愛していると言われて気がついた。
 あたしは乱馬を愛してなんかいない。それに乱馬だって、あたしのことなんか、愛していない。

愛が生まれた日


「なーなー。どーする?おじさんがさー…あ。違った。お、おと、お義父さんがさっ」
 「お義父さん」のひとことを言うのに、バカみたいに真っ赤になってる乱馬を可愛い、なんて思う。
 すごく可愛いよ。ほんとう。
「結婚式のことー?」
「そ、そう。あの、ほら。前にめちゃくちゃになったことあっただろ。祝言」
 乱馬がそっぽを向く。
 あーほんとうに可愛い。すごい可愛い。
「そうねー。誰かさんのおかげでねー」
「俺のせいかよっ!」
 やっとこっち見た。
「さあねー?」
 あたしは乱馬から視線を外してペンを取る。右手の中指にできたペンダコが憎い。ただでさえあたしの手はゴツゴツして女らしくないっていうのに。
 まだ卒論が終わっていない。少し憂鬱な気分になって溜息をつく。
 とっとと終わらせて、とっとと提出してしまいたい。あたしが大卒だろーが高卒だろーが中卒だろーが。この先、なんにも役に立たないんだろうな。
 お気楽な身分だなあ。あたしって。
 乱馬が一瞬ぐっと詰まる。たぶん詰まってたんじゃないかな。返事が遅かったから。乱馬が拳を握る。たぶん握ったんだろう。振り向いてないから、実際はどーだか知らないけど。でもいつものパターンじゃない?
「だいたいアレはっ!もとからハメられたよーなもんだったじゃねーかっ!」
 あーはいはい。そーでしたね。
 あたしには今も大して変わんない気がするんだけどね。乱馬には違うんだね。そーよね。
「じゃあ、乱馬はあのとき、あたしと結婚するのイヤだったんだ?」
 はめられたから渋々祝言あげようとしたんだ?とあたしは、小首を傾げて乱馬へ振り向く。
 案の定、乱馬の顔は真っ赤。あたしの誰でも気づくよーな媚びに、口はだらしなく緩む。そのくせ、眉が吊り上がって。忙しいことね。
「そーゆーことじゃなくてっ!それにあんときはドレス姿、か……ってわー!!!たんま!」
 何が「たんま」なのよ。そんなに両手をブンブン振られると危ないんですけど………ってほら、やっぱり。
「あ、わりぃ」
 乱馬がカーペットに散乱した資料を拾い上げる。まあ、乱馬が入ってくるってわかってたのに、整理しないでおいたあたしが悪かったのよ。
「ん」
 あたしは乱馬の隣りにしゃがんで、手を出す。乱馬は無言で集めた資料をあたしの手に載せる。あたしはそれをクリアファイルに入れた。
「で、何が『たんま』なわけー?」
 クリアファイルを手に机に戻ると、背後の乱馬の動く気配が感じられない。べつにどこに座ろうが構わないけど、そんなところに座りこんでると、誰かがドア開けたりしたとき、頭ぶつけるわよ。
「……はあ」
「…なによ?」
 振り返ると乱馬はしゃがんで俯いていた。腕を膝にのっけて、だらーんと両手がぶら下がってる。
「…あのさ。おまえさ」
 乱馬はそう言ったかと思うと、「やっぱいーや」と言って立ち上がった。
 あーそう。最後まで言われないとキモチワルイけど、まー仕方ないか。乱馬だもんね。
 それより卒論だ。
「ふーん。あ、それでお父さん、なんだって?」
 大学の図書館から借りてきた分厚い本をめくりながら、テキトウに話かける。まあ予想はついてる。お父さんの言うことは、乱馬がこのウチに来てからずっと変わらない。
 あーあ。早く卒論終わらせてスッキリしたい。どうせ就活もしないんだけど、でも課題が残ってる状態って凄くイヤ。それも将来役に立たないものなんて。バカみたいだ。
「ふーん、で終わりかよ…」
 気がつくと乱馬はあたしのすぐ横に立っていた。気配消すのやめてほしいなあ。
「え、だって乱馬は言いたくなかったんでしょ?」
「………」
 なんなのよ。
 もーハッキリ言ってくれないかなあ。卒論終わったあとでなら、いくらでも時間あるんだけど、今はちょっとカンベンしてほしいのよね。そろそろ佳境に入るとこなのよ。
「違うの?なに?」
 乱馬の肩が震える。
 あ、ヤバイ。なんかなんかなんかヤバイ。絶対ヤバイ。
 あたしだって武道家のはしくれ。相手の雰囲気がマズイかなんてわかる。それも慣れ親しんだ乱馬の気が変われば、すぐにわかる。
――闘う『気』だ。
「おまえさー。すげー短気だからさー。なんでもかんでも怒鳴るよな。ナイーブな俺の気持ちなんて全ッ然、わかってねーで『ハッキリ言いなさいよ!』とかさ。言えるわけねーって必死こいてるときにもさ」
 デリカシーねーよなー、と乱馬が笑い声を出す。
「はあ〜〜?」
 こんな緊迫した気を張りつめといて、なに寝ぼけたこと言い出すのよ、と言おうと思った。でも、見ると乱馬の拳がぶるぶると震えていた。
 あたしは咳払いをする。どーにか機嫌をよくしないと。そーしないと卒論どころじゃなくなっちゃう。
「うん。それはゴメンね?今度からもっと考えるようにするから。短気なのも………なおすように努力する」
 ね?とあたしが乱馬の肩に手をかけると、あたしの重心はグラリと傾いた。
 あー。こーゆーの、久しぶりだ。こーゆー風に乱馬が必死な顔してるの見るの、久しぶりだ。
「そーじゃねーだろっ?!」
 あたしの視界がガクガク揺れる。わー。ジェットコースターみたい。
「そーじゃねーだろっっっっっ?!おめーは怒るんだろ?!怒鳴って俺を殴るんだろっ!?『デリカシーないのはどっちよ』とかよ!」
 …………。
 …乱馬くん。ちょっとあたしにはよくわかんないんだけど、つまるところ、君は私に殴ってほしいわけね?
 乱馬の口から飛んできたツバが頬にあたる。
「…殴って欲しいの?」
 あたしの口から出てきた声は、予想以上に落ち着いていて、内心びっくりした。落ち着いてる、というより、なんていうか………。すごく冷たかった。
 乱馬の肩がビクリとあがる。
「…そーゆーことじゃねーんだよ…」
 うーん。いまいちよくわかんないんだけど。まあとにかく、あたしはたぶん乱馬を傷つけたんだ。
 たぶん、それは今日に限ったことじゃないんだ。堪え性のない乱馬がここまで我慢するほど、ざっくりと深くえぐったのかも知れない。
「じゃあ、どういうこと?」
 仕方がない。卒論は明日にしよう。
 あたしは肩に食い込んだ乱馬の指を外す。俯いていた乱馬が顔をあげる。あたしは腕を伸ばす。なるべく優しさを感じさせるよう気を払って、乱馬の両頬を包みこんだ。
「ちゃんと言ってくれないとわかんない。ハッキリ言ってくれないとわかんない」
 あたしと乱馬の目が合う。一瞬だけ、乱馬の目に光が戻った、ような気がした。
「…やっぱ、ちげーな」
 乱馬は自嘲気味に笑って、あたしの手を押し戻した。乱馬はそのままベッドになだれ込む。仰向けになってぐでーっと仰け反る。
「あかねさー。いつから?」
 乱馬の声が仰け反ってるせいでヘンな風にこもってる。
「いつからって?」
 とぼけた声で返しながら、あたしはようやく思い当たった。なるほど。
 見くびってた。乱馬のこと。いつも鈍感だったから。いつもあたしの気持ちなんて考えたこともなさそうだったから。いつもあたしが泣いてる理由に辿り着けなかったから。だから。
 乱馬がガバっと起き上がった。
「そーそれ!」
 乱馬が嬉しそうにあたしを指さす。はー?なんのことか全然わからない。
「今、おめーの気が乱れたっ!」
 乱馬は今にも踊り出しそうだ。気が乱れたことがわかったくらいで、どうしてそんなに嬉しいんだろ。乱馬だったらそれくらい、いつものことでしょ?だてに何年も修行してないんでしょ?全然わかんない。
 …うそ。わかる。そーだよね。それが一番わかりやすいもの。
 こーゆー風になるまで、一度だって乱馬は気づいてくれなかったけど。一度だってそーゆー風にあたしの気持ち読みとろうとしたこと、なかったよね。責めたいんじゃなくて、あたしもなかった。
「おめー今、ウソついただろ。ホントはわかってんだろ」
 相変わらず乱馬は、いじめっ子が見られちゃマズイって場面に遭遇したときみたいな顔してる。すごく楽しそうですごく意地悪だ。
 うるさい。
 うるさいうるさいうるさい。あたしは早く卒論がしたいのに。乱馬だってわかってるんだったら、もーいいじゃないの。あたしは卒論やって、全部スッキリしたいの。役にも立たないくだらない学校から離れたいの。さっさと終わらせたいの。あんたなんかに構ってるヒマなんてない。そうよ。新しい許嫁でもなんでも、勝手につくりだして勝手にどっかいっちゃえばいい。許嫁なんて誰がなったってうまくいくわよ。もうやだ。やだやだやだやだ。なんであたしなのよ。なんであたしの未来はコイツとだって決まってるの?

「いい加減にハッキリ言いなさいよ!!」

 乱馬が驚いた顔してあたしを見てる。
 ああ、やっちゃった。また怒鳴っちゃった。やめようやめようってずっと思ってたのに。短気な性格なおさなきゃって。最近ちょっとうまくいってたのに。
「あ……ごめん」
 乱馬がさらに目を丸くしてあたしを見る。あたしが謝るって、そんなに驚くことなのかしら。
「おめーひょっとして……」
 乱馬の目がキラキラ輝き出す。わー。どーしよ。やっぱり乱馬ってマゾだったのかしら。さっきだって殴ってほしそうだったし。怒鳴ったら喜ぶし。えー。えー。そんな。
 乱馬が「よし」と言う。何が「よし」なんだろう。マゾ的によし、ってことかしら。ああ、あたしいい加減、マゾから離れなきゃ。
「おめー、言わなきゃわかんねーって言ったよな?」
 乱馬はずりずりとお尻をずらして移動する。あぐらをかく。あーあ。シーツがしわくちゃだ。
「うん。言った」
「そーだよな。俺もわかんねーもん。あかねが何考えてっか」
 乱馬がうつむく。深呼吸する。
 あたしは椅子からベッドに近付こうと立ち上がった。
「いい。あかねは椅子に座ってろ」
 うつむいたまんま、乱馬は手のひらをあたしに向けてストップをかける。あたしは大人しく椅子に座る。ちょっと珍しい展開。あのときみたいだ。
 乱馬が顔をあげる。うーん。シリアスだ。
「言わなきゃわかんねーから言う」
 あたしはコケシみたいに頷く。
「最近おめーの様子がなんかちげえって思ってた。怒らねーし殴らねーし。最初は都合いい方に勘違いしてた」
 乱馬はちょっと言葉に詰まって「し、幸せとか思ってんのかなーって…」とぼそっと呟いた。右と左の人差し指をつつき合う。
 乱馬の丸めた背中が可愛い。すごく大きいのに、すごく小さい。
「でもそれもちげーって思った。なびきに言われて気がついた」
 お姉ちゃん、乱馬に何言ったんだろ。乱馬は単純なんだから、あんまり余計なこと言われると面倒なのよね。どうせ空回るだけなんだし。見当違いの方向に持って行っちゃうし。なんでもかんでも『闘い』にしちゃうし。
 でも、賢明なあたしは黙って乱馬の話を聞く。コケシみたいに頷いて。
「あかねの笑顔を見てないって」
 えー。あたし笑ってたと思うんだけどなあ。馬鹿笑いはしてないかもしんないけど。最近、卒論に追われてお笑い番組見てなかったし。でも今朝もおはようって笑顔で挨拶したと思うんだけどなあ。
 これはちょっと頷けません。乱馬くん。
「笑ってたと思うけど?」
「笑ってたけど笑ってねえ」
 はー?何言い出すのアンタは。あたしの眉が中央に寄る。
「とっとにかく!小難しいことは俺にもわかんねーけど!」
 あたしの表情が「あんたバッカじゃないの?」と言ってるように見えたのか――ちょっと思ったけど――乱馬は慌てて両手をかざした。ブンブン腕を振る。今度は何も倒さない。
「でもっ!おめーが俺と結婚するのを喜んでねえってことだけはわかったっ!!」
 あたしはコケシのように頷く。頷いちゃいけないんだろーけど、ここまできたらウソついたって仕方ない。堂々巡りになるだけだ。
 乱馬が項垂れる。おさげも一緒に項垂れる。どよーんって空気が漂う。換気したい。自分で言ったくせにねーってどこか突き放してるあたしがいる。
「…喜んでねえっていうか、あかねが怒鳴らねえのは、シャンプーとかウっちゃんとか…小太刀とかが周りにいなくなったからじゃなくて、俺があかねを怒らせるようなこと言わなくなったからじゃなくて」
 あら。それもあるんだけど。っていうか、それが一番の理由なんだけどなあ。それがキッカケだったんだもん。
「俺に関心持ってねえんだって、わかった」
「そうね」
 あ。ちょっと間髪いれなさすぎたかも。
 乱馬が顔をあげる。そんな泣きそうな顔されたって。あんたが言い出したんじゃないの。

 しーんって文字で表せそうな、気まずい沈黙が流れる。乱馬は泣きそうででもそれをぐっと堪えて我慢する子供のような、なんだか妙に歪んだ皺をオデコと目尻とアゴに作って俯いた。何度目かの溜息があたしの口から漏れる。
 もういいや。全部あたしが背負っていこうって思ってたけど、もういいや。誰にも内緒で、悲劇のヒロインでいてあげようって思ってたけど、乱馬がそんなに知りたいっていうなら、終わりにしてあげる。
 ごめんねお父さん、お姉ちゃん。いちど大きく深呼吸。吸ってー。吐いてー。
「あたし、あんたのこと好きなんじゃない。乱馬もあたしのこと好きだって思ってるの、思いこみだよ。それ」
「な…っ!なんだよ!それ!」
 立ち上がりかける乱馬に対抗してあたしも立ち上がる。乱馬の拳がぶるぶる震える。おさげがぴょんって飛び跳ねる。
「あたし、ずっと乱馬のこと好きなんだーって思ってた。乱馬が他の女の子と仲良くしてると腹が立ったし、かわいくねーって言われたら傷ついた」
 乱馬がちょっと小さくなって「ご、ごめん」と言う。うわー。珍しい。すごく素直。
「それにいつでもなにかあったとき、乱馬のこと考えてた。乱馬の力になりたい、とか。足手まといにならないよーに、とか。助けて、とか」
 乱馬の顔が複雑に歪む。嬉しい、と寂しい、と「それのどこか悪いんだ?」が混ざってるかんじ。そーよ。すぐにわかってたまるもんですか。乱馬にすぐにわかっちゃうものだったら、あたし、黙って結婚しよーなんて思わなかった。
「でもねー。違うのよ。あたし、乱馬が好きなんじゃないってわかったの。乱馬があたしのこと好きだって言ってくれて、シャンプーも右京も小太刀も邪魔しなくなって、事件もなーんも起こらなくなって、もうこれ以上ないってくらい順風満帆に進み始めて」
 ぎゅって握った手。あたしの手、たぶんたくさんの汗をかいてる。
「それで。あー違ってたってわかった」
 これは予想外。乱馬の視線がちゃんとあたしに向いてる。
 怒ってる雰囲気がない。何が言いてーんだよっていうのとか、裏切られたっていうのとか。途中で遮られるかなーって思ってたんだけど。意外だなあ。ちゃんと最後まで言えないだろーなって思ってたのに。
 乱馬がベッドに座り直す。
「それで、俺のことが好きじゃねーって?」
「うん。状況があたしに乱馬を好きだって思い込ませてただけだった」
 最後通知は死刑宣告じゃない。あたしも乱馬も、もっと自分で考えて自分で選ぶべきだった。これからそうすればいい。
「ふーん。で、あかねは俺もそうなんだって思ってるわけだ?」
 乱馬が自覚できるよーになるのは、きっと新しい恋人を見つけたときだろうな。ああ。でも一生気がつかないかも。一生乱馬はそーゆーのが恋だと思って、そーゆー恋をしていくのかも。それはそれで幸せよね。
 乱馬が足を組み替える。
「そうかもしんねえ」
 は?
「そんな風に考えたことなかったけど」
 乱馬は腕を組んでウンウン頷いてる。えー。もう納得しちゃったんだ。
 「そんな風に考えたことなかった」って、そりゃそーでしょーよ。あんたがこんなに物分かりいいとも思わなかったけど。なんだ。すごく拍子抜け。
 あー。なんだ。こんなことならさっさと言えばよかった。そんでサヨナラすればよかったんだ。結納、まだでよかった。寸前だったけど。婚約指輪は無駄な出費になっちゃったけど。乱馬が。でもこれも勉強料よね。
「それじゃあたしは卒論を…」
「でもよ」
 乱馬があたしを遮る。仕方ない。あたしはもう一度乱馬の方に振り返る。
「俺は今でもおめーが好きだって思うんだけど、これはどーなんだよ。これも思い込みか?」
「そうよ」
 乱馬の勝ち誇ったみたいな顔。なんなのー。納得したんじゃないのアンタは。そろそろ卒論したいんですけどー。
「違うな。最初は思い込みかもしんねーけど、ずっと続けばそれは思い込みじゃねえ」
 そうね。アンタのは執着っていうのなんだわ。どっちにしたって変わらないわよ。
「っつうより、思い込みだろーがなんだろーが関係ねえんだよ。そんなつまんねーことどーでもいい」
 くらり。あっ。目眩が。
 あのう。乱馬くん。やけに物分かりがいいかなーって思ってたけど、やっぱりわかってなかったのね?
「えーと、だからね。乱馬…」
「おめーがどう考えてるのかはわかった。でも俺はそーは考えねえんだよ」
 だめだ。どう言おうと、乱馬は納得しない。あたしがこーゆー風に考えるように、乱馬は乱馬の考え方がある。
 乱馬はベッドの上でふんぞりがえる。ふんっと荒い鼻息。
「おめーは俺のことが好きじゃねえ。だけど俺は好きだ。だから婚約破棄はしねえ」
 はーーーーーー?あたしの気持ちは無視なわけ。そりゃ結婚しましょーと言われて、はいそーですね、と言ったけど。とゆーかもう意地になってるんじゃないのアンタは。テレもせずポンポンと恥ずかしいこと言っちゃってるけど。自分でわかってる?
「好きじゃないって言われてアンタそれでいいの?」
「いいわけあるかっ!!」
 乱馬の手がわなわなと震える。顔がへのへのもへじになる。どうやったら顔をへのへのもへじに出来るんだろ。謎だわ。
「おめーが俺を好きじゃねーって思ってるのはわかった。でもおめーが俺を好きじゃねえわけがねえっ!」
 乱馬のオメメはキラキラです。神様、どうか乱馬に真実を教えてやってください。さすがに哀れになってきました。
「そんで思った。あかね、おまえ、俺のせいにしてるだろ」
「…なにを?」
 ふう、と疲れた溜息を漏らして乱馬に尋ねる。あーもうどうにかして、コイツ。
「さっき思ったんだよ。おめーが変になったの、さゆりの就職が決まってからだ」
 …なに言いだすんだろ。プロポーズされたときだって言ったはずなんですけどー。
「さゆりは○生堂に決まったんだよな。すげーよな」
「だって頑張ってたもん。さゆり」
 さゆりは本当に頑張ってた。絶対に○生堂以外は考えられないって、○生堂以外のエントリーシートは全部練習だって言い切って。
「そうみてえだな。大介が言ってた。全然会う時間がねえって」
「あーそうね。大介くん、よくこぼしてたわ」
 女々しいっつんだよ、大介は、と乱馬が言う。待て。じゃあ今のアンタはなんだ。

 さゆり。大介くんとよーやく結ばれたと思ったら、自分の夢のために走ってった。大介くんに養われていずれ奥さんになって、ってことをよしとせずに留まらなかった。
 大学を出たら道場を継ぐんだってぼーっとしてたあたしとは大違い。あたしなんて、なんとなく面白そうだからってろくに調べもしないで大学と学部を決めて、思ってたのと違うだなんて違和感の中、目的もないままただ真面目に講義に出席するだけ。どうせ役に立たないからって、教職課程だとかの選択もとらなかった。
 今もなんのためかわからないまま、卒論を書いて、何を得たのかわからないまま卒業しようとしてる。卒業したら道場を継ぐんだし、もうこんなこと考えてる余裕なんてないのに。あたしは何も見いだせない。

「おめーが大学で何やってたのか知らねーけど、あんま楽しそうには見えなかった」
「…その通りよ」
 乱馬の言うとおり楽しくなかった。どんどんわかんなくなってった。学ぼうと思ってたのに空っぽになってくばっかりだった。
 無差別格闘流を継ぐのは小さい頃からのあたしの夢だった。お父さんは道場を継ぐには必要ない大学まで出してくれた。大学でしか得られない経験があるだろうからって。
 かすみお姉ちゃんは甘えなかった。なびきお姉ちゃんは甘えたんじゃなくて、目的がはっきりあってそのまんま院に進んでいった。でもあたしはただお父さんの言葉に甘えた。
 時間が欲しいなんて酷い我が儘。おっきな落とし穴のプレゼント。
「あかね。おめーはさ。なんか焦ってんじゃねーのか?」
 どーしてそーいう展開になるんだ。話が。それはどっから繋がってきたのよ。
「あかねはさゆりみてえに○生堂で働きたかったのか?道場継ぐのが嫌だったのか?」
「アンタと結婚するのが嫌なだけよ」
 むかつく。むかつくむかつく。すごく残酷なやり方で傷つけてやりたい。いつでも自分の都合よく解釈して開き直る救いようのない楽天家ぶりを地に落としてやりたい。アンタだってあたしとおんなじよーに勝手に人生が決まってて、決められたレールの上を歩いてるだけじゃないの。なんで気づかないの。
「……すげーこと言うな」
 一度は結婚するって言ったくせに、と乱馬の目が憎悪に燃える。憎めばいい。あたしのこと。なんで怒り出さないんだろ。もういい加減ぷっつんきてもいい頃だ。
 乱馬がすーはーすーはー深呼吸をする。
「ぶん殴ってやりてえ。って思ったでしょ」
 乱馬の深呼吸の邪魔をする。落ち着かせてなんてやらない。そのままあたしを殴って立ち直れないくらいの後悔すればいい。
「…思わねえっ!」
「ふーん。すごいね」
 乱馬の目がますます怒り狂う。よーしよし。いい調子だ。
 乱馬が大きく息を吸い込んでためる。次はたぶん怒鳴る。うまくいけば殴ってくれる。
「そーいうふうにっ!そういう風に全部、投げやりんなって、全部捨てて!」
 乱馬があたしに怒鳴る。そーか。久しぶりなんだ。喧嘩してなかったもんね。
「なんかいいことあんのか?なんか見つけられっと思ってんのかっ?!」
 乱馬があたしに説教する。初めてかもしれない。乱馬の水色のチャイナは色褪せている。
 あたしは乱馬の隣りに座る。乱馬がちょっとびっくりした顔で後ずさりする。引き留めるために乱馬の膝に手をのせる。
「じゃあさ。乱馬はどうすればいいと思うの?」
 猫なで声。猫が嫌いなくせに、猫が嫌いすぎて猫になっちゃう乱馬。目を丸くしてあたしを見てる。乱馬の瞳に映るあたしが笑ってる。すごくイヤな笑い方。
 いやだいやだ。乱馬の前でこんな笑い方したくない。止まらない。
「今までのことぜーんぶ、自分で選んだことじゃないってわかって。全部決められてたことだってわかって。これからも決められた通りに従っていくんだってわかって」
 ああ。だめだ。乱馬の目の中。あたしの顔が歪む。
 乱馬の目が大きく丸く。口はマヌケに半開き。びくりと乱馬の膝から振動。
「どこにもあたしがいないってわかって!!あたしじゃなくてもいいんだってわかって!!誰でも代わりができて!!そんなの、どうすればいいのよっ!!!!」
 かっこわるい。あたし。
 頭の冷静な部分がこーやって悲劇のヒロインごっこする自分を蔑んでる。乱馬に八つ当たりなんてしたくないのに。だってこれは全部あたしの問題で乱馬には関係ない。
――それに、どーせ乱馬にはわかりっこない。
 あたし、どっかで乱馬を見下してる。ばかにしてる。だから頼りたくないって思うの、おかしいのかなってずっと思ってた。好きな人なのに、好きな人をばかにするなんて、なんて捻くれてイヤな性格なんだろうって思ってた。

 乱馬がオロオロしながらもちゃっかりあたしの背中に腕を回す。関節がぎしぎしいう音がきこえる。すごく無理してる。
 笑える。きっと乱馬はちょっと欲情してる。
「…あかねだから出来たんじゃねーのか?」
 あー、とかうー、とか乱馬が唸る。
 心底あたしを心配してるくせに。でもあたしを慰めようとしながら、その続きのご褒美を期待してる。ここが巻き返しのチャンスだって本能で感じてるんだ。乱馬は自分でわかってない。汚い汚い。いやらしい。
「代わりがきくもんだったら、あかねの前にかすみさんとかなびきが道場継ぐことになってるだろ。あの二人のがあかねより早く生まれてきたんだし」
 ………。
 うーん。そういうことじゃないと思うんだけど…。かすみお姉ちゃんは家事を分担して、なびきお姉ちゃんは我が家の経済を助けて。それであたしに出来ることが他になかったから。それで。
「かすみさんは家庭的で料理もうめえ」
 ぴくりとあたしの体が動く。乱馬は素早くフォローする。
「でもよ。かすみさんは格闘はできねえ。格闘しようとは選ばなかった。できねえからだろ?」
 乱馬の腕が外される。乱馬の目の中のあたしは変な顔をしてる。
「なびきにしたってそうだ。かすみさんが母親代わりに家事を選んだんだから、今度こそ次女のなびきが格闘を選んだっておかしくねえはずだ。でも選ばなかった」
 乱馬の勝ち誇った顔。
「できねえからだ」
 乱馬の顔は真っ赤だ。すごく必死。
 喉の奥から乾いてむせるような嗤いが上ってくる。乱馬が必死なのはあたしを好きだからじゃない。必死に繋ぎ止めたがっているのは、醜い自尊心と恐怖だ。
 シャンプーも右京も小太刀も、乱馬を無条件に慕う誰も彼もが周囲から消えて、乱馬にはもうあたししか居ないのだ。
「あかね。おめえの道はもしかしたら決まってたのかもしれねえ。でもそれを受け入れられたのはあかねだったからだろ?あかねじゃなかったら出来なかったかもしれねえだろ?今あかねが苦しんでることとか、最初から出来ねえって放っぽりだしてたかもしれねえだろ?」
 それは…わからない。
「だいたい、おめー。本当に代わりがきく女だって思ってんのか?」
 期待に満ちた目。あたしはズルイ。散々なことを言って乱馬をばかにして、その乱馬に期待する。吐き気がする。いやらしい。
「寸胴で凶暴で不器用で鈍くて色気がなくて可愛い気がなくて。あんまいねーよなー。ここまで揃ってるの」
 乱馬がわっはっはっ、と笑う。
「………」
 乱馬の額に冷や汗が伝う。
「だっだだから。…この俺が好きになれる女はお前しかいねえってこと!」
 何度も何度も乱馬にこんな台詞を言わせようとして、手を変え品を変え。強欲。何度目になったら満足するんだろ。
「それは思いこみだって…」
「思い込みとかそんなんどーでもいいっ!!最初がどーだって今好きだって思うのに、なんでそれがいけねえんだよ!」
 乱馬は完全に開き直ってる。キれてる。としか言いようがない。
「それにっ!おめえは道場継ぐの、イヤなのかよ?!格闘すんのが好きなんじゃなかったのか?代わりがきくとかどーとかさっき言ってたけど。あかねとさゆりは違うだろ?!かすみさんともなびきとも。あかねはあかねだろ?それこそ誰かと比べなくったって。代わりがきかねえんだから、比べられねえだろ?!」

 なによそれ。強引すぎる。全然理論立ってないじゃない。


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 乱馬はばかだけど、ばかじゃない。強いだけだって、どっかでわかってた。
 甘ったれてるのは乱馬だけじゃなくてあたしもだった。

 愛していると言われて気がついた。
 あたしは乱馬を愛してなんかいなかった。それに乱馬だって、あたしのことなんか、愛していなかった。
 側にいるのが当然で、離れても離れようとしても、心の底では絶対に切れることのない絆だと信じてた。キレイなものしか見せたくなかった。見たくなかった。あとは全部なかったことにしたかった。
 とても醜い顔ととてもキレイな顔と。愛が生まれた。



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