「しのぶさん、お花見しませんか」
「お花見?まだあんまり咲いてないわよ、桜」
 受話器越しに聞く男の人の声はくすぐったい。低くて時々聞き取りにくい。十七年間慣れ親しんだ、あたるくんの声ならともかく。
「亜空間では桜が満開なんです。お花見に丁度いい穴場がありまして…」
「そうなの。それじゃあ、あたし、お茶とお菓子持っていくわね」

 そんなこんなであたしは、亜空間でウサギとお茶会をすることになった。


亜空間のアリス



「桜にまつわる憂鬱な説話があるの」
 さわさわと風が桜の花びらを揺らし、いくらかがクリーム色のシートの上に、因幡さんの頭の上に、あたしの膝に舞い落ちる。真白いウサギの着ぐるみに薄桃色の花びらはよく似合う。とても幻想的だ。
 因幡さんはあたしの視線に見当をつけて、腕を伸ばす。丸まったウサギの手が一枚の花びらを摘む。因幡さんが微笑む。
「桜の樹の下には屍体が埋まっているんですって」
「どうしてそんな」
 因幡さんの困惑した表情に苦笑する。
 バスケットから魔法瓶を抜く。コポコポと静かな音を立てて、代赭(たいしゃ)色の液体が小さなコップの中で波紋を描く。白い湯気が因幡さんの前、霧となって立ち上る。
「どうぞ」
「あ、どうも」
 因幡さんは両手でコップを囲い持って、口元に運んだ。ぬいぐるみの手でとても器用だと思う。取っ手もない水筒のコップなんて、持ちにくいに違いないのに。あたしだったらきっと手を滑らせてしまう。真っ白でツヤツヤでふかふかの毛を、ぐっしょりと赤褐色に濡れそぼらせてしまう。
「とってもおいしいです」
 にっこり、という表現がよく似合う笑顔で因幡さんが言う。
「そう。よかった」
 あたしも同じように微笑めていたらいいのだけど。
「それで…」因幡さんの『にっこり』が『なぜだろう、不思議だな』になる。「どうしてそんな…。こんなにキレイなのに」
 因幡さんはツン、と尖る顎をあげて桜色の空を仰ぐ。蜻蛉(かげろう)が因幡さんの頬を掠めて舞い上がった。ウスバカゲロウにクサカゲロウにモンカゲロウ。儚い命がキラキラとその翅に煌めく。
 桜の樹の向こうには渓がある。
「キレイだから」
「え?」
「美しすぎて信じられないから、だそうよ。ある作家の作品の一つにある文句なんだけど」
 昼だというのに亜空間の此処では、幾つもの星が浮かび上がっている。水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星…。太陽系の星そっくりの球体やらがぷかぷかと浮かび、その中の青白い星が銀色の光を放ち、辺りを照らす。
「今じゃもう、都市伝説みたいになっちゃってるわ」
 因幡さんは首を傾げた。
「キレイだから、ですか。ぼくにはちょっと、わからないです」
「そうねえ。あたしはわからないでもないけど」
 桜の花びらが描かれた紙皿の上、プレーンスコーンに生クリーム、薔薇ジャムを盛る。スコーンも生クリームも薔薇ジャムも、全部あたしの手作り。
 昨晩スコーンの生地を練り、今朝サクッとしっとり、丁度いい頃合いを見てオーブンから下ろした。生クリームはスコーンをオーブンにかけている間に、泡立て器でツンとツノが立つまで手首をクルクル回した。薔薇ジャムは因幡さんから電話を受けてすぐ、庭に咲く薔薇を幾つか摘んで、弱火でコトコトとろとろ火にかけた。翌朝に味見をしたらまだ少し苦くて、その日の昼頃、指で掬って舐めると甘かった。いい香りが指に残った。
「どうぞ。お口に合うといいんだけど」
 因幡さんのモコモコの手が触れる。因幡さんが笑う。
「しのぶさんは本当に料理上手ですね。しのぶさんの作ってくださったものがおいしくなかったこと、ないです」
「まあ」
 因幡さんは器用な手つきでフォークの背に生クリームと薔薇ジャムをたっぷりとのせる。あたしは因幡さんの脇に置かれたコップを取って、新しく紅茶を注ぐ。
「ありがとうございます。―――本当においしい。お茶会はよくするんですが、こんなにおいしいお茶とスコーンは生まれて初めてです」
「いやだ。もう!因幡さんったら、口が上手いのね!」
 軽く因幡さんの肩を押すと、因幡さんは桜の樹へと飛んでいった。亜空間は引力が三次元より小さいんだろう。こんなに簡単に飛んでいってしまうなんて。ピクピクと因幡さんの両足が枝の間からぶら下がっている。
 あたしは小さく切り分けたスコーンに生クリームと薔薇ジャムをのせて食べた。
「本当に本当なんです!!」
 ぴょーんと飛んで戻ってくると、因幡さんは真剣な顔つきで言った。小さな枝や花びらがあちこちに突き刺さっている。飛んでいく前と変わらずそっくりそのままの状態のスコーンを、因幡さんは小さく切り分け口に運ぶ。紅茶を啜る。ひょいぱく。ひょいぱく。ずずずずず。
「運命製造管理局では六時になるとお茶会をすることになってるんです。上司の帽子屋さんが…」
「帽子屋?」
 六時のお茶会。帽子屋にウサギ。不思議の国のアリスみたい。
「はい。帽子屋さんが決めたお茶会なんです。席はたっぷりあって、帽子屋さんと局員は決められた席に着くんですが…」
 因幡さんがガックリと肩を落とす。手の中のコップは空だ。
「お茶、もう一杯いかが?」
「あ、はい。いただきます」
 因幡さんはコップを前に差しだす。小皿とフォークをシートの上に置こうとしたので、紅茶を注ぎながらそれを受け取る。
「何から何まですみません。ぼくがお誘いしたのに…何も用意してなくて…」
「いーのよ。こういうことするのが好きなの。―――はい、どうぞ」
「ありがとうございます。――ずずず―――それで、そのお茶会なんですが…」
「待って!」
 因幡さんの右手からコップが滑り落ちる。シートの上にルビーの水溜まり。つい勢い余って因幡さんの口をふさいでしまった。因幡さんはビックリした顔であたしを見る。どうしようかと因幡さんの口元と膝にかけた手を動かせないでいると、因幡さんの顔がジワジワと赤く染まっていった。
 左手の下で因幡さんの唇が動く感触がした。暖かい吐息で手の平が湿る。
「ご、ごめんなさい。その、お茶会についてあたし、当ててみたかったものだから…」
 慌てて飛び退くと、因幡さんはトマトみたいに真っ赤な顔で「いいえ」とモゴモゴ呟いた。あたしはバスケットを探って布巾を取り出す。
「当てるってしのぶさん、ご存じなんですか?」
 あたしは布巾を手にしたまま少し躊躇った。
「そういうわけじゃないんだけど…。あたしのよく知ってるお話しと似ているの。そのお話では、帽子屋とウカレウサギと女の子が六時にお茶をするの。テーブルにはネムリネズミがいて…」
「はい!そうです。皆さん居眠りしているネズミさんをクッションにして肘をついています」
 因幡さんの目が丸くなる。どうして知っているの、と問いたげに。
「まあ。それじゃあやっぱり、だんだん席をずらしてゆくの?一番新しくていい席に移るのは帽子屋さん?」
 因幡さんはますます目を丸くする。そしてあたしの手を取る。あたしは布巾をシートに落とした。
「そうなんです!そうなんです!ぼくは一番下っ端だから、いつも一番後ろの席でお茶もお茶菓子も、欠片も残ってなくて」
 因幡さんはあたしの手を握って嘆く。私はその手を振り解いて布巾を拾った。
「…それじゃあ、いつも因幡さんは紅茶もお菓子も食べてないってわけね」
 因幡さんの右脇に出来た紅茶の水溜まり。表面が油を垂らしたように虹色が浮かんでいる。蜻蛉の重なり合った翅が水溜まりを覆っているのだ。蜻蛉の屍体。
――アリスの次はこっちもか。
「はい!そうなんです!」
 因幡さんは「その上後片づけも大変で…」と嘆いた。
「そりゃ大変ね」
 あたしはほんの少し躊躇してから、布巾でシートの上の紅茶を拭った。布巾にはキラキラと光を乱反射する蜻蛉の翅がへばりつく。
「あの……しのぶさん?」
 因幡さんの声が曇っている。あたしはジッと布巾を眺めている。キラキラキラ。
「なに」
「あの…ぼく、何かしのぶさんのお気に障ることを言ったんでしょうか」
「別に」
 シートの外れまで膝でにじり寄り、草地の上で布巾を絞る。蜻蛉が千切れてはらはらと舞う。
「…言ったんですね。ぼく」
 向き直ると因幡さんが肩を落としていた。因幡さんの頭に肩に、桜の花びらが散っている。
 梶井基次郎が著作の『桜の樹の下には』で、美しいものと惨劇との平衡を求めたのを、あたしはとてもよくわかる。「俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる」と言った、その心が。
 あたしは重い溜息をついて、しょげかえった因幡さんを見上げた。
「別に。ただ因幡さんは”本当に”、生まれて初めてお茶とスコーンをお召し上がりになったんでしょーねって思っただけよ」
 因幡さんが息を呑む。
――やれやれだわ。
 因幡さんの頭向こう、青白く照らされた桜が揺れている。亜空間で咲き乱れる桜は尚一層、幽玄な美しさで佇んでいる。禍々しいほどに凄惨な美しさ。
 因幡さんは純粋な人だ。欲まみれのあたるくんと違って。あたるくんのような、時々「アンタ、ばっかじゃないの」と思うくらいの口説き文句とか、屁理屈にも近い言い訳やらつじつま合わせの抜け道だとか。そういう口が上手くないのは、因幡さんがただ一人きりでもキレイで居られる人だからだ。因幡さんが困った顔をしている。
「あの…ぼく、そういうつもりじゃなくて…」
「いーのよ。別に」
 あたしは女性の前では失言を決してしないような、あたるくんみたいな人じゃなくて、不器用でも誠実で、あたしだけを見つめてくれるような男の人が欲しかった。
「しのぶさんっ!」
 あたしの手が因幡さんのモコモコの手に包まれる。ぬいぐるみの毛に捕らわれた桜の花びらが、ゆっくりと舞い落ちる。
「運命製造管理局のお茶会で、ぼくは確かにお茶もお菓子もいただいたことがありません!」
 ひゅおう、と一陣の風が私の鼻先を通り抜ける。突風は通り過ぎる傍らに桜の樹を抜け、花びらが舞い落ちる。ざああっと枝が鳴く。因幡さんは尚、必死の形相をしている。
「………。そう」
「それにそういえばスコーンは初めて食べました!」
「あ、そう」
 あたしは女性の前では失言を決してしないような、あたるくんみたいな人じゃなくて、不器用でも誠実で、あたしだけを見つめてくれるような男の人が――…。
 ちらりとバスケットを見る。小花模様のハンカチーフが敷かれ、その上に一つスコーンの残っているタッパと、ジャムと生クリームの小瓶、帰り際因幡さんに渡そうと焼いたクッキーの詰め合わせがある。クッキーは春らしく、と思って昨晩、桜模様の描かれたラッピング袋とピンクのリボンで飾った。添えたカードには『お仕事お疲れさまです。コレを食べてもう一頑張りしてください。』と書いた。何度も書き直して、結局、酷く味気ない文面になった。
 因幡さんはとても純粋な人なのだ。
「でもっ!!紅茶もスコーンも、ぼくは口にしたことがありますっ!」
 たとえば、純粋すぎて私には時折理解を超えてしまう。のだろう。きっと。
「………………スコーンは初めて食べたんでしょ?」
「はいっ!……と、えっと、そうじゃなくて」
 純粋とナントカは紙一重。それとも理解を超えたそれは、ただあたしの気の短さ所以なのか。あたしは気が短い方だ。すぐに頭に血が上ってしまうタチで、苛々することが多くて。
 因幡さんは「スコーンを食べたことはあるんですけど、でも今日初めてしのぶさんからいただいて、えっと…」とあたしにはよくわからないことを言う。ぎゅうっと握られた手。ふわふわモコモコのウサギの毛。
「なにゴチャゴチャわけのわかんないこと言ってんのよっ!はっきり言いなさいよ!」

 手の甲が急に冷たくなる。因幡さんはそっと私の手を離した。
「すみません。ぼく、いつもしのぶさんを怒らせてしまって。うまく言えなくて」因幡さんがへらっと笑う。ウサギの手で頭をかく。「その………あたるさんのようには出来なくて」
 真上であたしたちを照らしていた星が光の色を変える。青白い銀色から赤みがかった金色へ。ゆっくり変わっていく。
「なっ……なに言ってんのよ!あたるくんなんか関係ないでしょ!あんな女ったらしのバカでスケベでいい加減などーしよーもない人の真似なんか、出来ないほうがいいじゃないの!」
「いいんです。ぼく、鈍くさいし、気が利かないし、意気地がないし。しのぶさんには釣り合わないってわかってるんです」
「そんなこと…」
 因幡さんの肩にモンカゲロウがとまる。虹色の微かな光が、すぐ隣りに載る桜の花弁に当たって揺れる。
「でもぼく、未練がましいから諦められなくて。怖いから確かめられないし」
 膝の上に載せた手をギュッと握る。俯くと視線の先に、紅茶を絞った布巾があった。ばらばらに体を引き裂かれた蜻蛉。
「さっき、しのぶさん、桜の樹の下には屍体があるって…。それは桜が美しすぎて信じられないからって言ってたでしょう」
「ええ」
「ぼくには、その作者さんがどういう気持ちでそう言ったのかわからないんですが、でも、もしかしたらぼくもそれと似たようなことを考えているのかもしれない」
 顔を上げると因幡さんは微笑んでいた。肩にとまっていた蜻蛉はもう飛び去っていた。
「こうしてしのぶさんがぼくと会ってくれること、いつも信じられないんです。嬉しくて仕方ないけど、でも幸せすぎて信じられない」
 因幡さんはにっこり笑うと桜を仰いだ。ひらりと一枚二枚、花びらが舞っている。
「自分の望む姿を信じたいけど信じられないと……信じたくないものがどこかに隠れているんじゃないかって不安になる気持ち。そういうことならわかる気がします。桜に樹の下に屍体が…。信じたいモノの見えないところに、信じたくないモノが…。そう思えば憂鬱になるけど、納得できたような気分になるから不思議です」
 桜を仰ぐ因幡さんの頬が金色に染まる。サラサラと前髪がそよぎ、淡い光が泳ぐ。桜の樹の真上に、丁度ぽっかりと土星のような環をまとった球体が浮かんでいる。因幡さんは顎を引き、その視線がゆっくりと戻ってきた。
「しのぶさんがぼくと会ってくれるのは、どこかであたるさんのことを想ってるからなんじゃないかって……」
「ばかなこと言わないでよっ!!」
 情けない顔で笑う因幡さんの目が大きく丸く見開かれる。あたしは構わずバスケットをゴソゴソと漁る。乱暴に掴んだためにハンカチーフも一緒に取り出してしまった。キレイにラッピングしたクッキーを因幡さんの鼻先につきつける。
「見なさい!これはあたしが因幡さんのためだけに焼いてきたクッキーよ。あなたがお仕事で疲れてるとき、小腹が空いたとき、ちょっと元気になってくれたらいいなって、思いを込めて焼いたものよ。紅茶だってスコーンだって喜んでもらいたくって、おいしいって言ってほしくて、ぜーんぶ自分で作ったわ。スコーンに使う無塩バターをスーパーで吟味して、スコーンに合う紅茶の葉っぱは何か考えて、ジャムだって庭の薔薇を摘んで一枚一枚、花びらをめくって、付け根の辺りは苦いから、そこは千切って――…。あたるくんのためなんかだったら、こんなこと絶対しないわよ!!したことだって一度もないわ!」
 腹の底から出した大声で息が切れる。肩が上下する。辺りはエコーがかかったように、あたしの怒声が響いている。
「で、でも、しのぶさんは料理がお好きだって…」
「ええ!好きよ!因幡さんがあたしの作ったものをおいしいって食べてくれるから好きよ。因幡さんが喜んでくれるから色々してあげたいって思うわ。これでもわからないのっ?」
 因幡さんの丸く見開かれた瞳にピンク色のリボンが揺れている。クッキーを因幡さんの手に押しつける。
――ごめんなさい。
 威勢のいい啖呵には安逸と怯懦(きょうだ)(わず)かに含まれている。口にした言葉に嘘は一つもなかったけれど。
「…すみません。ぼくは…」
 因幡さんは桜模様のラッピング袋を丁寧に持ち直す。カサリとビニールの音が生じる。そろそろと風の歌う声が微かに流れるほか、亜空間の桜の樹の下は静かすぎる。因幡さんの喉の鳴る音が聞こえる。
 因幡さんが顔を上げる。
「しのぶさん。ぼくはしのぶさんが…」
「いーのよ。言わなくて。いいの。まだ」
 流れ星が向こう岸に流れていく。チカチカと遠くに堕ちて弾けるのが見える。一瞬、桜の樹そのものが発光したように、流れ星が白い花火になって輝いた。因幡さんの決意を砕いたあたしの声は、とても孤独だった。


 因幡さんはポケットを探った。
「しのぶさん、恋人桜ってご存じですか」
「いいえ」
 因幡さんはポケットから紙袋を取り出す。そして一つの少し潰れた桜餅を紙袋の底から掬う。
「この桜の樹、実はある場所から逃げ出してきた恋人桜なんです。あたるさんとラムさんが関わっていたと噂に聞きましたが…何かあったそうで、人の世に嫌気が差し、ひっそりと人里離れて毎年花を咲かせているそうなんです」
「へえ」
 因幡さんは桜餅を半分に引きちぎる。薄い桃色の餅が、びよーっとのびる。
「本当はもう花見されたくないそうなんですが、今回だけとお願いしてこちらに来ていただいたんです。だから少なくともこの桜の樹の下には屍体は埋まっていません」
 因幡さんは「どうぞ」と半分こした桜餅をくれる。それから力無く微笑んで、残りの半分を口に放り投げる。あたしも受け取った桜餅を口に含んだ。餡の上品な甘さが舌の上で広がった。因幡さんがうつむく。
「…ぼくはずるいです。恋人桜の伝説にあやかろうと思って…」
 ゴクンと全て飲み込む。
「伝説?」
「『桜の樹の下で愛する人と桜餅を半分こして食べると、二人は永遠に結ばれる』…そういう伝説です」


* * * * *

 因幡さんが言い終えると、これでお役御免とばかりに桜の樹がのっそりと動いていき、ついにはどこかへ行ってしまった。向こうの渓がよく見渡せるようになった。遠く向こうまで続く花びら。点々と印された桃源郷の軌跡は時折、風でふわりと舞い上がっては、散る。
 因幡さんの着ぐるみとシートの上に、薄桃色の花びらが残されている。
「…因幡さん、紅茶はいかが」
 魔法瓶を手に取る。
「怒らないんですか」
 まだ暖かいままの紅茶がコップに注がれる。
「だってもう食べちゃったのに、今更どうにもならないじゃない」
 たかが伝説。ただの迷信。きゃあきゃあ女の子が騒ぐ程度の、ちょっとした話題作り、ムード作りの、害のない作り話。
「そ、そうですよね。すみません…」
 因幡さんは、”伝説”が絶対の呪いでもあるかのように思っているのだろうか。キッカケに過ぎないそれが、さもあたしの将来を決定してしまうかのごとく。それほど人の持つ心が容易であるかのごとく。
 コップを手渡す。因幡さんは項垂れていた。
「謝るくらいなら最初っからしないでよ」
「はっはい」
 正座する因幡さんに向き直る。フレアスカートを手で払うと、いつの間にかついていた花びらが舞った。右膝を左膝の斜め上に重ねて、その上に両手を結ぶ。
「あたしは怒ってなんかいないわ。…――ただ…」
「…ただ?」
 数匹の蜻蛉が鼻先を飛んでいく。零した紅茶を拭いた布巾に視線をやると、そこから幾匹も後から後から舞い上がっていた。ばらばらに散ったはずの蜻蛉達はいつの間にか体を繋ぎ合わせている。ウスバカゲロウの翅、モンカゲロウの翅、クサカゲロウの翅をちゃんと対にして、互いの翅を取り違えることもなく。
「どうして…」
「え?」
「この蜻蛉達。死んでしまっていたはずなのに」
「ああ…」
 因幡さんはエプロンにとまった一匹を手の甲に飛び移らせる。淡い碧色の翅が震える。
「これは魂みたいなものなんです。一生を終えてその後行くべき道を辿る途中、どこかで迷って、亜空間に彷徨い込んでしまった方達です。この方達は亜空間に留まって、短い生と死を永遠に繰り返す。どこかへ、たとえば再生の道へ戻りたいと願えば、亜空間を抜けて転生しますが、ほとんどの場合、亜空間で幻の一生を繰り返します」
 因幡さんは蜻蛉が翅を震わせるのをジッと眺めると、「寂しいことだと思います」と呟いた。
 あたしは言葉を飲み込む。蜻蛉が因幡さんから離れ、飛んでいく。金色の光が碧色の翅に反射する。
――ただ、あたしはただ、もうちょっとこのままでいたかっただけなの。恋人でも友達でもなく。因幡さんでもあたるくんでもなく。
 因幡さんは飛び去った蜻蛉の行方を追う。長いウサギの耳が肩から滑り落ちる。
「因幡さん」
「は、はいっ」
 ぴょんっとウサギの耳がはねて、因幡さんが慌ててあたしを見る。
「あたしは怒ってなんかいないわ」
 因幡さんは緊張で強ばった顔をしている。への字に結んだ口。ぐうの形でぎゅっと握られた拳は膝の上、大きな時計の描かれた真っ赤なエプロンの上でぷるぷる震えている。あたしは微笑みかける。
「ただ、嬉しいだけなの」


* * * * *

 スコーンを食べたことはないけど食べたことのある因幡さん。真相は「スコーンだ」と言われて食べたお菓子が、あたしの作ったスコーンとあまりに味がかけ離れていた――さらに加えて言えば、あたしの作ったスコーンがとびきり因幡さんの口に合った、ということだった。つまり、あたしの味が全て、だと言いたかったのだそう。
 因幡さんは言った。
「しのぶさんが作ってくださったもの全てが、ぼくにとって初めて口にするものになるんです」
 なんて口が上手いのかしら、と因幡さんの胸を押すと、因幡さんは亜空間の彼方へ、星となった。
――今度、因幡さんの”初めて”にするお菓子は、なんにしよう?
 作ってあげたいものは沢山ある。洋菓子だけじゃなくて、和菓子だってそこそこ作れるということを因幡さんに知ってもらいたい。でもやっぱり、ウサギさんにはティータイムのお菓子が一番いいのかもしれない。
 クランペットにビスケット、パイにタルト、ショートブレッド。ストロベリーとブルーベリー、ラズベリーにカスタードクリームを添えて、その上にはミントの葉を少し。ミントといえば、アフターエイトのミントチョコもデパートで買っておこう。もしお弁当が必要なら、サンドウィッチにたっぷりの野菜と卵とチーズ、ハムを挟もう。
 作ってあげたいものは沢山ある。因幡さんの”初めて”になってほしいあたしの味はたくさんありすぎて、作っても作っても追いつけない。
 でも急がなくていい。時間はたっぷりあるのだから。恋人桜が約束してくれた、”永遠”が、そこにはあるのだそうだから。亜空間の時間は永遠に進み続ける。

 亜空間でウサギとお茶会。不思議の国の時間は永遠に六時のままだけど、私たちが今度会うときは、きっと手を繋いでいる。


-end-


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