BOYS AND GIRLS
「どうします?」
少年は半歩後ろに佇む少女に物憂げに問いかけた。
オールバックにぴしっと決まった前髪に手を遣ると、わずかにほつれている毛が指先に触れた。心の内で小さく舌打ちして、器用に毛の先を押し込める。
「面堂くんこそ」
少年の長く優雅な指がいつも通り、いささか芝居がかったように貴族的な調子で振る舞い、前髪を整えるという仕事を満足に終えるのを眺めながら、少女は抑揚のない口振りで答えた。
少年はくっと短く笑った。まったくバカらしい。二人は互いに相手に対してなんの必要性も感じていないこと、それどころか少しばかりの嫌悪さえ抱いていることを知っている。どれほど小さな取り繕いも要らない。
「追いかけてくればいいじゃない?ほら、まだあんなに近くにいる」
少女が細く白い、短い指で青い空を指した。大きく白い雲が濃い群青色の空にぽっかりと浮かび、同じくぽっかりと偏光色の髪を風にたなびかせる少女が浮かんでいた。
晴れ渡った空に不釣り合いの落雷に、少年は不機嫌そうに顔をしかめた。そして白い砂浜を走り回る猿のような少年を指さした。
「ええ。しのぶさんこそ、追いかけてきたらどうです?あなたが抱きつけば、血に飢えた狼のように女性を口説き回る徒労に貴重な青春を費やしているあのバカは…」
「やめて」
少女は少し瞳を揺らして、強い口調で少年を遮った。少年はその台詞にようやく少女を振り返った。少年の顔には勝ち誇った優越感の表情がありありと浮かんでいた。少女は下唇を噛んだ。
「つまりはそうやって、ごく自然にラムの気を自分に向けたいんでしょ。あたしがあたるくんを追いかければ…」
「しのぶさんが先に言い出したことでしょう」
少年は意地悪く笑った。
雷で黒こげになっている猿は実際、少女が大きな瞳を潤ませ可愛らしく甘えた声でしなをつくれば、すぐさま少女に襲いかかるだろう。そしてすぐさま離れるのだ。
少女はキッと少年を睨め上げた。
「いいえ。面堂くんからよ」
少年はいかにも心外だ、と目を見開いた。追いかけろなどという屈辱的な提案をしたのは少女のはずだ。
少女は苛々とした様子を抑え込んで静かな口振りで言った。
「あなたが先に、口を開いたんだわ」
少年は小さく唸った。
そうだ。お互いによくわかっている。少年と少女が二人きりに残された状態で口を開けば、結局会話の帰するところは常に同じだ。
「それは」
悪かったですね、と皮肉な視線で投げやりに言い捨てると、少女が忍び笑いを漏らした。
「今度テンちゃんに謝り方を教わったらいかが?」
少年はむっつりと少女を見た。少女は小さく薄い身体を丸めておかしそうにクスクス笑っている。身体が揺れるたびに、真っ直ぐで固そうな黒髪も豊かに揺れる。
少女の胸は、この年頃の女性としては薄すぎるし、細いウェストはくびれというより栄養失調の子供のようだ。
白い砂浜を所狭しと駆け回る猿に文字通り雷を落としている、鬼娘の魅惑的なふとももを口元を緩めて眺めたあと、ちらりと棒きれのような足を見やった。女性らしい丸みはそこにはない。少年は在るか無きかの微かな同情と盛大な軽蔑を瞳に込めた。
少女はその視線の意味に気づき、顔を赤く染めると、辛辣に言い放った。
「お偉い面堂家の若様は、鼻息荒く胸を反らしてふんぞり返るのがお得意ですものね!」
少年はそれのどこが悪い、と気にもかけない様子で「ええ、その通りです」と答えた。少年の視線の先には、キラキラと光を跳ね返す不思議な色の髪が青い空に弧を描いていた。
少女は少し眉をひそめると嘆息し、寂しそうな瞳で少年を見た。少年は少女を振り返らず関心のないように振る舞っていたが、左の頬に感じる少女の視線に苛立ちを感じた。そこには心の底からの、純粋な憐れみがあるようだった。自分が誇りに思っている信念と振る舞いに、度々少女がそのような視線を向けることに、少年は我慢ならなかった。それくらいならばまだ、ジャリテンに謝り方を乞われたときのことを揶揄される方がいい。
少年は遂にうめき声を漏らした。
「お優しい庶民のしのぶさんが、誰彼構わず同情して理解を示そうとするのがお得意なようにね」
少女を振り返ると、少女は大きな瞳をこれ以上ないほどに見開いていた。理性的なオニキスのようにキラキラとした瞳は今やこぼれ落ちんばかりで、少年の嗜虐心を誘った。とろけるほど暑い太陽の下、少女の顔は完全に血の気を失い蒼白だった。
少年はうめき声を改め、強く傲慢な自信を苦労して抑え込み、穏やかで極上の微笑みを少女に向けた。
「しのぶさんは本当にお優しい、素敵な女性だ」
諸星のやつも、そんな素晴らしく心根の優しい幼馴染みの涙が何より心を動かすようですね。
少年の頬は緩み、端正な顔の夢のような微笑みはますます魅惑的になる。
「面堂くん、あなた…!」
少女はきつく両手を握りしめ、シャーベットピンクの塗られた爪が手の甲にくいこんで震えていた。青白い顔の中、そこだけ不自然に赤い唇がわななく。
「お得意の誘惑法でしょう。ああでもぼくに仕掛けるのは賢明ではありませんよ。ぼくは諸星ほど愚かではありませんし、きみの魅力はぼくを愚かにするには少しばかり足りないようだ」
しのぶは青く震えていた顔にさっとシャッターを下ろすと、冷たく目を細めた。
「いいえ。あなたほど愚かな人は見たことがないわ」
少年は品性に欠けることを自覚しながら鼻で笑った。少女の侮蔑は、人形のように冷たい表情の割りに負け惜しみの度合いが濃く滲みすぎていて、あまり気の利いた切り返しとはいえない、と少年は心地よい優越感に浸った。
少女は一度下ろしたシャッターをあげて瞳を揺らしたかと思うと、僅かな溜息を漏らし、くるりと背を向けて盛り場から遠く離れ人影もない浜茶屋へと向かっていった。男装の麗人とお慰みの擬似恋愛でもするつもりかと思うと、少女がますますみじめったらしい貧相な小娘に見えた。
少年が満足げに口の端を歪めると、少し前からちらちらと視線を投げかけてきていた、頭の軽そうな少女二人連れが声を掛けてきた。少年は白い歯を胡散臭いほど爽やかに光らせて微笑み返した。少女達が黄色い悲鳴を上げた。
連日の海通いによる日焼けでボロボロの肌と、薬品で色を抜いたパサパサの乾ききった髪。顔のつくりは塗り込められた化粧でもはや判別がつかない。気味の悪いほど同じような面構えの少女達の手にひかれて、少年は浅瀬に入っていった。
あまりの退屈さに少年は欠伸を噛み殺した。
海水で化粧が剥がれドロドロになった少女達の顔は見るに耐えなかったし、青い空にのんびりと浮かんでいる素晴らしいプロポーションを誇る少女は、少年に一度たりとも注意を向けようとはしなかった。少年のことなど、鬼娘は頭の片隅にもないに違いない。
彼女の頭を占めているはずの猿は、少年がひどく嘲った少女の後ろ姿を追いかけ走り寄り、二人で寄り添うようにさびれた浜茶屋へ入っていった。先程まで白い砂浜に黒々と無惨な落雷の痕を焼き付けていた鬼娘は、ほんの一瞬気色ばんで猿を追う素振りを見せたが、それまでだった。少年にはまったく理解できなかった。
そのせいだろう。少年は鬼娘に声をかけそびれてしまった。鬼娘が猿に嫉妬して追いかける、という行為をやめたことほど、少年にとって都合のいいことはなかったのにも関わらず、少年は鬼娘がなぜ猿を追わなかったのかというどうでもいい事柄をどうでもいい事柄として処理するタイミングを逃した。
「きみたち」
少年は努めて紳士的な態度を装って、波と戯れる少女達に柔らかな声色で声をかけた。
少女達は何を勘違いしたのか、楽しそうにキャッキャッと少年に両手で掬いあげた海水をかけてくる。塩辛い海水が少年の舌の上に広がり、少年は強い不快感と憎悪を胸の奥底でくすぶらせた。
この醜い下賤な猿どもが。いや、黒豚か?そのまま海に流されてしまえばいいものを。
「やあだっ!シュータローさんったらちゃんと避けなくっちゃ!」
少女達が耳障りなかん高い声で笑う。
少年は好青年らしい百パーセントの笑顔を浮かべてふるふると頭を振った。すさみかかっている思考を、さすがにマズイ、と振り払うために。
いくら少年がフェミニストという仮面を被った、いや女性蔑視であるからこそのフェミニストという立場を自身よく理解しているとはいえ、言葉が過ぎる。彼女たちは気の毒なことに、元来男よりオツムの足りない女である上さらに、そのオツムの足りない女の平均にも遙か届かないのだ。そのことは鬼娘や、先程少年と相対していた少女と比ぶれば、歴然としている。実のところ比べるまでもない。
気の毒な少女達には同情を施してやるべきであって、無知の罪を糾弾していたぶるなど趣味が悪い。面堂家の次期当主たるもの、寛容であらねばなるまい。
「とても残念なんですが、そろそろ帰らなくてはいけないんです」
同時に上がる不満の声を少年は珍しく、心地よく感じることができなかった。
「すみません。友人を探さなければ」
少年の言葉に、一人の少女が片眉をあげて嘲るように笑った。少年は浮かべっぱなしの笑顔が引きつらないように、両頬に力を込めた。
「友人って、あの女、あたしたちが来る前に一緒にいた、あの?」
「ええ」
どうやら目の前の少女が嘲っているのは自分ではなく“友人”であるらしいと悟った少年は、胃の底でくすぶり始めた不穏な炎にあっさりと水をかけた。
「あら、そう。なんていうか、シュータローさんったら。お気の毒ね」
くすくすの忍び笑いをし始めた少女に代わって、もう一人の少女がぷっと噴き出した。少女の前髪を濡らしていた海水と唾が一緒になって空気に舞うのを見て、少年は顔をしかめた。醜いものは嫌いだ。
「なぜです?」
少年は少女達が“友人”を嘲る理由を朧気に知りながらも、少女達に問いただした。なぜ自分がそんなことを聞くのか少年は疑問に感じたが、深く考えることはやめた。おそらく会話の流れによるのと、試験問題を解いたあとに答えがあっているのか知りたがるのと同じことだろう。
「だって、ねえ?」
噴き出した少女がいやらしく、もう一人の少女に上目遣いで合図を送る。
「あんなダサい子!」
そう言うと、シャワーのように唾をそこら中に吹き散らして少女達は大笑いした。
「座敷わらしみたいな頭しちゃって!」
「金太郎みたいでもあるわね!それに洗濯板じゃ、せっかくのビキニが可哀想だったわ!」
「小学生じゃないわよね?あの子!あの体型ったら!それとも本当は男の子?」
少女達が嬉々として悪口を叩くのを、少年は薄ら笑いを浮かべて眺めた。
これだから女はバカなのだ。自らの品位を落とすことにこれほどまでに必死に夢中になるなど、そしてそれが自分の利になると考えているのだから救いようがない。
「そうですね。もしかしたら男かもしれません」
少女達は意地悪な笑顔を顔にはりつけたまま、嬉しそうに少年を振り返った。少年は冷ややかな笑いを口元に浮かべていた。
「友人はあなた方、女どものように低俗ではありませんから」
少年はニッコリと微笑みかけ、少女達はその極上の笑顔に一瞬我を失ってうっとりと見とれた。ほんの一瞬ではあったが、少年はその一瞬を大いに嘲った。非常に気分が良かった。
少年はしかし、不機嫌だった。背中に脳の足りない少女達からの罵詈雑言を受けながら、そのような状況に自らを追いやった己の思考回路が全く理解できないことにも苛立ちを募らせた。
これがもし、少年が恋い焦がれる鬼娘のことであったら、少年も少しは自分の振るまいに渋々ながらも納得することができたかもしれない。しかしそのときですら、少年は自分がもう少し穏やかで婉曲な表現を、つまり愚鈍な少女達が皮肉とも気付かないソレでスマートに応対していただろうということも知っていた。
少年は子供じみた、それも理由のわかならい己の振る舞いに不愉快になるのを止めようとはせず、その苛立ちは憎しみにも似て“友人”の少女に向かっていった。だいたい、少年の甘いマスクに騙され続けてくれなかったこと自体も気に入らないのだ。
女は愚かではあるが、愚かだからこそ可愛いと思う。賢い女などまったく可愛くもなければ、憎々しいばかりだ。
「よお、最低男」
少年は身体に染みついた反射反応として日本刀を抜いた。今の今まで腰に下げていたはずもない刀だったが、それは世界の七不思議にいちいち数えられることのない、数ある超常現象の一つだ。
気むずかしげに端正な眉をひそめる少年と、それに対する猿のように身軽な少年。白い光を浴びて光る名刀に、猿はディスカウントストアで売っていそうな木槌でもって応戦していた。
「なんだ、諸星」
「いや、なんとなくな」
飄々と答える猿は、いつもどおり飄々としていて、少年はそれがいつも通り気に入らない。ふん、と鼻を鳴らすと少年は刀を鞘にしまい、またもや超常現象が起きてその立派な日本刀は少年の周囲から見えなくなった。そして二つ目の超常現象が起きて、猿の手からハンマーが消えた。
「しかし、なぜぼくが最低男なんだ。それは貴様のほうだろう。ラムさんをずっと放っておいて」
少年が後ろを振り返り空を仰ぐと、にこにことあどけない笑顔で空に浮かぶ少女がいた。少年は思わず口元を緩めた。鬼娘の笑顔はいつでも少年の表情筋をだらしなくさせる。
猿は鼻の下を伸ばしマヌケ面をさらす少年を冷ややかに見た。
「言っておくがな、面堂。お前が来なければ、おれはしのぶと今でもうまくいってたんだ」
鬼娘の魅力的な笑顔から目をそらして不細工な猿に振り返るなど、苦痛この上ないことだったが、少年は己に苦を強いて、伸ばした鼻の下を縮め、端正な顔をシリアスに額の皺険しく刻み込んで猿を睨んだ。
猿が言っていることは、あまりに馬鹿馬鹿しかった。そして喉から手が出るほど鬼娘を欲している少年にとって、あまりに腹立たしかった。加えて、この猿と長年幼馴染みとしてつき合ってきた“友人”も同様、この猿の台詞を聞けば、激しく憤るだろうと少年は思った。
いや、憤るのは彼女の気丈な部分だけで、一人きりになれば彼女の心はありとあらゆるところから血を噴き出して、恐ろしい惨劇を呈するだろう。
「なにが言いたい、貴様」
少年は低い声ですごんだ。この猿のどこがいいのか、鬼娘も“友人”も、まったく悪趣味だとしか思えなかった。
猿は少年の鋭い眼光に怯えることなく――怯えることがあったらそれこそ一大事だが――少年の陰湿さにも勝るほどに強い憎しみをもって睨み返した。
「貴様が大マヌケで、勘違い野郎だと言っておる」
少年は猿の台詞の不条理さに我を忘れるほどの怒りと憎しみを抱き、由緒正しい刀による懲罰ではなく、野蛮にも素手で殴りかかった。
猿がヒラリとそれをかわすと、少年は惨めにも白い砂浜に勢い余ってつっぷした。少年は瞼や頬、胸に手足に灼けつく熱さを感じた。もはや少年の頭には、無礼な猿の顎の骨を拳で叩き割ってやること以外なかった。
身体についた白い砂を払うことなく少年は立ち上がると、殺意に満ちた目で猿を睨んだ。猿は目を丸くして驚いた顔をしていた。場違いなほどにひょうきんで平和な表情に、少年の憎しみはますます募った。頭上で愛らしい鬼娘の、懇願するような声が微かに聞こえた。
猿は大きく後ろに飛び退くと、素早く鬼娘に視線を送り、小さく頷いてみせた。
心配するな、ということか。ああそれとも邪魔をするな?
少年はギリっと奥歯を噛んだ。少年の頭に不快な猿の声が聞こえた気がした。幻聴は少年の憎しみに拍車をかけた。
「諸星…!貴様ほど殺してやりたい男に会ったことはない!」
地に響く唸り声でギラギラと睨みつける少年に、猿は目を細めた。
「ほー、奇遇だな。おれもそう思っとったところだ」
猿が言い終えるか否かのうちに、少年は力強い拳を猿の顎下に向かって突き上げた。
あまりの怒りで目から炎があがっているような気がした。身体を怒りのままに投げ出そうとも込み上げて留まることの知らぬ憎悪を、少年は双眸に集中して感じていた。幾千の針に刺される痛みと炎の熱さ。それが涙だと気付いたが、少年は恥じ入る必要はないと思った。
「面堂!おれが言えることではないから言えんが、しかしおれが言わんと大馬鹿野郎は大馬鹿野郎のままではないか!」
少年は猿の気が狂った、と思った。
猿は少年を見るとき、その瞳に憎悪を宿らせながらも、悲しそうに困惑して頭を抱えていた。少年を殴ればどれほど気分がいいだろうすっきりするだろう、と言いたげに握りしめられた拳は、何度も少年の方に向かおうとしたが、猿はぴょんぴょんと逃げるばかりだった。
「卑怯だぞ諸星!貴様は逃げるしか能がないのか!」
「うるさい!誰のせいでこうなってると思っとるんじゃ!」
「貴様のせいに決まっとるだろうっ!貴様がっ!」
少年の怒りはすさまじく、少年自身ですら込み上げる激情が怒りなのかなんなのか、もはやわからなくなっていた。力一杯無駄な動きでぶんぶんと腕を振り回し、空を切ってはよろけ、立ち上がっては無様な格好で猿へと向かっていく。
カラカラに乾いた口から干上がっていなかった唾を飛ばして、少年は自分の口がなにを言っているのか、言おうとしているのか、知ることのないまま怒鳴り散らした。
「しのぶさんの思いを否定するからだ!踏みにじるだけでは足りんというのかっ!」
少年はジャリジャリと砂を噛みながら吼えた。猿が後ろに飛び退きながら、指をパチンと鳴らした。焦点の合わない少年の目では、それは錯覚か思い込みだったのかもしれないが、猿が嬉しそうに、そして面白そうに意地悪く笑ったように見えた。
少年の憎悪はこれまでも血管を突き破るだろうと思われるほどの激しさだったが、猿の薄汚い愉悦に、少年の全てが激昂という言葉では生易しいものに支配された。
「貴様…!貴様はどこまで腐っとるんだっ!?」
「ほー。たとえばどんなことだ?」
猿はこれ以上面白い見物はない、というほどニタニタと笑って、器用に少年の拳を避けている。人差し指をクイクイと曲げて少年を挑発する。
「貴様が人でなしでっ!易々と十数年来の信頼を裏切ることができたからといって、それをしのぶさんの罪になすりつけるなど…っ!」
「裏切る?なすりつける?しのぶはそんなことを許すよーな女ではない!お前は知らんのかもしれんが、しのぶは怖いぞ。執念深くて頭が切れるから、ほんっとーに恐ろしい」
猿はぶるるっと震える仕草をした。少年の脳裏に、少女の寂しげな瞳が浮かんだ。少年を気遣う慈悲深い、そして何もかもを見通す賢い瞳は少年の愚かさを許していた。
「貴ッ様アアッ!!しのぶさんが貴様を許しても…!ぼくが許さん!!」
猿は堪えきれない、といったように腹を抱えて噴き出した。少年はひどい憎悪で正常な判断ができない状態だったとはいえ、決してその決定的瞬間を逃したりはしなかった。
「貴様にしのぶさんは…」
少年の拳がまともに猿の腹に入った。非常に不快な音がした。しかし少年の拳は猿の顎下には入らず、その顎を砕くことはなかった。ついでに少年の口から途絶えた罵声の続きは紡がれなかった。
なぜなら、そのとき少年の耳に少女の声が聞こえたから。少年の既に冷静ではなかった判断能力がさらに鈍り、戸惑いが振り上げる拳の位置を僅かに下げ、言葉を宙に消してしまった。
そして少年は猿の報復に遭った。
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「あたしは一度だって、あたるくんを好きだなんて言わなかったわ」
畳の上に伏せる面堂に、しのぶははっきりと言った。
しのぶは機械的にタオルを絞ると面堂の赤く腫れ上がった頬にのせた。冷ややかに見下ろされた面堂は、ひんやりとしたタオルを手で押さえ、頬に押し当てた。面堂は鈍い痛みに顔をしかめ、おろおろと情けなく戸惑っていた。
「し、しかしですね…。その、しのぶさんは…」
面堂の口振りは歯切れ悪く、それというのは思考回路が分断され、彼はうまく言葉を繋ぐことが出来なかった。しかし面堂はしのぶの言い分に、はっきりと違和感を感じていた。
確かにしのぶは当初、面堂のことをうっとりした目で見つめてきていたように思うし、面堂はしのぶが自分をクラスメイトへの好意というには少しばかり強すぎる思いを抱いているだろうと自惚れていた。恋情ではなくとも、憧れのような淡いものは存在していたに違いなかった。
しかし、あのとき、という明確な区切りはなかったように思うが、いつの頃からかしのぶの瞳からうっとりと夢見る憧れは姿を消したのだ。そして賢いしのぶは、面堂の虚勢を、そればかりか女性蔑視という決定打までかなり正確なところまで見抜いていた。
友人としてすら許容範囲であるかも疑わしい面堂の人格的な欠陥を知って、それでもしのぶが己に憧れを抱き続けているだろうと考えるほどには、自惚れてはいなかったし、世間知らずでもなかった。
それだから面堂は手の平を返したように、しのぶの前では仮面を外したのだ。もちろん、今日ほど冷酷に彼女を傷つける言葉を放ったことはなかったけれど、それはわざわざしのぶを皮肉って怒らせる必要性を感じなかったというだけだ。
面堂はしのぶがもしかしたら諸星を想い続けるのをやめようと、はっきり今日諦めるために、こんな茶番を演じているのではないかと思った。そう考えなくては、なにもかもが奇妙でつじつまが合わないのだ。
諸星としのぶがなんと言おうと、しのぶはずっと諸星を目で追っていた。痛めつけられたような傷ついた瞳で諸星を見ては、寂しそうに微笑んでいた。
そうだ。もちろん、面堂はわかっていたのだ。しのぶの自分を見つめるうっとりした瞳が、ただの憧れにすぎなかったことを。
「面堂くんが言いたいことは、なんとなくわかるわ」
面堂は頷いた。やはりしのぶは諸星の手前、そういうフリを演じただけなのだ。
「でもね、それを言うなら面堂くんの今日の行動だって説明がつかないと思うわ」
「それはどういう…?」
しのぶは少し顔を赤らめて、もごもごと口ごもった。赤い顔のまま、しかし決意した瞳で面堂を見た。
「あなたはラムが好きだったはずなのに、いいえ、今だってそうよ。それなのに、あなたが怒った理由はラムじゃなかったんだもの」
「それは…」
面堂は反論しかけて止まった。
確かにそうだ。同じく片思いに悩む者としての同調、同情、怒り、哀しみ。それだけではあれほど我を忘れるほど、この自分が怒り狂うなどおかしい。誰にも知られるはずのなかった己の秘密すら知っている、この憎々しいまでに賢い少女が相手で。言うなれば仲間というより、面堂にとってしのぶは弱みを握られた油断ならない敵のようなものだ。
それにしのぶは自分よりずっと強く賢い女で、そのしのぶをかばったり同情するなど、むしろマヌケな道化者になるばかりだということを面堂はよくわかっている。
「ああ…たしかに」
面堂は疲れたように大きく息を吐き、唸った。面堂家の者としてあるべき姿…はもう、ここまで貧相な姿を露わにされたしのぶの前では、滑稽でしかないと乱暴に腕と足まで放り出した。
まぶたを閉じた面堂は、空気が僅かに揺れるのを感じて、しのぶが笑ったのだと知った。しかしそれほど悪い気はしなかった。
「それにしても、どうやってあたるくんを懲らしめてやろうかしら。執念深いですって?まったく…。あたしがどれほどヒドイ目に遭い続けてきてるのか、わかってるのかしら」
面堂はしのぶの言葉にどきりとしたが、何も答えなかった。しのぶはもちろん、面堂に聞かせるようにひとりごちているのだろうが、それは面堂をどきりとさせるくらいの意地悪で許そう、ということなのだ。
面堂はますます居心地悪く、この恐ろしいほど執念深く頭の切れる、そして寛大な少女に勝ち目はないとしのぶに背を向けた。
しのぶが面堂の顔からずり落ちたタオルを拾って、水の張った洗面器にもう一度浸し、絞った。
-end-
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