放課後



「だってラム、因幡さんったらあんまり頼りないんだもの!」
「でもそれは、あんまり因幡が気の毒だというものだっちゃ」
 優しくラムに諭され、しのぶがだってぇ、と頬を膨らます。窓から差し込む夕陽は、沈む寸前の鮮やかな朱色で、窓の外、空は紫色がほとんど。しのぶはふい、と窓の外を見る。
「あたるくんったら、ホント遅いわね。ラム、あんたもこんなに長いこと待たされて。たまには放っておいたら?あたるくんだって、そうしたら頭冷やすんじゃない」
 ラムはふるふると首を振る。
「本当にそう思うのけ?うちがこうやって待ってなかったら、ダーリン、ガールハントのし放題だっちゃ」
「ああ…それもそうねえ」
 困ったもんね、としのぶが苦笑する。ラムは、はっと気がついて、話題を元に戻す。
「なにが頼りなかったのけ?」
 男奪っといて、その男の昔の女にダーリンのことを相談するなんぞ、図々しいにも程があるわ、ラム。おんどれのそーゆー無神経で図々しいとこがどれほど周りの人間を傷つけてきたか、おんどれはわかっとんのかい、ええ?わしが昔っから、どれほどお前の迷惑被ってきたか、忘れたわけあれへんな?わしはしのぶほど腹黒うないから、面と向かって言うたるわい。ラム、おんどれは……。
 ラムはぶるんぶるん、と勢いよく頭を振った。しのぶが不思議そうにラムを見る。それがね、と意気込んで話を切りだしたしのぶだったが、口一文字に青い顔をしたラムを怪訝に覗き込む。
「どうしたの?ラム」
 具合でも悪くなったの、というしのぶの問いに、ラムは乾いた笑いで応じた。
「なんでもないっちゃ!虫が飛んでただけだっちゃ!」
「ええっ!虫っ!いやあっ!」
 がたっとしのぶは勢いよく立ち上がり、一体、ごくごく小さな体の虫に、大きな机でどう刃向かおうつもりなのか、手前の机を持ち上げた。ラムは立ち上がってしのぶをどうどう、と宥める。
「大丈夫だっちゃ!うちの見間違いだっちゃ!」
「だって、虫が飛んでるってあんたが言ったんじゃないの」
「虫かな、と思ったけど違ったっちゃ。埃だったっちゃ」
 そうお、と疑わしげに渋々、しのぶは机を下ろす。不安げにきょときょとと周囲を見渡すと一度頷き、肘をついてずいっと身を乗り出した。
「だってね。因幡さんったら…その…その…」
 頬を赤く染めて俯き、人差し指で机にのの字をかいて恥じらうしのぶ。ラムはしらっとした顔で手を振った。
「そこは飛ばしていいっちゃ。さっきもう聞いたっちゃ」
 しのぶはラムの激励に頷くと真っ赤な顔を上げた。
「そりゃーあたしだって、いつまでもカマトトぶってるんじゃないのよ。結婚までとっとくなんて古風なこと、今の時代、流行らないじゃない?それでなくても、本当に好きな人とならいつかはって思ってたし。この人とならって決めたのなら、遅かれ早かれ………逆にそれで後悔したくないでしょう?それに、なんていうか、そういうふうに、あの。見てくれるって、女としての自信とか不安とか…」
「わかったっちゃ」
 それもさっき聞いた、とラムは内心うんざりした。しのぶがそんなラムをきっと睨め付ける。
「でもね!だからって、全然まったく!不安がないか、なんて、あるに決まってるじゃない!?だって初めてなのよ!」
 ばんっと力強くしのぶが机を叩く。ラムはびくり、と肩を揺らす。
「お決まりの台詞だけど!でも怖いから!やっぱり言うじゃないのよ!『初めてだから怖いわ』って!それって、優しくして欲しいってことよ?そうでしょ!」
 ラムは興奮して真っ赤な顔のしのぶと、しのぶの怪力によって粉々に砕かれた机とをかわるがわる眺めた。先程までの恥じらいは、しのぶからすっかり消え去っていた。しのぶの大声が、廊下を突き抜けてなければいいのだが、とラムは思う。
「それなのにっ!『ぼくも初めてですごく緊張してて…。実を言うと、ちょっと怖いです』ぬわあ〜〜んて言うのよっ!ヘラヘラとっ!ふざけるんじゃないってのよ!ねえっ!ラムっ!どう思うっ!」
 うちだったら、お互い緊張してるってわかったら、逆に安心すると思うっちゃ。喉の辺りで出かかった言葉がつかえている。ラムはぐっと言葉を飲み込む。しのぶの迫力に押され、ラムは背中を反らせる。と、髪を振り乱すしのぶの肩越しに、なにもない空間からゆらゆらと歪みが生じる。にょきっと白いウサギの耳が飛び出てくる。ラムはニヤッと笑った。
「それでしのぶは、デートをさっさと切り上げて、因幡を置いて帰ってきたんだっちゃね」
 しのぶが般若のような顔をラムの前に突き出す。
「だからそう言ったでしょ!なに聞いてたのよ!あたしはねーえ?ラム、あんたがどう思うか聞いて、」
「しのぶはどうなのけ?因幡が許せないっちゃ?」
「当然よっ!許せるわけないじゃない!」
 ひょい、と視線をやると、長い耳がダラン、と哀しげに項垂れた。ラムは慌てて問い直す。
「もう二度と許せないのけ?許す余地もないくらい、因幡のことが嫌いになったっちゃ?」
 しのぶは肩を怒らせると、一度息を飲み込んで肩を下ろした。眉間を寄せて口の端をきゅっと結ぶ。踏ん切りがつかないような、決まりが悪そうな、不機嫌な様子でしのぶが口を開く。
「それは……」
「すみませんでした!」
 しのぶがはっと振り返る。しのぶは目の前のウサギを一目見て、マグマのように煮えたぎっていた怒りが、深い同情と愛情に変わるのを感じた。真っ赤に腫れあがった瞼と、その下には黒々としたクマ、そしてむくんだ顔。一晩泣き明かしたのか、それでなくても一睡もしていないようではある。
「しのぶさんが不安になってるのに、男のぼくがこんなんで…。ぼくがもっと頼りがいのある男だったら…自信のある男だったら、もっとしのぶさんを優しく包み込んであげられるのに…しのぶさんの不安を取り除いてあげられるのに…。それなのにぼくは、しのぶさんの支えるどころか、支えられてばっかりで、こんなんじゃ、しのぶさんに愛想尽かされても仕方ないって、でも、ぼくは、」
「ストオオオオオップ!」
 ぐだぐだぐだぐだと惨めな言い訳を続ける因幡を、しのぶは大声で遮った。
「長いっ!長いわよ!」
「はあ、すみません…」
 因幡はしのぶに気圧され、びっくりした顔で謝る。しのぶはびしっと因幡に指をつきつけた。
「それからその、すぐ『すみません』って言うの!やめてくれない!悪いって思うなら始めからしなきゃいいんだし、やっちゃったことなら、これから改めればいいでしょ!それとも『すみません』って言えば、なんでも丸くおさまるとでも思ってるわけ!?」
 しのぶの怒鳴り声に、ラムはハラハラとしながら二人を見る。因幡はしのぶの言葉に、きっと顔を引き締めた。
「そんなことっ!」
「ないんでしょう?」
 怒らせていた肩を落とし、両眉を下げ、しのぶが仕方ないというように微笑む。因幡はほっと胸をなで下ろす。
「嫌いになんかなっちゃないわよ。許せないって思ったのは、あなたが好きだからだし、だいたいこんなことで嫌いになるようだったら、最初っからあなたに任せたりなんかしない」
 因幡は目に見えて顔を明るくする。ラムはやってられないっちゃ、と机に顎を載せて、窓の外を見た。真っ暗だ。しのぶは疲れたように机の上、だらけるラムを見て、顔を赤らめる。こほん、と空咳をすると因幡の腕を引っ張った。
「そろそろ帰りましょーか!因幡さん!」
「はいっ!」
 因幡が嬉しそうに頷く。しのぶは机にかけた鞄を手に取ると、申し訳なさそうにラムに向き合った。
「あの、ラム。長い間愚痴を聞いてもらって悪いんだけど、そういうわけで、あたし帰るわ。あたるくんが帰ってくるまで、とは思ってたんだけど…」
「そんなのいいっちゃ。仲直りできて、よかったっちゃね」
 まだ不安げな表情のしのぶに、ラムはニヤっと笑った。
「これまで一緒にいてくれて有難うだっちゃ。でもこれ以上、しのぶと因幡のラブシーンを見せつけられるのはごめんだっちゃ!」
「もうっ!」
 顔を真っ赤にして、しのぶがラムにあっかんべえをする。ラムがケタケタと笑う。しのぶは笑いをすっと引っ込めて表情を改める。
「あたるくん、早く戻ってくるといいわね」
 ラムは諦めたように溜息をつく。
「温泉マークはしつこいから、いつになるかわからないっちゃ」
「ラム。そうやってあたるくんを待ってあげるあんたのこと、あたるくんはすごく愛しく思ってるはずよ」
 口には決して出さない人だけど、と言うしのぶにラムは目を吊り上げた。
「ダーリンのことは、うちの方がよくわかってるっちゃ。しのぶに言われなくっても、ダーリンがうちを愛してることなんか、お見通しだっちゃ!」
 しのぶはくすくすと笑って「そうね」と、因幡と寄り添い教室を出ていった。途端、教室はガラン、と広く静かに感じられる。机の上肘を組み、顎を載せる。ラムの耳に、廊下の向こうから因幡としのぶのラブシーンが聞こえてくる。ラムはフン、と鼻を鳴らした。
「でも、なんであたしが怒ったのか、それを忘れないでね。あたしも因幡さんの優しさにつけこんで我が儘ばっかり言っちゃうの、気をつけるから」
「とんでもない!ぼくの方こそ、しのぶさんがいつも優しく許してくれることに甘えないようにします…」
 教室の明かりをつけなくては、と思う。日中の日差しで温められた教室の空気の中、ラムはウトウトと暗くなった教室に灯す明かりを考えた。

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「まったく。しつこいっちゅーんじゅ!あの固太り!」
 ぶつくさ文句を口にし、バシンっと勢いよく教室のドアを開け放つ。
「おーい、帰るぞ!ラ、」
 あたるは、はっと口を閉じた。あたるの机の上、背中を丸めてスウスウと寝息をたてて眠るラム。小さな背中は規則的に上下している。あたるは壁にかけられた時計を見た。夕飯の時刻はとっくに過ぎている。反射反応のように、あたるの腹がぐう、と鳴る。
「…ったく。教室なんぞで眠りこけおって。これでは待っとる意味がなかろーが」
 おいラム、起きろ、とラムの背中を揺すぶる。ううん、とも、むにゃ、とも言わない。ラムはすうすうと気持ちよさそうに寝息をたてるだけ。あたるは揺るぶる力を少し強めてみる。声音にもっと迫力をつけてみる。
「こらっ!ラム!起きろ!朝だぞ!」
 しかしラムはうんともすんとも言わない。あたるは大きく溜息を漏らすと、窓の外を見た。白っぽい、欠けた月が雲と隣り合って浮かんでいる。いい気なモンだよな、と月を眺める。こっちはこんな目にあってるというのに。
 くしゅっ
 あたるの手の下でラムの背中がびくりと震え、あたるは勢いよく振り返る。
「やっと起きたか!いいかげ、」
 しかしラムはまた、すうすうと寝息をたてているだけだった。あたるは眉間に深く皺を寄せると、諦めて学生服の上着を脱いだ。一瞬の間逡巡して、また大きく溜息をつく。ばさりとラムの丸められた背が学生服で覆われる。ヨレヨレの学生服から離れるあたるの手は、名残惜しげで未だ踏ん切りがつかないようだった。
「…まーったく」
 あたるは椅子をひき、どかっと座る。机をとんとんと指で叩いてみる。窓の外にはのんびりと脳天気な月。目の前には平和な寝息をたてる鬼星の娘。おれはシャツ一枚という薄着で夕飯時、腹を空かせて何をしとんのじゃ、とあたるの胸に虚しさが迫る。
 はあーっと長い溜息をつくと、ラムがもぞもぞと身を捩った。あたるは大きくびくりと体を揺らす。ラムが目覚める前に、自分の学生服を回収しておく予定だった。あたるはとっさにラムの背にかけられた学生服に手を伸ばした。が、すぐにやめた。温かな上着をひっぺがせば、ラムは完全に目覚めてしまう。あたるはそのとき、頭に豆電球が灯るのを、まさにピカっという音とともに感じた。途端、あたるは教室の外へ素早く静かに物音たてず忍び足で、かさこそかさこそ、忍びの者のような動きで出ていった。すうっと教室のドアが閉まると、ラムの目覚めの呻き声だけが教室に籠もった。
「ん……」
 腕をぐうっと伸ばし、目をこする。するとぱさっと床に何かが落ちた。
「なんだっちゃ…?」
 腰を曲げ、床に落ちた黒い布を手に取る。寝ぼけた視界はぼや〜っと霞んでいる。
「…学ラン?」
 ラムは学生服の襟を裏返して見てみる。途端、目がはっきりと覚めた。ふふふ、と笑いが込み上げてくる。カチッカチッという秒針の音に気がつき、ラムは壁にかかった時計を見た。
「まったく!しつこいっちゅーんじゅ!あの固太り!」
 バシンっと勢いよく教室のドアを開け放たれる。あたるがぶつくさ文句を口にし、不機嫌な表情を隠さず教室に足を踏み入れる。
「やっと終わった!帰るぞ、ラム!」
「はいだっちゃ!」
 ラムは立ち上がり、満面の笑みで答える。あたるはラムの手にある学生服を見て、目を大きく見開く。学生服を指さし、
「あーっ!おまえが持っとったのか!ラム!上着がどこにあるのか、おれはずーっと探しておったんだぞ!おかげで、温泉マークに絞られとる間、寒くてかなわんかったわい」
「そうだったのけ?うち、ちっとも知らなかったっちゃ」
「まーったく、知らなかったですむか!おれが風邪をひいたら、おまえのせいじゃ!」
 ごめんちゃ、とラムはあたるの後ろに回り、学生服を広げて肩の部分をつまむ。あたるが広げられた上着に袖を通す。あたるはまったく…、とブツブツ口ごもっている。ラムは笑いを噛み殺して、机に下げていた鞄を取った。
「ダーリン、帰るっちゃ!」
「母さん、夕飯とっておいてくれてるかな」
 ガラガラとドアの閉められた教室。窓から臨む空には、のんびりと脳天気な月と、その隣りには雲が浮かんでいる。



-end-


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