明日のショコラ



「いっこ。あげるっ!」
 キミは、昨日お父さんが職場の愛想笑いを浮かべた香水のきつい女からバレンタインだから、と貰ってきた高そうなチョコレートの詰め合わせのうちの一粒を僕にくれた。
 もっとも僕はその女に会ったことなんてないけど、お父さんの貰ってきたチョコレートの箱にツンとする香水の匂いが残ってたんだから、絶対にそういう女だ。
「ゆうちゃん、ちょこれーと、食べな」
 動揺したときに気の利いた台詞なんか、なんて言ったらいいのか、とっさには出てこないものだと「マセガキ」の僕はしみじみと思った。
 だって、キミがどんな苦労をしてソレを手に入れたかを僕は想像も出来ないのだ。そのチョコレートは僕のお父さんが嬉しそうに、うやうやしく、とっておきのお皿の上に広げて眺めていたものだ。

 とっておきの、くりすたるガラスとかいうので出来たお皿は「ばから」というんだってお母さんが嬉しそうに僕に教えてくれたことがある。
 とっておきなのに、「ばから」なんて変な名前だ。「ばかだ」って言われてるみたいなのに。
 僕がぶうぶう言ってもお母さんは目を細めて「ばから」のお皿を見ていた。
 光が当たると、ホラ、いろんなところがキレイでしょう、カットが細かくて本当に素敵ねえ、ってお母さんは僕の目の前でお皿をくるくる回した。
 お父さんが二回目の結婚記念日にお母さんにプレゼントしたんだ。お父さんは不公平じゃないようにって僕にもプレイステーション2をくれた。
 本当は僕、ゲームって好きじゃなかった。
 クラスの小田ってやつが毎日ゲームの話ばっかりするやつで、あいつ、すごく暗いんだ。小田は女子からも嫌われてるし、僕はああなりたくない。男子でも暗いかんじのやつはあいつとぼそぼそしゃべってるけど。
 テレビのニュースで小学生がパソコンやってておかしくなったって言ってたし、僕はそういうの、絶対やらないようにしようって思ってた。
 友達にゲームしようぜって誘われたら、サッカーボールと中田のビデオ持っていった。ゲームの前に中田のビデオ見ちゃえば、みんなサッカーやろうって言い出すから。
 お父さんが僕にくれたものに文句言うなんて悪い子だから、僕は嬉しいって笑った。
 僕が笑うとお父さんは顔をくしゃくしゃにしておじいさんみたいになる。悠、大好きだよって絶対言うの、僕は知ってる。
 お父さんは今でも僕が笑うと嬉しそうに悠、大好きだよって言ってくれる。でも、前みたいにお母さんの名前は呼ばない。

 お父さんは「ばから」の上に広げたチョコレートをうっとり見つめながら、これはねえ悠、特別な力のあるチョコなんだよ、そこらのとはちょっと違うんだよなあ、とか僕に魔法のチョコレートについて教えてくれる。
 誤解があるといけないので言っておくけど、お父さんはそのチョコがいわゆる「高級チョコレート」に属するからにんまりしていた、というほどチョコ好きなわけじゃない。
 職場の、靖子さんという女性に好意を抱いていたのだ。
 お母さんが出ていってから一ヶ月。僕としてはあんまり喜べる代物ではなかった。
 そんな僕にいっこうにかまわない様子で、お父さんは鼻歌を歌い、ワインを、たかだか千円にも満たないようなチンケな安ワインを取り出して、今日の幸せをありだとうだとかなんとか、ヘンテコなメロディーをつけて上機嫌で歌っていた。
 もったいなくて食べられないなあ、とか、だけど食べなきゃ明日お礼になんて言ったらいいかわからなくなるぞ、とかひどい浮かれようで、僕が嫌がってるかどうかなんて思いつきもしなそうだ。
 僕は不機嫌でむすっとしていると、そうか、悠おまえは会ったことないものなあ、会いたいよなあ、と、とんちんかんなことを言って更に深く想像の世界に没頭していった。
 お父さんは人がよすぎて、呆れてお母さんが出ていってしまうほどの善人だったから、僕は育ててもらっているわけだし、そのうえ出ていったお母さんの連れ子で血のつながりのない僕を、そりゃあ素晴らしい愛情で可愛がってもらっていたものだから、もう何も言わないことにした。
 だけど、こんなチョコレートなくなればいいのに、とか、僕が全部たいらげちゃおう、とかは恐らくは考えていなかったと思う。

 僕とお父さんがお祝いのケーキを僕用に買うために向かいのケーキ屋さんで数十分、家を離れている間にチョコレートはこつぜんと姿を消していた。
 僕はお父さんがうろたえるかと、もしかしたら泣き出すんじゃないかと身構えてみたけど、お父さんは悲しそうな顔をして、きっと一番チョコレートが必要な人のところへ行っちゃったんだなあとつぶやいただけだった。僕はお父さんにそんな思いをさせたチョコレート泥棒と靖子さんがおんなじくらい憎く思えた。
 お父さんは何も言わない僕を見て、悠がいてくれるからお父さんは一番チョコの必要な人じゃないものなあ、悠が一番大事だから、一番じゃないものは神様が必要な人のところに持っていっちゃうんだなあと言った。
 だからお父さんは僕以外全部なんにも持ってないのか、と納得した。

 そんな後にキミがあのチョコを持ってきたものだから、もう僕は本当にびっくりしたのだ。キミといったら、子供ゆえの純粋さも手伝って、お父さんとおんなんじくらい善人、天使のようだったのだから。盗むという行為がキミにできるとは、まったくもって考えられない。
「ゆうちゃん、いやだったでしょう、ほんとはすっごく、いやだったでしょう」
 キミは唐突に笑い出して言った。
「ちょこれーとはね、しあわせじゃないと、だめなんだよ。ゆうちゃんのいやいやがちょこのなかに、はいってるの。おとーさんね、たべたらきっときづいちゃうんだよ。そしたらね、きっとね、ゆうちゃんにごめんねってないちゃうよ」
 キミはかん高い声で笑った。
「じゃあ今だって、このチョコレートおいしくないじゃんか」
 ちいさいキミに見透かされてしまって、僕は負け惜しみを言った。悔しかったんだ。
 だって僕はクラスの中でもみんなに大人っぽいって言われている方だし、先生だって僕のこと落ち着いたいい子だって言ってくれる。通知票の通信欄にはいつも、僕がいかに優秀でいい子かを熱心に書き連ねてある。こんな小さな欄では書き足りない、というくらいめいいっぱい。
 学級委員長だって四年連続でやった。来年は児童会に立候補するつもりだ。
 クラスの女子は僕には向いてるって、絶対応援するよって言ってくれた。男子は遊ぶ時間減るからやめろよって嫌がったヤツもいたけど、オマエがやりたいならやれよって後押ししてくれる。僕がガリ勉タイプじゃないって知ってるから、月曜日の朝の全校集会で静かにしてください、とかおしゃべりしないでください、とかあんまり注意しない児童会役員になるんじゃないかって期待してるヤツもいる。
 僕はキミの前でだって、そういうふうに振る舞ってきたつもりだ。朝キミの家まで迎えに行って一緒に登校するのはキミのお母さんに頼まれたからだけど。でも僕はその役目をきちんと務めようと思っていたんだ。
「ゆうちゃんはおいしくないちょこ、たべて、あした、おとうさんに、わるいこでごめんなさいって、おいのりしなくてよくなるの。ぜったい、そうなの」
 口に入れたチョコレートは、歯をたてるとお酒が舌の上に広がった。
 変な味がした。

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 あのときキミが言っていたことは、どう考えてもめちゃくちゃで、それこそ卑怯なものだとも思うけれども、キミは僕に明日のショコラをくれた。気休め程度の代物だったって僕だってわかってる。だけど、僕がお父さんになんの引け目もなく堂々と生きていけるようになったのは、前に進めるようになったのは、キミのくれた「明日のショコラ」のおかげだって、日ごとその思いは強まる。
 どうやらキミはそんなこと、覚えてもいないみたいだけど。いいんだ、誰だって成長と共に色々なものを置き去りにしていくんだ。今のキミが天使みたいじゃないからって堕天使だなんて思わないし、キミへの感謝の気持ちも薄れない。
 ちょっとだけ惜しい気がするのは、キミがまるで本当の天使がやったように鮮やかにチョコレートを盗み出したそのやり方を、僕は永久に知ることができなくなってしまったからだ。

 お父さんが僕を呼ぶ。靖子お母さんがブラウニーをつくったから降りておいでって。
 昨日小田から借りた「キングダムハーツ」のソフトを、僕はランドセルのホックにかけた巾着袋から取り出した。
 その前に小田が貸してくれた「鉄拳」があまり面白くなかった、と言ったら、ディズニーのゲームだから画面が綺麗だし、君にはアクションやスポーツゲームよりゲームの王道のRPGが向いてるって小田が薦めてくれた。ゲームの王道がRPGだなんて知らなかった。
 お父さんが僕に買ってくれたソフトは「信長の野望・嵐世記」というシミュレーションゲームで、僕はこれがとても好きだった。教科書を読まなくても勉強が出来て、そのうえ僕自身が戦国大名になったみたいでわくわくした。
 もうひとつ、お父さんが僕にくれたソフトは「ワールドサッカーウイニングイレブン6」というやつだったけど、僕はテレビゲームでサッカーしたって面白くなかった。外でサッカーボール蹴る方がずっと面白い。
 新しいゲームをしてみたかったけど、おこづかいじゃ買えなかったし、友達にはゲームなんておもしろくないって言ってたから何か貸してくれ、なんて言い出せなかった。僕は優等生だったから。
 でも小田は―――小田とは今年一緒に児童会役員になって少し話すようになった―――悠くん、ゲーム嫌いなんだってね、やってみればおもしろいよ、貸してあげるからってゲーム嫌いで有名な僕に果敢にも申し出てくれた。
 僕は小田のことを暗いヤツ、なんてバカにしていたことが恥ずかしくなった。
 見かけだけで人のこと判断したらだめだよってお父さんが言っていたこと、僕はこのとき初めてちゃんと心で納得した。
 僕はすぐに小田に今までの自分の態度を謝って、小田は気にもしていなかった、と許してくれた。それから僕達は仲良くなったんだ。

 靖子お母さんに小田から借りた「キングダムハーツ」を見せてやろう。一緒にやろうって言ったら、いいよって笑ってくれるかな。
 靖子お母さん。お父さんと小田が僕に、人を見かけだけで判断したらダメなんだって教えてくれたから、僕は今、靖子お母さんの作ったブラウニーが食べられるんだ。
 階段を駆け下りるとブラウニーの甘い匂いがぷーんと漂ってきた。焦げ茶色のドアを開けると、お父さんが頬ばっているのが見える。
 悠、ごめんね、お父さん先に食べちゃってたってお父さんがふごふご言う。靖子お母さんが、ものを口にいれてお喋りするのは行儀が悪いでしょー、悠くんが真似しちゃうじゃんってお父さんを叱った。
 靖子お母さんの耳についてる青いガラス玉のピアスは僕がこの前誕生日プレゼントにあげたものだ。
 光が当たると、きらりと光ってキレイだよって僕が言うと、靖子お母さんは悠くん大好きだよって抱きしめてくれた。
 靖子お母さんの耳に光る青色のガラス玉は、今は食器棚から消え去った「バカラの皿」よりキレイだと僕は思う。
「悠くん、早く食べないとお父さん全部食べてなくなっちゃうよ。食べな」
 僕は頷いて靖子お母さんの作ったしっとりした一口サイズのブラウニーを口に運ぶ。
 あったかくて甘くてふわふわで、とってもおいしい。

 お母さん、おいしいよ。


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