ったれクリーチャー


 新年度。始まったばかりの学校は退屈でめんどくさい。ああ休みがほしいなったらほしいな。かったるいんだよーこのちくしょうめ。あまりに苛々するから仕方がない。温泉マークでもタコ殴りにするか。ああ退屈だ退屈だ。
 そこへやってきたは学生達の味方、ステキなステキなゴールデンウィークさま。五月病にかかる前にさあ一週間、遊び呆けましょう。

 面堂家がこの春、新しく設立したテーマパーク。動物園と遊園地が隣接している。家族連れにカップル大歓迎、の大規模なこのテーマパークはゴールデンウィークの集客を狙いに数々のイベントを催している。
 お子様向けにはナントカ・ライダー、ナントカ・レンジャーといった戦隊もののアクションショー。カップルにはカップル限定、”タコ様を捜せ!”。
 今日このテーマパークに訪れた大半の客は、このイベント、”タコ様を捜せ!”を目的としていることだろう。
 テーマパーク内に放たれたタコをカップルで探し回り、見事金色の輪っかを足に巻いたタコを見つけだし捕獲したカップルには、賞金100万円及び世界一周旅行の景品が渡される。いちテーマパークのアトラクションの景品としては信じられないほどの破格の金額。
 しかしタダで誰か知れぬどこぞのバカップルに豪華賞品を施すつもりなど、面堂にはなかったようで、面堂はゴールデンウィーク前、ラムに「ラムさん、今度のゴールデンウィーク、何かご予定はありますか」と誘いをかけた。

* * * *


「ないっちゃ」
 ラムは、凝りもせずに女子学生に抱きつくあたるに電撃を浴びせながらその手を休めることなく答えた。
「ダーリン!ゴールデンウィークはうちとデートするっちゃ〜〜!」
「いやじゃっ!だれがおまえなんかとっ!」
 あたるはラムの電撃を避けきれずに直撃し、真っ黒な顔で「ゴールデンウィークは有意義に過ごすと決めておる!ガールハントに費やすのだっ!」とラムに怒鳴り返した。
 面堂は、アホなことを…なにが有意義だ、と冷ややかな視線をあたるに投げかけると、コホンと空咳をした。胸ポケットからさっとテーマパークのチケットを二枚出し、ラムに差し出す。
「実はこの度、面堂家で新しくテーマパークをつくりましてね。ラムさんご一緒にど……」
「きゃー!あたし、この前テレビで見たのよー!面堂くん、遊園地つくったんですってね!あたしも行きたあい!」
 面堂がラムに差し出したチケットを素早く一枚奪い去ると、しのぶは黄色い悲鳴をあげ、ねだった。うるうるとした瞳でもってじいっと上目遣いで面堂を見つめるしのぶ。
 ラムほど飛び抜けて美少女、というわけではないけれど、この少女もなかなかの可愛い顔立ちをしている。ランクづけするとラムがぶっちぎり神域の不動のS級だとして、しのぶはBプラス、といったところ。ちなみにサクラがAプラス、ランがA。
 面堂はしのぶの出現に戸惑ったが、この面堂、(美しい)女性の誘いを断るほど無粋な男ではない。面堂は新たに胸ポケットからささっとチケットを二枚取り出すと、今度は電撃で黒こげになったあたるにもチケットを差し出した。ひらひらと嫌味ったらしくチケットを泳がす。
「あー…諸星。貴様もどうだ。ぼくとしては貴様を誘うなど不本意極まりないのだが…しかし、庶民に施しをするのも面堂家次期当主として……」
 あたるはぐちぐちとエラそうに演説を続ける面堂を無視して、しのぶのウェストに擦り寄った。ぞわぞわっと走る悪寒に身を捩らせるしのぶに、なおのこと愛おしげにスリスリと頬ずりすると、あたるは後ろから飛んできた電撃に刺された。
 ラムがパリパリと電気を体にまといながら降りてきて、しのぶの手の中にあるチケットを覗き込む。
「”カップル限定・タコ様を捜せ!”……?」
 あたるはチリチリになった髪を伸ばしながら、ラムの反対側からチケットを覗き込み、そのチケットに書かれている文字を読む。
「まーたくだらんアホな真似をしよって。ど〜せこんなことだと思ったわい。面堂が素直におれを誘うわけがないっ」
「あらっ。そんなこと言ったら、面堂くんがラムと あたし を変なことに誘うわけないじゃないのよ」
 しのぶが”あたし”の部分を強調して反論すると、あたるはう〜む、と唸った。
「しのぶの言う通りじゃ。しかしなにか裏が…」
 ラムはしのぶの手からチケットを奪ってじ〜っと眺めると口を挟んだ。
「これ、カップル限定ってあるっちゃ」
「それがどうした」
 あたるが気のない返事を返すとラムはニコニコと笑った。ラムがあたるの首に抱きつこうと腕を伸ばす。
「カップル限定だっちゃ。ダーリン、うちとタコを探すっちゃ!」
「やなこった。おれはしのぶと……!」
 あたるがラムを振り払って、しのぶに腕を伸ばすと、しのぶはするりと避け、一人でぶつぶつと演説を続けていた面堂の腕に手を回した。
「や〜〜〜よ。あたしは面堂くんと組むわっ!」
 面堂はしのぶの言葉にようやく現状を認識し、はっと表情を変えた。
「ま、待ってください。ぼくはラムさんと…」
「面堂くん。あたしじゃ、イヤ?」
 大きな目をうるうるさせ面堂を見上げると、微かに濡れた長い睫毛を哀しそうに伏せるしのぶ。面堂はどうにもこうにもうまい言い訳が見当たらず「しかし…その…」とわたわた見苦しくしのぶをなだめている。
 その様子を眺めていたあたるは、なぜ面堂が自分を誘ったのか、その理由を知ることが出来た。
「そーかそーか。それならこっちも好都合」
 あたるはへらっと笑うと、チケットを胸ポケットに入れた。ラムはじとっとした目であたるを睨む。
「しのぶは絶対ダーリンと組まないっちゃ」
「おれもお前とは組まんぞ」
 あたるは口笛を吹いて、面堂としのぶの漫才を眺める。ラムはむすっとした顔をあたるの真ん前に突きだし、あたるの視界を遮った。
「うちが!うちが終太郎と組んでもいいのけ?」
 あたるは「じゃまだ」と言わんばかりにラムを脇にどかすと平然とした顔で言った。
「おー。かまわんかまわん。そーしろ。それが一番いいっ。平和だっ自然だっ世界は愛に満ちとるっ。おれはしのぶと愛を育むのだっ」
 あたるの宣言に、向こう岸からは面堂に逃げられたしのぶによる八つ当たりと拒否の机、真上からラムの怒りとお仕置きの電撃が降り注いだ。

* * * *


 結局、テーマパークに着いてすぐ、しのぶはポツン、と置き去りにされてしまった。
 予想通り、あたるはしのぶに擦り寄り、しのぶはそのあたるの手を振り払い、ラムがあたるに電撃を仕掛け、あたるが逃げて。あたるとラムの二人は痴話喧嘩をしながら”カップル限定・タコ様を捜せ!”の登録会場から遠く離れていってしまった。面堂はそんなラムを追いかけ、同じく遠く見えなくなってしまった。
 しのぶはぽつん、と一人残され、一人ではカップル限定のイベントに登録することも出来ず、重い溜息をついた。
 今日こそは面堂とラブラブカップルになってみせる、と意気込んで、しのぶは新しいワンピースをおろしてきたのに。
 襟ぐりは大きなスクエアネックで、レモンイエローとライムグリーンのドットストライプのAラインワンピース。胸元に大きめにギャザーが寄せられ、ウェストにはライムミントの細いリボンがポイントになっている。
 袖がふんわりと広がる清楚で愛らしいこのノースリーブワンピースは、この間、ラムと一緒にショッピングをして買った。ラムが「それ、しのぶに似合うっちゃ」と褒めてくれた、自分でもぴったりだと思うこのワンピースは、今日のお出かけ前にもしのぶの両親が「可愛い可愛い」と呼び止めてニコニコ褒めてくれた。
 親の贔屓目は別としても、ラムはこういうことでウソはつかない。しのぶの色気がないと思えば素直に色気がない、と言うし、金太郎に似ていると思えば金太郎と姉弟だと言う。だから本当にこのワンピースは自信があった。
 フリルたっぷりの白いボレロ風ブラウスを羽織り甘さと清潔感をプラスして、久しぶりにポニーテールに結わいた真っ直ぐな髪には、ブラウスと同色の真っ白なリボンで結んだ。上げた髪に似合うよう、小さな耳には小粒のイミテーションパールのイヤリング。
 手にした小さなハンドバッグは爽やかなカゴバッグ。ビーズの飾りが揺れる。
 足もとはレースアップの真っ白のミュール。しのぶの細い足首をくるくると細い紐が巻き付いてリボンを結ぶ。
 指先には淡いピンクのマニキュア。唇にはピンク色の薄付きグロス。淡いオレンジ色のシャドーは、近くで見なければわからないほどのナチュラルメイクで、だけどぐっとしのぶの魅力を引き出してくれている。
 けれど、しのぶの魅力は面堂を惹きつけてくれなかった。
 しのぶは、はあっともう一度大きく溜息をつくと、目に入ったベンチへと寄り、ハンカチを敷いてその上に腰掛けた。

 面堂がラムに好意を持っていることは知っている。それにラムが自分よりずっと美少女だということも、悔しいけれどわかっている。どんなにしのぶが着飾っても、ラムの生来の華やかさには勝てない。しのぶは普段、清純派を気取ってはいるけれど、裏返せばそれは地味だということだ。
 そして何より、十数年来のつきあいだった、しのぶの魅力を知り尽くしているはずのあたるでさえ、しのぶではなくラムを選んだ。
 完敗だ。
 勝てっこない。ラムは外見だけでなく、性格だって愛くるしくて無邪気で真っ直ぐだ。迷惑なこともするし、たまには誰かを傷つけたりするけれど、ラムはただ無邪気なだけで、悪気なんて少しもなくて、恨むことなんて出来なかった。
――ラムの前じゃ、あたしなんていてもいなくてもおんなじだわ。ううん。ただの引き立て役になるばっかりで、これから先、どんないい男とうまくいっても、ラムと出会ったらあたしは捨てられちゃうのかもしれない。
 しのぶは珍しく自分の女としての限界に絶望を感じた。
 あ〜あ、と空を仰いで、目の前に出来たカップルの行列を眺める。どのカップル達も幸せそうな笑顔で仲睦まじく肩を並べている。
 景品なんて当たれば儲けもん、くらいの感覚だろう。とろけそうな笑顔で公害なほど、はた迷惑なラブラブモードをまき散らすバカップル達にとって、隣りにいる恋人が何よりの幸せの象徴のはずで恋人と過ごせる時間だけで純粋に楽しくて幸せで、賞金の100万円にしたって世界一周旅行にしたって、それに敵うものではないのだ。
 しのぶはベンチに背もたれて両手を組み裏返し、腕をぐうーっと伸ばした。沈みきった気分を切り替えようとノビをすると、しのぶは少し先にあるアイスの売店を見つけた。
「アイスかあ…。ダイエット中なんだけどなあ」
 しのぶは不満げに口を尖らせながらも、いそいそとハンカチをバッグに仕舞い、お財布を取り出す。るんるんと軽い足取りで売店へ向かう。

「チョコミント、シングルのコーンでひとつください」
 一通りメニューに目を通し、オレンジにしよーかチョコレートにしよーかストロベリーにしよーかはたまた大人っぽくラムレーズンにしよーか、うんうん長いこと悩んでから、しのぶは結局チョコミントに落ち着いた。いつもそうだ。うんうん悩むくせに、結局チョコミントなのだ。
 あたしってやっぱり遊び心のない地味な女なのねえ〜としのぶはしみじみ思った。
「でもまあ、そこがあたしの長所よ」
 しのぶは売店の少女が手慣れた様子でチョコミントのアイスクリームをディッシャーで掬ってコーンにのせるのを、にまにまと眺めながら一人ごちた。チョコレートチップがあちこち顔を出すミントブルー。太陽の光が差し込んで、アイスクリームを照らす。すこしはじっこの溶けた具合が、なんともおいしそう。
「はい、どうぞ」
 少女がアイスをしのぶに差し出す。しのぶは小銭をぴったり少女に手渡すと、きゃっと嬉しそうに笑って、差し出されたアイスを受け取ろうと手を伸ばした。
「どーもどーも。すみませんね」
 鉛色の両生類のよーなつるつるぬるぬるお肌がにゅっと飛び出し、しのぶは思わずさっと手をひっこめた。しのぶが手をひっこめたのをこれ幸い、とその気色の悪い手は、短い腕を伸ばしてしのぶのチョコミントを奪い去った。
「あ…ありがとうございましたあ!」
 売り子の少女は声を震わせ、口の片端をひくひくと引きつらせながらも営業スマイルを返す。強引に笑って、とにかく早くここから立ち去れ、という意思がしのぶには感じられた。
「よっこらしょっと…。…背が小さいと何かと面倒なものですね!」
 鉛色の生き物はしのぶのチョコミントを手に、ぴょんっとアイスのショーケースから降りる。ぺろぺろとアイスクリームを舐めながら、しのぶを見上げて一点の曇りのない笑顔で邪気なく笑いかける。
「あっあんた、あたしのアイス……!」
 しのぶはぶるぶると震えると、鉛色の生き物を殴ろうと手を振り上げた。
「はあ〜〜〜…」
 プールの妖怪、別名ポチ2号はしのぶをちらっと見上げると、無い肩をがっくりと落として溜息をついた。それからチョコミントをなめ、また溜息をつく。
 しのぶは仕方なく振り上げた拳を下ろして、渋々ポチ2号に溜息の理由を問いかけた。
「…どーしたのよ」
 ポチ2号は嬉しそうにしのぶを見ると、またわざとらしく溜息をつく。
「アイスを奢っていただいておいて、その上 愚痴を聞いてくれ なんて図々しいですよね」
 ポチ2号はちらっとしのぶを見上げる。しのぶはむすっとした顔をしている。ポチ2号はまた大きく溜息をついてアイスを舐めた。
「い〜〜んです。アイスをいただけただけで。愚痴を聞いてくれ なんて、ほんっと〜に図々しいですよね!」
 ポチ2号がはあ〜〜〜〜〜〜〜っと盛大な溜息をつく鬱陶しさに苛立ったしのぶは、「きくわよっ!愚痴くらいっ!!なんなのよっ!言ってごらんなさい!」と怒鳴った。
 ポチ2号はぱあああああああああああっと顔を輝かせて、一気にアイスクリームを舐めあげコーンを齧り飲み込むと、コーンの周りにあった紙くずをぽいっと投げ捨て、しのぶの手を握ってブンブン上下に揺らした。
「そ〜ですか!嬉しいなあ〜!!」
 しのぶはポチ2号の溶けたアイスでベトベトの手をパシッと振り払う。
「ポイ捨てはダメよ!ちゃんとゴミは屑入れに捨てなさいっ」
 ポチ2号はきょとん、としのぶを見ると「はい」と言って飛ばした紙くずを拾いにポテポテと歩いていった。しのぶはふうっと溜息をつき、ベトベトになった手を洗おうと、近くのお手洗いに向かう。
「それでですねっ!!」
 ポチ2号が、紙くずを拾いに向かったときとは段違いのスピードで、ばびゅんっとお手洗いに足を向けたしのぶに追いつく。はあはあ、と息を切らしながら、ポチ2号はしのぶに逃げられまい、と足にべったりしがみついた。
「きゃああああああああっ!」
 しのぶは足にもまた、溶けたアイスをベッタリとつけられたことに嫌悪の悲鳴を上げた。それからポチ2号を引っぺがして突き飛ばす。
「あんたにベタベタにされた手を洗いに行くだけよっ!誰も逃げやしないわよっ!」
 しのぶは空の彼方へと飛んでいくポチ2号に怒鳴りつけた。



「わたくしって、ど〜〜〜〜〜〜してこう、不幸なんでしょうね」
 ポチ2号は、はあっと溜息をついて切り出した。
 しのぶは新しく買ったアイスミルクティーをコクン、と飲み、ポチ2号を見下ろす。ポチ2号はしのぶにまたもや奢ってもらった煎茶の缶を両手で包んでいる。
「ああそうそう。粗茶を奢っていただいて、どーもありがとうございます」
 しのぶを見上げにっこりと笑うポチ2号に、しのぶはヒクヒクと引きつりながら笑い返した。
「どーいたしまして!粗茶でごめんなさいね!」
「いえいえ!飼い主の坊ちゃんからはぐれて、あたしゃ一銭も持ってませんでしたから自動販売機なんかの安物の粗茶でも嬉しいですよ!」
 しのぶがぬうっと拳を振り上げると、ポチ2号はまた無い肩を落として、はあっと溜息をついた。
 しのぶは渋々拳を下ろして、尋ねる。
「なに?飼い主の子に捨てられたの?」
「いいえ。坊ちゃんには相変わらずよくしていただいてます。こうして休みの日には一緒に遊びに連れてきてくださいますし。はぐれましたけど」
 ポチ2号はまたもや重苦しく、はあ〜っと溜息をつく。重く鬱陶しい溜息が周りを包み込んでいるのを、しのぶはしっしっと手で追い払った。
「…じゃあ、なんの問題もないじゃないのよ」
 ポチ2号はしのぶをじっと見つめると、また大きく溜息をついた。
「やっぱりこういうことは、もっと恋愛の達人である方に相談するべきことなのかもしれませんね。地味でごく普通で、その上一人っきりで遊園地に遊びに来ているような寂しい女の子に相談しても…」
 ポチ2号がふうっと溜息をつく。しのぶはブチブチと血管の切れる音を感じながら、ポチ2号に不自然な笑顔でニッコリと笑いかけた。
「あのね!あたしは別に一人で遊園地に来てるわけじゃないのよ!みんなと一緒に来たんだけど、はぐれちゃったの!そこへあんたが来たのよ!それにね!あたしはこ〜見えてもこの道じゃ、知らぬ人はいない、凄腕のエキスパートなんだから!」
 ポチ2号の相談なんぞ受けたくもなんともなかったが、言外に”モテそうにない”と言われては、ひくにひけない。
「そーでしたか!それは失礼しました!」
 ポチ2号は少しも”失礼した”という感情を込めずにしのぶに言った。しのぶはシコリを残しながらも「で?」と話を促した。
「はい…。じつはわたくし、先日美々子さんとお別れをしまして…」
「あらそう」
 しのぶが気がなさそうに相槌を打つと、ポチ2号はどよん、と恨めしそうな目でしのぶを見上げた。
「やっぱり、他の恋愛の達人の方に…」
「それはお気の毒ね!」
 ポチ2号を遮ってしのぶがお悔やみを伝えると、ポチ2号はうんうん、と涙を滲ませて頷いた。
「それがですね。どうにも美々子さんから積極的な愛情を感じない、と思いましてね。先日、美々子さんに聞いてみたんですよ。わたくしのことをどう思っているのかって」
 しのぶはふんふん、と頷く。しのぶの脳裏には、あの無口な――というか、言語を解するのかも不明な――フグの美々子さんが浮かぶ。
「すると美々子さんは……」
 ぽち2号は一層悲劇ががった声を出した。
「黙ったまんま、わたくしを見つめたかと思うと、二十四時間もすると、ぷいっと泳いでいってしまったんですよ」
「二十四時間!?」
 しのぶのあげた驚きの声を無視してポチ2号は、はああああああっと溜息をついた。しのぶはジッとポチ2号を見つめると、この人本気かしら、と思った。一日中エサも与えずじっと佇み、フグ(美々子)を睨み続ける飼い主(プールの妖怪)…。しかし気を取りなして、しのぶはコホンと空咳をひとつ。
「で、でもほら、二十四時間も見つめ合ってたわけでしょう?嫌いなひとと二十四時間も見つめ合ったりしないわよ!(エサを期待してただけかもしれないけど。)美々子さんはただ単に照れ屋で無口なだけかもしれないわ」
 しのぶが「ね?」と慰めると、ポチ2号は陰気な目でしのぶを見上げた。
「いいですね…。楽観的な方は…。わたくしなんか…」
 ポチ2号は、ふっと息を漏らすと寂しそうに遠くを眺めた。
「坊ちゃんと巡り会うまでは、忌み嫌われ追い払われるばかりの人生…。面堂さん、諸星さんを始め、以前みなさんにも捨てられそうになりましたし…」
 しのぶはポチ2号の言葉にどきっとする。ポチ2号はそんなしのぶをちらっと見ると、また前方に虚ろな瞳を馳せる。
「生まれてこのかた、女性に好かれたこともございません。わたくしなんか、どうせ嫌われ者の妖怪。この先、生きていたって…」
「い〜〜〜〜〜〜加減にしなさいよっっ!」
 がたっとベンチから立ち上がるとしのぶはポチ2号の前に立ちはだかった。両手を腰に当て、きっと目を吊り上げ、仁王立ち。ポチ2号は驚いた顔でしのぶを見上げる。
「黙って聞いてればぐちぐちと情けないっ!」
 ポチ2号が少しムッとした顔で反論する。
「あなたは恵まれているからそんなことが言えるんですよ」
 しのぶはフンっと鼻息荒くポチ2号をあしらった。
「恵まれてる?あのねえ、この世の中、いいことばっかりってわけにはいかないのよ!誰だって嫌なこと、どうにもならないことを経験してるの!自分ばっかり、だなんて図々しいにも程があるわよ!」
 ポチ2号はしのぶの言葉を聞くと、またはあっと重い溜息をついた。
「それじゃあやっぱり、生きていたってこの先、つらいことばっかりなんですね。わたくしなんて元々、みなさんからの嫌われ者ですし…」
「だーかーらー!」
 しのぶは苛々と声を荒げた。
 ポチ2号は「いいんですいいんです。わたくしなんかにつき合ってくださってありがとうございました」と、煎茶を啜っている。
 しのぶはポチ2号から煎茶を奪い取った。
「あっ!」
 ポチ2号が恨みがましそうにしのぶを見上げる。
「なに?自動販売機なんかの安物の粗茶ごときに未練でもあるの?」
 ポチが「飲みかけですし…」と言うと、しのぶはポチ2号に缶を返した。
「たかがお茶にだって未練があるくせに、人生捨ててどーすんのよ!」
 しのぶは少し腰をかがめてポチ2号にひとさし指を突きつけた。
「そりゃあね、人生いいことばっかりじゃないし、ツライことも多いかもしれないわ。今まで生きてきた中で、もしかしたらいいことよりツライことの方が多かったのかもしれない。でもね!」
 ポチが煎茶を啜るのをやめて、しのぶをじっと見つめる。しのぶは興奮してしまった自分に気がついて、前屈みになった身をひいた。
「人生、可能性に満ちてるんだって、そう思わなきゃ、なにも始まらないのよ?」
 しのぶがニッコリと笑いかけると、ポチ2号は視線を落とし、しばらくジッと残り僅かの煎茶を見つめていた。
「でも美々子さんにはフラれてしまいましたし…あたしゃ女性に好かれるタチじゃありませんし…」
 ボソボソと愚痴るポチ2号にしのぶの頭に、また血が上り始める。しのぶはいけないいけない、と自分を嗜めて、なるべく口調を和らげようとする。
「あのねえ。なにかひとつ上手くいかなかったからって、それでこれから全部上手くいかないって決めつけるなんて、そんなのおかしいわよ!世の中、女は沢山いるわけだし、美々子さん一匹だけが女ってわけじゃないでしょっ。それにねえ、だいたいあんた、本当に努力したのっ!?」
 しのぶがポチ2号に詰め寄ると、ポチ2号は勿論です、と頷いた。
「毎日、愛していると言いましたし、2週間に一度は水槽の掃除をしましたし、水温計や比重計をマメにチェックしてをヒーターや塩分濃度にも気を配りましたし、それから高級フグ用エサも坊ちゃんからいただいたお小遣いの中からやりくりして…」
 短い指をいくつも折って数え上げるポチ2号に、しのぶは「だから何よ!?」と切り返した。
「たったそれっぽっち?それっぽっちのことで、そんな簡単に諦めちゃっていいわけ?美々子さんって、あんたにとってたったそれだけのものだったの?」
 ポチ2号はムッとした顔で「違います!」と言った。しのぶはにっこりと笑う。
「だったら諦めなさんな!意地を見せなさいよ、男でしょっ」
 しのぶがぽんっとポチ2号の背中を押すと、ポチ2号は「はいっ」と頷いた。

「ポチ2号ーっ!!」
 ぱたぱたと向こうから少年が大粒の涙を零しながら駆けてくる。
「坊ちゃん!」
 ポチ2号がくるりと振り向くと、ちょうど辿り着いた少年がポチ2号をひしっと抱きしめた。
「心配したよ!ポチ2号!黙っていなくなっちゃうんだもの!」
 ポチ2号は「ご心配おかけして、すみません!」と少年に抱きつく。
「さ、一緒に帰ろう!奥さんの美々子も家で待ってるよ!」
「はいっ!」
 しのぶは、その光景をにこにこと眺めていた。ポチ2号は少年と手を繋ぐと、くるりとしのぶに振り返った。
「今日はありがとうございました!アイスクリームもお茶も美味しかったです!」
 ペコリとポチ2号は頭を下げると、少年と歩き去っていった。少年はポチ2号に「アイスもお茶ももらったんだ!よかったね!ポチ2号!」と笑いかけている。
 しのぶはそれを聞いてはっとした。そういえば、しのぶは当初食べるつもりだったアイスクリームを奪われ、奢りたくもないお茶を奢って、聞きたくもない愚痴につきあって、いつの間にか他人の恋の応援までしていた。
 しのぶはなんだか騙されたような気分で妙に気が抜けたが、しかし「うんっ」と両拳を胸元につくり、気を取りなした。
――そうよ、あたしだってまだまだ!
 いつか面堂が振り向いてくれるその日まで、努力し続ければいい。あたるがラムに靡いたからって、世の中の男全てがしのぶを好きにならないわけじゃない。
 しのぶはくいっと顔をあげて、空を見上げた。額の辺りに右手でひさしをつくり、白くまぶしい太陽の光を遮る。雲一つない、晴れ渡った青空。
――ラムもあたるくんも面堂くんも、今頃どこで追いかけっこしてるのかしら?
 もうそろそろ、あたしの不在に気づく頃かしらね?としのぶは微笑む。しのぶの頬を優しく風が撫でていく。五月の緑の香りがした。
 空を見上げるしのぶの後ろから、面堂の呼ぶ声が聞こえてくる。
「しのぶさーん!どこですかー?いたら返事をしてくださーい!しのぶさーん!」
 しのぶはワンピースの裾を翻して振り返り、額に汗をかき、しのぶを探し回る面堂に手を振った。
「ここよ!面堂くん!」



-end-


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